第82話 毒針事案
始まりというものは一つの終止符から生まれ出るものだ。ゆえにゼロからのスタートはありえない。
偉人の名言みたいな引っかかる言い回しをしてみたが何をいいたいかというと単純に冬休みが終わったのである。冬休みという終止符が登校日を作り出したというだけの話である。
起床時間を徐々に早めないと初日が苦しいとわかっていたが欲には勝てず、夜更かしをして余裕のない朝を迎えた。早起きは永遠の難題だ。
久しぶりの制服はいつもより身体を締め付けている気がした。ゆるゆるの普段着を数十日着ていればそんな感覚になるのも当然か。だらだらと着替えて玄関を出ようとしたところ、妹に呼び止められてネクタイを締め直された。女子力高すぎて感激。妹似の美女はやく現れて。
去年以来の教室だ。
夏休み後なら日焼けで黒くなったりと変化が見受けられるが冬は大して変わらない。強いて挙げるなら白雪みたいに白くなっている生徒がちらほらいるくらいだ。
席について教科書等を机に投げ込んでいく。この教科書たちとも来年度でお別れだと思うと寂しい。頭痛の種でしかなかった教科書も次第に愛着が湧くものだ。真っ赤な嘘です。はやく燃やしたい。
約一年後に訪れる卒業が現実味を帯びてきている。馴染んだ彼らとも一年後にはそれぞれの道に向けて歩みだし、次第に離れていく。その分岐点を最後にそれっきり会わないクラスメイトが大半を占めると思う。
この瞬間、この空間がどれだけ価値ある集まりか口で説明しなくともわかるだろう。そしてどれだけ奇跡的であるか。もし俺がこの高校を落ちていたらここにいるやつらとは会わなかった。真琴にも、鶴にも、アリナにも。
もしかしたら他校で素敵な出会いがあったかもしれない。そこでは部活に入り、友人たちと汗を流して放課後の夕日に目を細め、照らされながら自転車を走らせる青春を送っていたのかもしれない。思い描ける最高の情景だ。
仮に時間を三年巻き戻せるボタンがあったら押すだろうか。記憶の維持・消去は選択できるとしよう。
ある人は躊躇なく押すかもしれない。不慮の事故で亡くなった大切な人を救うために押すかもしれない。三年分の当選番号を記憶して、宝くじで儲けるために押す人もいるかもしれない。各々の理由で三年という大きな時間を巻き戻し、より上位の幸福を獲得するだろう。きっと大抵の物事は成功するはずだ。
では、今の俺は押せるだろうか。
記憶さえ抹消してしまえば、リセットされてしまった人間関係、巻き戻してしまった経緯、消してしまった思い出、元に戻った肉体への後悔は生じない。三年の記憶がないのだから。本人は未来から来たことさえも気づかないのだ。何も失っていないに等しい。記憶を維持すれば予言者気取りもできるし、引きずっている後悔も無くせる。同じことを繰り返すかもしれないが。この世が運命論で決定づけられていないことをただ祈るのみだ。
が、俺は一億円を提示されても押さない自信がある。それほど俺にとって今の時間が代替不可能な価値ある時間だからだ。人の出会いはお金でも買えないし、運命的ではない。全て偶然の奇跡だと俺は信じている。
最後の一年なのだから大切にしよう。無駄にしてはいけない。
「あけおめ」
リア充真琴の新年のご挨拶。意外にも彼は眠そうだった。朝に強いのに珍しい。
「ことよろ。随分と眠そうだな。睡眠薬は程々にしろよ。中毒死とかあるからな」
「飲んだことない。久しぶりの学校だから緊張してあんまり寝れなかったんだ」
「遠足前の幼稚園児かよ」
「せめて修学旅行前の中学生にランクアップしてくれ……。彗は相変わらず眠そうだね」
「一日十三時間睡眠が必要な脳だからな。毎日睡眠の借金を作ってるんだ。いずれ破産するだろうな」
「破産したらどうなるの?」
「死ぬ」
「やばいじゃん。今すぐ寝たほうが……」
「今のところ土日で返済できてるから大丈夫だ」
さて、俺の睡眠事情はどうでもいい。アリナの安否が心配だ。正月以来、音沙汰無しなので内心不安でしょうがなかった。あんな話をされたら気が気でならない。ずっとそわそわしてたし、何度か電話をかけようとして連絡先を開いたが結局押さなかった。気恥ずかしかったのもあるし、最悪のケースを耳にしたくない恐れもあった。繋がらなかったらどうしよう、という恐怖もあった。
