INTERSTELLAR

11 The Departure from GATTACA

 わたしとあなた。


 ふたりっきりの生活になるのは約20年振り。


 娘を見送ったあの日、わたしは母親の役目を終えた。

 あなたと一緒に玄関に立ち、綺麗な靴に足を入れる娘をみつめる。

 あなたは何度も言った。


「忘れ物はないか」

「ちゃんと飯食えよ」

「いつでも帰ってきていい」


 もう娘は立派な大人だというのに、あなたはいつまでも娘を子供扱いする。

 娘が玄関のドアノブから手を離し、歩き出す。

 するとたちまち娘の背中は小さくなっていった。

 わたしは思わず泣きそうになってしまう。


 寂しい気持ち、成し遂げた気持ち、幸せな気持ち――。


 不思議な感覚だった。

 わたしはそんな形容しがたい感情にもまれた後、わたしは母親としての役目を終えたのだと、肩の荷がおりた気がした。


 

 若い頃、彗とのふたりっきりの生活は意外にも短い。

 結婚するまで長くはなかったし、娘もすぐに生まれて3人家族をずっと続けてきた。

 だからとても新鮮で――そう、第二の人生というものが始まるのだと感じた。

 大きな役割を終えたと思っていたら、まだあなたとの時間が残されていることに遅れて気がついた。


「ねぇ、旅にでも出ましょうよ」


 わたしはある日、彼にそう提案した。


「旅? どこか行きたいところでもあるのか?」

「せっかく時間ができたのよ。わたしたち、ずっと一緒だったけれど一緒にどこかへ行ったことはあまりないわ」

「それもそうだな。じゃあ来月にでもどこか観光しに行くか」

「世界を回りましょう」

「世界!?」

「だって世界がどんな景色なのか全然知らないもの。宇宙の旅インターステラーとは言わないわ。でもせめて、足をつけているこの地球がどんな星なのか知ってから死にたいわ」


 スケールの大きな話に彗は面を食らっていた。

 わたしは小さく笑った。


「あなたも妹さんも宇宙に纏わる名前なのに地球規模のことで驚くなんて可笑しいわ」

「お前の旧姓だって宇宙に纏わる名字だぞ」

「え?」

「日羽。日は太陽だ。お前はおれの太陽だよ。おれはアリナの周りを回り続ける彗星ってとこだな」

「これ大笑いするところ?」

「笑ってくれよ、むなしくなるから」


 そうしてわたしたちは旅に出た。


 わたしはこんなにも世界が広いことを知らなかった。

 極彩色の泉、大海のような雲、広大すぎる渓谷――それらを彼と一緒に見て歩いた。

 その土地に住む人たちとも話した。

 文化も知り、料理も味わった。

 大地を駆け抜ける動物たちもこの目に焼き付けた。

 長い歴史を持つ建築物も触ってその偉大さを感じた。


 正直、あなたがいなければ旅には出ていなかった。

 わたしはあなたといることが大切だと考えていたから。

 朝起きてあなたが傍にいたらわたしは幸せだし、身を傾けてそこにあなたの肩があればわたしは深く眠ることができる。こんなこと恥ずかしくて伝えられないけれど。

 うん、わたしはやっぱりあなたが好き。

 これからも世界は変わっていくけれど、あなたへのわたしの気持ちは不変でしょう。


 

 また20年の時が流れた。

 

 わたし、あなた。


 ふたりっきりの生活はもう20年。

 娘には孫がいて、ときどきわたしたちに会いに来てくれる。

 もうわたしはおばあちゃんだ。

 

 

 朝、目が覚めると自分が年を取ったのだと最近苦痛に思う。

 若い頃のようにコツコツと足音を鳴らせるほど軽快には歩けない。

 手もずいぶんと水分が減って、骨が浮き出ている。

 若さがうらやましいと思うときがあるけれど、いまも幸せなのは間違いない。

 

