シェアハウス 四
中間試験初日の夜、西野は自宅リビングで黒ギャルと夕食を取っていた。
ダイニングテーブルの上には、彼女が作った料理が並ぶ。本日の献立は麻婆豆腐と棒々鶏、それにわかめスープ。今日は久しぶりに中華で攻めてみました、とは料理を並び終えた山野辺の言葉である。
連日にわたって異性の手料理を食べる機会に恵まれた西野は、感謝の思いを込めて箸を伸ばす。昨日もそうであったとおり、黒ギャルは意外と家庭的な性格の持ち主のようで、日頃から夕食の支度は彼女が行っているようだった。
「へぇー、中間テストだったんだ?」
「ああ、おかげで委員長がピリピリしていて大変だった」
「私もテストは苦手だったなぁ。勉強とか大嫌いだもん」
「その気持は分からないでもない」
ユッキーは仕事に出ており、白ギャルが食事をたかりに訪れることもない。そのため食卓は二人きりだ。ダイニングには彼と彼女が食事を摂る音と、そこで交わされる声とが静々と響く。とても穏やかな時間が流れていた。
「ニッシーは勉強とかできるほう? それとも私と同じだったりする?」
「普通だな」
「あ、それって勉強ができるヤツの言い方だよね」
「つい最近までは、高校を卒業したら働きに出ようと考えていた。しかしながら、改めて考えてみると、大学進学というのもまた、悪くないように思えてきた。そこで今学期から、勉強に本腰を入れることにしたんだ。今回の試験はその様子見だな」
「ふぅん? ニッシーは大学に行くんだ?」
「ちゃんと入試に受かれば、という条件は付くが」
「大学って高校よりもっと勉強するんでしょ? マジ疲れそう」
「そうとも限らないんじゃないか?」
「えー? 違うの?」
「大学は高校と違って普通科と呼ばれるような区分が存在しない。自分が興味を持ったことだけを専門として勉強すればいい。山野辺も一つくらい好きな教科があるだろう? 大学ではそれを掘り下げて学ぶんだ」
「好きな教科っていうと、私は家庭科かなぁ」
「なるほど」
「料理を作るの好きなんだよねー。ユッキーも喜んでくれるし」
「たしかに今日の中華も美味だな。店で出して金を取れるレベルだと思う」
「ただ、家庭科が得意でも、センター試験は受からないんだよねぇ」
「その辺りは不公平かも知れないな」
「あ、やっぱりそう思う? 私も前々から思ってたんだよ」
二人の間では滞りなく会話が流れている。良くも悪くも細かいことにこだわらない黒ギャルの性格が、大仰な物言いの西野とは相性が良かったようだ。おかげでこれといって衝突することなく、お互いに言葉を交わしている。
更に美味い食事まで付いてくるとあらば、西野にとってはこれ以上ないシチュエーションであった。その先に続く関係こそ見えてこないものの、同い年の異性との会話は、彼が求める青春にとって、非常に価値の高いものであった。
「料理の専門学校に通って、自分の店を持ち独立するという道もある。業界内でエコシステムが確立されていることもあって、飲食店は比較的独立しやすいというメリットがある。その辺りで不公平を取り戻すのはどうだ?」
「でもそれってお金が掛かるよね?」
「そうだな」
「じゃあ無理かなー。私、そんなお金ないもん」
「……そうか」
「でも、いつか自分のお店を持てたら幸せだよねぇ」
「資金的な問題を解決するのであれば、弁当の移動販売から始めるというのも手だ。飲食店とは違って店舗を用意する必要がない。製造施設だけであれば、賃貸で比較的安価に借りることができる。店舗を用意するよりは幾分か敷居が低いだろう」
「おぉー、たしかに。昼時にワゴンを押して歩いている人っているよね」
「場所もオフィス街の空き地の地主と交渉をして、昼休みの時間帯だけ土地を借り受けるという方法もある。多少なりとも謝礼を求められるだろうが、店舗を用意する手間と比べたら、遥かに容易でリスクも低い」
