職業体験 四
職業体験も二日目が始まった。
会場となる病院に集まった面々は、初日と同様に院内の会議室に集められた。そこで昨日にも引率を担当していたメガネ医師から、本日の予定について共有を受けていた。曰く、テキストを利用した座学を行います、とのこと。
生徒たちが並ぶ机には、事前にプリントや冊子が並べられている。
「あの、今日は外来を見学するというお話だったと思うのですが……」
委員長からメガネ医師に声が上がった。
それは当初、三日間の日程として事前に語られた内容だ。
「君たちには申し訳ないのだけれど、本日は患者さんの入りが多くて、どうしても難しくなってしまったんだよ。僕らとしても是非見てもらいたいのだけれど、現場の人たちや患者さんに迷惑を掛ける訳にもいかなくてね」
「す、すみません、変なことを聞いてしまいましたっ」
「いやいや、こちらこそ確認してくれてありがとう」
メガネ医師はニコリと穏やかな笑みを浮かべて見せる。
これを受けて委員長は、恥ずかしそうな表情となり顔を伏した。そんな彼女を眺めて、すぐ隣に席を陣取ったリサちゃんは、ニマニマと楽しそうに笑みを浮かべている。カメラを起動しようかと、手元のスマホに手が伸びかけたほどだ。
一方で優れないのが竹内君である。
具合の悪そうな表情で、俯きがちに机の上を眺めている。常日頃から他人の視線に敏感なイケメンらしからぬ振る舞いだ。仮に具合が悪くとも、表立ってその様子を見せるような真似は滅多にしない彼である。
「竹内さん、大丈夫ですか?」
その様子を目敏く見つけたメガネ医師が声を掛ける。
理事の息子とあっては、自ずと気遣いの言葉も漏れた。
「え? あ、ええ。ぜんぜん大丈夫ですんで……」
「具合が悪いようであれば、素直に言って下さいね」
「分かりました」
以降、同所ではメガネ医師を講師にして、座学が行われる運びとなった。
剽軽者や委員長が真面目な表情で臨んで見せる一方、ガブちゃんやリサちゃんは退屈そうに講師の姿を眺めている。そうした中で西野だけが、どこか神妙な面持ちで竹内君のことを見つめていた。
◇ ◆ ◇
同日の昼休み、西野は昼食を取りに病院の看護師食堂に向かった。
席に着いた彼の傍らには、ガブちゃんの姿がある。昨日までであれば、そこにローズの姿も見受けられたのだが、本日に限っては昼休みの時間が始まると同時に、研修で利用されている会議室を一人で後にしていた。
周囲には委員長やリサちゃん、剽軽者といった面々の姿も見受けられる。二年A組の面々で一つのテーブルを囲んで、一緒に食事を食べていた。クラスメイトとの交流に飢えた西野にとっては、非常に美味しい状況である。
ただし、そこには竹内君の姿が見受けられない。ローズと同様、昼休みがアナウンスされると共に皆々と別れて、一人でどこへとも出掛けていた。別れ際の言葉に従えば、ちょっと調べ物があってさ、とのこと。
「……どうしたのですか? 妙な顔をして」
「何がだ?」
「機嫌が悪そうな顔をしています。ここの食事が気に入りませんか?」
西野の隣の席で、うどんをちゅるちゅると啜っていたガブちゃん。
ゴクンと麺を飲み込んだお口が、疑問の声を上げた。
これにフツメンは、箸を片手に食堂の様子を窺いながら答える。
「いいや、そんなことはない。ただ、ちょっとばかりな……」
「何か変ったものでも見つけましたか?」
「…………」
看護師食堂で食事を取っている看護師の姿が減っていた。昨日の同じ時間帯、席の大半が埋まっていたのとは一変して、本日は半分が空席となる。おかげで彼らは大所帯でもまとまって場所を確保できていた。
ただ、他の面々はこれといって気にした様子もない。これが自分たちの通う学校の学生食堂であれば、疑問に首を傾げたかも知れない。しかし、昨日と今日とで二日間しか利用した経験がない彼らにとっては、わざわざ疑問に思うほどのことでもなかった。
