第91話 盲目の葛藤

「できた……!」


 試行錯誤とまではいかないけれど一応カタチになった。市販の板チョコを溶かしてそれを原料にネットの情報頼りでしっとりとしたチョコを作った。元々お菓子作りをしない私にとってはいい勉強になった。

 これをあいつに渡すことになる。

 初めての試みだったので不安はあったが、男子はよく手作りに弱いと聞くのできっと大丈夫だと思う。若干、特殊なやつだとはわかっているけれど。


 勿論、バレンタインデーで私が誰かに渡したという記憶は無い。

 ギリギリ記憶のある中学三年生でも私は誰かのために作り、渡した事実はない。それ以前は言うまでも無く記憶の全てが無い。もう一人の私のお人好しな性格を鑑みれば一人や二人渡していそうなのだが、そのような記録は私のノートには記載されていなかったので、きっと渡していないのだろう。

 高校では――つまり、去年になるが私は誰にも渡していない。当時、私は「この人」と指をさせるほど関わりのあるクラスメイトはいなかった。名前は大体覚えていたけれど、それだけだ。もしかしたら人生初チョコを渡すことになる。

 正直いうと緊張している。

 

 教室に到着して持ち物を整理していると早速女子たちの囁き声が聞こえてきた。


『ねぇ、誰に渡す?』

『えーっとね〜』

『もう渡したよ〜!』

『来た来た!』


 などなど。

 各々用意してきているらしい。

 

 自惚れていると同性には思われてしまうけれど私はとてもモテる。滅茶苦茶にモテる。

 だから去年は本当に疲れた。男子たちが妙に私との距離が近いのだ。存在をアピールしたいがための行動なのかわからないがとにかく私の気を引こうと彼らは必死だった。今年もそうなるのかな、と思うと憂鬱で仕方がなかった。


 渡す時は何気なくごく自然に手渡すのがベストだと思う。余計なことを口走ったら内容によっては私は羞恥心で悶え、勢いで彼を殺してしまうかもしれない。そうなっては元も子もないのでやはり無言か必要最低限の「あげる」くらいに抑えておこうと思うのだ。

 問題はタイミングだ。

 人の目があるところで私が彗に渡してしまったらきっと彼に危害を加えようとする男子が現れると思う。ついつい彼を刺したり殴ったりしてしまう癖がある私が言えたことではないが、彼に迷惑をかけたくないのは本心だ。というか、イヤだ。

 

(う〜ん……)


 どうしようと頭を悩ませながらトイレに向かう途中、彗が廊下の掲示物を睨んでいた。その掲示物は実におぞましいもので、新聞部の部長が手に持ったチョコを突き出すポーズに「お前にオレのチョコをやる」という意味の英文が添えられた、有名な米陸軍募集ポスターを連想させるものだった。

 それをまじまじと彗が見ているので、これが俗に言う『びーえる』というジャンルかと思った。そうではないと信じたい。

 そっと近寄って隣に立ち、そのポスターを私も見る。


(あら、これ単なる新聞部募集のポスターじゃない)


 右下にその旨が書かれていた。


「コイツ。同性愛者なの?」


 話を切り出す言葉が見つからなかったので、分かりきったことを言った。ここからどうチョコの話に持っていこうかしら。


「単なる部員募集が目的だから気にしないでやってくれ」


 そんなこと知ってるわよ。あんたらしくない平凡な返しね。

 彼の顔を一瞥する。顔色は至って普通だった。

 ここからチョコの話をしないと。

 でも自然な流れで渡すにはどう言ったら。ああ、もうわからないわ。でもここで渡したところで他の男子に見られでもしたら、 ――あっ、既に私たちのことを監視してる男子がいる。死ね。

 うう、ダメ。タイミングがない! 下手に渡したらきっと彼は男子たちに蹂躙されてしまう。もうっ、チョコなんてそこらに転がっているでしょう!? あんたらなんか花崗岩でも舐めていたらいいのよ!


「そ」


 ああっ、ムリっ。もうこれしか言えない。

 耐えきれなくなって私は教室へと逃げた。

 席に着くとどこからともなく香水臭い男子が私に近づいてきた。


「アリナさん、あいつには渡さないのかな?」


 男子高校生が紳士的に振舞っても安っぽいだけ。人生経験の乏しい空っぽの肉塊。私はそんな姿に失笑しそうになった。

 そんなやつに労を費やすほど私は寛大ではないので当然無視した。無視すればハエみたいに大抵の男子は諦めて飛んでいくから。

 案の定すぐに私から離れていった。どっかいけ。香水臭いのよ、あんたたち。下水道の中を泳いで中和してきなさい。


 でもやっぱり渡さなきゃ。せっかく作ったんだし。

 馬鹿みたいな嘘をついてチョコ作りの口実を整えたのだからちゃんと渡さないと犠牲となったもう一人の私に申し訳ない。

 何かの拍子で入れ替わって、もう一人が彗と話をしたときが危険だ。絶対あいつなら感謝の言葉の一つくらい言うだろうから、そこでもう一人が首を傾げたら終わりだ。恥ずかしくて死んじゃう。