 街を歩いていると制服を着た子どもたちが目を細めて談笑している。

 あぁ、わたしも彼と美味しいものを食べたっけ。

 

「あなた覚えてる? ずっと昔――」

「ん?」

「ずっと昔に、街で甘いものを食べたこと」


 最近、彼の耳が遠くなった。

 だからわたしは少し声を大きくして普段は喋る。


「あったなぁ。えらく食ってたな」

「あなたはトマトジュースばかり飲んでたわね。懐かしいわ」


 もうすぐ自分たちは世を去ると悟り、わたしたちは過去を振り返ることが多くなった。

 ボケ防止という側面もあった。

 お互いの異変にすぐ気づけるよう普段から思い出話に花を咲かせた。

 もう世界の旅はしていない。

 都会から離れ、静かなところで毎日散歩をしている。

 彼の手は昔より弱々しくなっていて、皺のない部分はもうなかった。

 わたしは手をつなぐたびに「こんなに年を取ったのね」と苦笑する。

 彼も咳をしながら笑ってくれる。


 あぁ、幸せだなぁ。

 

 わたしはお茶を飲みながらしみじみ思う。

 昔より幸せだと思う。

 たしかに苦労は増えたけれど、真冬の炬燵のような、穏やかで優しくて温かみのある幸せがわたしの中にあった。



 彼はもう出歩けず、目も悪くなってしまった。

 幸いにも彼はわたしを忘れなかった。

 わたしは榊木アリナ、あなたの妻、あなたはわたしの夫。

 それだけは決して彼は忘れず、いつもわたしを呼んでくれた。

 わたしは腰を折って杖をつき、最寄りのスーパーまで歩き、今晩は何を作ろうかと彼の喜ぶ顔を想像する。お味噌汁を飲むと彼は笑顔になって、わたしも胸が温かくなる。

 

 娘の手を借りようとは思わなかった。

 娘はわたしたちを介護する気だったけれど、頑固なわたしはずっと断りつづけた。

 いずれわかってくれるでしょう。

 親としての気持ちを、アリスも。



 病床のベッドで横たわる彼の手を握る。

 よくここまでがんばりました。

 わたしは彼の耳元で囁いた。


 一緒に年を取ることでできたよかった。

 一緒に子を育て、一緒に生きてきた。

 一緒に手を繋ぎ、一緒に歩いて、一緒に愛を確かめた。


 一緒に死ぬことができないのはわかっていた。

 一緒に涙を流せないこともわかっていた。


 あなたは先に旅立つ。

 わたしはもう少しこの世界で生きていくでしょう。

 あなたのいないこの世界はきっと……とても寂しいでしょう。

 

「アリナ……すまない、すまないなぁ……」

「いいのよ。これでいいの」


 あなたの周りにはたくさんの人がいる。

 わたしも、あなたの娘も、その孫たちも、生まれたばかりのひ孫たちも。

 孤独になるわけじゃない。

 あなたのおかげでひとりぼっちにはならないわ。


 いまでも初めて会った日のことを鮮明に覚えている。

 図書室にいて、そして彼がわたしに声をかけた。

 わたしはとても酷いことを言ったけれど、あなたはそれでもわたしから離れなくて……。

 あなたは本当に彗星みたいに、わたしの周りにずっといたわね。

 

 だから大丈夫。

 どうせ、あなたはわたしの周りを回り続けるんでしょう?


「アリナ」


 彼がぽつりとわたしの名を呼んだ。

 わたしは彼の手を強く握り、自分が傍にいることを伝えた。


「ありがとう」


 わたしは答える。


「こちらこそ。また会いましょう」


 彼の旅はそうして終わった。

 美しい尾を引く彗星はもう二度とわたしのもとへ戻っては来てくれない。

 遠く、遠くの暗闇へと飛んでいく。

 わたしはもう少しだけ太陽として光を放つ。


 あなたのいない世界で。

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