シェアハウス ニ

 同日、新居のダイニングでは西野の歓迎会が開かれる運びとなった。


「それじゃあ、西野少年の引っ越しにかんぱーい」


 手にした缶ビールを掲げて、ユッキーと呼ばれた男が音頭を取る。


「かんぱーいっ!」


「乾杯」


 これに黒ギャルと西野もまた、同じようにお酒を掲げて応じた。


 テーブルの上では、ガスコンロに掛けられて、鍋がグツグツと湯気を上げている。何分急な話であったことも手伝い、近所のスーパーで購入した食材を切り刻んで突っ込み、鍋の素を入れて仕上げられた一品だ。


 四人がけの四角いテーブルを囲い、一方に西野、もう一方に黒ギャルとユッキーが並び腰掛けている。フツメンとしては黒ギャルの正面に陣取りたいところであったが、出会って初日ということもあって、対面にはイケメンの顔がある。


 なんだかんだで多少なりとも、異性関係に進歩の見られるフツメンだ。


「っていうか、西野少年マジで踊れるのな。普通に驚いたし」


「だよね!? 私もビビった! めっちゃ足とか回ってたよっ!」


 食卓の席で話題に挙がったのは、つい先刻の出来事、フツメンが同宅の屋上で披露したブレイクダンスである。普段の練習より幾分か気合を入れて臨んだ彼は、ここぞとばかりに難易度の高い技を披露してみせた。


 これが思いの外、同居人の二人に受けた次第であった。


 おかげでこうして、同じ家に住まう住民として、肯定的に迎え入れられた彼である。そうでなければ今頃は、一人自室でコンビニの弁当を食べていたことだろう。仲良くダイニングで鍋を囲うこともない。


「俺も昔、少しだけ挑戦したことあるんだけど、なかなか難しいんだよなぁ」


「え? マジで? ユッキーのダンスも見たいんだけどっ!」


「それは勘弁。西野少年より上手く踊れねぇもん」


「そうなんだ? っていうか、もしかしてニッシーって結構すごい?」


「初めて一ヶ月くらいなんだろ? 大したもんだと思うけど」


「へぇ、そうなんだっ!」


 おかげで悪い気がしないフツメンだ。


 思い起こせば、ダンスの出来栄えを褒めてもらったのは、これが初めての出来事ではなかろうか。クラスでは話題にこそ挙がっても、美味しいところは竹内君やローズといった面々に持っていかれてしまっている彼だ。


 また、同じ年頃の異性と共に食卓を囲っているという事実が、彼を気分良くさせる。世の男たちにとっては瑣末な一歩かも知れないが、自分にとってはこれ以上ない一歩であると、信じて疑わない童貞野郎である。


「でも流石に、カラコンだけは止めたほうがよくね? マジ引くんだけど」


「あ、それ言っっちゃう? 私だって気になってもずっと黙ってたのに」


 左右で色の違う西野の目元を眺めてユッキーが言った。


 相変わらず評判のよろしくないオッドアイ西野だ。


「ああいや、これはカラーコンタクトじゃない」


「え? マジ? 逆にそれはそれで怖いんだけど」


「ちょ、もしかして義眼? ポロって取れたりしちゃう?」


「これでも本物の眼球だ。ちゃんと見えている」


「マジかよ。虹彩異色症ってやつ? 現物とか初めて見るんだけど」


「まあ、似たようなものだな……」


 片目の色が変わった経緯は黙っておくことにしたフツメンだ。


 こちらのシェアハウスでは、あくまでも普通の男子高校生として、日々過ごすことを決めていた。相手が勘違いしているようであれば、そのまま利用させてもらおうと考えて、曖昧に頷いておく。


 何故ならば彼は既に、目の前の黒ギャルに興味を持っていた。


 ひとつ屋根の下、もしかしたら、もしかしてしまうかも。そんな妄想がフツメンの脳裏では、じわりじわりと広がり始めていた。自ずと口数も増えた彼は、目の前の二人に対して、率先して質問など投げ掛けて見せる。


「ところで話の流れを切ってしまって申し訳ないが、そっちの名前を確認させてはもらえないか? 差し支えなければ、簡単な自己紹介をしてもらえると助かる。この手の集団生活は初めての経験なんだ」


