メイドカフェ 三

 土曜日曜と、西野の週末はバイト先での皿洗いばかりで過ぎていった。


 気づけば休みは終わっており、あっという間に迎えた週始めの月曜日。本来なら碌に身体が休まることもなかった休日に辟易としそうなものである。それでも本日、学校に向かう彼の足取りは軽やかなものであった。


 表情も心なしか機嫌が良さそうだ。


 理由は偏に自称サバサバ系と交換した連絡先。


 おかげで朝の挨拶運動もこれを反映したものとなった。


「今日は通学路に枇杷の花が咲いているのを見つけた。あの葉に対して小さく見つけにくい花は、近づいてみると甘く優しい香りをしている。世の中には一歩を踏み出さねば気づくことができない、そんな儚い気づきが沢山あるのだろうな」


 おかげでクラスメイト一同はイラっとした。


 具体的な背景は定かでない。だがしかし、登校から間もないフツメンに、何かしら良いことがあっただろうことは、なんとなく想像がいった面々である。おかげで居合わせた生徒たちの苛立ちは普段の三割増しだ。


 胸の内に鬱憤を抱えつつ、彼ら彼女らは西野から視線を逸らす。


 未だ挨拶に返事が与えられた試しはない。


 声を上げている本人も、そう容易に声を掛けてもらえるとは考えていないようで、これといって動じた様子もなく軽快な足取りで自席に向かう。机にカバンを下ろすと共に、椅子に腰掛けて、そそくさと荷物を机の中に移し始める。


 すると直後にフツメンのズボンから、ブブブという振動音が聞こえてきた。


 どうやら端末に着信のようだ。


「……誰だ?」


 ボソリと小さく呟いて、これをポケットから取り出す。


 すると画面にはつい先日、アドレス帳に登録したばかりの相手の名前が表示されていた。五十嵐ナツキ、自称サバサバ系である。メッセージアプリのみならず、電話番号まで手に入れていた西野だった。


「…………」


 おかげで彼は驚いた。


 まさか昨日の今日で電話が掛かってくるとは思わなかったようである。画面を確認する目が大きく見開かれた。細い細いと評判の目元が人並みに開かれた様子は、これを眺める生徒にも窺えた。オッドアイ西野が誇る碧眼のお目見えである。


 そうこうしていると、驚く彼の下に声が届けられた。


「何を驚いていルのですか?」


「っ……」


 ガブちゃんである。


 いつの間にやら、西野の背後から近づいていた彼女だ。その視線はフツメンの身体越しに端末の画面を見つめている。自ずと目に入ってきたのは、彼女も覚えのある人物の名前であった。バイト先の同僚である。


「……なんでもない。気にするな」


「その名前には覚えがあリます」


「それはそうだろう。勤め先を共にするバイト仲間だ」


「バイト先の女に手を出したのですか?」


「いいや、連絡先を交換しただけだ」


 未だ着信中を知らせる端末。


 まさか相手を待たせる訳にはいかない。西野は逸る気持ちを抑えつつ、通話を受けんとする。生まれて初めて訪れた、気になる異性からの着信。その規則的な振動音が、女に飢えた童貞の心をこれでもかと掻き立てる。


 一方で居合わせたクラスメイトは驚愕だった。


 あの西野がバイト先の女の子と連絡先を交換。それもメッセージアプリではなく、電話番号まで交換しているという。そんなまさかとは思いつつも、確認したのがガブリエラとあっては疑う余地もない。


 文化祭の時分とは異なり、これを茶化す生徒は一人もいなかった。


「悪いが電話に出させてもらう」


 悠然と呟いて、西野は応答ボタンをスライドさせた。


 どことなく誇らしげな表情が、これまたクラスメイトたちの神経を逆なでる。取り分け異性との接点に乏しい、カースト中位以下の男子生徒をイライラとさせた。上位層であっても鈴木君などは、露骨に憤慨した様子で彼を睨みつけている。


「もしもし、俺だ。どうした?」


 第一声からして、どうしようもない。


 酷い受け答えもあったものだ。


 席の位置の都合から、否応なしに彼とガブリエラのやり取りを耳にしていた委員長は、二の腕に鳥肌が立つのを感じた。ぞわぞわとしたものが背筋を駆け上がり、咄嗟に彼の姿を確認してしまう。


