YOU WILL (NOT) BE ALONE.

榊木アリス

「もう学校行きたくない」


 中学二年生の娘、アリスが夕食時にぽつりと呟いた。

 俺は箸を止め、下に落としていた目線を彼女に向ける。母親譲りの長い黒髪、大きくぱっちりとした瞳、指で撫でたくなるような形の良い鼻梁、そして上品な口元は固くつぐまれていた。

 俺は横目で隣のアリナを一瞥した。娘の突然の告白に妻も驚いているようで、持ち上げていた茶碗をそっと食卓の上に置いた。


「何か、あったのか?」


 恐る恐る尋ねる。

 思春期は非常に厄介な年頃だ。それは全ての大人たちが知っていることだろう。はっきりとした自我に目覚め、自立意識を獲得した子どもは親の干渉を嫌う。ホルモンバランスの崩れで精神が不安定になり、強い仲間意識の萌芽によって子どもたちは小さな社会を形成する。

 その未熟な社会の中で生まれる仲間意識は時に、人を拒絶する触媒となるのだ。


「何もしてないのに……仲間はずれにされる」


 娘のアリスは昔からそうだった。

 彼女は生まれながらにして役者の才能があった。広告写真の子役モデルとしてデビューし、年齢と共にジャンルは拡大していって、今では日本中が知る有名子役にまで成長した。ドラマや映画でひっぱりだこ状態だ。超可愛いからな、うちの娘は。

 そのせいか、子どもたちによる――特に同性からの嫉妬が絶えなかった。

 

「まいったな……」


 俺は場を繋ぐために嘘くさい台詞をもらした。

 俺には親としての適切な対処法がよくわかっていなかった。だから考える時間が欲しい。


「アリス。学校は嫌い?」


 妻が優しく問いかける。


「嫌い。お仕事してた方がマシ」

「そう、わかったわ。明日から行かなくていいわよ。学校には女優の仕事で忙しいと伝えておくから」

「ありがとう、ママ」


 アリスはうっすらと笑みを作った。だが無理に作っているのはバレバレだった。いくらアリスが天才子役と褒め称えられても、実の親の前で嘘は通じない。誰よりもこの子のことを知っているのだから。

 

 俺は学校に行きたくないと思ったことがなかった。

 もちろん皆無というわけではない。豪雪の時は布団から出たくなかったし、テノールかバスを決めるために一人で歌わせられる音楽授業がある日はサボろうと考えた。だがそういった程度のことだけで、アリスのように人間関係による登校拒否は、俺の中学時代にはなかった。

 どうすべきなのだろう。このまま卒業まで自宅、は良くないことというのは何となくわかっている。しかし本人が行きたくないと意思表明しているのだから無理強いすれば彼女の心に濃い闇が落ちてしまうだろう。


「アリナ。どう思う」


 ダブルベッドの上で夫婦で横たわっていた。就寝姿でもう寝る直前だったが、二人ともアリスの件を考えていて照明を中々消せないでいた。

 アリナはこちらに身体ごと向け、俺の顔を撫でた。


「あなたと出会った時のことを思い出したわ」

「今はアリスの話をしてるんだぞ」

「してるわ。アリスと同じような心境だった時、わたしが求めていたのはわたしの理解者だった。守ってくれる人がひとりもいなかったんですもの。だからあなたが喋りかけてきて馬鹿な話をされた時は嬉しかったわ。何かが変わるかもしれないって思って」

「そうか……理解者か……」

「どうにか教えてあげないとね。アリスはひとりじゃないって」


 そこが難しいところだった。

 思春期の子どもは自分の考えが一番正しいと思い込んでいる。一度根付いた意識を覆すことはそう容易いことではない。それも天才ともてはやされて育ったアリスは周りより強い自意識を持っていることだろう。

 普段から「パパきもーい」と馬鹿にされる俺に、はたして何かできるのだろうか。

 考えれば考えるほど娘からの軽蔑の目が頭に浮かんだ。なんで洗濯機に下着を一緒に入れちゃいけないんだ。元は俺の精子だったくせに理解に苦しむ。


「今はそっとしてあげましょう。アリスだって悩みに悩みぬいて私たちに告白したに違いないわ。心の整理をつけさせてから、話をもっと聞いて親としてできることを探しましょう?」

「そうだな。時間はまだまだある」


 アリナは微笑んで額をくっつけてきた。彼女は出会ったときから全然変わっていない。美貌は歳を重ねるごとに更新し、今ここにいるアリナが一番綺麗だと確信を持って断言できる。老いとは無縁の身体なのかもしれない。だとしたら俺が先に死ぬことになりそうだ。泣かせてしまうのが申し訳ない。

 指で俺の目尻をなぞる。歩んできた時間を確認するように、彼女は俺の顔を見ながら小さな皺をなぞった。対してアリナの顔にはなぞる皺一つない。後日美容について詳しく教えてもらおう。


