第26話


 ◇



「どーっしったの♪」

「わっ」


 突然の急襲にあった。ジャスミンだ。

 とっさにジタバタともがき、脱出。


「逃げないでぇー」

「いろいろと無理だ!」


 昔はそれでもよかったのかもしれない。

 けど……今はいろいろとまずい。いろいろと。


「どこにいくの?」

「今日から本格的な戦い方を学べって、番人様に。格上を倒す想定をしろとかなんとか」

「あー……そういや今日からか……」


 考え込むような表情。

 それがなにか気になって、なにかを言おうとした。

 だが先に口を開いたのはジャスミンだった。


「カルマ、昔のこと、どれぐらい覚えてる……?」

「昔のこと?」


 両親のこと。

 番人様に死ぬほど鍛えられたこと。

 ……ずっと孤独だったこと。


 俺の幼少期といえばだいたいこんなことが占める。

 あまりいい時間ではなかった。楽しい時間なんてろくになかったし、ひとりぼっちでいることに気づくと、どうしようもない気持ちになった。


「……ふつう、かな」

「じゃあ、私との思い出はある?」


 困惑する。あるにはあったが、あまり多くはない。

 実際に会ったのは三回とか、それぐらいではないだろうか。

 けれど、ジャスミンは、俺に優しくしてくれた。そのことをいまでも覚えている。それと、そこぬけの明るさに、少し、元気づけられたことも。


「三回ぐらい会ったことがあったっけ?」

「やっぱり、かー」

「……?」

「もっと会った回数は多いよ。最初の頃はお姉ちゃんって呼んでくれてたしね」

「そうだっけ?」


 ジャスミン、だとか、ジャスミンさん、としか呼んだことがない気がする。口調は今とかわらないが、今は立場というものを知っているから、さん、づけで呼ぶようになった。


 でも、子供のころならそんなものも気にしなかっただろう。そのなかでいろいろな呼び方をしていたとしても、自然なことだ。


「大事なこと、忘れてない?」


 真剣な目でそう言う。

 大事な、こと。彼女はいったいなにを言おうとしているのだろう?


「おかしいと思ったんだよ。なにも聞かれないし、ちょっと探ってみてもまともな反応はないし。……バンは知っててほっといたみたいだけど」

「どういうこと?」

「ほんとうに、思い出せないの?」

「……ごめんなさい」


 咎めるような言い方に、少し怯む。

 こんな風にジャスミンに言われたのは、初めてのことだった。


 彼女が怒っているわけではないことは、わかっている。

 どちらかといえば、必死になっているような、感情の漏れ。


「はあ」とジャスミンはため息をつく。


「ごめんね。カルマはなにも悪くないよ。きっと環境のせいだからねー。なにより、頑張ってるでしょ?」

「そう、かな」

「まあたぶん、なるようになると思うし、大丈夫かな」

「う、うん」


 慈しみ深い聖母のように、ジャスミンは微笑む。


「忘れてしまうほど辛かったんだね。でも大丈夫だよ。これからはきっと良くなる。ううん。きっと、もうよくなってきてるはず」

「……うん」


 俺が過去、辛かったこと。

 それは事実だ。

 でもそのことを誰かに泣きつこうとは思わなかったし、許されてもいなかった。


 不思議な気分になる。

 慰めてもらって、大丈夫だよって言われて。


 だが、なぜ、ジャスミンは俺のことをこうも気遣うのだろう?

 しかも、こんなに急に。


 ――「忘れている」とジャスミンは言った。


「あの、ジャスミンさん? 忘れてるって、なんのこと?」

「言ってもいいんだけど、それじゃあ実感がわかないだろうしねー。まあ、実際に思い出す機会が来て、自然に思い出したほうがいいと思う」

「自然に?」

「うん。もうすぐそうなるはずだから」


 そうなのだろうか?

 まあ、ジャスミンがこういうのなら間違いないのかもしれない。彼女は信頼できるから。


「それともうひとつ……」

「うん?」

「……悪気があったとか、そういうのじゃないから、許してあげてね?」

「……? えーと、わかりました」

「よし♪」


 機嫌よさげに、ジャスミンは笑う。


「いってらっしゃい♪」

「行ってきます!」



 ◇



 よく風の通る平原に出た。

 武術を教わるという話だから、正面からの戦いに最適な場所を選んだということだろう。

 いつもは封魔一族として、森で番人様にいろいろ教わることが多い。


 武術、なんて言葉を聞くと連想するのは鋼の名門だ。

 彼らは封魔一族特有の「武器は鎌しか使えない」というルールを無視できる存在だ。その性質は人族に近いといえる。


 武術は人族のものであるから、俺が教わるとしたら鋼の名門からではないだろうか? 

