第58話 受験と冬空
「来年の今頃は受験勉強で死にそうなんだろうな」
「いやだね」
十二月。
ますます息が白くなり、指先がチクチクと痛む季節が到来した。
昔なら手袋をはめて外で妹と雪合戦をしたものだがいつしかやらなくなってしまった。俺が一方的に機関銃の如く投げつけて泣かせてしまったことも一つの原因だろう。あの頃は無邪気に遊べて楽しかった。気兼ねなく毎日を過ごせた。
成長するにつれて科学文明の魅力に取り憑かれ、外に出なくなるのはもう現代っ子の鑑だろう。
そんなわけで現代人の俺と妹は科学の恩恵を感じながらぬくぬくとコタツで温まっている。高校二年生と中学三年生の冬。俺は来年度が受験、妹は今年度。
「ちょっと待てよ、お兄ちゃんは恐ろしいことに気づいてしまったのかもしれない」
「なになにー」
妹は顎をテーブルに乗せ、眠たそうに返事をする。
「お兄ちゃんは妹が受験勉強している姿を見たことないぞ……!」
「だろうねー」
まさか我が妹がここまで受験に対してなめ腐った態度だとは。ちっとは優秀だと小耳に入れて誇らしかったのに。宇銀くん、君は全国の受験生に謝ったほうがいい。
「推薦でもう決まったしー」
「は? 推薦?」
「兄ちゃん知らなかったの? あんなに家族で盛り上がったのに」
「その場に居合わせていたか、俺?」
「多分いつもみたいにトマトジュース舐めながらぼーっとテレビ観てたんじゃない? 悲しいなぁ。孤独だなぁ」
「なんてことだ……まさかもう既に決まっていたのか……ん、というかお前最近まで部活やってたよな!? 三年の秋でもやってたって今思えばおかしくね? 賄賂は許さんぞ」
「推薦でもう決まってたようなものだったから後輩の面倒見てた」
オゥ……推薦組の余裕……そういえば俺が高校受験の時も推薦組がいたっけ。憎らしかった記憶しかないな。こっちがプレッシャーで押しつぶされそうになっている中、やつらは澄ました顔で冬を過ごしていた。努力の甲斐あっておかげでそこそこの高校に受かったのだが振り返ってみると腹立たしい。血が沸騰しそうだ。
「どこの高校だ?」
「兄ちゃんとは違うよ。三河高校」
「ほーん。安心して正月を迎えられるな」
「兄ちゃんは死にそうな顔してたよね。床に並べられた大量のトマトジュースの缶がホントにキモかった。マジで病気かと思った」
「受験はな、特に筆記の受験はな、命を削るんだよ。君は知らんだろうがね。わかるか? 受験生全員が天才に見えるあの心理状態が。一種の心理戦だと思ったね。だからセンター試験の時は赤本を大量に見せびらかして周りを恐怖で溺れさせてやる。ちなみに高校受験で二年は寿命縮んだ。センター試験では八年縮めるつもりだ」
二度と受けたくはない受験とまた闘うのは本当に憂鬱だ。いっそひと思いにこのままコタツの熱で溶けて蒸発したらどれだけ楽か。
和む猫みたいに目を瞑る妹にこれほど嫉妬したことはないだろう。あああ、受験嫌だよう。
「で、最近どうなの?」
「何が」
「もう。わかってるくせに。アリナさんとの進展!」
「何もないぞ。強いて挙げるならお前から貰った案の『部活の手助け作戦』は先日終了した」
「へぇ〜。意外と続いてたんだね。で、恋愛の方は?」
「ないない」
「嘘ぉ〜。もはや感情のないエイリアンじゃん」
アリナに好意はある。でもそれを伝えたところで答えはわかっている。それに俺とアリナの関係上、告げてはならないことなのだ。
〈彼女を助けるため〉
この一点が俺とアリナを繋いでいる。もしこの関係以上になってしまえば、それはきっと俺のエゴが生み出した関係だ。アリナの苦しみを解放する糧にはなっていないだろう。
「後悔しても知らないよ?」
「人間は必ず後悔するようできている。無限の欲求があるからだ」
「そんなに堅苦しくいわなくても一言で済むじゃん。兄ちゃん風に言うなら、『愛は理論を超越する』かな」
「うわあ、宇銀ちゃん中二病〜」