「ニッシー、思ったよりも意外と色々と考えて生きてるんだねぇ」
「そうだろうか?」
「将来とか何も考えずに、毎日学校に通ってるだけかと思ってた」
「…………」
「あ、でも別に、馬鹿にしてる訳じゃないよ? そう見えたってだけなんだから。いいよね! お弁当屋。今働いているショップをクビになったら、初めてみるのも悪くないかな、なんて思ったよ!」
「ああ、そうするといい。何事も行動しないと始まらないからな」
「そうだよねぇ。ただ、私って自分から動くの苦手だからなぁー」
「なんなら柳田に声を掛けたらいい。夜の店で働いているということは、近隣の飲食店にも多少は顔が利くだろう。若さがあり容姿に優れている山野辺であれば、力になってくれる者もすぐに現れるだろうさ」
「……やっぱり、若い内に頑張らないとヤバいのかな?」
「ヤバくはないが、段々と不利になっていくのは間違いないな」
「うっ……」
「まあ、自分のやりたいようにやればいい」
「それが出来ないから苦労してるんだけどなぁー」
「十代のうちは失敗してもなんとかなるだろう」
「ニッシーだって私と同い年じゃん」
「そういえばそうだったな」
「めっちゃ他人事なんですけどー」
嘗てなく上手いこと話の流れは進んでいた。
おかげで手応えのようなものを感じている西野である。ブレイクダンス同好会に入った当初、竹内君の前でウィンドミルを成功させた時と同じか、それ以上の達成感がフツメンの胸の内では渦巻いていた。
ただ、そうした時間も永遠ではなかった。
料理が半分ほど減ったところで、不意に山野辺の端末が震えた。
どうやら着信が入ったようだ。
「あ、ごめん。ユッキーのお店からっぽい」
「柳田の?」
「うん、前にお邪魔したときに番号を交換したんだよね」
「なるほど」
ユッキーという響きを耳にして、フツメンは黒ギャルとの距離感を思い起こす。目の前の相手には心に決めた相手がいて、既に肉体関係にあるのだと、少しばかり近づいてしまった間隔を正すように意識を改める。
いちいちナイーブな童貞野郎だ。
「え? あ、うん。戻ってきてないですよ?」
「…………」
料理に箸を付ける西野の正面で、黒ギャルは一頻り通話をしていた。
ややあって、端末がテーブルの上に置かれる。
彼女はフツメンが何を問い掛ける間もなく、自ら口を開いた。
「ユッキー、お店に出てないんだって」
「仕事に向かったんじゃなかったのか?」
「私もてっきりそうだと思ってんただけどなぁ」
「……ふむ」
顎に手を当てて、西野は考える素振りを見せる。
委員長が大嫌いなポーズだ。
黒ギャルはこれといって気にした様子もない。
「ユッキー、ああ見えて仕事には真面目だから、連絡なしに休むとは思えないんだよね。お店の人たちも、どこかで事件や事故に巻き込まれてたりするのかもって言ってて、それで私のところにも電話が来たみたい」
「連絡は取れないのか?」
「店長さんが何度か掛けたらしいんだけど、出ないんだって」
「山野辺はどうだ?」
「う、うん。今から掛けてみようかなって思ってた」
西野の言葉に急かされるように、彼女は改めて端末を手に取った。そして、アドレス帳から目当ての人物を選択すると共に、スピーカーを耳に当てる。会話が失われて静かになったリビングに、呼び出し音が僅かばかり響いては聞こえる。
そうして待つこと十数コール。
流れてきたのは留守番電話の案内メッセージだった。
「……ユッキー、繋がらないね」
「そのようだな」
穏やかであった食卓に不穏な雰囲気が流れる。
自ずと口を開いたのは西野だ。
「山野辺は先程、柳田の勤め先に足を運んだことがあると言ったな?」
「え? あ、うん」