「あのおん……ローズがどこに言ったか知らないか?」
「お姉様でしたラ、外に出て行くのを見ましたけレど」
「…………」
ガブリエラの言葉を耳にして、フツメンは考える素振りを見せる。
やがて、何を考えたのか手にしていた箸を置いた。
正面のトレーには、碌に手の付いていないうどんが、ゆらゆらと湯気を上げている。ガブちゃんと同じ献立なのは、彼がうどんを注文したのを見ていた彼女が、これに倣って同じものを頼んだからだ。
「悪いがトイレに行ってくる」
誰に何を言わせる間もなく、西野は食事の席を立った。
食堂を後にした彼は、その出入り口付近に設けられたトイレを素通りして、院内の廊下を進む。そして、病院の正面エントランスから外に出た。建物の前にはそれなりに交通量のある国道が流れている。
玄関付近に彼の目当ての人物はいなかった。
そこで彼は建物の裏手を目指した。
患者には開放されていないが、そこには病院関係者が利用可能な駐車場が設けられている。これと併せて同院の勝手口も見受けられた。ただし、出入り口は自動施錠の鉄扉が設けられており、碌に人の姿も見られない。
そうした一角の隅の方に、西野は目当てのブロンドを見つけた。
「……何なのかしら? 何度もコールしてくれて」
制服姿のローズである。
彼女は端末を耳元に当てて、誰かと通話をしていた。
ぶっきらぼうな口調から、比較的親しい人物であると思われる。やり取りの詳細を探るべく、フツメンは相手に気づかれないよう、ゆっくりと距離を詰めた。彼女の傍ら、従業員用に設置された自動販売機の陰に隠れて、その様子を窺う。
「……医療ミス?」
ローズの口から威力的な言葉が溢れた。
自ずと西野の表情が強張る。
この状況で耳にすれば、自ずとその現場にも想像がついた。
「また妙な話題が飛び出してきたわね……」
「…………」
まさか近くでフツメンが聞き耳を立てているとは思わない。
ローズは端末を片手に言葉を続ける。
「ええ、そうね……そのようなことも確かにあったわね。ええ、足湯よ……そう、患者の名前も、たしかそんな感じだったと思うわ。作業の間に声を上げていたから、見間違いではないと思うけれど……」
どうやら昨日の職場体験が、話題に上がっているようだった。
ローズが自身の行動を報告する相手となると、十中八九で電話回線の先にいるのはフランシスカだろう。西野はそのように結論付けて、彼女のやり取りに聞き耳を立てる。その表情は真剣そのものだ。
「……いいえ? そっちに関しては大丈夫。当然じゃないの。……分かったわ、今回は貴方の指示に従ってあげる。だけど、これは別件だと考えていいのよね? ……そうよ? それくらいは妥協して欲しいわね」
昼休み、西野がローズの姿を求めた発端は、彼女が竹内君にちょっかいを出した結果、それが二人の間で問題になっているのではないか、と考えたからである。しかし、こうして盗み聞きをした限り、状況はそれ以上に大変なことになっているようだった。
従業員用の食堂が妙に空いていた理由を、今更ながら理解した西野である。
「その条件なら受けてもいいわ。……ええ、そうよ。前にも言ったでしょう? こう見えて私はクラス思いの学生なの。だから、そういうことを言うのは止めて欲しいわね? ……そうよ? クラスメイトの為なのだから」
「…………」
「貴方のように何でもかんでも、自分のカードにしたいだけの女とは違うの。え? ……そんなこと知らないわよ。っていうか、貴方が西野君からそういうふうに見られているのは、貴方自身の責任でしょう? そこまで面倒はみられないわ」
フランシスカが【ノーマル】と同じ教室に通う二年A組の生徒たちを調査していることは、西野もまた把握している。こればかりはどれだけ止めろと言っても、決して聞かないのが彼女の仕事である。
