第2話 小学校時代

私は神戸市立本山第一小学校へ進学した。ここは、いわゆる文教地区であり、公立ながら市内でもレベルの高い小学校とされていた。この小学校に子供を入学させるために、わざわざ引っ越しをする人も珍しくなかった。

私の8人の叔父と叔母も、この小学校の卒業である。

大家族なので、近所では少し目立つ家だった。


前に、私は「おとなしい子供」だったと書いたが、決して「従順な子供」ではなかった。奔放だった。強い自信と強い不安の同居。それが私のパーソナリティーである。反抗はしないものの、親の言う事にも従わなかった。あれ、おとなしい子供とは言えないのか?


さて、小学校に入り、教室というところで授業を受けるようになったのだが、これがつまらなかった。新しく学ぶことなど無いのだから授業に興味が持てないし、集中できない。自ずと、授業中にも他の事を考えたり、したりしていた。


小学校1年生の算数では45分の試験が10分で終わってしまい、残りの35分を答案用紙の裏側に自分で難しい問題を作って書き加えた。結果、表は100点だったのに、裏で減点されるという馬鹿げた事件もあった。学校は面白いものではなかった。ただ、この頃の楽しみは友達と自転車に乗ったり、駒回しをしたりという遊びだった。


小学校2年生の授業も面白くなかった。

相変わらず、放課後に友達と自転車で遊ぶことに興じていた。

ある日、友達5人と近所にある保久良山に自転車を持って上がった。ここから小学校まで、だれが一番早く駆け降りるか競争しようというのだ。今思うと、危険なレースである。

私はトップを独走していた。10メートルは差をつけてゴールしたように思う。しかし・・・その時に私は後ろを振り返り、その影響でハンドルがぶれて、道路の側溝に転落した。

そこは丁度、小学校の前だった。結果は左手間接傍の複雑骨折。腕は通常の2倍にはれあがり、1週間の牽引の後に整形外科で手術を受けた。2ケ月ほど、学校を休んだように思う。


学校に戻ってからもギブス(当時は布を巻き石膏で固めたもの)は外れなかった。この硬いギブスは、遊び道具にもなり、落書き場所にもなった。リハビリは1年続いた。


当然、ピアノは弾けなくなった。リハビリが終わっても、左手の指が完全にきれいには動かなくなってしまったからだ。今でも、微妙に動きが不正確である。といって、悔やんだりはしていない。むしろ、あの大怪我で左手がここまで動く手術を成功させた外科医に感謝している。名前は失念したが、神戸中央市民病院の気鋭のドクターだった。


3年生になっても、学校はつまらなかった。

担任は新人女性教師で、線が細かった。

私の成績(当時は通知簿)は平均程度でしかなかった。あまり関心がなかったし、勉強すればいつでも全部100点をとれるのだという思いから、今勉強する必要はない、という勝手な理屈をつけていた。それに成績が良くて何か良いことがあるの?という思いもあった。インセンティブが無かったということだ。


4年生になって、私は変わった。

藤田先生という優れた女性教師が私の才能を発掘してくれた。

国語、算数、理科、社会だけではない。

音楽と、特に美術が注目された。

水彩で描いた「アコーディオンを弾く先生」は傑作だった。

今、手元にないのが残念でならない。


この頃、小学校の少年野球もやった。私は選手ではなく、スコアラーをしていた。毎試合、毎試合、スコアブックを持って試合を記録し、分析した。当時、スコアラーのいた対戦チームは無かった。監督(先生)からは、たいそう可愛がられた。このチームは神戸市大会で優勝した。私はおかしな野球少年でもあった。


5年生の担任は個性の強い人だった。

長尾先生である。

とにかく柄が悪く、厳しかった。

何かあると「目を噛んで、鼻を噛んで、死ね」と生徒に言う。これが口癖だった。

毎週テストがあり、成績順にひとりずつ名前が呼び出され採点された答案が渡される。今では、考えられないのではなかろうか。ただ、学習意欲は高まり、私の成績もそう悪くは無かった。クラスの中には反発や緊張感もあったようだが。


6年生になって初めて男性の担任となった。

原田先生。明るく爽やかで、公平な先生だった。

特に国語(現代文)の授業は高校レベルだったと思う。

ただ、この先生には嫌な思いでがひとつだけある。

それは体育の時間。複数のチームで作戦会議をする時に、私は日陰での会議を提案し、他のチームとは離れてミーティングをしていた。原田先生は怒った。「何で日陰でサボルんや、グラウンド1周」これは未だに納得が行かない。知的かつ合理的な選択だったと思うのだが、当時の学校文化の中では妥当では無かったということだろうか。いやー、納得できない。


版画では兵庫県知事賞を貰った。

将来は推理小説作家になるという設定で、執筆している私を彫った。原稿用紙に文字がきちんと入っている労作。

これも、一時期は学校に飾られていたが、いまでは、どこにあるのか、無いのかすら分らない。


この頃、父はまたドイツに行って長期に渡り不在だった。

そんな時、突然、母に宛てて一通のエアーメイルが届く。

灘中学を受験させるように。手紙にはそう書かれていた。

母は激怒した。今からじゃ手遅れよ・・・という訳だ。

そして、受験勉強も受験もしなかった。

今思えば、手遅れではなかったかもしれないし、受験だけでもする価値があったように思う。同級生の三浦君は見事に灘中学に合格した。彼とは、モノポリ友達だった。


そうだ、奥村君のことも書いておかなければなるまい。

奥村君は小学校2年生での同級生だ。

家族ぐるみの付き合い、というよりも、奥村君の家族と私との付き合いだった。毎日、卓球クラブに奥村君のお母さんと行ったり、家に呼ばれて食事をしたり、和歌山に旅行したり、お父さんと将棋をしたり。彼はスポーツマンで野球部のレギュラーだった。残念なことに、今は音信が無い。

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