「思い起こせば昨晩も体調を悪そうにしていた。勤め先の言葉ではないが、出勤の途中で体調を崩して、倒れているのかも知れない。食事の途中で悪いが、これから外を探してみようと思うのだが、山野辺もどうだろうか?」
「いいの? ニッシー、明日も中間テストでしょ?」
「構わない。同じ家で暮らしている仲だ」
「……ありがとう」
思い立ったが吉日、食卓を立った二人は、自宅を後にするのだった。
◇ ◆ ◇
家を出発した西野は、黒ギャルの案内に従って道を歩いた。
ユッキーの通勤経路だ。
既に日も暮れて久しい時間帯とあって、住宅街に所在する家の周りは、人通りも疎らであった。誰かが倒れていれば、すぐに目についただろう。しかし、家の近くにはこれといって、それらしい姿も見受けられなかった。
そして、ユッキーの勤め先が夜のお店である都合上、自ずと足取りは賑やかな方に向かう。通勤に利用しているのだという駅まで到達して以降は、電車を乗り継いでの捜索となる。その間にも、あっちこっちに目を光らせてのこと。
そうこうしている間に、二人は探し人が勤める店舗界隈まで辿り着いてしまった。
「ユッキー、いないね」
夜の繁華街、人々の行き交う賑やかな光景を眺めて、山野辺が言った。
語る姿には覇気が感じられない。
普段が賑やかである分だけ、気落ちした様子が顕著に窺える。
「そうだな」
これに応じる西野は、さて、どうしたものかと頭を悩ませる。
通勤経路は確認してしまった。
それ以上となると、二人での捜索には限界がある。
脳裏に浮かんだのは幾つかの選択肢。
「悪いが柳田の勤め先まで案内してもらえないか?」
「え?」
「詳しい話は省くが、少しは力になれるかも知れない」
「……ニッシー、この辺りに知り合いとかいるの?」
「まあ、似たようなものだ」
何はともあれ店とオーナーの名前を確認しようと考えたフツメンだった。少しばかりお金は掛かるが、彼の数少ない交友関係を利用すれば、辿って辿れないことはないと考えた次第だった。こういう場合にしか使い道がないとは、本人の談である。
「お店の人、怖い人だけど大丈夫? 冗談とか嫌いな人だよ?」
「ああ、問題ない」
「本当? ユッキーみたいに優しくないんだよ? きっと私も庇えないし……」
「それなら店の場所だけ教えてもらえないか?」
「……わかった、案内するよ」
繰り返し確認してみせる黒ギャルは、やはり心根の優しい女だった。
一方で気軽い調子に頷いてみせる西野は、相変わらずのシニカル具合である。もしも委員長が居合わせたのなら、もう少し相手のことを考えるべきであると、まず間違いなく突っ込みを入れていたことだろう。
ただ、そうして二人が歩きだした直後の出来事である。
「……山野辺?」
彼と彼女の元に聞き慣れた声が届いた。
自ずと二人の意識が声の聞こえてきた側に向かう。向かって正面から脇に逸れて、小汚いビルの間に挟まれた細路地である。道幅は非常に狭くて、自動車が通り抜けることも難しいように感じられる。
その先から探し人、柳田由紀夫が姿を表した。
「ユッキー!」
相手の姿を確認して、黒ギャルが駆け出した。
一直線に向かっていき、ギュッと正面から抱きつく。
ユッキーはこれを両手で受け止めた。
両者が触れ合うのに応じて、柳田の身体がビクリと震えたことに、西野は気づいた。眉間には皺が寄る。ただ、それもほんの一瞬の出来事である。すぐに平素からのイケメンを取り戻して、彼は気さくにも応じて見せた。
「こんなところでどうしたんだ?」
「え? あ、いや、ほ、ほらっ! ユッキーと連絡が取れなかったから、気になったっていうか。お店の人からも電話が掛かってきたりしたから、もしかしたら仕事に行く途中で、自動車に跳ねられたりとかしたのかも知れないって思って……」
「いやいや、流石にそれはないだろ。大丈夫だって」
「本当?」
「ちょっと野暮用があっただけだって。スマホは電源切れ」