朝のホームルームが始まるギリギリに俺は教室を出て、隣クラスに入った。
「おふぅ……」
アリナがいた。思わずだらしなく息が漏れた。
彼女はスクールコートを羽織り、手をポケットに入れ、猫背になって縮こまっていた。顔半分をマフラーでぐるぐる巻きにしている様子から察するに、相当寒がっているようだ。
「よう。寒いのか?」
「朝からあんたの顔なんて見たくないわよ」
「平常運転だな。大丈夫そうで何よりだ」
「これが大丈夫に見えるかしら。寒すぎよ。あんたたちどうして寒くないのよ。どれだけ剛毛なのよ」
「女子が聞いたらめっちゃ傷つく言葉だぞ」
「大声で言ってもいいわ。無駄毛で世界を覆うつもり?って」
「お前より俺の方がまだ女子力高そうだな」
「大腿骨砕くわよ」
マフラーの下でモゴモゴ喋っているだけなので全く怖くなかった。俺の脇腹を殴るその右手も寒さでポケットに引っ込んでいるし、足の指を踏み砕くその艶かしく白い両脚も黒タイツで包まれ、寒さに凍えている。
無害の毒舌アリナは口のうるさい芸術品なだけだ。
「それで、あの後は何かあったか?」
「何がよ」
「……お前の父親の話だよ」
「いいえ。来ていないわ。なに、心配してくれてるわけ」
「人並みには心配していたが、そうか。よかったよかった」
「ふぅん。最近奴隷としてサマになってきているわね」
「いつか反逆するからその首洗って待ってろ」
内心ホッとした。
アリナの毒舌が寧ろ気持ちいいくらいだ。弱気で内気な声色だったら俺は相当動揺していたと思う。
そろそろ教室に戻ろうと思った時、俺の左肩を誰かが掴んだ。ぐいっとそのまま力づくで押し退けられた。見覚えのある男子生徒が俺とアリナの間に割り込んできた。廊下ですれ違う程度の「見覚え」なので話したことはないと思う。しかしその失礼な振る舞いに紳士のわたくしもほんの少し不快感を覚えた。
「アリナさん! 一年の頃からずっと好きでした!」
今の時代では珍しくなった生告白だ。情報端末で想いを伝える若者たちに真っ向から否を突きつける熱い告白だ。しかも教室で。大勢のクラスメイトがいる前で。
その刹那、教室は静まり返った。彼の告白音量がでかかったのである。口にイヤホンジャックを挿したいほどに。
熱い愛の告白を初日から貰ったアリナの反応は顔色一つ変わらなかった。
「うるさいんだけど。私はそこの男と話しているのだから割り込まないでくれる? 常識をわきまえない人間なんかお断りよ。牛舎に帰って干し草でも食べてなさい」
そうなっちまうよな。悲しいこと極まりない。好きな子相手に牛扱いされるなんてな。特殊な性癖を持つ者なら罵倒は御褒美になるかもしれないが彼は違うだろう。
プライドを傷つけられた彼は露骨に機嫌を損ねた。
「榊木のどこがいいんだよ!? こんなやつのどこが! やっぱり付き合ってんじゃないのか!?」
えぇ……。完全にとばっちりですやん……。
背後で結梨の笑い声が聞こえた。振り向いて「そこは慰めろよ」とジェスチャーでツッコミを入れたが彼女は口を噤んで知らんぷりを決め込んだ。白奈は顔を逸らしているが肩が小刻みに揺れているあたり、面白がっているようだ。
「まあまあ落ち着けって。コーヒーでも飲んでさ。あ、カフェインって興奮剤だったっけか」
「榊木。はぐらかすな。お前なんかがアリナさんとは絶対に釣り合わない」
「はぐらかしちゃいないっす。釣り合ってるとも思ってませんよ。ほらほら、俺は帰るからさ」
彼の肩をポンポンと叩いて、「気楽に行こうぜ」的な海外ドラマに見られる友情シーンを再現した。
しかし彼は手を払い除けた。結構強めに。そして俺の胸をぐっと押した。もし俺が女の子だったら言い逃れのできない痴漢行為だ。いやん、と甘ったるい声を出しておけばよかっただろうか。そもそも需要がないから意味ないかな。
ちょっとした攻撃を食らい、彼が本気で俺を敵視していることがわかった。流石に反撃して殴るような脊髄反射精神ではないので「おっとっと」とよろめいてそれっきりにした。喧嘩はゴメンだ。俺が勝っちゃうからな。うそうそ、殺されちゃう。
バチンッ!