「あっ、そう言えばたしかに、聞かれたまま言ってなかったかも!」


 西野の言葉を受けて、二人ははたと気づいた。


 出会い頭、目の前の相手の自己紹介をスルーしたままであったと。


「オレは柳田由紀夫だ。野郎からユッキー呼ばわりは勘弁な? 仕事は水商売で、いわゆる人生ドロップアウト組だから、その辺りは気にしないでおいて欲しい。部屋はオマエと同じ三階に住んでる。北側な」


「私は山野辺亜里沙だよ。私もユッキーと同じで高校中退して働いてるんだよね。昼間はアパレルで服とか売ってるから、ニッシーも気になったら遊びにくるといいよ。ちなみに部屋は一階の和室だね! 知ってる? 三階より一万円も安いの!」


 西野は黒ギャルの名前を深く脳裏に刻み込む。


 決してもう一人の同居人を軽んじている訳ではない。ただ、昨今のフツメンにとって、日常生活を共にする同世代の異性の存在は、とても重要なものであった。トイレで、風呂場で、その他にも実に様々な場所で、自ずと想定されるハプニング。


 今日から始まる生活が楽しみでならない童貞野郎だ。


「柳田と山野辺か。分かった、よろしく頼む」


「いきなり呼び捨てかよ? これでもオレ、二十一なんだけど」


「すまない、気に障るようであれば敬称を付けるが……」


「いやまあ、別に呼び方くらい何でもいいけどさ。そう畏まられるような人間でもねぇから。それにオレもオマエくらいの頃は、向こう見ずに粋がってたから、そういう気持ちって分からないでもないし」


 なにやら諦めた様子で、ガシガシと頭を掻いては語ってみせるユッキー。


 そんな彼に間髪を容れず声を掛けるのが、黒ギャルの彼女である。


「ユッキーは優しいからね! そういうところ凄くいいと思うよ!」


「オマエも下らないことでいちいち褒めるなよ。ダサさが目立つじゃん」


「えへへ」


 ユッキーを見つめて、黒ギャルは楽しそうに笑みを浮かべる。


 その姿を眺めて、西野は心が暖かくなるのを感じた。


 童貞とは惚れやすいのだ。


 対等に会話をしてくれる異性から、少しでも優しくされたのなら、簡単にコロリといってしまう。シェアハウスという環境が手伝えば、彼の中では思春期の女子中学生さながら、運命的な出会い、なる単語がむくむくと鎌首をもたげ始める。


「至らないところも多々あるとは思うが、どうかよろしく頼みたい」


 テーブルを正面に置いて、西野は深々と頭を下げてみせた。


 すると、そうした彼のバカ正直な思いが通じたのだろうか、二人は穏やかな面持ちでこれに応じてみせた。


「だから、そうして畏まられるのが嫌だっつってるだろ?」


「私は先輩として偉ぶれると気分いいかなー? 職場だと一番下だし」


「コイツのこと虐めるなよ? っていうか、オマエとは普通にタメじゃん」


「そんなの分かってるよー」


 どうやら黒ギャルは西野と同じ年齢らしい。


 濃いギャルメイクの影響も手伝い、てっきり年上かと考えていた彼である。おかげでフツメンの気分は更に盛り上がる。人知れず静かに高ぶる。年上は年上で悪くはないが、同世代こそ堪らない青春大好き野郎である。


「っていうか、その制服ってどこの高校?」


「ここいらじゃ見ないよねー」


「ああ、実は……」


 ユッキーからの問い掛けを受けて、西野は同所に流れ着いた理由を説明した。


 長らく知人の家で世話になっており、自宅を留守にしていたこと。自宅アパートに戻ったら建物が火事で焼けていたこと。途方に暮れていたところ、大家の好意からこちらのシェアハウスを紹介されたこと。おかげで住まいと高校とが少し離れたこと。


 一連の突拍子もない身の上話を耳にして、二人は驚いた。


 元いた学校で苛められて、転校のついでに引っ越した、みたいなことを想像をしていた彼と彼女である。まさか火事で焼け出された末の転居とは思わない。一変してその顔には、心配気な表情が浮かんだ。