「アリス、寝たかしら」

「きっとぐっすり寝てるさ。もう明日が怖くないんだから安心して目を閉じられる」

「じゃあ、声出してもいいわよね?」


 アリナは俺に覆い被さって深くキスをしてきた。何度も何度も――気が遠くなる深い口づけに溺れていく。明日のことなんか忘れて、今持っている全てをなげうって彼女に溺れるのだ。それは彼女も同じだった。

 夜は長く感じていたのに、この年になるととても短く感じる。だからこそ、この愛おしい時間の中で必死に想いを伝え続ける。愛してる、大好き、と。

 死を迎えるその瞬間、お互いの顔が浮かぶように。

 



「アリスさんはいつ頃復帰できそうでしょうか」


 登校拒否が一週間以上になったある日、俺は学校に呼ばれた。薄々担任教師もアリスが拒否していることに勘付いているのかもしれない。一貫して仕事の都合と弁明してきたがそろそろ限界か。

 

「アリスは、学校ではどうしていましたか」

「アリスさんは、そうですね……」

「正直に言ってもらって構いません。その方がお互いのためになります」


 担任教師は目を伏せると頭を下げて述べ始めた。

 要約すると本人が言っていたとおり、アリスは仲間はずれにされている状況だったという。アリスが有名人ということもあって教員側もかなり慎重になっていたようだが、子どものいじめ問題はいくら慎重になってもそう簡単に解決されない。単純そうに見えて、子どもの社会は複雑かつ大人の介入に排他的なのだ。

 

「申し訳ありません。わたくしたちの監督不行き届きで――」

「いえいえ、子どもの世界は難しいですから」


 その一言で済ませてはいけないのはわかっている。生徒のいじめ問題は子どもだけでなく教員の処遇にも響いてくるから、これは気休め程度の言葉だ。彼らだって怯えている。マスメディアに知られれば、ボロクソに書かれて教員側も生徒側も肩身の狭い思いをすることになる。被害者は超絶美少女天才子役・榊木アリスなのだから。

 だからといってアリスに我慢させるつもりはない。本音を言えば、教員もいじめる生徒の人生も知ったこっちゃない。

 本当に大切なのは娘の未来だけだ。



「アリス。明日出かけようか」


 俺は久しぶりにお出かけを誘ってみた。娘の気分転換も兼ねるためだ。

 ぼーっとテレビを眺めてソファーに座るアリスは俺の誘いに対し、ジト目で面倒くさそうに返した。


「えぇ~……パパ仕事は? 辞めたの?」


 初っぱなから拒否感マックスだが引くわけにはいかない。俺もソファーに座った。露骨に距離を取られて傷つく。


「社会人には有給休暇という魔法があるんだ。頭の悪い上司の前では無効化されることが多いが、労働基準監督署っていう通称・魔法省に泣きつけば上司と、あわよくば職場を抹消できる」

「知ってるし。パパと二人はヤだ」

「もちろんママも来る」

「まぁそれなら……」


 しぶしぶ了承してくれた。

 ちなみにうちの家庭では明確に権力の差がある。

 序列第一はもちろん我が妻であり世界で最も美しい女帝・榊木アリナだ。金銭管理、人生設計、その他生活を左右する決断は全て彼女が決定権を持っている。

 第二位は我が娘であり世界で最も可愛い美少女・榊木アリスだ。天才子役、人脈豊富、高収入、超絶美少女、という最強スペックを持っていて全く勝てる気がしない。

 第三位は元帰宅部員であり世界で最も帰宅速度が速いくらいしか取り柄のない俺、榊木彗だ。日々妻と娘を幸せにするために魂を削って頑張る父親だ。

 そんな奇妙な家庭だが、ここ最近は三人で外出する機会がめっきり減っていた。主にアリスの多忙によるものだ。


「あら、あなたデートに誘ってくれるの?」

「そうじゃない。家族でお出かけだ」


 アリナが意地悪な笑みを浮かべて茶化した。


「というかさ、パパいい加減大人になったら? 人前でイチャつくの本当にやめてほしい。マジで恥ずかしいから、あり得ない」

「それはママに言え。パパは真面目で実直な人間なんだぞ。仕掛けてくるのは大抵ママだ」

「無理、キモい」

「うぉおおおお可愛いなアリス! その軽蔑の目、超尖ってた若い頃のママにそっくりだ!」

「え、ママってヤンキーだったの?」


 アリスは目をまん丸にして興味を示した。対してアリナは薄く微笑み、俺とアリスの間に腰を下ろした。そして娘から見えないように俺の脇腹をつねる。言ってはならないことだったらしい。


「ヤンキーじゃないわ。アリスみたいに、わたしもひとりぼっちだったの」

「え、ママが!? うそ……だってママくらい美人だったらひとりになんか……」

「なるものはなるのよ。似たような理由でわたしはいつもひとりだった。けれどアリスと違ったところがあった。わたしは意地でも学校に通い続けたわ」

「うっ……」


 娘は咎められたと思い、しょんぼり肩を落とした。しかしアリナは付け加えた。


「アリスが間違っていると言いたいんじゃないの。考え方が違ったのよ。わたしはクラスメイトやその他の人間全員をゴミだと思ってたわ。ゴミでクズで救いようのない馬鹿の集まりと考えていたから、そんなやつらに負けたくないって思ったの」

