私の履歴書

白井京月

第1話 生まれてしまった

1961年某月某日。

私は岡山市内の病院で生まれた。

正確には、それより10ケ月程前に母親の体内で誕生したのだが、それが何月何日なのかは私には分らない。記憶が無いからだ。


普通は生まれた時に「オギャー」と泣くものだが、私は泣かなかったらしい。産婆さんに叩かれて、やっと泣いたのだと聞かされている。


私が生まれた時、父はドイツに留学中だった。現在とは違い海外渡航は、それほど容易なことではなかった。父が私の顔を見たのは、私が1歳を過ぎてからのことだと聞いている。


生後すぐに、母と私は父の実家へと引っ越した。


そこには、祖父と祖母だけでなく、叔父、叔母、會祖母、それに書生さんがいた。祖父(黒崎幸吉)は不思議な人物だった。東京帝国大学を卒業しながら、請われて住友本社に入社した。大学時代から内村鑑三(キリスト教無協会派の創始者)の弟子となり、会社に勤めながらも日曜集会などを主催していたようだ。そして・・・40歳の時に、神様のお告げがあった、とか何とかで会社を辞めて伝導の道に入ったのだ。貧乏になったのは当然である。


私の記憶は3歳くらいからの断片的なものだ。


會祖母と花札をしたり、祖父と白黒テレビで大相撲を見たり。

とにかくおとなしい子供だったと聞いている。


さすがに大家族過ぎるということで、両親と私は、母屋の隣に小さな家を建て引っ越した。


そこでは、部屋中でLEGOをしたり、野球を見たり、花壇でひなたぼっこをしたりした。

毎年、夏休みには山中湖の別荘に行き多くの親戚と遊んだ。

ただ、近所の友達と遊ぶことは少なかったように思う。

美人女子高生二人が時々遊びに連れていってくれたのだが、私としてはかなり苦痛で、最後は某言を吐いて二度と来てくれなくなった。「ブス」と言ったのだ。よっぽど抑圧があったのだろうなあ、と今は思う。


幼稚園では、はじめてのプールに入るのが怖くて、結局一人だけプールに入らなかった。この時の記憶は今でも鮮明に残っている。幼稚園ではやくも登園拒否をした。理由は覚えていない。


ひらがなや、簡単な漢字、算数、アルファベットは幼稚園の時から出来た。国と国旗を覚えたり、百人一首を覚えたり、とにかく記憶力が抜群だった。(注:高校時代以降は、正反対に記憶力が最悪になった)


体は弱かった。喘息を患い、頻繁に発作を起こしては、母に背おられたり、タクシーに乗ったりして病院に行き、ネブライザーという機械を使って吸入治療をする。そんな日が頻繁にあった。


5歳のころから、ヤマハの大里安子先生についてピアノを習い始めた。発表会で演奏もした。もちろん、将来ピアニストになろうなどと思ってのことではない。ただ、家に友達が来た時など、「男がピアノを弾く」という行為がとても軟弱で恥ずかしい事のようにも思っていた。いや、本当に恥ずかしかった。


ピアノは、私が習いたかったのではなく、両親の情操教育に力を入れたいという思いからだった。本当はイヤだったのだろうが、イヤとすら言えないおとなしい子供だったということだ。吉成真由美(利根川進=ノーベル賞、の配偶者にしてMIT卒の脳科学者で元NHKのアナウンサー)によると、おとなしい子供というのは「失敗作」なのだそうである。私が失敗作だということは、今の私が見事に証明している。

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