 そこでは椅子に腰を落ち着けて、大仰にも足を組んだフツメンの姿があった。


「っ……」


 志水は視線を手元の教科書へ戻すと共に、耳をイヤホンで塞いだ。


 これ以上は絶対に聞いてやるものか、という強い意志が窺えた。


『ごめん、もしかして取り込み中だった?』


「登校直後だったもので、教室でクラスメイトに絡まれていた」


『あ、それじゃあ掛け直すね』


「大丈夫だ。それよりも用件はなんだ?」


 自称サバサバ系からの問い掛けを受けて、間髪を入れずに陽キャをアピールしてみせる西野。生徒に絡まれていたのは事実だが、相手はガブリエラである。それをさも仲のいい友達とふざけ合っていたが如く語ってみせる。


 是が非でも五十嵐に格好いいところをアピールしたいフツメンだった。


 一方で彼が大手アウトロー団体の若旦那だと勘違いしている自称サバサバ系は、これといって気にした様子もなく言葉を交わしてみせる。西野の肩書を求める彼女にとって、人格は大した問題ではなかった。


 おかげで円満に会話が始まった二人。


 フツメンの顔にも笑みが浮かぶ。


 これが気に入らなかったのか、ガブちゃんが動いた。


「ちょっと失礼します」


 端末を手にする西野の腕を自らの手で取った。


 そうかと思えば、画面に表示されていたスピーカーのアイコンが付いたボタンに、軽く指先で触れてみせる。これに応じて通話は外部スピーカーに回された。フツメンのみならず教室に居合わせた皆々の耳にまで、相手の声が届けられた。


『西野君、今日もシフト入ってるってマジ?』


 自称サバサバ系の声が教室に響いた。


 正真正銘、若い女の声である。


 しかも割と可愛らしい。


「マジかよ、本当に女の声じゃん」「え、うそ……」「しかも若くない?」「西野がバイト始めたって本当だったのか」「っていうか、即行で連絡先を交換とかマジかよ?」「いやいやいや、流石に何か理由があるなじゃい?」「どうせバイト先の電話番号を女の名前で登録してるだけでしょ」「幾ら何でもそれは切ないよ」


 途端に教室がざわめき始める。


 当然、その気配は五十嵐にも伝わった。


『え、何? なんか他の音が入ってきてるんだけど』


「あぁ、すまない。クラスメイトが悪戯をしてな」


 西野はガブリエラの手を振り払い、端末を元の設定に戻した。


 無下にされた彼女は不服そうな表情で彼を見つめる。しかし、相手の意識は既に通話回線の向こう側に向かってしまっていた。ぶうたれた表情を晒して見せても、これといって反応が返ってくることはない。


『あ、元に戻った』


「それで用件だが……」


 一連の反応を受けて、自称サバサバ系は西野がおかれた状況を回線越しに想像した。異性との電話を友人に茶化されて、弄られているフツメンの姿をである。しかも続けられたのは、満更でもなさそうな声色での受け答え。


 五十嵐はこれに手応えのようなものを感じて、言葉を続けた。


『君の今日の予定を知りたかったんだよね。他の子からヘルプを頼まれたから、どうしようかなって悩んでたんだ。もしも西野君がシフトに入ってるなら、私も行こうかなって思ったんだけどさ。あ、こんなことで電話しちゃってごめんね?』


「いいや、気にするな。それくらいならいつでも掛けていい」


『本当? 西野君って優しいね。私、惚れちゃうかも』


「っ……」


 西野にとっては、これまた嬉しいご相談である。


 そんなことを言われては、心が沸き立つのを抑えられない童貞だ。


『それで今日はバイトのシフト、入ってるのかな?』


「ああ、入る予定だ」


『それじゃあ私も入っちゃおっと』


 当初の予定に従えば、今週末まで出社の予定はない。


 だが、こうなったら話は別だ。お店の都合など考えるまでもなく、入ってもいないシフトを伝えてみせる。昼休みにでもオーナーに連絡を取って、皿洗いのポジションを予約しようと考えたワンチャン狙いだ。


『忙しいところ電話しちゃってごめんね? またね』


「ああ、またな」


 こうなると悔しいのが、二年A組の童貞一同である。


 もしも西野に彼女ができて、自分にできなかったらどうしよう。そう考えると、居ても立ってもいられない面々だ。今まで見ないようにしていた現実が、フツメンのせいで否応なく面前に晒された。