「ママ怖い……」

「それでも限界が来るの。ひとりって寂しいし苦しいものね。そんな時に現れたのは誰だと思う?」

「……もしかして、パパ?」

「そ。わたしが大好きなパパ。この人のおかげでわたしの曇った世界が晴れたの。初めて青空を見た気分だったわ」


 ヤバい、ニヤけそうだ。久しぶりに褒められた気がして嬉しくなったのだ。

 そんな様子を見た娘はアリナの身に隠れて気持ち悪がった。うん、それでも可愛い。


「パパとママ、そうやって出会ったんだ……」

「言いたいことは一つ。アリスはひとりじゃない。わたしもパパもいる。今は学校ではひとりかもしれないけれど、いつかきっと手を差し伸べてくれる人が現れる。でもあなた自身が全てにノーを突きつけていたら誰も近づいてこないわよ?」


 アリナは娘と俺の手を握った。


「ひとりで生まれてくる人間なんていない。ひとりじゃないってわかっているから赤ちゃんは産声を上げるの。わたしはここにいるよ、ってね」




 久々のお出かけは実に楽しかった。

 演技の笑顔と素の笑顔はやはり違う。アリスは幸せいっぱいに笑い、アイスクリームを食べ、アリナに抱きつき、俺を小突いてきた。どれだけ一流の役者が自然な笑みを作っても、それは意図した笑みだという意識は剥がれない。「象のことを考えるな」と言われても象のことを考えてしまうように、意識に嘘をつくことはできない。そしてそれは顔に出る。

 いや、どうでもいい話だ。アリスとアリナが喜んでくれていれば語ることは何もない。


「パパの運転きら~い。気持ち悪くなる」

「これでも十年以上ゴールド免許の神に等しい存在なんだがな」

「タクシーの人の方がうまい」

「プロと比較するなよ。タクシー運転手はもうタクシーが身体の一部なんだ。肉体改造してるんだぞ」

「パパもしたら?」

「痛いからイヤだ」


 すっかり夜になった最後は思い出の場所だ。自分の両親によく連れて行かれ、そしてアリナともよく行ったあの天文台がある山地だ。アリスが小さい頃に一度家族で来たが、引越もあって長らく足を運んでいなかった。

 駐車場に到着して車を下りるとアリスが一言呟いた。


「来たことある……」

「覚えてたか。行こう」


 アリスとアリナを連れ、観測スポットの山道に入った。山道とは言っても人の手が加えられた道なのでヤバい雰囲気はない。俺は昔のようにアリナの手を引いた。足場が悪くて転びそうになっていたっけ。彼女は「ありがとう」と言ってしっかり手を握りしめた。


 星が目に降り注ぐ。

 白い明かりやオレンジの輝きが薄青い夜空に広がっている。アリスは傍で目を大きく開き、空を見上げ、瞳が星の光に濡れて輝いていた。

 俺はその姿を見て、涙がこみ上げた。あの時のアリナとそっくりだった。ここで好きだと想いを告げたあの瞬間を見ているようで感極まる。そして心底思う。あぁ……俺たちの娘だな、と。


「きれい……」


 アリスが感嘆の声を空に届ける。誰だって大宇宙の前では塵でしかない。人の人生なんてものは何億光年先の星たちからすればまだばきする間に終わってしまうくらい短く儚い。

 そしてなんて小さなことで悩んでいたんだろうと思うのだ。両手を広げることすらできない狭い世界だと思っていたのに、世界はこんなにも広くて無限だったと思い知る。

 縮こまっていた肺が大きく膨らみ、自然と背が伸びる。閉ざしていた光を受け入れようと目が開く。世界は広いと確かめるために大地に足跡を付けてゆく。そうして人は前を向いて歩き、未来に向かって進んでいくのだ。


「パパ、ママ。わたし負けないよ!」


 その言葉を聞いて妻のアリナが俺の肩に頭を乗せた。我が子の旅立ちを見守るように俺たち夫婦は身を寄せ合い、娘の決意に耳を傾けた。

 アリスの目にはもう迷いはなかった。憂いも悲観的な未来も映っていない。新たに宿った誰にもぶれさせることのできない強い意志だけが瞳の中で燃えていた。少なくとも、妻が日羽アリナだった頃の「拒絶」や冗談ばかりだった榊木彗の「逃避」ではないだろう。アリスはきっと拒絶もしないし、逃避もしない。ちゃんと向き合って折り合いをつけるはずだ。

 そうやって娘は大人になって、好きな人を作って旅立っていく。

 最後の最後まで親としての義務を果たし、彼女が笑って巣立てるように明日からまた頑張ろう。

 そう心に誓い、家族で星を眺めた。


 

 未来へ続く――。

 

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