職業体験 三

 土日は足早に過ぎて、翌週も平日が訪れた。


 そうして迎えた月曜日、西野は本来であれば学校へ登校すべき時間に、都内某所に所在する総合病院を訪れていた。これからの三日間、職業体験と称してお世話になる病院施設である。


 同所には彼以外にもローズやガブリエラ、委員長、竹内君、リサちゃん、剽軽者の姿が見受けられる。また彼らの他にも幾名か、津沼高校の制服を着用した生徒が窺えた。こちらは正規の手順で職業体験に臨んだ者たちだ。ただし、西野は面識がなかった。


 院内の会議室に集められた彼らは、そこでオリエンテーションを受けていた。職業体験を通じて、どのような作業や実習を行うのか、同院の理事の一人である竹内君のパパから直々に、学習の流れと施設内におけるお約束の確認が行われていた。


 息子である竹内君がそうであるように、パパもかなりのイケメンである。


 年齢は四十前半ほど。穏やかさと貫禄を併せ持つ、渋みの利いたナイスミドル。ビシッとしたスーツを着用の上、白衣を羽織って登壇する様子は、これを眺める生徒たちに、医者としての威厳をありありと感じさせた。


 それから半日は病院内の見学と各部署の紹介である。


 幾つかのグループに分かれて、それぞれで院内を見て回る。


 そして、西野たちは二年A組の面々で一括りと相成った。


 ナースや医師の引率を受けて、外来や検査室など病院内の施設を歩いていく。剽軽者を筆頭として、委員長やリサちゃんなどは物珍しさも手伝い、行く先々で感心した様子を見せる。


 対して西野やローズは、これといって反応を示すこともなく付いてゆく。過去に幾度となく、その手の施設でお世話になったり、或いは侵入したりと経験がある為だ。取り分け前者は年齢の割に、やたらと社会経験が豊富である。


「なにあの大きな機械……」


 臨床検査室を訪れて説明を受けている最中、リサちゃんが呟いた。


 彼女の見つめる先には、キッチンカウンターに食器洗い機とパソコンのディスプレイがくっついたような、近未来的なフォルムの機器がおいてあった。近藤クリニックの一人娘として、医療機器にはそれなりに関心があるようだ。


「あれは血液検査などで利用される自動分析装置だろう。感染症や腫瘍マーカーなどの検査で利用される。先程見学したMRIなどの機器と比べれば安いが、あの規模だと高級外車の二、三台は買えるだろう」


「へぇ、血液検査ってこういう機械を使うんだ……」


「小さな診療所にはない設備だから珍しいかも知れない。個人でやっているような病院は、こういった設備のある病院や検査施設に検体を送ることで、血液検査を筆頭とした臨床サービスを患者に提供している」


「ふぅん?」


「救急車を呼ぶほどではないが、普段は見られないような容態が続いた場合には、こういった検査設備のある大きな病院に向かうといい。小さな診療所では日を跨がなければ受け取れない検査結果を、その日の内に確認することができる」


「っていうか、西野君は何でそんなこと知ってるの?」


「……テレビで見た」


 何気ないリサちゃんの呟きに、自然と口が動いてしまったフツメンだ。ここ数日で急に距離感の縮まった異性、ということも手伝ってのアクションである。その意識が自身に向くことはないと理解して尚も、童貞は本能に抗うことができなかった。


 するとそんな彼に対して、他から声が掛かった。


「君、よく勉強しているね。将来は医療の仕事に就きたいのかい?」


 彼ら彼女らを引率していた医師の先生である。


 メガネを掛けた中肉中背のアラサーの男性だ。ニコニコと浮かべられた柔和な笑みが印象的な、穏やかな印象を受けるイケメンだった。落ち着いた物腰の白衣姿と相まって、とても知的な雰囲気を醸して思われる。


「いや、そこまで具体的には考えていないが……」


「あれは去年導入したばかりの比較的新しい機械なんだけど、院長が奮発してくれたおかげで、患者さんの待ち時間を随分と減らすことができたんだ。おかげでロビーの混雑も、多少なりとも解消されたんじゃないかな」


「なるほど」


 引率の意志が声を掛けたことで、皆々の視線が西野に集まる。


 なかなか悪くない気分のフツメンだった。


「さて、それじゃあ次はナースステーションに向かうよ。そこで看護師の仕事について簡単に学んでもらって、病院の看護師食堂でお昼休憩。そして、午後からは実際に看護師の服を着てもらって、現場で仕事を体験してもらうよ」


