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 ブルッと身震いがし、パジャマに着替える。


 浴室では微かに隣室から水音がしている。当時の朧気な記憶が生々しく甦り、妙に落ち着かない夜だった。


 ◇


 翌朝、いつもより少し早起きをし、食堂に向かう。


 日向と一緒になることを避けたつもりだった。それなのに食堂には日向の姿があり、食堂に入ることを一瞬躊躇っていると、おばちゃんに声を掛けられた。


「雨宮さんおはよう。どうしたの?そわそわして」


 そわそわなんてしてないし。


「おばちゃんおはよう。和食セット下さい」


「はい」


 おばちゃんは優しい笑みを浮かべ、トレイに味噌汁やご飯を乗せる。今日はシャケの塩焼きと卵焼き、里芋の煮物だ。


 トレイを持ち振り返ると、窓際に座っていた日向と視線が重なった。


 軽く会釈をし、別のテーブルに座ろうとした時、日向に声を掛けられた。


「雨宮さん、おはようございます。ご一緒しませんか?」


 食堂にいた社員の視線が私に向く。ここで断るのも不自然だ。かと言って同席するのも……。


「雨宮さん、どうぞ」


「……おはようございます」


 仕方なくテーブルにトレイを置き、小さな声で話し掛けた。


「日向さん、男性社員と女性社員が相席するのは、この食堂では好ましくないわ」


「どうしてですか?」


「先日も話した通り、変な噂が立つとあなたの出世にも拘わる」


「俺の出世?あはは、それなら心配無用です。俺、そんなにガツガツしてないですから」


 日向は笑いながら、珈琲を口に運んだ。


 あなたじゃなくて、二十七の私がガツガツしてるように見えるんだってば。


 日向は憎らしいほど冷静だな。

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