「火事とかヤバイでしょ!? 家財道具とか大丈夫?」


「マジかよ。親御さんは大丈夫だったのか?」


「元々一人暮らしだったから、家族は問題ない。家財道具も理由あって、知人のところに運び出していた。焼けてしまったものもあるが、そう大した問題にはなっていない。それに古いアパートだったからな、こちらの家の方が遥かに過ごしやすそうだ」


 一方で問われた側は飄々と語ってみせる。


 仕事柄、拠点の炎上や崩壊には慣れがあるフツメンだった。


「そ、そうなのか? 意外とオマエって図太い神経してるのな……」


「お気に入りの服とか燃えたら、私なら絶対に泣いちゃうよぉ」


「ここ最近は空気も乾燥してきているから、火の手も上がりやすいのだろう。出火の原因はタバコの火の不始末だそうだ。そのうち火災保険が入るだろうから、服やらなにやらは追々考えていこうと思う」


 引っ越しの荷物整理と合わせて、諸々の手続きを終えていた西野だ。後は先方からの連絡を待って、調査や支払いなどの処理が行われる手筈となっている。他に保護者が必要な処理については、マーキスに丸投げした彼だ。


「足りないものがあったら言ってくれていいぞ? 少しなら貸してやる」


「あ、私も店でメンズの廃棄とかあったら、こそっと持って帰ってくるね!」


「いや、流石にそこまで面倒を掛けることはない。幸い金には困っていないから、普通に接してくれたら助かる。ああそうだ、取り急ぎこの家について確認したいんだが、掃除や食事の支度など、家事の扱いについてはどうなっているんだ?」


「そういや、その辺りも決めていかないとな……」


「今まで私とユッキーの二人だったから、結構適当だったんだよねぇ」


 そんなこんなで夕食の時間は過ぎていく。


 やがて同日は鍋を囲ってしばらく、日が変わる前にお開きとなった。


 片付けは明日でいいだろうと話し合い、そのまま自室に撤収である。鍋だけは蓋をして冷蔵庫にしまい込む。明日の晩にでも雑炊にして食べるのだという。西野も素直に部屋に戻り、備え付けのベッドに横となった。


 終始穏やかに過ぎた会話の場は、フツメンにとって非常に充実したものであった。取り分け同世代の異性と共に鍋を囲うというシチュエーションが、彼にとっては類稀なる機会であった。これまで幾ら求めても、一向に与えられなかった代物だ。


 おかげで多少なりとも気疲れしていたのかも知れない。


 気づけば数分も経たないうちに寝入っていた。


 ただ、それなりに酒を飲んだ為か、彼は喉の渇きを覚えて夜中に目を覚ました。枕元におかれた目覚まし時計を確認すると、日が変わって少し過ぎた頃合いだ。ベッドに入ってから一、ニ時間ほどが過ぎていた。


 普段より粘っこく感じられる口の中に不快感を覚えたフツメンは、二階のキッチンで水を飲むことにした。夜の暗がりの下、廊下に電気を付けることもなく、窓から差し込む明かりを頼りに廊下を歩んで、階段を下る。


 キッチンでは蛇口から垂れる水を両手で掬い飲んだ。


 喉が潤ったところで水道を止める。


 じゃばじゃばという音も途切れて、静かになった夜のキッチン。


 そこに小さく響く音に、彼は気付いた。


「あぁん……ユッキーッ、そんなに激しくすると、声が出ちゃう」


「別に構わないだろ?」


「今日からニッシーも一緒なんだよ? 聞かれちゃうよぉ」


「あいつは三階の部屋だし、いくらなんでも聞こえないだろ? その為にこうして、わざわざ一階のオマエの部屋まで来てるんだし。それとも、もしかして誰かに聞かれた方が興奮するとか?」


「そ、そういうこと言わないでよぉ……あんっ」


 声は階下から響いて思われた。


 男と女、二人分の声だ。


 どういった状況にあるのかは、童貞の西野でも容易に想像がついた。


「……戻るか」


 フツメンが想像する甘酸っぱい青春のシェアハウス生活は、引っ越した初日の夜、ものの見事に瓦解した。どうやら黒ギャルとユッキーは、男女の関係にあるようだった。見た目麗しい二人がひとつ屋根の下に住んでいるのだから、当然と言えば当然だ。