その関係で何かしら、ローズの下にも情報が入ってきたのだろう、とは想像に難くない。それが竹内君の父親が理事に収まる病院での問題ともなれば、クラスメイトとしては心中穏やかでない。
ただ、そうした中で西野は少しだけ、喜びを感じていた。
それはフランシスカに向けて語られたローズの言葉である。
つい数日前のこと、シェアハウスの歓迎会で語ってみせた通り、彼女は学友の為に動いているようであった。少なくとも電話越し、フランシスカに対して語られた言葉には、そういった意図が多少なりとも感じられた。
実際には今も尚、ローズにとっての竹内君とは毒虫に過ぎない。ただ、こうしてフツメンが眺めた限りでは、彼女は上手いこと猫を被っていた。彼の姿が見えない場所でも、それらしい態度を装い続けていた。
結果的に西野の中で、ローズに対する株がまた少し上がった。
そうした経緯も手伝い、童貞の脳裏にはこれと併せて、新たな可能性が浮かび上がっていた。それは彼がフツメンである限り、同時に竹内君がイケメンである限り、どうしても検討せずにはいられない事柄である。
やはりこの女は竹内君のことが気になるのではないか、と。
「……それじゃあ、失礼するわよ」
通話を終えたローズは、端末をスカートのポケットに仕舞う。
そして、スタスタと病院の正面エントランスに向かい歩んでいった。
「…………」
その姿を眺めてフツメンは疑問を覚えた。
ここ数週間の付き合いながら、ローズという女が、そう大した理由もなく誰かの為に働くとは、彼は決して思えなかった。仮にクラスメイトと過ごす時間を大切にしていたとしても、より具体的な理由があるのではないかと考えた。
そうしたとき、自ずと浮かんでくるのは男女の関係。
医療ミスなる単語が真実であれば、その影響は当然、理事の息子である竹内君にも及ぶことだろう。約束されていた医師という将来も、どうなるか分からない。最悪、一家離散の憂き目を見る可能性もある。
これを解決するということは、竹内君の将来を救うことに等しい。
「……ツンデレ、か」
当たらずとも遠からず。
小さく独りごちるように呟かれた台詞は、絶妙に外れた一言だった。
◇ ◆ ◇
西野がローズをストーキングしている一方、こちらは委員長。
昼食を早めに切り上げた彼女は、職業体験の研修会場となる会議室に向かい廊下を急いでいた。今回の催しに参加することで失われた勉強時間。これを僅かでも取り戻そうと、昼休みを自習に当てるべく考えてのことだった。
その為に昼食の献立も、サクッと食べられるしょうゆラーメン並盛り。
とんかつ定食を頼んだリサちゃんを置いてけぼりにしての帰還である。
「まったくもう、塾の試験も近いのに……」
ブツブツと独り言を繰り返しながら、早歩きで廊下を進む。
すると彼女の向かう先、何やら人の声が聞こえてきた。
廊下の角を曲がって袋小路、トイレや自動販売機などが設けられた一角からだ。界隈は関係者以外立ち入り禁止の区画となるため、自ずと声の主は病院関係者に限れる。だが、委員長の目に入ったのは病院指定の検査着であった。
片腕を吊った男が、端末を手に何やら話をしていた。
廊下の曲がり角から男の下まで、距離にして十数メートル。
会話に意識を割いている為か、委員長に気づいた様子はない。
「……あ」
志水は男の姿を確認して、その歩みを止めた。
何故ならば相手は、昨日の実習で彼女の胸を揉んできた、憎きあんちくしょうであった。自然と沸き起こった憤怒が、彼女の意識を奪っていた。自ずと身体は動いて、曲がり角に身を隠すように位置を取る。
「こんなところで何をやっているのよ……」
苛立ちと共に相手の様子を窺う。