 ノートに書いておこう。合わせて、って。


 再びトイレ休憩。

 渡すタイミングを伝えるためにあえて私は廊下をうろついた。うるさい乞食が私にチョコを求めてくるので中指を立てて応戦しつつ彗がいるか注意したけれど彼は現れない。これ以上廊下に出るとまた香水臭い男子たちが私を囲うだろうから止む無く教室に戻る。


 次のトイレ休憩でも同じように徘徊した。でも彼は現れなかった。なので彼の教室をちらっと覗いた。

 彗は机で無心になっていた。思わず私は「えっ」と声が漏れる。

 浅く腰掛け、背筋を伸ばし、視線を水平に保って黒板を凝視している。模範的と言えば模範的な座り方だった。けれど彼はその体勢から動かない。まるで狼に睨まれた羊のようだった。

 

 四時限が始まる前のトイレ休憩でも一応見に行った。やっぱり彼は同じ体勢だった。授業中もそうだったのだろうか。一体何と戦っているのだろう。私には皆目見当もつかなかった。


 お昼休みになり、白奈たちとお弁当を広げた。食べているうちに香水の匂いはどんどん強くなっていった。他クラスからハエたちが寄ってきているようだ。


「アリナさん、凄いね……」


 白奈は引き気味で呟いた。


「去年より酷いわ。ごめんなさいね」

「みんなアリナさんから貰いたいんだよ。でもあれじゃ女の子は渡したくなるわけないよ……」

「そうね」


 食事中くらい消え失せてほしいものだった。しゃもじで彼らのハラワタ全てをかき混ぜたいくらいイライラする。


「アリナンは彗にチョコあげるの?」


 そんな私の心境を知らずして、結梨が唐突に切り出した。私は動揺して、箸で掬い上げたご飯を再び米の海に落とした。


「誰にもあげないわ」

 

 言っちゃった――。


「今、ご飯落としたよ」

「あら、私に食べられたくないのかしらね」

「アリナンに食べられたい男子はだーれ?」

「結梨。あなた、小腸で縄跳びしたことあるかしら? 私はあるわよ」

「こわーい」


 別にいいわ。秘密で渡すつもりなのは元から変わらないのだから問題はない。

 しばらくすると白奈が箸を置いて鞄を漁り始めた。何かと思えば可愛い模様の小さな紙袋を二つ、ドアにいた彗と高根真琴に渡しに行った。


 この機会に渡しに行けばいいのでは?


 そう脳裏をよぎる。ダメよ、人に見られてはいけないわ。それに誰にもあげないと言ったばかりだし。私はそちらを見ずに結梨と蘭と女子トークを続けた。

 


 昼休みはあっという間に過ぎていった。

 内心、焦り始めている。本当に渡せないかもしれない。渡したいけれど他の男子たちの視線から逃れるのは無理そうだった。腹立つ!

 メッセージでも送ろうかと思った。でもあいつのことだから誰かに言いふらしそうだし、伝えたところで二人きりになれる状況はやってこない。

 時間は残酷にも身勝手に流れていき、私は何も出来ず放課後を迎えてしまった。放課後に彼と会う約束はない。彼は帰宅部らしくすぐ帰るだろう。そうしたらもう終わりだ。

 帰る?

 

(それなら私が先に校門に行って待機してればいいじゃない!)


 校内で渡す必要はない。どうして私はこんな単純な思い込みに囚われていたのだろう。流石に男子たちも私の帰路をストーキングはしないだろうし、もう諦めていると思う。バッチリだ。

 私は掃除が終わるとすぐ荷物をまとめて校舎から飛び出た。あいつは帰宅部だからもう既に学校から出ているかもしれない。一時間待って来なかったら残念だけれど帰ることにしよう。そう決めて私は校門から少し離れたところで待機した。


 待つこと十数分。

 身長だけが取り柄のあいつがノソノソと校舎から出てきた。


(なんなのあの顔……)


 こちらに歩いてくる彼は、キリッとして覚悟を決めたような険しい表情をしていた。これから新たな旅に向かう少年のような熱い信念が彼から溢れ出ている気がした。

 校門から一歩彼は出ると立ち止まって胸に手を当てた。本当になんなのこいつ。夕日にたそがれる彼に呆れるも、最初で最後のチャンスだと思い、私は声をかけた。


「あら。待っていたわ」







 日羽アリナがいた。

 なぜ校門にいるのだろう。待ち伏せか? 一体いつ俺の体内に追跡機器を埋め込んだんだ。

 

「え? なにしとるんですか」

 

 まさか。まさかのまさか、俺に渡すために? 

