第6話 切欠
気がついたのはいつの頃だっただろう。
妻とは大恋愛の末に結婚し、結婚後もお互いをお互いが支えて、なくてはならないパートナーだった。
新婚時代に住んだ町には大きな川が流れている。時折、二人で映画のレイトショーをみて、河原をぶらぶら歩きながら帰ってくるというのが、薄給の俺にとってちょっとした贅沢だった。
そんな妻が病に倒れたのは晴天の霹靂だった。慎ましやかな生活でも彼女が側にいてくれれば、俺は満足だったのに。
妻の不調に気がついたのは、いつものように二人で河原を歩いていたときだった。ちょうど満月の夜でてらてらと川面が光って見えて、妻が川の下にも別の世界があってそこにも月があるのかもしれないねと、ご機嫌に笑ったのを覚えている。川面に反射した月が妻の顔にあたり、その一瞬、苦しみに歪む妻の顔が見えた。
診間違いかと思って、もう一度妻の顔をまじまじと見た時には、クスクスと嬉しそうに笑う妻の笑顔しかなかった。映画館で飲んだビールがまさか回ってるんじゃないだろうなとそのときはそれほど気にしなかった。
そのしばらく後、妻が体調を崩し病院へ言ったと思ったら、突然血液の病気だと言われたのだ。
骨髄移植をする話もあがったが、進行がはやく間に合わなかった。
もう少し早く気がついていたら。
骨髄移植をする猶予がもてたんじゃないか。
先日映画に行ったときはどうだったんだ。妻に疲れたような所はなかっただろうか。
そうして、月の反射光に照らされた妻の顔が苦悩に歪むのをみた事を思い出した。それは、病院で苦しそうに喘いだ時の妻の表情と全く同じだったのだ。
あの時、俺は妻の未来を予知していたのだろうか。
そんなことは気のせいだったに違いない。妻の体調不良に気がつけなかったのは己の責任だが、あのときのあれはただの思い過ごしだと思うことにした。
しかし。
一人になってしばらくは妻を思い出すものを見るのが辛かった。仕事もやめて町から出た。引っ越して、環境を一新する。それでもなかなか気持ちは切り替わらなかった。
ある日、新しく転職した会社で飲み会があった。
飲み終わったあと、二件目へとはしごする時、ちょうど町の中心部を通る小さな水路にかかる橋を渡った。誰かがふざけて欄干から身を乗り出す。
その夜も満月で、あの日のように、ゆらゆらと月が水面に映っていた。
そうして、その反射光が同僚の顔に当たる。
同僚の顔が深く深く苦しんでいた。
それは一瞬のイメージだったが、俺にははっきりと見て取れた。
妻のときと同じ。
ほろ酔いのいい気分など、すぐさま消し飛び、俺は気分が悪くなったからと二次会には行かなかった。動転する気持ちを必死になって押さえて橋を彼らとは逆に進んだ。
信じられなくて、一度橋の向こうにわたっていく彼らを振り返った。
月に照らされてあしあとが見える。
そのあしあとは、さっき反射光に照らされた同僚の足下へとつながっていた。
そして、その瞬間、誰に聞いてわけでもないはずなのに、彼が彼の奥さんと上手く行かず、奥さんが他所にお男を作っているのではないかという考えが頭に浮かんだ。
なんだそれ。
頭を振ってもう一度振り返る。足跡もなにもなかった。遠くに飲み会にいく同僚たちが消えていく。
それから1ヶ月して、同僚は離婚した。なんでも奥さんの不貞が原因だったらしい。
もう、誤摩化しようがなかった。なぜか満月の夜、俺には月に照らされた人の不幸がわかる。そして、その人がこれまでどうしてきたのか、どうしてそのような不幸に向かったのか、それがわかってしまう。
自覚してからはひどかった。月夜の夜は歩かないようにした。それでもわかってしまうときがある。
わかってしまえばとてもじゃないが見過ごせなかった。
あの時見過ごしたから、妻は死んだのだ。
だが、不幸を予測する人間なんて誰が側に置きたいのか。
不思議な体験を語ることもできず、必死になって相手に伝えようとする俺はそのうち周囲から浮いていき、やがて、誰とも関わりたくないとそう俺は思うようになった。
家族はいない。妻は死んだ。
でも俺には妻だけだ。
俺は妻とよく歩いた川辺に戻り、ずっと一人で月を眺めて暮らすようになった。
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