「……そっか。それなら良かった」
「まあ、心配してくれたことは素直に嬉しいけどさ」
「…………」
黒ギャルの頭に手を置いて、髪を撫でながら続ける。
頭なでなで。
フツメンが憧れるスキンシップの一つだ。
当然、撫でる方を希望である。
「西野、お前もコイツに付き合ってくれたのか? ありがとうな」
「いいや、気にするな。丁度この辺りの店に用事があっただけだ」
「本当かよ?」
「本当さ」
「……そういうの、外でも変わらないのな。マジでヤベェよ」
ここぞとばかりに、フツメンはシニカルをキメてみせる。偶然から彼らの傍らを通ったキャッチが、何を言ってんだ? みたいな表情で西野を眺めながら過ぎていく。台詞を耳にして、更にオッドアイを目の当たりにして、最近の彼は二度ヤバい。
しかし、心が広いユッキーは、そんな彼の言葉を笑って済ませた。
「俺はこのまま仕事に出るから、二人は家に帰っててくれ」
「うん、わかった」
「一人で大丈夫か?」
「おいおい西野、あんまり年上を馬鹿にするんじゃねぇぞ?」
「ならいいが……」
「帰り道、気をつけてな」
そして、顔を会わせるも早々、イケメンはどこへとも去っていった。
フツメンと黒ギャルの二人は、言われるがまま大人しく自宅に戻った。
◇ ◆ ◇
翌日、津沼高校の秋季中間試験は二日目を迎えた。
昨日と同様、生徒は普段よりも幾分か大人しい。教室でも教科書に向き合う姿がそこかしこに見受けられる。西野もまた例外ではない。自席で教科書を広げると共に、数分後に迫った一時間目の数学の試験に向けて、試験範囲の公式など眺めている。
そんな彼に声を掛ける者の姿があった。
「ねぇ、西野。ちょっと話があるんだけど」
相手はリサちゃんだった。
教室で委員長以外の女子生徒から声を掛けられたのは、二年に進学してから初めての経験である。おかげで西野の気分は自ずと高揚をみせる。より正確に言えば、少し眺めの台詞で応じてみせたり。
「……どうした? 近藤から声が掛かるとは珍しい」
彼女はフツメンの返答を受けて、目元をひくつかせる。
少し気取って思える、どうした? の物言いが苛立たしければ、その後に続いた台詞も腹立たしいリサちゃんだ。まるで旧知の仲を思わせる返答が、ここ最近の彼のマイブームである。クラスメイトだから問題はないだろう、とは本人の見解だ。
「西野って本当にムカつくよね? ヤバいくらいムカつく」
「そうか?」
「前にうちで歯の治療をしたでしょ? その時の予約、いつまですっぽかしておくつもりなの? 主治医が心配しているから、ちゃんと通いなさいよ。おかげで私がメッセンジャー代わりに使われちゃってるじゃない」
「あぁ、そう言えばそうだったな」
いつぞやリサちゃんの実家がやっている歯科で世話になっていた西野だ。
ローズに財布を握られた一件から、足が遠のいていたことを思い起こした次第である。同時にすっぽかしてしまった予約の日時を思い起こす。彼の記憶が正しければ、次の予約で歯科矯正の事前検査を行う手筈であった。
「すまない、改めて予約を入れたいと思う」
「あっそう」
「急な話で悪いが、週明けの月曜日の放課後はどうだろうか?」
「だから私を窓口にしないでって言ってるでしょっ!?」
「そうだったな。申し訳ない」
「まったくっ!」
恐らくはパパさんから言伝を頼まれて来たのだろう。それだけを伝えると、リサちゃんはぷりぷりと怒りながら、友達が待つ自席に戻っていった。そう言えばリサの家って歯医者だったよね、などといった会話が、居合わせた女子グループの間ではヒソヒソと。
一連の会話を脇に眺めては、委員長など同情の表情を浮かべている。
また、少しばかり離れて竹内君の席では、その正面に陣取った鈴木君が荒ぶる。委員長にアタックするため元カノと別れてしばらく。未だに攻略の糸口すら見えていない彼だから、その捌け口として西野は絶好の八つ当たり先だった。