同所が関係者以外立ち入り禁止の区画であることを思い起こした委員長だ。男の粗暴な風貌や言動と相まっては、きっと碌なことではないだろうと当たりを付けての判断である。無駄に強い正義感を発揮する志水だった。
もしもこれがリサちゃんであったのなら、きっと無視していたことだろう。
「予定通りだ。ちゃんとやってたったぜ? ……ああ、今朝から病院中が賑やかだ。へへへ、そう、……そのとおり。大丈夫だって、それくらい上手くやるわ。……っていうか、そっちこそどうなんだよ?」
前後の文脈を知らずとも、やたらときな臭く響くやり取りであった。
おかげで委員長も真剣に聞き入ってしまう。
「……わかった。……ああ、それじゃあ、そっちは任せたぞ? ……おう、当然だ。俺らを舐めやがったこと、絶対に後悔させてやる。……そう、そうだよ……これくらい当然だろ? むしろ生ぬるいくらいだ。……おう、問題ない。ちゃんとやったからな」
男の表情にはニヤニヤと厭らしい笑みが浮かんでいた。
その姿を目の当たりにして、委員長は確信した。
コイツは何か悪いことをしているな、と。
「竹内君の病院で何をするつもりなのよ……」
厳密には竹内君の父親が理事の一人に収まっている病院なのだが、委員長にとっては些末な違いである。憧れの彼にとって大切な場所に、得体の知れない輩が入り込んでいるとあっては、持ち前の正義感が燻る。
それが自らの胸を勝手に揉んだ相手ともなれば、業腹の志水だった。
しばらく様子を見ていると、男が通話を終えた。
端末を検査着のポケットに放り込む。
それと同時に、彼の手元から小さなビニール片がこぼれ落ちた。それは自動販売機のすぐ傍らに設けられていたゴミ箱に、音もなく入り混んだ。端末をポケットへしまうに際して、手に付着して一緒に外に出てしまったようだ。
男はこれに気づいた様子もなく一人ごちる。
「……さて、さっさと戻るか」
「っ……」
その足が動いて、袋小路の出入り口に向かい踵を返す。
咄嗟に頭を引っ込めた委員長は、大慌てで元来た廊下を後戻りだ。足音を立てないように気を使いながらのダッシュである。そして、更に曲がり角を一つ隔てて、その陰に身を隠しつつ通路の様子を窺う。
意気揚々と歩いていく検査着の男は、そうした彼女の姿に気づいた様子もない。大股開きでノッシノッシと廊下を進む。やがて、その姿は通路の陰に隠れて見えなくなり、足音も早々に聞こえなくなった。
「……ふぅ」
男をやり過ごした彼女は、再び廊下を歩んで袋小路に進んだ。
その意識が向かったのは、去り際に男が落したビニール片だった。
「何を落したのかしら」
ふとそんな些末なことが気になった委員長である。
普段であればそこまで気に留めることもなかっただろう。しかし、電話越しに語られた物騒なやり取りと相まって、どうしても気になってしまった彼女だった。そして、こうなると確認せずにはいられないのが、志水の性分である。
「…………」
ゴミ箱の蓋を開けた彼女は、ペットボトルや缶が収まったそれを漁り始めた。
すると問題のビニール片はすぐに見つかった。敷き詰められた空き缶やペットボトルの山の上、ちょこんと乗っかっているのが確認できた。それはファスナー付きの小さなプラスチックバックだった。
中には小さなスポイトのようなものが収められている。
「……なによこれ」
自らの手に取ったところで、疑問に首を傾げる委員長。
そんな彼女に背後から声が掛かった。
「委員長、何やってるの?」
「っ!?」
予期せぬ声掛けを受けて、ビクリと全身を振るわせる志水。
大慌てで振り返ると、そこにはいつの間に歩み寄ったのか、リサちゃんの姿があった。とんかつ定食を早々に平らげて、委員長の後を追い掛けて来たようである。疑問に首を傾げつつ、ゴミ箱を漁る同級生を見つめている。
