第83話 【番外編】血縁

 体の芯まで冷える極寒の三十日。

 空は風の流れがわからないほど灰色の雲でいっぱいだった。無風に近いけれど歩くたびに冷気が正面から顔全体を包み込んで私を震え上がらせる。ぎゅっと頬と鼻先が引き締まり、特に鼻先の感覚は失われつつあった。

 重い大根や人参などの野菜たちが入ったビニールを手に下げ、私は自宅に向かっている。おっちょこちょいの母は夕飯のおでんに必須の野菜を買い忘れてしまったので私が足を運ぶことになった。快く受けいれ、笑顔で玄関を出たが時間と共に私の顔はこわばっていった。すごく寒い。まつげが凍りそう。早く帰りたい一心で早歩きをしてもその分当たる風が強くなって寒さが増大する。もー、寒いよー。


 自宅を目視できる距離になって無意識に足早になった。マフラーに顔をうずめて当たる冷風に耐えながら遂に自宅に到着した。


「ただいまぁー……」


 玄関でさえ暖かく感じて自然と笑みが溢れた。「ふわぁー」とつい少々いやらしい声を出してしまってすぐ口をつくんだ。教室でやってしまったら羞恥心でもう学校へ行けない。

 靴を脱ごうと視線を落としたとき見慣れぬ靴が目に入った。ごく普通のスニーカーだがサイズは大きめできっと私も母も合わない。女性向けには見えなかった。すると母のお客さんか彗しか考えられない。親戚なんて知らないし、来たこともないと思う。

 母が秘密で再婚相手を連れて来たのかもしれないと脳裏をよぎった。母が交際している様子は皆無だったけれど可能性はなきにしもあらずだろう。母だって女手一つは不安だろうし良い人がいたら惹かれる。それが幸せなら私も応援したい。

 でも正直それはやめてほしいというのが本音だ。面識のない大人の男性と一つ屋根の下で暮らしていくなんて受け入れられない。嫌悪感でいっぱいになるし、それに何をされるかわからない。誠実と謳われても信用なんかできっこない。

 リビングの方から男性の低い声が聞こえた。彗じゃなかった。

 忍び足で廊下に漏れるリビングの光に近寄り、恐る恐る覗いた。


 突然――頭痛がした。


 ぐっと親指で押されるような鈍い頭痛が私を襲った。立ち眩むほどの痛みではないが表情が曇るくらいの痛みではあった。

 痛みは母の向かいに正座する男性を見たときだった。彼を見た瞬間、意識とは関係なく総毛立って焦点がずれた。

 崩れた重心を支えるために反射的に引き戸を掴む。その音で母と男は私の存在に気づいた。


「アリナ……? アリナじゃないか!」


 私は腰を抜かして尻餅をついた。まるで骨を抜かれたようにストンと重力に負け、力が抜けて立てない。私は両手で床を力いっぱい押してお尻を引きずりながら近寄ってくる男から逃げる。沸き起こる恐怖が私を駆り立て、背中と胸は冷や汗ですぐ湿った。

 ひたすらこわい。

 指一本触れられるだけで気絶してしまいそうなくらい目の前の男が怖かった。


「やめなさい!」


 聞いたことのない母の怒号が響いた。私と男は唖然として母の方に注目する。母は綺麗な顔を真っ赤にして拳を握りしめて立っていた。

 男ははっと我に返って私に謝罪した。「ごめん、本当にごめん」と言ってとても必死だった。でも彼の一つ一つの挙動に私の身体はぴくぴくと反応して謝罪なんて気にする暇もない。

 私の反応を見た男の表情は複雑で、嬉しそうにも見えるし絶望しているようにも見えた。

 

「また同じことを繰り返しに帰ってきたの……!?」

「違う! 本当に違う! つい久しぶりにアリナを見て……」

「見てなんなの!? あなたに何かわかった!? この子は記憶喪失になっているのよ!? 誰のせいだと思ってるの!」

「え……?」

「知らないでしょうね! 娘に手をあげるような馬鹿者ですから! アリナはあなたのことなんか覚えてないの。だから二度と来ないで!」

「は……? アリナ、わたしがわからないか?」


 断片的な記憶すらないけれどきっと私はこの人を知っているんだろう。大切な人かは別として、深く関わりのある人物だと勘でわかった。

 切っても切れない血の縁。たぶん私の父親だ。


「私の娘に話しかけないで! 早く家から出て行って!」

「落ち着いて聞いてくれ……わたしも後悔して……」

「あなたの後悔なんてどうでもいいのよ! あなたが後悔したところでアリナの傷は全く癒えないし私たちの過去が消え去ることもないわ! 二度と私たちに近づかない約束は忘れたの!?」


 母の興奮はヒートアップしていく一方だった。私はやっと立ち上がれはしたがリビングに入る勇気はなく、体重を壁に預けて傍観することしかできなかった。


「忘れてはいない! でもわたしは本当に改心したんだ。どうかしてたんだよ……過去に戻って全てやり直したい。ずっと娘を傷つけてしまったことを悔やんでたんだ。どうしてわたしはあんなことを……アリナ……許してとは言わない。これからこの身を捧げて尽くすつもりだ」