 引率のメガネを掛けたイケメン医師が皆々に言う。


 これにリサちゃんが反応を見せた。


「え、それってもしかして、ナース服ってことですか?」


「女の子の場合はそうなるね」


「っ……」


 彼女の脳裏に浮かんだのは、ミニスカートのナース服身を包んだ委員長の姿である。少し小さめのサイズを着用して、はちきれんばかりの胸元や太ももをこれでもかと披露する志水の姿を想像、否応なく意識を高ぶらせるリサちゃんだった。


「もしも嫌だったら、決して強制はしないけれど……」


 メガネのイケメン医師は気遣いの言葉を掛ける。


 まさか眼の前の少女が、友人のナース姿を妄想して興奮しているとは思わない。


 これにリサちゃんは、滅相もないと言わんばかりに答えてみせた。


「い、嫌じゃないです! 以前から興味があったのでっ」


「そうかい? それならよかった」


 その顔には満面の笑みが浮かんでいた。




◇ ◆ ◇




 午後、昼食を終えた面々は看護師の装いで病棟に集合していた。


「これからは実際に患者様のお手伝いをする実習に入ります」


 引率役を務めるメガネ医師の下、皆々は看護師姿に装いを変えて、廊下を歩いている。これといって拒否の声が挙がることもなく、誰一人例外なく白衣を着用して、午後の実習に臨んでいる。


 そうしたなかでリサちゃんから西野に声が掛かった。


「ねぇ、西野」


「なんだ?」


「ナース服ってズボンなんだね……」


 廊下を歩む彼女の視線は、少し離れて前を歩く委員長に向かっていた。より具体的には、真っ白なズボンを着用した委員長の股ぐらを、悲しそうな表情で見つめている。どう足掻いても生足を拝むことはできそうにない。


 歯科や美容外科など一部の小規模なクリニックを除いて、昨今の病院施設では大半の看護婦がパンツを着用している。白衣の天使がスカート姿で仕事に従事していたのは、既に過去の出来事だ。


 おかげで打って変わってテンションを下げたリサちゃんだった。


「それがどうした?」


「うちのクリニックだと、歯科衛生士の人たちはみんなスカートなんだよね。だから、ナース服っていうとスカートのイメージがあったんだけど、こんなにズボンばっかりだとは思わなかった」


「一部では未だスカートのところもあるらしいが、最近は見なくなったな」


「……そうだったんだね」


 廊下を歩く一団の最後尾で二人はコソコソと言葉を交わす。


 これまで碌に接点のなかった彼と彼女だから、その様子は学友の目を引いた。そのなかでも特に気にしているのが委員長だ。また何か変なことを考えているのではないかと、疑念の眼差しを向けている。


 ただ、そうして歩いていたのも束の間のこと。


「皆さんにはこちらの病室で、患者さんの足湯をお世話して頂きます」


 先頭をゆくメガネ医師が立ち止まった。


 その先では出入り口の開かれた病室が皆々を迎えた。比較的軽症の患者が入院する大部屋である。室内には合計で六台のベッドが設けられている。シーツの上には一台の余りもなく患者が横たわっていた。


 上は還暦を思わせる老体から、下は十代の学生まで様々な顔ぶれだ。どうやら患者には事前に話が通っているようで、学生の一団が部屋の出入り口付近に姿を見せても、これと言って慌てた様子はみられない。


 ただし、ローズやガブリエラに対しては、好奇の視線がチラチラと向けられていた。ナースキャップも廃止されつつある昨今、アジア人にはあり得ない綺羅びやかな髪色が、否応なく入院患者たちの注目を集めていた。


「それじゃあ午前中の研修どおり、皆さんで進めていきましょう」


 メガネ医師の指示に従い、西野たちはそれぞれのベッドに向かう。


 生徒たちは事前にグループ分けが行われており、一人の患者に対して、二名から三名のチームで作業に当たる運びとなっていた。ちなみにフツメンはローズとガブリエラ、二人と同じグループである。お誘いは当然女子二名からだ。


「それでは失礼する」


 ローズとガブリエラに対して、物欲しそうな表情を見せる患者。


 還暦を過ぎて思われる老齢の男性だ。


 その足元にしゃがみ込んで、フツメンはせっせと足を洗う。


 ベッドの縁に座った患者の足元には、大きめのタライが容易されている。そこに突っ込まれた足を手ぬぐいで優しくこするのだ。手にはビニール手袋を装着している。パシャパシャという音が部屋の随所から響き始める。


