第29話 生息地拡大


 机上のトマトジュース。


 俺はトマトジュースが好きだ。味はもちろん、気持ちの部分も大きい。安心するというか落ち着く。

 大抵自販機で買う飲料はトマトジュースだし、好きな野菜もトマトだ。なぜこれほどまで好きなのかはわからない。人類の謎である。

 もはや人間の感覚質、クオリアの問題になってくる。好き嫌いの基準は共通化できない。

 感覚に定規はないのだ。


「いつまでトマトジュース眺めてんのよ」


 俺はアリナと長机を挟み、面と向かって座っている。花に囲まれたこの空間には微かにいい匂いがする。

 アリナの香水という可能性もある。女子高生は香水をつけるのだろうか。俺の知識ではまずそこから始まる話なのでどうでもいいことにしよう。


「トマトジュースが好きだからだ」

「あんた様子がおかしいわ。転化する前に飛び降りて。しっかり頭は潰すのよ」

「噛みついてやろうか。一緒にあっち側へ行こうぜ」


 おかしいのは自覚している。

 加えて原因もはっきりしている。


 昨日『白奈に好きだった』と言われた。それが想像以上に大きな影響を俺に与えているようだ。今日真琴に「クスリでも使ったのか?」と冗談めかして心配された。冗談でも心配するのだからやはり目に見えて変化しているらしい。

 


「白奈と話した?」

「クエスチョン。本日、お前のクラスに俺は出没したか?」

「読書してたから気づいてない」

「そうかい、読書ね。俺はいないどころか一度も白奈を見ていない。意識的に避けてしまうんですよ」

「馬鹿みたい。あはは」


 日羽アリナが笑うようになったのはここ最近だ。

 あの日図書室で初めて声をかけた時のアリナがこうして笑顔になることを当時は思ってもみなかった。仏頂面が得意なあのアリナが曇りなく笑い、ほころぶ。そんな姿が微笑ましかった。


「どうすればいいんでしょうね、俺は。気まずくて無理だ。多分顔を見合わせたら死んじゃう」

「あら、死ぬのね。今すぐテニスコートに行きましょう?」

「お前はどこまで残酷なんだ」

「皆々様が私を毒のある薔薇と呼ぶように、全身が残酷なの」

「そりゃおそろしい。誰か摘み取ってあげろ」


 無駄話で盛り上がるとはね。いつもなら無言を貫き読書する彼女が意欲的に口を動かしている。心変わりでもしたのだろうか。にしては早すぎる。では要因は?

 

「そう言えば」

「なんだ」

「生徒会に所属してるあの子、名前なんだっけ」

「?」

「この前私にお礼をしに来た子よ。あー完全に名前忘れた」

「二渡鶴か。生徒会の書記係の」

「それそれ。その子から今日あんたに用があるっていう話をされて放課後来るそうよ」

「どこに? まさかここか?」

「そ」


 鶴とは同じクラスのはずなのにどうしてアリナにそれを伝えるんだ。来るなら俺に言ってくれよ。

 こうしちゃいられない。

 俺は至る所に点在する花を回収するために動いた。悪いことが起きそうな気がする。だからせめてこの花だらけの異様な空間をあるべき姿に戻す。

 アリナは立ち上がって怒鳴る。


「ちょっと何してんの。別に片付けなくてもいいじゃない。彼女には私とあんたの関係はこの前説明したでしょう?」

「俺が気にする。もし鶴と一緒に誰か来たらどうすんだ。これ以上奇妙な噂を流されたくない。これはお前の為でもあるんだ」

「すごく悪役っぽい台詞。いつなぎ倒されるのかしら」

「俺は正義(ジャスティス)だ。悪には染まらん」


 アリナは俺の奮闘する姿を見て呆れたようで腰を下ろして足を組んだ。どうにでもなれ、しーらない、と。


 ガラッ。


 俺とアリナは同時にドアに顔を向けた。


「あ、あれ、入っちゃダメだったかな」


 二渡鶴が来た。

 二渡鶴は自然なギャルだ。栗色の髪に少し乱した制服が特徴で、一見脳味噌の足りていない馬鹿に見えるが彼女は学年で最も学力において成績が良い人物である。アリナを余裕で凌駕しているのだ。

 鶴とは以前アリナがらみで知り合った。同じクラスだというのに今までずっと話す機会はなかったので『知り合った』が適当だ。

 鶴はアリナに恩を感じている。

 どうやら一人だけで来たようだ。


「問題ないわ。でしょ?」


 俺に話を振るな! お前の花を両手に抱えるこの状況をどう説明すればいいんだ!

 俺は肩を落として、


「はい、もう問題ないことでいいです。どうぞどうぞ鶴さん。お入りください」

「あ、ご丁寧にどうも。ではではお邪魔します」


 鶴のために俺はパイプ椅子を取り出して座らせた。で、俺も座る。両手の花はとりあえず床に置いた。


「それで、俺に用があって来たんだよな?」

「そうそう。噂によるとね――」

「ちょっと待ったァ!」


 アリナと鶴はビクついた。


「その噂は――恋愛がらみか?」

「? 違うと思うけど、なんかマズイ感じ?」

「ならいい。最近、心臓に悪い話ばかりで心が弱ってるんだ。卵の殻みたいにな。デリケートを意識していかないと崩壊してしまう」


 何を思ったかアリナは俺の脇腹を殴った。


「あら、割れないものね」

「卵の殻は比喩だバカ野郎。今ので肋骨5本は折れたぞ」


 脇腹を撫でながら、


「で、噂ってなんだ」

「彗が人の手助けをしてるって聞いたの」

「あぁ〜なるほど。前説明したろ? 俺はアリナのクソ悪い口調を治すためにこうして放課後に集まってるんだ。その一環としてたまに他の部を手伝ったりしてる。あながち間違ってない」

「そういうことだったんだね。てっきりアリナさんにつきっきりで何かしてるのかと思ってた」

「表現としては100%とは言えんがおおよそやってることは手助けに該当する。手助けを必要としている者を見つけることから始まるから少しズレているのかもしれんがな。正確に言うならば『人を必要としている部活動に俺とアリナが手を貸す』だ」

「へえー。結構活動してるの?」

「毎日ってわけじゃないが割と。テニス部、美術部、茶道部、新聞部、等々」

「ボランティアみたいだね」

「まあな」


 鶴は何かを確信したような考え深い顔をする。


「あのね、是非ともその彗とアリナさんの力を借りたいんだけどいいかなぁ」


 上目遣いで俺に言い寄る。そんなサービスしなくても断らないから引っ込め引っ込め! 俺の理性が飛ぶ前に!


「構わんが何を手伝えばいい」

「生徒会」


 ちょっと待てよ、生徒会って部活動だっけ? 違うはずだ。あれは委員会と呼ばれる組織の範疇だ。俺たちは部活動を対象としてきたのだが委員会は新たなパターンだ。できるのだろうか。


「私はいいわよ」


 静かに読書をしていたアリナは本を閉じて同意した。


「私、中学時代は生徒会にも入ってたし。ある程度はわかるわ」


 そうだったのかよ。バスケ部も生徒会も並行してたとはすげーな。


 ん? 日羽アリナが生徒会にいたってそれヤバイだろ。しかもその記憶があるってことは、アリナが中学三年生のときの話ってことか。


 学校崩壊に1万ドル。

 

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