 

「待っていたのよ。歩きましょう」


 歩く。

 右足出して、左足出して。七十センチ進んで。ウォーキング、ウォーキング。ガッシャンゴッション。

 歩行がこれほど難しいと思ったのは生まれて初めてだった。二足歩行ってこんなに難しいものだったとは知らなかった。命を繋いできた人類に感謝感謝。

 俺の緊張と真逆にアリナはいつも通りの冷めた表情で美しい髪を小川のように揺らしながら歩く。鼻先が少しピンクに染まっているのでだいぶ校門で待っていたようだった。


「うごっ!」


 右脇腹に強い衝撃が襲来。ぐにゃりと体が曲がり、一瞬三途の川が見えた。多分二度目だ。また死んだペットが向こう側にいた。

 かさっと紙の擦れる音がしたので俺はアリナの突き出した左手に注視すると紅の抽象的な模様がデザインされた紙袋をつまんでいた。それが俺の脇腹に食い込んでいる。


「あげる。感謝の印」


 彼女はまっすぐ前を見据えながらそう言った。どうやら照れ隠しのようだ。

 俺は有難く受け取った。


「ありがとう。マジで貰えるとは思わなかった。これを機に僕は平和の使者になろうと思います」

「そ」


 実を言うと俺は嬉し過ぎて精神崩壊を起こしかけていた。焦らされて焦らされてやっと手にした望みのものが今、俺の手中にある。あぁ、狂いそう。今なら砂漠に緑を生い茂られそう。すごい、すっごいの。

 叫びたい、あぁ、叫びたい。世界の中心で叫びたい。何て? 『カリフラワー!』。なぜカリフラワーかはわからない。多分語呂がいいからだ。


「もしや手作りですか……?」

「えぇ。味わいなさい」

「オォ……宇宙の創造物……」


 アリナさんが人間とは思えぬ可愛さに包まれている気がした。宇銀が負けるレベルだ。それほど可愛い。

 早く開けて食べてみたいのだが家まで待とう。歩きながら食べる行為は極刑にあたるだろうし、軽々しく見るのも愚かな行為だ。

 アリナは目をパチクリさせて前をずっと見据えている。無感情に見えるが、さっきから鞄から尻尾のように飛び出たマフラーを路面の上で引きずっていることに気づいていない様子から彼女も普通の心理状態じゃないようだ。

 ぶーぶーとスマホの着信音が低く響く。俺かと思ってポケットに入れるも違ったようで、アリナのようだ。


「アリナスマホスマホ」


 文字だけ見ると原始人が興奮しているようにしか見えないな。どうでもいいことを考えながらアリナに声をかけたが彼女の耳は現在トンネル状態のようで脳に届いていないようだ。

 俺は肩を掴んで揺さぶった。鎖骨の立体感、罪深い……。


「いやっ! セクハラ!」

「アリナスマホスマホ」

「なに?」

「アリナスマホスマホ」

「ん? あら」


 ようやく気付いた彼女は電話に出た。

 相手はどうやら母親らしい。その間俺はホワイトデーのお返しを考えていた。

 やはり手作りには手作りで返すべきだろうか。それとも高めのチョコを買うべきだろうか。

 わからない。漢文並みにわからない。プライドの高いアリナならやはり値段か? 天使アリナなら手作りを相当喜びそうな気がする。ん、もしや毒舌アリナと天使アリナの二人分を用意すべき……? しかし、艶かしい肉体は一つだ。いやいや味覚を感じる魂は二つだぞ。おやおや? これは哲学の先生を呼ぶべきではないだろうか。


 我に帰ると傍にアリナがいなかった。彼女も時空を超える猫型渡航者だったとはね。

 振り返るとアリナはスマホを片耳に押さえながら立ち止まっていた。相変わらず前を見据えていたが少し違った。俺の目に焦点を合わせている。


「どうした?」


 戻ってアリナにそう訊く。依然として彼女は固まったままだ。


「何か忘れ物か? 銅像みたいになってるぞ」


 アリナはスマホを耳から離し、放心したような抜けた表情になった。だらりと垂れた手のスマホの画面はまだ着信画面が表示されていて繋がっている。

 俺は指をさして「繋がってるぞ」と言ったが彼女は聞く耳持たず。様子が変だな、と思った時、彼女は口を開いた。


「父が。父親が、死んだ――」

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