 そして、これは鈴木君も同様である。


 委員長と付き合う為に元カノと別れて以降、松浦さんの3P騒動に巻き込まれた彼は、顔面偏差値や部活動での成果の割に、うだつの上がらない日常を過ごしていた。未だ志水とも進展がないまま、異性とヤレない日々が続いている。


 そうした経緯も手伝ってのことだろう。


 彼は席を立つと共に、西野の下まで足早で歩み寄った。


「なぁ、西野」


「なんだ? 鈴木君」


 ガブリエラのすぐ隣に並び立ち、椅子に座ったフツメンに語り掛ける。


「今の本当にバイト先のダチなの?」


 おい馬鹿止めておけ、とはその様子を目撃した竹内君の素直な思いである。


 過去に似たようなことをして、現在進行系で大変なことになっているイケメンだ。アウトローに拉致されたり、公衆の面前で女装する羽目になったり、包丁で刺されそうになったりと、ここ数ヶ月は災難続きである。


「いや、友達かどうかは定かでないな」


「っ……」


 即座に飛び出した西野節が鈴木君の精神を逆撫でる。


 おかげで自然と、彼の口からは挑むような言葉が溢れた。


「わざわざ電話でシフトを確認とか、バイト先で避けられてるの?」


 そうして与えられた問い掛けは、先程の電話越しの会話を耳にした皆々にとって、非常に納得のいく話だった。あぁ、たしかにそれはあるかも、とは二人のやり取りに聞き耳を立てていたクラスメイト一同の思いである。


「……そうではないと思いたい」


「ふぅん?」


 それは西野とて例外ではない。たしかにそういった可能性もあるのかも知れないと、脳裏によくない想像が浮かんだ。しかし、そうだとすると前後の会話が噛み合わない。相手が嘘を付いていればその限りではないが、はてさて真実はどうなのか。


 こうなるとフツメンもまた、電話の意図が気になってくる。


「それなら賭けようぜ?」


「賭けとはどういうことだ? 鈴木君」


「今の女と来年まで変わらずに連絡がつくかどうかさ。別にこれといって変な話でもないだろ? 同じクラスの男としては、クラスメイトがバイト先の女の子と上手くいきそうとか、やっぱり気になるじゃん」


「…………」


 おかげで鈴木君からの提案は、西野にとって在る種の試練のように映った。


 異性との交流を長期的なものとして維持する。


 それは過去にもローズから指摘された、女性とお付き合いをする上で避けて通れない技術である。これをなくして彼女作りなど不可能だと、面と向かって言われていた。ならばそのハードルに、今回の機会を利用して挑むことは、彼としても臨むところだった。


 できることなら自称サバサバ系を彼女に、などと考えているフツメンである。


 また同時に、異性との交流を巡ってクラスのイケメンと共通の話題を持つというのは、学内カーストの最下層を漂うフツメンにとって、非常に魅力的なサプライズであった。そうなると鈴木君からの提案を受けないという手はない。


「わかった、その賭けを受けようと思う」


「マジだな? 言ったな?」


「しかし、賭けとは言っても何を賭けるんだ?」


「そうだな……」


 数秒ばかり悩む素振りを見せてから、鈴木君は答えた。


 チラリと視界の隅に意中の相手を映してのことだ。


「もしも俺が勝ったら、二度と委員長に迷惑を掛けるなよな?」


 ついでに志水にもアピールしておこうと考えた鈴木君である。


 ここ最近になって、妙に言葉を交わす機会が増えた志水と西野だ。これをよく思わない彼としては、目の前のお邪魔虫を意中の相手から遠ざける絶好の機会である。これ以上は委員長に関わるなと訴えてみせる。


 彼としては西野を弄くる大義名分も立って一石二鳥だ。


「え、なんで私……」


 予期せず話題に挙がった委員長は困惑である。


 鈴木君の声はイヤホンを突き抜けて、彼女の耳まで届いていた。参考書に向けられていた視線が、二つ隣の席で言い合う男子生徒たちに移る。どうして私を巻き込むのよ、と訴えんばかりの表情だ。