アリナが立ち上がってビンタした!
勘違いしないでほしいが俺にではなく、なんとアリナに告った彼にである!
暴力のはけ口である俺をビンタせず彼にしたのである!
ビンタ行為より対象が俺でなかったことに吃驚した。
本日二度目の沈黙。
ビンタされた彼は目をパチパチさせて腫れた頬を撫でた。彼女は子羊のように萎縮した彼を軽蔑するように見下ろした。残酷なことにアリナの方が身長が高かった。
「邪魔よ」
眉の角度を上げてアリナは冷えきった声でそういった。そして男は魂が抜けたように教室から出て行った。
落ち着いてきたアリナが久しぶりに見せたマジギレに俺だけでなく結梨も白奈も蘭も驚いていた。クラスは空気を戻そうとぎこちなく談笑を再開した。
はっと息を切って席につき、彼女は乱れたマフラーをまた巻き直した。
「彼の名前、何ていうの」
「え。あ、知らん。多分一組だったような気が……」
「はあ。面倒ね」
「追い討ちをかけるのか?」
「違うわよ。ノートに本名を書かなきゃならないのよ」
「?」
「あぁ、もうっ」
アリナは面倒くさそうにメモ帳に走り書きした。
『告白された一覧 例のノート』
「あぁー……。なるへそ」
告白してきたやつを彼女は天使アリナのために記録しているのだった。何のためかは分からないが。
彼女が機嫌を損ねた上に担任教師がもうすぐ来る時間なのでフェードアウトすることにした。俺が来たことによってご迷惑をおかけした三組に申し訳なかった。
「じゃ、帰ります。心を鎮めろよ」
彼女は目を閉じ眉間に皺を寄せてこっくり頷いた。
三組の皆さんすみませんでしたー……。
「結局俺と食事会かよ」
休み明けの始業式で午前が潰れ、やってきた昼食タイム。真琴は流歌とラブラブご飯するのかと思ったのに自然な流れで俺の机にやってきた。
「気まずいから……」
「なんでやねん」
「冬休み、一回も電話できなかった……」
「そうですか。いただきます」
はっきり言うともう真琴の恋愛事情はどうでもよかった。彼らがどこまで進んでいるかだけ気になっているくらいで、それ以外はもう興味ない。俺がもし流歌が好きなら気になると思うけどな。生憎そうではないので。
「あと、噂なんだけど……」
「この学校は噂が多いな。一体誰が情報操作してるんだ」
「彗が日羽に殴られたって聞いた」
「殴られてないんですが」
「本当に? あ、確かに血も出てないし、骨折もしてなさそうだね」
「榊木彗サンドバッグ説を噂したのマジで誰だよ。陰謀を感じるぞ」
「なーんだ違うんだ。喧嘩でもしたのかと思ったよ」
「俺じゃなくて、正確にはアリナに告ったヤツがビンタされたんだ。強めにな」
「いつ?」
「朝だ。お前との無駄話の後」
「あの後そんなことがあったんだ……」
浮気した旦那への制裁ビンタ並みの威力だったので目に焼き付いている。見ているこっちが痛くなるくらいの豪快なスイングだった。あのタイミングでのビンタは意味不明だったがもともと意味不明の塊みたいなやつなので理解しようとしても徒労に終わるだろう。
「あともう一つ噂があるんだけど……」
「本当に噂だらけだな。もはやこの学校に真実が存在するのかも怪しい」
「赤草先生が異動かもしれないって」
「へ?」
赤草先生が異動?
異動って?
移動?
三メートル移動するとか?
住居移動とか?
井戸か?
先生は井戸じゃないぞ?
異動、異動、異動?
その後。
俺は意識を取り戻すまで、卵焼きを箸でつまんだままフリーズしていたらしい。
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