「痛みなどはないか?」


 西野から患者の男性に気遣いの声が向けられる。


「あ、あぁ、ちょうどいい具合だよ」


「それはよかった」


 受け答えする患者の声色は、心なしか残念そうだった。


 可愛い女の子に足を洗って欲しそうだった。


 しかし周囲の目もあるので、お爺ちゃんは黙っておくことにした。口が裂けても、そっちの娘さんにも洗って欲しいのぅ、などとは言えない。今後の入院生活が、取り分けナースたちからの扱いが、厳しくなるのは目に見えている。


 そうした様子を確認して、メガネ医師は人知れず小さく頷く。


 患者から学生に対して妙な注文が飛ばないように、気の弱い患者が集まっている部屋を選んだのは彼の判断だった。


「いたっ……」


 そうこうしていると、西野たちが担当する患者の一つ隣ベッドで、小さな声が上がった。竹内君が担当している患者である。湯に浸かった足を庇うよう背中が丸まり、その手が足元に伸びた。


「だ、大丈夫ですか?」


「……ええ、大丈夫よ? ちょっとピリッとしただけだから」


 そこではフツメンと同様、作業に当たる竹内君の姿があった。


 彼は担当する患者の声に驚いた様子で、その顔を見上げていた。


「静電気かしらねぇ? なんだか肌が攣るような感じがしてね」


 イケメンが担当している人物は、七十代から八十代ほどと思しき女性である。タライに突っ込まれた足のくるぶし辺りを自らの手で摩りながら、申し訳ないねぇ、と穏やかに笑みを浮かべていた。


「…………」


「お兄さんのせいじゃないから、気にしないでちょうだいな。私みたいに歳を取ると、何もしていないのに身体のあちこちが急に痛んだりするもんなんだよ。お兄さんみたいな男前に洗ってもらっているのに、声なんて上げちゃって申し訳ないねぇ」


 彼とグループを共にしているのは、委員長とリサちゃんである。本人はローズやガブリエラと共に作業に当たりたかったようだが、意中の相手は彼が意識を向けたとき、既にフツメンとグループを組んでいた。


 彼女たちは一様に気遣うような眼差しで、お婆ちゃんに声を掛ける。


「あの、それでもお医者さんに見てもらったほうが……」


「そ、そうですよ!」


「いやいや、大丈夫だよ。別に足はこれといって悪くないからねぇ」


 部屋に響いた悲鳴は小さなものだった。そして、居合わせた医師やナースが声を掛けるも、お婆ちゃんはそれ以上、苦痛を訴えることはなかった。その朗らかな姿を確認して、同所での話はそれっきりとなった。


 唯一竹内君だけが、深刻そうな表情をしていた。


 しかしながら、彼の変化に気づいた者は誰もいなかった。


 そして以降は、これといって問題が起こることもなく、淡々と行程は過ぎていった。洗い終えた足をタオルで拭い、人によっては靴下を履かせて終了だ。面々が病室を訪れてから、おおよそ三十分ほどの実習となる。


 そうして最後に、片付けに入ろうかという頃合いの出来事である。


「なんだよおい、ジジババ共が楽しそうなことやってるじゃねぇか」


 病室に大きな声が響いた。


 居合わせた皆々の意識が、声の聞こえてきた方に向かう。するとそこには、二十代も中頃と思しき男性の姿があった。上下共にだぼついたスウェット姿で、右手を首から下げた三角巾で吊っている。


 背丈はそれなりに高くて百八十前後、竹内君と同じくらいだ。とても厳しい顔立ちの人物であって、丸刈りの上、色付きのメガネを着用している。首筋には服の襟に隠れて入れ墨が垣間見える。まさか真っ当な社会人とは思えない。


「これってどういうこと? 俺の足もブサイクなババァじゃなくて、そっちの若くて可愛い子に洗って欲しいんだけど。っていうか、足だけじゃなくて、他の部分も色々と汚れてるから綺麗にしてもらえない?」


 男はズカズカと病室に入り込み、ローズやガブリエラ、委員長やリサちゃんといった、体験学習に参加しているなかでも可愛いどころを眺めて言った。その視線は彼女たちの胸元や股ぐらに向かって止まない。