 これに対して、相手の主張を言葉通り捉えたフツメンは問い掛ける。


「それだけでいいのか?」


「他にお前に望むことなんてねぇよ」


「……そうか」


 鈴木君を見つめる西野の眼差しが変化を見せた。


 彼の台詞が心に響いたのだろう。


 今の語りっぷりが格好良く感じられたようである。


 相変わらずクラスメイトに対してはちょろいフツメンだ。


「そういうことであれば、こちらは何を求めることもない」


「っ……」


 鈴木君に感化されたことで、即座にシニカルを気取ってみせるフツメン。椅子に腰掛けた姿勢のまま、わざわざ大仰にも足を組み替えつつの発言である。おかげで訴えられた側は苛立たちも一入だ。


 しかし、ここで拳を振り上げては相手の思う壺だと自らに言い聞かせて、鈴木君はフツメンから踵を返した。西野の姿を視界から外すと共に、深呼吸をして気分を落ち着ける。これでもう大丈夫、俺はイライラしたりしない、云々。


 そして去り際、肩越しに西野を振り返って短く伝える。


「んじゃ、そういうことで」


「ああ、承知した」


 二人のやり取りを眺めて、竹内君は思った。


 これ、鈴木が苦労するやつだ、と。




◇ ◆ ◇




 同日の放課後、西野は意気揚々とバイト先に顔を出した。


 当初は土日に入った後、次のシフトまで猶予を設けようと考えていた彼である。しかし、自称サバサバ系との交流に飢えた童貞は同日の昼休み、オーナーに頼み込んでシフトを入れていた。


 本来であれば、そんな無茶は通らない。そもそもローズやガブリエラを呼び込む為に渋々受け入れられたフツメンである。週に一度でも十分なくらいだ、とは同店のオーナーの素直な思いである。


 しかし、ヤクザの親分との一件を受けて、彼の西野に対する態度は豹変していた。翌日も働きたい旨を伝えると、まるで腫れ物に触るような対応を受けて、望むがままの時間帯でシフト入り。まんまと労働の機会を得た彼であった。


 ちなみにローズとガブリエラも一緒だ。


 昼休み、西野に放課後の予定を確認したことで、二人のシフト入りも決まった。


「…………」


 ただし、彼のバイト先での労働内容は依然として変わらない。


 延々と皿洗いだ。


 何故ならば同店はメイドカフェ。


 男性が活躍する場面は少ない。


 所定の制服に着替えてキッチンに立ったのなら、ただ黙々と食器を洗い続ける。ホールからメイドの手によって運ばれてくるそれらは、閉店まで途切れることがない。かなり根気のいる単純労働である。


 更に作業がフツメン一人で完結している為、これといって他の従業員とコミュニケーションが発生することもない。精々洗い物を運んでくる際に一言二言、事務的に短い言葉を交わす程度である。


 ローズやガブリエラのおかげで、開店当日から繁盛を見せている同店は、ホールで働いているメイドたちも大忙しである。当然、人気者の二人は接客に掛かりきりで、キッチンを訪れる機会も他のメイドより少ない。


 ただ、同日はそうした彼の周囲に、少しだけ変化があった。


 それは自称サバサバ系の存在である。


「西野君、これもお願い」


「ああ、任せろ」


「あ、そうだ。これあげるよ」


 空いた食器を運んできた五十嵐が、西野の顔の前に何やら差し出した。


 それはコインの形をした小奇麗なチョコレートだった。本来であればケーキやら何やらにトッピングしてお客さんに出す為のものである。これを彼女は自らの指先で摘み上げて、フツメンの口元に近づける。


「はい、あーん」


「っ……」


 まさかのアクションを受けて、西野の表情が強張った。


 異性からモノを食べさせてもらった経験など、当然皆無の童貞野郎である。唇まで迫ったチョコレートも然ることながら、これに触れている五十嵐の指先の接近に、ドキドキと胸を高鳴らせ始める。


「いや、自分で食べられる」


「洗い物してるから、両手はびしょびしょでしょ?」


「…………」


「はい、あーん」


 そうだ、両手がびしょびしょなら仕方がない。受け取って食べることができないのであれば、食べさせてもらう他にない。そんな言い訳じみた思いを胸の内に繰り返しつつ、西野は恐る恐るといった様子で口を開いた。