 ただ、そうした当然が、フツメンには少なからず衝撃的であった。




◇ ◆ ◇




 翌朝、西野は朝食を食べようと二階のダイニングに向かった。


 目覚まし時計に設定されたのは、アパートやローズ宅で寝起きしていた時分よりも、少しばかり早い時間帯。通い慣れた通学路から離れてしまった手前、十分に余裕を持って指定された午前六時半。


 すると、そこには既に人の姿があった。


「あ、ニッシーおはよー」


「ああ、おはよう」


 山野辺だった。


 ユッキーの姿は見られない。どうやら彼女一人のようだ。


 カウンター越しに眺める彼女は、なにやら忙しなくキッチンを行き来している。どうやら朝食の支度をしている様子だった。フロアにはトーストの焼けるいい匂いが漂っている。耳に届くブーンという低い音は、電子レンジの駆動音だろう。


「早いんだな」


「私は朝から仕事があるからねー。ユッキーは夕過ぎからだから、普段は昼過ぎまで寝てるよ。そういった意味だと、昨日は仕事がお休みだったんだよね。おかげでニッシーの歓迎会がすぐにできてよかったよ」


「なるほど」


「トースト食べる?」


「いいのか?」


「二枚焼いたから、一枚あげるよ。最近お腹の周りが気になるんだよね」


 昨夜の出来事を思い起こして、一瞬なんとも言えない気持ちになった童貞野郎だ。この可愛らしい口で男のモノを咥えていたのだな、みたいな気持ちだ。行為こそ目撃していないものの、そのサウンドは未だ脳裏にこびり付いて離れない。


 しかしながら、間髪を容れずに与えられた笑顔を目の当たりにして、そうした意識も自ずと引っ込む。更に続けざま、自身のために焼いたトーストを差し出されては、まさか彼女に対して悪い印象など持てない。


 それはそれ、これはこれ。自ずと胸が暖かくなったフツメンだ。


「すまない、ありがとう」


「バターはテーブルの上。ジャムは冷蔵庫の中だよ」


「分かった」


 山野辺から差し出されたトーストを受け取り、ダイニングテーブルに向かう。


 その間に童貞は意識を改める。


 たとえば路上を歩く二人に一人は女だ。そして、少子高齢化も進む昨今、十人に八人は二十歳以上。当然、性行為の経験もあるだろう。つまり、路上を行く者たちの四割は、もれなく男のモノを咥えた口で呼吸をしているということになる。


 とかなんとか、統計情報を駆使することで、童貞は自らの心の平穏を保つ。人類としてフェラチオは極めて自然な行いであるのだと、自身に言い聞かせる。石を投げればフェラチオ経験者に当たるくらい、ありきたりな存在なのだと認識を改める。


 おかげでフツメンは自然体で、トーストにバターを塗ることができた。


「……美味いな」


「えー? ただ焼いただけのパンだよー?」


「誰かに朝食を用意してもらうという、そんな瑣末な経験が浅くてな」


「…………」


 委員長だったら鳥肌モノのセリフである。


 拳が飛んできそうな物言いだ。


 しかしながら、そうしたフツメンの素直な吐露を受けて、山野辺は少し寂しそうな表情になった。そうかと思えば、彼女の口からは自然と慰めの言葉が漏れていた。これまでの元気な声色とは一変して、どこか穏やかさの感じられる口調である。


「ニッシー、困った時はお姉さんが相談に乗ってあげてもいいよ?」


 トーストを片手に、ダイニングの椅子に腰掛けたフツメン。


 そんな彼を背後から抱きしめるようにして山野辺が言った。


 これには西野も驚いた。


 それはもう痛いほどに胸の鼓動が高鳴った。


 生まれて初めて、純粋な好意から与えられたバックアタックである。


「……ありがとう。気持ちだけもらっておく」


「ユッキーも言ってたけど、素直じゃない年頃なんだねぇ」


 これでなかなか、山野辺は母性に溢れる黒ギャルだった。


 過去に同じようなことを繰り返して、幾度となく男と別れてはくっついてを繰り返している。ただ、本人にはまるで自覚がない。気づけば身体が動いているから、彼女の善意はいずれにせよ、男にとっては非常に都合がいい。