「すみませんが、ご自身のベッドに戻って下さい」


「あぁ? そう硬いこと言うなよ? 少しくらいいいじゃねぇか」


 男の物言いは堂々としたものだった。


 対応するメガネ医師にも声高らかに主張してみせる。


 その姿を眺めて、西野に足を洗われていたお爺ちゃんは思った。


 少しだけ羨ましいな、と。


「それはできません」


「こっちは腕が上手く使えなくて、色々と溜まってるんだよ。アンタも男だったら、それくらい分かるだろう? なぁ? メガネの先生よぉ。別にヤラせろって言ってる訳じゃねぇんだから」


 男は声も大きく管を巻いてみせる。


 これを受けて、病室に居合わせた数名の看護師たちの間では、ボソボソと言葉が交わされ始めた。誰もは引率であるメガネ医師に付き合い、西野たち体験学習の生徒の面倒を見ている者たちだ。


「つい先日入ってきた患者さんなんだけれど、ナースにちょっかいを出したりして、本当にどうしようもないのよねぇ」「でもまあ、この規模の病院だと年に何度かは、こういう人が出てくるんだよね」「いちいち気にしていたら看護師は務まらないわよ?」「そうは言うけど、学生さんに見せるようなものじゃないのよねぇ」


 そうこうしていると、男の足が動いた。


 彼が向かったのは、入り口にほど近い場所に立った委員長の下である。その視線はおっぱいに釘付けだ。同世代と比較しても大きめに映る立派な双丘は、ツーピースタイプのナース服であっても、その存在を強調して止まない。


 そこに男の腕がスッと伸びた。


 なんら躊躇なく、その片割れを五本の指がギュッと掴んだ。


「お、でけぇ」


「っ……」


 揉まれた側は堪ったものではない。


 周囲には人目も多い。


 更にすぐ近くには竹内君の姿もある。


「ちょっ、な、何するのよっ!?」


 そして、委員長は口より先に手が動くタイプの女の子だった。まさか出会い頭に胸を揉まれるとは思わない。一瞬にして頭に血が登った彼女は、気づけばその拳を固く握り、男の頬を力いっぱい殴りつけていた。


 それはもう腰の入った、力強い一撃であった。


「あがっ!?」


 男の口から悲鳴が上がる。


 だが、相手もそれなりに体重のある男だ。それに喧嘩慣れしているのだろう。どこぞのもやし野郎のように、そう簡単に床へ転がったりはしなかった。半歩ばかりたたらを踏むも、その場に踏み止まった。


 その様子を眺めて、西野に足を洗われていたお爺ちゃんは思った。


 変なことを言わなくて良かった、と。


「て、てめぇっ! ふざけんじゃねぇっ」


「っ……」


 間髪を容れず、スウェットの男が腕を振り上げる。


 その表情を目の当たりにして、委員長は怯えた。


 いつぞや廃ビルでの一件とは異なり、ローズに対する怒りのゲージがそこまで貯まっていない彼女は、いきなり胸を触られた苛立ちよりも、目前に迫った驚異に対する恐怖のほうが勝っていた。今回ばかりは彼女のミラクルも見込めない。


 しかし、男の拳が彼女の顔を捉えることはなかった。


「死ねこの野郎っ!」


 時を同じくして、リサちゃんの声が病室に響いた。


 いつの間に移動したのか、彼女の姿は男の傍らにあった。そして、今まさに委員長を殴りつけんとした彼の脇腹を、手にした丸椅子で殴りつけた。大きく振りかぶって、豪快なスイングであった。


 ゴキッという音と共に、男の口から悲鳴が上がる。


「ふぎっ……」


 肋を金属製のフレームに殴打されて、男はその場に崩れ落ちた。


 患部を両手で抱くようにして、背中を丸める。


 一方でリサちゃんは、大慌てで委員長の下に駆け寄った。


 放り出した丸椅子が、その延長線上にあった男の側頭部を強打する。


「委員長、大丈夫っ!?」


「う、うん……」


 志水の視線は床に蹲った男とリサちゃんの間で行ったり来たり。


 返事を返す声色も、どことなく強張って思える。


「いきなり女の子の胸を揉むなんて、マジ最低だよね? 女の子の胸を揉んでいいのは同じ女の子だけなのに、そんな簡単なことも分からないなんて、もう、本当に救いようがないって感じ?」


「っ……」


 次の瞬間、リサちゃんの手が委員長の胸に触れる。


 委員長は全身に鳥肌が立つのを感じた。


「ちょ、ちょっとリサっ……」


「あははは、ごめんね? ついつい調子に乗っちゃって」


「…………」


 周囲からは仲のいい学生同士の馴れ合いに見えるだろう風景。


 しかし、委員長は気付いていた。目の前の相手の眼差しが、今し方に自らの胸を揉んで見せた男と、全く同じ色を湛えていることに。爛々と輝く瞳の奥に確たる情欲を見つけて、彼女は背筋に寒いものを感じていた。