 間髪を容れずにチョコレートが迫ってくる。


 口内に甘いものが入れられる。


 更に彼の唇へ、彼女の指先がプニッと触れた。


「っ……」


「どう? おいしい?」


 触れていたのは一瞬の出来事であった。


 しかし、そうして感じた人肌の感触は、口の中で溶け始めたチョコレートにも増して、西野の意識を奪っていた。いつの間にやら皿を洗う手は止まっており、線のように細い目は人並みに見開かれている。


 フランシスカとキスをしてみせた時とは雲泥の差だ。


「……どうしたの? 西野君」


「いや、なんでもない」


 ただし、それもほんの数瞬の出来事だ。彼は大慌てで自らを取り繕うと共に、チョコレートを噛み砕いた。ねっとりとした甘みが口いっぱいに広がって、立ち仕事によって疲弊した心身を癒やしていく。


 手元では再び腕が動き、皿を洗い始める。


 そうした彼の青々しい反応を確認して、自称サバサバ系は内心ほくそ笑む。


 この様子なら簡単にモノにできるだろうと。


 今週末にでもデートに誘い、そこで一発ヤレば容易に落とせるわね、と彼女は脳内でそろばんを弾く。ローズやガブリエラの存在を考慮しても、彼女は手応えのようなものを感じていた。西野の隣に落ち着くことは容易だと判断した。


 末永く便利に使えそうだとは、フツメンの初々しい反応から浮かんだ寸巻である。この調子であれば、バイト現場での融通のみならず、自身が消費者金融にこさえた借金も帳消しにできるのではなかろうか。そんな皮算用が彼女の脳裏では着々と進んでいく。


「それじゃあ、私はホールに戻るね」


「あ、ああ、頑張るといい」


 まさか自身が貢ぐ君として捉えられているとは思わない。


 去っていく五十嵐を眺めて、西野は口元を小さく綻ばせていた。




◇ ◆ ◇




 騒動が起こったのは、西野たちがバイト上がりとなる時間帯のこと。


 シフトを終えて更衣室に戻ったガブリエラが、同じく更衣室で着替えていたローズを殴りつけた。帰路を西野において行かれてはなるまいと、大慌てでメイド服を脱ぎ始めた金髪ロリータ。その腹部に銀髪ロリータが渾身の腹パンをお見舞いだった。


 吹き飛んだローズの身体は、ロッカーに当たって大きな音を立てた。


 口から漏れた血液がピシャリと赤く床を染める。


 かなり気合の入った一発であったようで、腹部は瞬く間にどす黒く変色し始めた。どうやら内蔵がダメージを受けたようである。肋骨の形も怪しい。常人であれば死んでいてもおかしくないほどの一撃であった。


 背後では彼女が衝突したロッカーが拉げて、口を半開きにしている。


「……どうして私が、殴られなければならないのかしら?」


「こレはどういうことですか?」


 半脱ぎのメイド服をそのままに、死に体で尋ねるローズ。その表情は相手をギロリと力強く睨みつけている。自らの足で起き上がることも儘ならない状況ながら、それでも噛みつかんとする気迫が感じられた。


 他方、これに答えるガブちゃんは未だメイド服のままだ。拳も凹んだ様子は見られない。不思議パワーに補っての一撃だったのだろう。そうかと思えば彼女は、自身のロッカーから制服を取り出して、綺麗に畳まれたそれをローズに見せつけた。


 そこにはマヨネーズと思しき液体がたっぷりと掛けられていた。


「貴方、とんだ悪食ね」


「お姉様の悪戯ではあリませんか?」


「違うわよ」


「だったらどうして、ブロンドが混じっているのですか?」


 ガブリエラの指摘どおり、マヨネーズの上にはブロンドが乗っていた。ほんの一本ではあるが、それなりに長さがある為、ひと目見て判断できる。艷やかな色合いは、ローズの頭髪と瓜二つであった。


「そんなこと言われても、私は知らないわ」


「…………」


 言い合っているのがガブリエラでなければ、まず間違いなく殴り返していただろうローズである。半殺しの憂き目にあっても、彼女の瞳には闘争心が窺えた。好きあらば噛みつかんとする意志が感じられる。


 そして、ガブリエラもまた相手が彼女だからこそ、遠慮なく力を使い殴りつけていた。ちょっとやそっとでは凹まない金髪ロリータだ。恐るべきは自然治癒も然ることながら、心の内に秘めた強靭なメンタルである。