「最近、西野のヤツ生意気じゃね?」
なんだかんだで委員長と交流の増えたフツメンに苛立ってのやっかみだ。一方の鈴木君は、松浦さんが放った乱交宣言以降、露骨に避けられて止まない。未だに名誉挽回の機会も与えられていなかった。
更に言えばクラスの女子生徒からも、以前より距離を置かれている。
竹内君がピンチをチャンスに代えたのとは対象的に、ピンチをピンチのまま引きずっているのが鈴木君であった。決して避けられている訳ではない。ただし、彼と同じ水準のイケメンたちに、少しばかり差をつけられている昨今である。
本人もそれを理解しているからこそ、自ずと焦りも募る。
「……別に、ほっとけばいいじゃん」
「マジ? タケッち、それマジで言ってる?」
「下手に絡んでも大竹が五月蝿いし、アイツも俺らに絡んでる訳じゃないし」
「けどよぉっ」
鈴木君としては、西野が毎日健康に登校してきているだけでも、その光景を目の当たりにするだけでも、日々苛立ちが募っていた。加えて時折訪れるローズやガブリエラとのツーショットが、これまた彼の神経を逆撫でる。
「なあ荻野、なんか面白いこと言えよ」
その苛立ちが、本日は剽軽者に飛び火した。
比較的近い席に座っていた為、鈴木君の視界に入ったのが理由だ。
「え?」
「いやいや、え? じゃなくて、なんかこう、面白い話とかねぇの?」
急に声を掛けられて、ちょっぴり驚いたのが剽軽者の荻野。
彼は教科書から顔を上げて、鈴木君に視線を向ける。
その顔にはどこか、困ったような表情が浮かべられていた。
「明日までは試験期間だから、五月蝿くして皆の邪魔をする訳にもいかないって言うか、流石にそろそろ真面目に勉強しなきゃ不味いっしょ。声を掛けてもらったところ悪いけど、今日は勘弁。試験が終わったらネタを仕入れてくるから」
「んだよ、使えねぇなぁ」
剽軽者の返事を受けて、鈴木君は不貞腐れたように声を上げた。
その様子を目の当たりにした竹内君が訪ねる。
「っていうか、鈴木は試験勉強しなくていいの?」
「俺、大学はスポーツ推薦狙ってるから」
「そういえば前にもそんなこと言ってたな」
「男だったらやっぱり、スポーツで身体を動かしてなんぼっしょ?」
「まあ、将来の選択は個人の自由だからな」
「今日の竹内、テンション低くない? 体調とか大丈夫か?」
「別に普通じゃね?」
ここ数ヶ月の経験を通じて、竹内君は学んでいた。
西野に関わると碌な目に遭わないと。
それはたとえば松浦さんとの関係であったり、ブレイクダンス同好会とのダンスイベントであったりする。そして、竹内君にとっての西野とは、依然として学内カースト最下位の空気が読めないフツメン、といった認識である。
ならばわざわざ関わる必要はない、というのが彼の最終的な判断だった。
将来を約束された賢いイケメンは、下らない憤りから時間を無駄にすることはない。ローズに対してアプローチするにしても、これまでの方針からは一変して、西野から距離を取ることに決めた竹内君だった。
俺は知らない。俺は関係ない。そんな感じだ。
「タケッち、なんだか丸くなった気がするぜ?」
「いやいや、丸くなるってなんだよ。微妙に笑える表現なんだけど」
「俺からしたらそう見えるんだってば」
ただ、鈴木君は少しばかり違っていた。
そうこうしているうちにチャイムが鳴り、試験監督の教員がやってきた。
一時間目の試験の始まりである。
◇ ◆ ◇
同日、黒ギャルは仕事のシフトがお休みだった。
なので西野を学校に送り出した彼女は、自宅のリビングでゆっくりと寛いでいた。日々の疲れを癒やすように、ソファーに深々と腰掛けて、スナック菓子など頬張りながら、撮り溜めたドラマを眺めている。