「ど、どなたか男性の看護師を呼んできて下さいっ!」


 直後、メガネ医師から声が上がったことで、同所での実習は終了と相成った。


 一連の様子を目の当たりにして、西野に足を洗われていたお爺ちゃんは思った。


 残り少ない人生、今後とも静かに生きていこう、と。




◇ ◆ ◇




 すったもんだの末、体験学習の一日目は終えられた。


 催しに参加していた生徒たちは、明日も病院に直接集まるようにとの指示を受けて、現地で解散。西野も例外にもれず、ローズやガブリエラと共にシェアハウスに帰宅した。リサちゃんは委員長を放課後デートに誘っていたが、こちらも各々で帰路についた。


 一方でクラスメイトを見送った竹内君は、病院で両親のお手伝い。


 勝手知ったる院内を忙しく動き回っていた。


 そうして迎えた夜の時間。


 彼は理事室の前の廊下で、その声を耳にしてしまった。


「……医療ミスだと?」


 声の主は彼の父親である。


 僅かばかり開いたドアの向こう側から、物騒な単語は聞こえてきた。照明の落とされた廊下に、室内の明かりが薄っすらと漏れている。既に医師や看護師、従業員も帰宅して久しい時間帯、界隈で活動しているのは限られた者だけだ。


「容態は? ……分からない?」


 ドアノブに手が伸びかけたところで、竹内君はこれを留まる。


 医療ミスなる刺激的なフレーズが、その意識を奪っていた。


 彼は腕を下ろすと共に、聞き耳を立てて室内の様子を窺い始める。


「患者の名前は……」


 どうやら彼の父親は、電話をしているようだった。


 デスクに設えられた受話器を片手に、厳しい表情で会話をしている。ディスプレイの表示を見ることができれば、通話の相手を特定することもできただろう。しかし、竹内君の位置からでは、それを確認することはできなかった。


「患者の名前は……」


「…………」


 滅多に見ることのない父親の強張った表情を垣間見て、竹内君もまた緊張していた。病院の進退は自身の将来に直結する非常に重要な事柄だ。自ずと彼もまた難しい表情となり、父親の声に聞き耳を立てる。


「あぁ、立石さんか」


 立石さんという名前に竹内君は覚えがあった。


 本日、体験学習の一環で彼が足湯を担当した老齢の女性である。


「っ……」


 その名前を耳にした直後、彼の顔から血の気が引いた。


 脳裏に思い起こされたのは、足湯の途中で患者が見せた反応である。ちょうど彼が足を洗っているとき、立石さんは患部に痛みを感じた様子で声を上げていた。踝の辺りを手で擦っていた姿は記憶に新しい。


『静電気かねぇ? なんだか肌が攣るような感じがしてね』


 昼間、患者が漏らした台詞が蘇る。


 それでも先月までの彼であれば、これといって気にすることはなかっただろう。家族の一大事ではあるが、自分にできることは何もないと理解して、平穏無事を祈るばかりで過ごしたに違いない。


 しかし昨今の竹内君には、人には言えない事情があった。


「……マジかよ」


 誰に言うでもなく、ボソリと呟く。


 得も言われぬ焦りから、脇や背中にぶわっと汗が滲んだ。それは彼にとって忌諱すべき代物である。それでもここ数日の調査と訓練から、日常生活には支障がないまでに、少なくとも平時であれば、その毒性は失われたと考えていた彼だった。


 事実、来週からは体育や部活動にも参加する予定であった。


 つい昨晩の実験では、精液であってもネズミの体毛を少し溶かすに留まっていた。これが汗となれば、付着しても反応は見られず。餌に混ぜて食べさせても、ネズミが体調を崩す気配は見られなかった。


 そうした経緯も手伝い、性行為こそ未だ難しくとも、運動で汗を流す程度であれば、問題にならないことを確認していたイケメンである。少なくともチームのメンバーに害を与えることはないだろうと考えていた。


 それが何の因果か、医療ミスのお知らせだ。


 ふらつきを覚えた彼は、その場で小さく足を動かしてしまう。


 靴底と廊下の擦れる音が、人気も皆無の物静かな廊下に響いた。


「誰かいるのか?」


「っ……」


 理事室から、問い掛けの声が響く。


 焦った毒竹内君は、大慌てで現場から逃げ出した。



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