「償いをしたいのなら私たちの前に現れないことが一番の償いよ」

「待ってくれ。わたしは本気で――」


 父の言葉を断ち切るように母は強烈なビンタをくらわせた。その音に触発されて幻のトラウマが蘇った。


 父が私を突き飛ばした。

 ひどいアルコールの匂いが鼻孔を突き刺す。

 顎を掴まれて罵詈雑言。

 頰に散ったヨダレ。

 蛍光灯の逆光で黒く染まる父の顔。

 滲み出た涙で歪む世界。

 伸びきる首筋。

 開きっぱなしの私の気道。

 充血した父の目玉。

 擦れて抜けそうになる私の髪。

 

 黒い曲線でぐちゃぐちゃになって、肺から空気が押し戻され、私の意識は闇に落ちた。

 



 眠りから覚めた。

 眠った記憶もその過程も覚えていなかった。時間感覚も曖昧で夕方か朝方かも分からない。中途半端に私たちを照らす太陽に少し腹が立った。

 私はパジャマになっていて、口内は微かに歯磨き粉のミント味が残っていた。スマホの時刻表示は大晦日の六時半だった。

 人格が入れ替わったと確信した。

 

 机上には例のノートが置いてあった。それはもう一人の私からの「必読サイン」だ。

 最新ページを開くと明朝体を意識した美しい文字が並んでいた。ベッドに倒れ込み、うっすら差し込む陽光を頼りに読み始めた。

 人格交代後、もう一人は「出ていってください」と懇切丁寧な口調で申し出たそうだ。完璧な他人行儀でお引き取り願ったようで父は驚いていたと記されている。

 ガラリと変わった私が信じられないとでも言いたげにまた触れようと近づいてきたところで母が「娘に触ったら警察呼ぶわよ」と抑揚のない殺意のこもった声で父を脅した。さすがにまずいと思ったのか、父はその後腰を折って謝罪し、家を出て行ったそうだ。

 その後は人格交代中の旨を母に伝え、色々と話したそうだ。あとの内容はどうでもよかった。どの下着を使ったとか夜ご飯はこれくらい食べたーとか。


 父が私への虐待で逮捕されたことは知っていた。そして現在は執行猶予中の身であることが今回母の口から判明した。いつでも私たちに接触する機会はあるという事実に落胆した。また昨日のような恐怖が前触れなく訪れるなんて勘弁してほしい。

 折角みんなと食事をしていい気分で新年を迎えられると思ったのに年末年始は逃げ場のない不安で苦しみそうだ。これからどうなるんだろう。

 身近に相談できる相手と言えば母以外では鶴とか彗だけだ。でも重すぎる内容だから連絡先を開いたところで躊躇し、きっと電話もメッセージも送らないだろう。それにとても迷惑だと思うし。

 

 リビングで母がぼーっとテレビを眺めていた。


「おはよー」


 私が挨拶をすると母は私に飛びついた。


「――アリナ! 大丈夫!?」

「えっ、う、うん。私よ。大丈夫だから落ち着いてよ」


 母は私を抱きしめ、耳元でごめんねと繰り返した。体の震えと同調して声も弱々しかった。私も抱きしめ返して母の温もりを感じ取った。

 

 母が朝食の用意をしている合間に顔を洗った。鏡に反射した私の顔はいつも通りの美少女であった。自慢しているわけではないけれどこの顔とはまだ数年の付き合いしかないのでたまに他人の顔を借りているような気分になるのだ。普通の感覚じゃないことは自覚している。そもそも私の精神が異常なのだからこれくらいかわいいものだろう。

 朝食をテーブルに並べ終わり、二人で食べ始める。しばらく無言でテレビを見ながら口に運んでいると母が箸を置いた。


「アリナ。もし、ね」

「なぁに」

「もしまた家に来たときは警察を呼ぶわね。アリナが留守番の時に来たらすぐ警察を呼びなさい。絶対開けちゃダメよ」

「わかった」

「……近いうちにお引っ越ししましょうか」

「え、そこまでする?」

「当たり前よ。当たり前よ……」

「……高校から通える距離だよね?」

「もちろん」

「そう……」


 自分が思っていた以上に母は相当深刻に捉えているようだった。

 母の立場からすれば神経質になるのも至極当然のことなのかもしれない。もし私が母と同じ境遇で一人娘を守らなければならない状況になったら私もどんな手を使ってでも守り抜くと思う。母親とはそういう強い存在だ。


「あと帰り道は努めて誰かと一緒に帰りなさい」

「はい」

「ところでアリナと一緒に帰る子っているのかしら」

「え。ウーン……」


 悩むそぶりをしたが演技である。いないと即答したら母は更に情緒不安定になると目に見えていたから時間を稼いで誤魔化すことにした。


「彗くんは? お付き合いしているんでしょう?」

「はぁ!? してないわよ!」

「ふふ。ごめんなさい、わかっているわ。彗くんから聞いてるから」

「もぅ!」


 あいつと下校したせいで余計な噂を耳に入れることになったからその話題はうんざりだ。何度問い詰められたか。彼も辟易していたようだがいい気味だった。

 しかし残念なことに私の頼れそうな人といえば彗だけだった。あんな性格だけれど身長は百八十あるし、怒ったら怖そうだからボディガードにはちょうど良さそう。彼の意味不明なジョークも相手を困惑させるのにバッチリだ。

 明日は鶴に誘われた初詣なのだから元気を出さないと鶴に申し訳ない。こんな私でも関わってくれるのだから彼女は信じられないくらいとてもいい子で変わってると思う。たまに彗を持ち出して私をからかうのはやめて欲しいけど。初詣を誘われた時も「彗も呼ぶね! 彗も呼ぶね!」と連呼するし。余計に気を使わないといけないじゃない。

 来年は穏やかでありますように。

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