「殴りたい、そのアホ面」
妹はジト目のままみかんをぶん投げて俺の顔面にストライクを決めた。
亜紀先輩はセンター試験の勉強の真っ最中だろうし、下手に応援したらプレッシャーになると思ったので最近話しかけるのをやめている。
俺にとって亜紀先輩は相性の合う良い先輩なので時々お喋りしたくなる。でもあと数ヶ月もすればこの高校からいなくなってしまうのでとても寂しい。会えなくなるわけではないが、高校生という共通のステータスを失うと大きな隔たりが出来る気がする。先輩の世界に踏み込めなくなるのだ。やっぱり寂しかった。
冬は人の心も冷ますらしい。文化祭の熱狂は遠い彼方へ消え去ってしまった。
登校中、雪が降ってきた。風はないので緩やかに垂直に落ちてくる。学校に着く頃には肩と頭が白くなってるだろうな。
マフラーに顔をうずめて吐く息で温める。ああ、冬は嫌いだ。死ぬ。鼻先が痛い。
そう文句を頭の中で呟いていると背後から頭を撫でられた。
振り向くとその正体は日羽アリナだった。
「……」
「あっ、流石に無視はひどいわ。胡桃くらいの脳が凍りそうになってたから払ってあげたのに」
「その胡桃以外には何が詰まってるんだよ」
「空洞よ」
「叩けば良い音出そうな頭してるんだな、俺の頭は」
アリナも寒そうに鼻先と頰を赤らめていた。それがまあ何とも可愛らしかった。いつもツンケンしているアリナだが時たま見せるあどけない少女のような顔に心拍数が上がる。不意打ちなのでやめてほしい。俺も大概ツンデレだと思った。おっさんのような評価を許してほしい。
彼女もマフラーを首に巻いて寒さと戦っているようだ。そして俺はアリナの脚に注目した。
「黒タイツ、冬にまみえる、黒真珠」
「ひどい俳句」
「女子高生って黒タイツ好きだよな。俺も好きだ」
「気持ち悪いから100万回死んで」
そんなテンションで俺らは肩を並べて登校する。お互い無言だ。アリナがどうかは知らんがどうも気まずかった。何か喋ろうと思った。でも話題が思いつかない。いつもの調子なら即ジョークを飛ばせるのに緊張して話せない。何に緊張してるんだ?
自問しなくとも自明だ。ちらっと横を見る。アリナの横顔。その整った容姿。ほんのりと染まるピンクの頰にドキッした。長い睫毛がとても繊細で美しかった。
その口元が動いて俺は我にかえる。
「前、あんたの友人を監視したじゃない?」
「あ、ああ……」
「どうだったの。二人は」
「助かったってよ。真琴からはお前に『本当にありがとう。迷惑かけてごめんな』だそうだ」
「あら、つまんない。自撮りモードで写真撮ったら面白い展開になってたかもしれないわね」
「そのうっかり残酷だ」
そういやスイーツ食い放題の店を出た後、アリナと白奈たちに置いてかれたんだっけ。一人立ち尽くしていたのを覚えている。彼女らのその後は訊いていない。訊くつもりもないが。
校門をくぐり、校舎に入る前にパタパタと制服をはたいて雪を落とした。下駄箱に靴をぶん投げる。それと同時にスマホが振動したので俺はポケットから取り出して画面を開いた。
「なに。盗撮写真?」
「馬鹿。俺は紳士だ。フォトギャラリーは全て大英博物館で飾られている写真だ(大嘘)」
白奈からのメッセージだった。こんな朝早くから何事だと思いつつ開く。そして俺の眠気は一瞬で吹き飛んだ。
「凍結した氷河期のマンモスみたいな顔になってるわよ。どうしたの」
硬直する俺。アリナは身を寄せて俺のスマホを覗き込んだ。
「えっ。あんたこれって――」
アリナは素で動揺した。俺は素を通り越して思考が止まった。ブッダになれそうなくらいの無我の境地に到達した。
『彗が本当に好きです。今日の放課後、会ってくれないかな。』
短いその一文は紛れもなく波木白奈からのメッセージだった。
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