その姿を確認して、志水は咄嗟に手にしたビニールをスカートのポケットに突っ込んだ。これといって意識してのことではないが、ゴミを漁っていたというシチュエーションが、そのように彼女の身体を動かしていた。
「もしかして、何か間違って捨てちゃったとか?」
「え? あ、う、うん。そんな感じ……」
「それなら私も探すの手伝うよ」
「だ、大丈夫! 気にしないで? もう見つかったから」
「そう? それならいいけど」
言い訳を並べながら、志水はゴミ箱のフタを元に戻した。
まさか素直に事情を説明することはできなかった。一方的に見聞きしただけで、これといって確証がある話でもない。もしも勘違いであった場合、学友にまで赤っ恥をかかせる羽目になりかねない。
「それじゃあ会議室に戻ろ? 委員長、休み時間も勉強するんだよね?」
「う、うん」
「実は私も次の期末に向けて、勉強を頑張ってるんだよねー」
「…………」
こうなるとリサちゃんから逃れることは難しい委員長だ。
恋愛感情こそ皆無だが、友人としては好ましく思ってる相手である。その笑顔を無下にすることはできなくて、流されるがまま部屋に戻っていった。
◇ ◆ ◇
その日は午後も午前と同様に、座学が続けられる運びとなった。
入れ代わり立ち代わり同院の関係者が現れて、病院の仕組みや仕事の内容を説明していく。医師を目指す剽軽者や同院の身内となる竹内君などは、真面目に話を聞いていたが、ガブリエラやローズ、リサちゃんといった面々は暇そうにしていた。
そうした中で一つ、研修を行う部屋の席に空きが生まれた。
西野である。
家庭の事情なる名目で、午後の講義をエスケープしたフツメンだった。
おかげで気が気でないのがローズである。
一向に戻ってくる気配のない彼を気にかけて、彼女は講義の間に設けられた休み時間、竹内君に声を掛けた。ねぇ、ちょっといいかしら? そんな問い掛けと共に、研修の行われていた部屋を出て、建物の外に二人で移動する。
居合わせた他の面々は、そうした二人の姿に興味を惹かれた。だが、まさか後を追いかける訳にも行かない。その姿を視線では追い掛けつつ、黙って彼と彼女を廊下に見送った。
部屋を出た二人が向かったのは、病院の正面エントランスとは別に、裏の細路地に面して設けられた勝手口脇のスペースだ。午前中、ローズがフランシスカと電話をしていた場所でもある。人気の少ない同所は内緒話をするのに適していた。
「俺に話ってなにかな? ローズちゃん」
「彼はどこへ行ったのかしら?」
「……それって西野のこと?」
「決まっているじゃないの」
「いや、流石にそこまでは俺も聞いてないよ。小耳に挟んだ話、家庭の事情とか言ってたけど、アイツって前から一人暮らしだろ? きっと午後の授業が退屈で、どこへともサボりに行ったんじゃないのかな」
「…………」
クラスメイトとの時間を大切にするフツメンが、ただ退屈だという理由だけで講義をサボるとは、ローズには考えられなかった。本日の座学についても、剽軽者と並び、非常に真面目な態度で臨んでいた彼である。
そこで彼女は自然と、同医院が抱えている問題を思い起こした。
「貴方たちの問題に、巻き込んでいたりしないわよね?」
「っ……」
彼女の何気ない問い掛けを受けて、竹内君はドキッとした。
それは今現在、こちらの病院で秘匿とされている情報だった。
「俺たちの問題? 何か特筆してそんなことあったっけ?」
当然、彼は全力ですっとぼけてみせる。
たとえ意中の女の子が相手であろうとも、こればかりは口にできない竹内君だった。しかし、彼女は既に同院の事情を抑えていた。フランシスカからもたらされた情報は、竹内君が知る以上のものである。
「彼に問題の解決を依頼したのではないかしら?」
「…………」
おかげで竹内君は首を傾げる羽目となる。