今日のお昼は久しぶりに宅配ピザとか食べよっかな。
時計の針を眺めては、そんなことを考え始めた頃合いのことだった。
不意に上のフロア、三階から騒々しい声が聞こえてきた。
「おい、それって約束と違くないかっ!?」
ユッキーである。
焦りと怒りの感じられる声色だった。
自ずとドラマに向けられていた意識が頭上に移る。
「……ユッキー、大丈夫かな?」
自然とソファーから腰が上がるも、足を運びたくなるのを堪える。
一緒に生活をしているとは言え、これといって血が繋がっている訳でもない彼と彼女だ。シェアハウスという、お互いの距離感が近しい空間だからこそ、一歩を踏み込むにも躊躇する黒ギャルだった。
もしも別々に生活していたのなら、決して耳に入らない声である。
「…………」
ただ、気になることは気になる。
ドラマを一時停止して、頭上を見上げるようにして過ごす。もう一度、上のフロアから大きな声が聞こえてきたら、お昼ご飯を聞きに行くついでに声を掛けてみよう。そんな思いである。
しかしながら、彼もまた彼女の存在を思い起こしたのか、以降はこれといって声が上がることもなかった。やがて、そろそろピザ屋に連絡を入れようかと山野辺が考え始めた時刻になって、ユッキーは普段どおりスーツ姿で三階から階段を降りてきた。
トントントンと足音が聞こえたのを確認して、山野辺は廊下に向かう。
するとそこには丁度、階下に下ったイケメンの姿があった。
「あ、ユッキー。これからお仕事? いつもよりちょっと早いけど」
「ああ、行ってくる。それと悪いけど、昼飯は外で食うから」
「うん、わかった」
短く言葉を交わして、ユッキーは一階に向い階段を降りていった。
黒ギャルはこれをジッと見守るばかりである。
◇ ◆ ◇
その日、試験を終えた西野は真っ直ぐ自宅に帰った。
放課後の教室では、共に試験勉強を行おうと声を掛け合う生徒や、試験最終日となる明日の打ち上げを予定する生徒の声が、随所で賑やかにも響いていた。できることなら是が非でも混ざりたいフツメンだったが、生憎それを望める立場にない。
それでもローズとガブリエラが訪れたのなら、多少は賑やかになったかも知れない。しかし本日に限っては、二年A組に彼女たちの姿は見受けられなかった。おかげで何が起こることもなく、安穏と過ぎていったフツメンの試験二日目である。
「あ、ニッシー? おかえりー」
玄関ドアを開けると、その音に反応して黒ギャルが声を上げた。
どうやら一階の自室にいるようだ。
ここ数日で聞き慣れた声が、薄い襖越しに西野の耳に届けられた。
「ああ、ただいま帰った」
「試験どうだったー?」
「ぼちぼち、といったところだな」
居室のドア越し、姿の見えない彼女と言葉を交わしながら、西野は自室に向かう。ただいまの挨拶のみならず、何気ない日常の会話まで提供されて、フツメンはシェアハウスのありがたみをこれでもかと実感だ。
教室で耳にした生徒たちの会話。
それに勝るとも劣らないトークに心を暖かくする童貞だった。
自室で制服から私服に着替えた西野は、すぐに二階のリビングに向かった。
するとそこには、既に黒ギャルの姿があった。
いつの間にやら自室から移動してきた様子だ。
「ニッシー、コーラ飲む? 近所のスーパーで安かったんだよね」
「そういうことなら一杯もらおう」
「わかったー」
キッチンでグラスにコーラを注いだ山野辺がやってくる。
彼女はダイニングに腰掛けた西野の正面に座った。
シュワシュワと音を立てるグラスが二つ、テーブルの上に並べられた。そのうち一つを手にとって、黒ギャルはゴクゴクと喉を鳴らす。割と喉が強いようで、一息に三分の一ほどを飲み干して、ハァと大きく溜息を吐いた。
間髪を容れずに、ゲフゥと口にしたばかりの炭酸が口から漏れる。
「あ、ごめんね。ついついいつもの癖で」