 そんな予想を立ててみる。


 いったいどんな過酷な訓練が待っているんだろう。

 吐くぐらいきついのは嫌だなあ、と思う。


 でも番人様はずいぶんとこの修行を重要視していたみたいだし、それぐらいは余裕でありそうだ。


 筋肉マッチョな武闘派と地獄の訓練……。

 鞭とかで死ぬほどしごかれそうだ。これは俺の考える鬼教官のイメージなんだけど。


 ……バカなことを考えた。

 こんなことを考えていられるのは余裕があるからだろうか?

 いや、ただの現実逃避だ。


 ――人影が見えた。


 どんな人物なんだろうと、シルエットを覗く。

 それは予想していたような筋肉質な体型をしていなかった。

 むしろ細く、その雰囲気は――。


 女、だった。

 そいつが誰だか、俺は知っている。


 俺を救ってくれた恩人。封神龍樹の下で出会った少女。


 ――秘境のお姫様。


 まっすぐな瞳が、俺を見つめる。


「こんにちは」と彼女は言った。


 どぎまぎしながら、俺は答える。


「よ、よろしくお願いします」

「普通の口調で大丈夫ですよ」

「ええっと」


 それでいいんだろうか、なんて考える暇はなかった。


 綺麗な指先が覗く。

 手をかけるは仮面。

 それがずらされ、その表情が見えるようになっていく――。


 ――綺麗だった。


 透き通った白い肌。

 氷のような冷たい美貌。

 この世のものとは思えない、超俗的な雰囲気。


 流れるような金髪も、魅入られそうになる翡翠の瞳も。

 完璧すぎるぐらいに、整っていた。


「私のこと、覚えていますか」


 そんな人物が、そう言った。


 ――頭が刺激されるように、酷く痛む。


 封神龍樹の下で出会ったことだろうか。

 なんだかそれは、少し違う気がした。


 どこまでも冷静に見える彼女。でも本当は、なにかを期待しているような、そんな表情で。


 ――忘れている、とジャスミンは言った。


 俺は何を忘れているのだろう。

 いや、ほんとうはもう、わかっているはずだ。


 ジャスミンが言った言葉。孤独に過ごした幼少期。

 暖かさを知っていたから、孤独は辛かった。

 ほんとうなら壊れてしまうはずだった。でも、そうはならなかった。


 子供がひとりで泣いている。

 怖い怖いと、どうしようもなくおびえている。


 ――ずっと一緒にいようね。


 そう言ってくれた子がいた。

 最初はむしろ、彼女がひとりぼっちだった。

 俺はそんな彼女の手を引いて、外に連れ出して。


 子供のころの拙い感情。

 でもたしかに、それは大切なものだった。


 そうだ。俺にとって誰よりも大切なひとで、いつの間にか消えてしまった存在。


 最初はなんでもない存在だった。

 次は俺が狂うのを防いでくれたような大切な存在だった。

 そして俺の目の前から去り、過酷な現実のみが残って――。


「なあ」と俺は言う。


 彼女は小首をかしげた。

 記憶の影が、なにかと重なる。

 それだけで、俺はなにも言えなくなって、振り払うように首を振った。


 そういえば、と思う。

 ほかにもずっと一緒にいた存在があった。

 そいつは俺の作った妄想人格で、『空がそこにあるように、ずっと一緒にいられる存在』として名前を付けた。

 ソラちゃん。そう、ソラちゃんという名前だ。

 だがこれはおかしいのだ。なにかが、決定的におかしい。なぜ、こんな名前なのだ? ほかのものでもよかったはずだ。

 しかし、あえでこんな名前になっているのは『都合がよすぎる』気がした。


 ――ずっと一緒にいようね。


 そんな言葉が脳内で繰り返され、それで。

 ……ようやく、納得がいった。

 ソラちゃんとは、単なる代替品だったのかもしれない。

 忘れてしまったけど忘れないように、そのために存在した、思い出の保管場所。

 ずっとおかしいと思っていた。妄想友人なんて、不自然な存在だって、でも、それがないと、辛くてたまらなかった。


 目の前の現実を理解する。

 翡翠色の瞳を持つ彼女。

 幼いころに「ずっと一緒にいようね」と約束をしてくれた女の子。

 その子には、名前がある。


 俺はそれを告げられた時、「いい名前だ」と言った。


 ――その子は空が好きだった。


「……ソラファ?」と消え入りそうな声で言う。


 ずっと一緒にいられるための妄想人格。

 ずっと一緒にいようね、と固く結んだ約束。


 ……思い出したのは、誰よりも大事な子の、名前だった。



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