「……まあ、いいです」


「一方的に人を殴りつけておいて、その物言いはどうなのかしら?」


「嫌疑を仕向けラレルような立場にあルお姉様の失態です」


「他者から嫉妬を受ける立場にある貴方の過失ではないかしら?」


 お互いに見つめ合うロリータ二名。


 住まいを共にするようになってから、割と頻繁に見られるようになった二人の喧嘩風景だった。今回はその発端こそ第三者から影響を受けているものの、同じような言い合いは日常的に起こっている。


「……まあいいです」


「自らの過ちに対して謝罪の一言もないのね?」


「お姉様はマゾの気質があルのですか?」


「…………」


 ガブリエラも犯人がローズではないと考えるに至ったようだ。


 彼女の服がマヨネーズにまみれたところで、これといって目の前の相手に得はない。しかも現場に自らの体毛を残すようなミスを、その道のプロであるお姉様が犯すことはあり得ないと考えたようである。


 ちょっとだけ先走ってしまったガブちゃんだ。


 そうこうしていると、騒音を受けて部屋の外には人が集まってきた。


 店のオーナーを筆頭として、西野、自称サバサバ系の三名である。他の面々は未だ営業中となる店内で、忙しそうにしている。騒音こそ耳に入っても、そこに足を運ばせている余裕はなさそうだった。


「更衣室から大きな音が聞こえてきたけど、どうなってるんだ?」


 オーナーが問い掛ける。


 すると更衣室のドアは早々に開かれた。


 姿を現したのはメイド姿のガブちゃんだ。その背後では、どうにか自らの足で起き上がり、半脱ぎであったメイド服を整えるローズの姿がある。スカートのチャックを上げて、シャツのボタンを留めれば、最低限見られる姿になった。


 ただし、足元には彼女が吐き出した血液が残り、未だにべチャリと床を汚している。飛び散った飛沫は口元やメイド服にも窺えた。その光景を目の当たりにして、オーナーからは自ずと悲鳴じみた声があがる。


「ちょっ、ちょっとちょっと二人とも、これはどういうこと!?」


 警察を呼んでもおかしくない状況だ。勤めているのが年若い学生ともあれば尚のこと。大きくひしゃげたロッカーの存在が、ただの吐血ではないことを見る者に訴える。何かしら暴力的な行為があったのは間違いないだろうと。


 しかし、答えるガブちゃんは淡々としたものである。


「気にしないでください。そう大したことではあリません」


「いやいやいや、ロッカーが凄いことになってるんだけど。それにこれって、も、もしかして血じゃないの? っていうか、ローズちゃん? なんだか顔色が悪いように見えるんだけれど、身体の調子とか大丈夫?」


「細かいことにこだわル人ですね……」


 慌てるオーナーの姿を眺めて、ガブリエラに動きがあった。


 更衣室を歩んで、自身が利用するロッカーの下まで移動する。そこには丁寧に折り畳まれた、マヨネーズまみれの制服が収められている。その内ポケットから紙の束を取り出して、サラサラとペンを走らせた。


 何事かと見守る面々。


 彼女はペンを入れた一枚をペラリと千切って、オーナーに差し出した。


「こレで弁償します。新しいロッカーを用意して下さい」


「え……」


 それは小切手だった。


 中央には七桁の数字が記載されている。


「そレと、その女はただの腹痛です。気を使う必要はあリません」


「いや、あの、ガ、ガブリエラちゃん……」


「疑っていルのですか? ちゃんと本物です」


「…………」


 有無を言わさぬ彼女の言動を受けて、オーナーは言葉を失った。


 大きく拉げたロッカーや、部屋を汚す血液が妙な説得力となり、彼は疑問の声を上げることを控えた。昨日、西野がヤクザの親分と親しげに話していた点も、彼女の言動と小切手に信憑性を与える。


 ガブリエラやローズが西野と出退勤を共にしていることは、オーナーも把握していた。そもそも二人の採用からして、フツメンの存在なくしては確保が難しかったという経緯がある。自ずと三人の関係にも考えが及んでいた。


「さっさと受け取って下さい。そレともいラないのですか?」


「あ、あぁ……ありがとう、ガブリエラさん」


 オーナーは考えることを止めて、素直に小切手を受け取った。


 とんでもない子たちを採用してしまったと、彼は過去の採用活動を後悔した。

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