「いや、気にするほどのことじゃない」
これに倣って西野もまたグラスを口元に運ぶ。
その様子を何をするでもなく眺めて、黒ギャルが言った。
「ニッシーってさ、ユッキーから何か相談とか、受けてたりする?」
「いいや? それなら山野辺の方が適任だろう」
「そうかな?」
「こっちはまだ出会って数日の間柄だ」
「男同士の方が話しやすいこともあるのかなぁ、なんて思って」
「心配事か?」
「……うん、少しだけ」
西野からの問い掛けを受けて、彼女は手にしたグラスで口元を隠すようにして頷いた。自身が留守にしている間に、二人の間で何かあったのだろうか、とはフツメンの脳裏に描かれた、当たらずとも遠からずの推測である。
「本人に確認はしたのか?」
「ううん、ちょっと聞きにくくて……」
「そうか」
自ずと彼の脳裏に浮かんだのは、昨晩の一件である。
夜の繁華街、細路地で出会ったユッキー。
西野はそのスーツの裾に、ほんの僅かばかりではあるが、血液の飛沫が付着しているのを見逃さなかった。自身の出血によるものか、他の誰かと争ったものか。現時点ではいずれとも判断がつかない。
本人の言葉に従えば、柳田は夜の店で働いているという。
だからこそ、荒事の一つや二つはあるだろうと西野も考えていた。
それでもこうして、黒ギャルの心配そうな表情を目の当たりにすると、色々と気になるところも出てくる。それはたとえば、本日に限ってニ年A組の教室を訪れなかったローズやガブリエラの存在だ。
日中こそ同じ学校に同級生として通っている二人だが、それも学外に出たのなら、どうなるか分かったものではない。西野にとっては同級生である以前に、彼女たちは同業者であり、いつか仕事でぶつかるかも知れないライバルであった。
万が一にも彼女たちの手により、シェアハウス生活が瓦解したら。
ふっと湧いて出た不吉な想像が、気づけばフツメンの身体を動かしていた。
「すまない、少しばかり電話をしてくる」
「え?」
「もしかしたら、山野辺の心配事を解決できるかもしれない」
「ちょっと待ってよニッシー、それってどういう……」
疑問に首を傾げる山野辺をダイニングに残して、西野は廊下に出た。
階段を上って三階のフロアに向かう。
懐から取り出したのは、購入から間もない新型の端末だ。未だにアドレス帳の登録件数は二桁に及ばない。検索機能など利用する必要も要さず、彼はその一覧からマーキスの電話番号を探し出して回線を繋ぐ。
相手は三コールほどを呼び出したところで出た。
『どうした?』
「悪いが、ちょっとした依頼を受けてはもらえないか?」
『アンタから依頼とは珍しい』
西野の言葉を受けて、マーキスは少しばかり驚いて見せた。
依頼を受けることはあっても、こうして頼むことは稀な彼である。
「少しばかり人手が必要な仕事だ。急ぎで頼めるか?」
『そうだな、向こう数日であれば人に余裕がある』
「報酬は相場の二倍払う。人を一人、数日ほど張っていて欲しい」
『相手は?』
「シェアハウスの同居人だ。受けてもらえるようなら後ほどデータを送る」
『ああ、前に賃貸関係の書類を送ってきたところか』
「頼めるか?」
『……分かった。そういうことなら引き受けよう』
「助かる」
『だが、相手は一般人とは違うのか?』
「判断はこっちでする。アンタは正確な情報を上げてくれ」
『なるほど、分かった』
「いきなりで悪いが、頼んだ」
『ああ』
二人が会話をしていたのは、ほんのニ、三分のことである。
回線はどちらからともなく、プツリと切られた。
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【おしらせ】
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