どうしてそこで西野が出てくるのかと。
そもそも目の前の相手は、どこまで事情に通じているのかと。
「あの、ローズちゃん、どうしてそこで西野なの?」
「…………」
狼狽える竹内君を眺めて、ローズは認識を改めた。
目の前の相手は【ノーマル】を知らない。妙にクラスメイトに甘いフツメンだから、勝手に動いている可能性もゼロではない。しかし、少なくとも目の前の人物は、西野の正体に気づいてはいないと、彼女は今回のやり取りで判断した。
「いいえ、それなら結構よ」
「そ、そう?」
「ええ」
「よく分からないけど、納得してもらえたのなら嬉しいよ」
ニコリを余所行きの笑みを浮かべたローズ。
その様子を目の当たりにして、竹内君は釈然としないものを感じた。ただ、下手に突っ込んでは病院の問題を掘り返しかねないと、続く言葉は自重された。逸る気持ちを抑えて、この場は早急にお開きにするべきだと彼は考えた。
ローズと二人きりで話をする時間は、彼にとって非常に貴重なものである。だがしかし、時と場所が悪かった。しかも相手の口からは、不穏な話題が見え隠れする。万が一にも他者に聞かれては大変なことだ。
一方でそうした二人を、陰ながら見つめる者の姿があった。
「…………」
西野である。
用事を終えて病院に戻る道すがら、路地裏で会話をする二人を見掛けた次第だった。遠目に眺める限りであって、何を喋っているのかまでは判別がつかない。ただ、お互いに笑みを浮かべて言葉を交わす二人が、彼には妙に仲良さ気に映った。
だからだろうか。
ローズの可愛らしい笑顔を眺めて、フツメンは思った。
「あの女、なんだかんだ言っておいて、やはり竹内君のことが……」
それが童貞の胸に浮かんだ忌憚のない意見だった。
普段は自信満々の癖に、竹内君が相手となると妙に謙虚な彼である。未だこちらのフツメンにとって、憧れるに足るイケメンだった。何故ならば西野にとっての竹内君とは、理想の青春の体現者に他ならない。
少なくとも異性関係については、人生のゴールそのものだった。
「…………」
これ以上の盗み見は止めておこう。そう考えたフツメンは、二人に気づかれる前に退散する。少しばかり回り道をして、彼らに気づかれることがないよう、病院の正面エントランスに向かい、足早に歩み去っていった。
他方、ローズと竹内君の間では会話が続く。
「貴方、私たちに協力する意志はあるのかしら?」
「ローズちゃんたちに協力? ……それってどういうことなのかな?」
それはフランシスカからローズに与えられたミッションだった。
毒竹内君の身の潔白が証明された今、彼女たちは彼という存在を確保するべく動き出していた。ただし、状況が状況なだけあって、あまりおおっぴらに動く訳にはいかなかった。今回はその触りである。
「……本当に何も知らないのね」
「え? あ、うん。なんだかごめんね? 俺ってバカだからさ」
「近いうちに連絡がいくわ。それまで身体のことは誰にも言わず、黙っておくことね。そうでなければ、貴方の今後の人生、きっと碌なことにならないわよ。それでも構わないというのなら、好きなようにしなさいな」
「っ……ちょ、ちょっと待った。ローズちゃん、それって」
「話はそれだけよ。それじゃあね」
自らの秘密をさらっと引き合いに出されて、顔を強張らせる毒竹内君。
そう言えば以前、彼女の手に自身の唾液が付着したことがあったな、とは彼の脳裏に思い起こされた過去の出来事である。しかし、一連のローズの物言いは、ただ一方的に毒を受けた以上の何かを、背後に感じさせるものであった。
「…………」
踵を返すと共に、スタスタと去っていくローズ。
その背中を眺めて、戸惑うばかりの竹内君だった。
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