 ユッキーとも似たような経緯からくっついた彼女である。


 おかげで経験人数ばかりが増えていく。


「……そうか?」


「そうだよぉ」


「…………」


 ただ、今回は相手がこれまでと違っていた。


 童貞だった。


 おかげさまで何が起こることもない。


「すまない、溶けたバターがこぼれそうだ」


「あっ、ご、ごめんね!?」


 指摘を受けた山野辺は、大慌てで西野から離れた。


 もしも居合わせたのが竹内君であったのなら、そのまま生結合余裕の状況である。しかし、童貞はチャンスに気づけない。千載一遇の機会は本人に気づかれないまま、トーストの上で溶けたバターに流されるよう、サラサラと消えていった。




◇ ◆ ◇




 同日、西野はこれまでと変わらず二年A組の教室に登校した。


「おはよう」


 住まいが変わったことで、普段より少しばかり早く出発した彼だが、想像した以上に電車が混み合った為、到着は普段と大差ない時間となった。教室には既に大勢、登校した生徒の姿が見受けられる。


 活気に溢れた教室を確認して、彼は粛々と朝の挨拶を口にする。


「ここ数日、街路樹も末枯が目につくようになった。冬の足音を感じるな」


 居合わせた誰もが嫌そうな表情となり、今まさに姿を現したフツメンを視界から外した。ぷいっとそっぽを向いて応じた。おかげで本日もまた、これといって彼の挨拶に返事はなかった。


 しかしながら、本人はなんら気にした様子もなく自席に向かう。こういうのは継続することが大切なのだと、はた迷惑なことを考えている。当面は続きそうな西野の朝の挨拶運動だった。


 ただ、本日に限って言えば、そんな彼に絡む者が一人。


「西野君、ちょっといいかしら?」


「どうした? 委員長」


「どうした? じゃないわよ。それはこっちの台詞なんだけれど?」


 中間試験が目前に迫る昨今、ピリピリとしている委員長だった。


 この時期は仲の良い友人であっても気を遣うという。


 伊達に東京外国語大学を目指していない。


 そんな彼女の鼻腔をくすぐったのが、西野の身体に纏わり付いた甘ったるい香りであった。原因は今朝方、朝食の席を共にした黒ギャルの香水である。どうやら抱きついた拍子に匂いが移ってしまったようだ。


「学校に女物の香水を付けてくるとか、どういうつもり?」


「女物の香水?」


「学校は勉強をする場所よ? 自己アピールの場所じゃないのだから」


 まるで彼氏の浮気を咎める彼女のようなセリフである。


 ただ、ツッコミを入れる者はいない。何故ならばここ数日の委員長は、中間試験を目前に控えてピリピリしている。きっと勉強が上手く進んでいないのだろう、とは少しばかり気性を荒くした彼女に対する周囲からの評価だ。


「街路樹を気にする前に、まずは身だしなみを気にするべきじゃないかしら?」


 どうやら西野の朝の挨拶が鼻に付いたようだ。


 わざわざ文句を言いに足を運ぶあたり、だいぶストレスが溜まっている。


「なるほど、どうやら山野辺の香水が移ったようだ」


「山野辺? 誰よそれ」


 そんな生徒いたかしら? 委員長の脳裏に疑問が浮かぶ。


 これに何気ない調子でフツメンは答えた。


「同じシェアハウスに住んでいる同居人だ」


「……え?」


 西野の口から、似つかわしくない単語が溢れたことで、委員長の意識が一瞬ばかりフリーズした。シェアハウスって、なによ。っていうか、前に訪ねた自宅は、ぼろぼろの木造アパートだったじゃないの、みたいな。


 そしてこれは、二人のやり取りに注目していたクラスメイトたちも同様である。西野が安アパートに一人暮らししていることは、竹内君や委員長の口から伝わり、二年A組では周知の事実となっていた。


 それがどう転んだのか、一変してシェアハウスである。


「西野ってアパートで一人暮らししてるんじゃなかったの?」「けっこうボロいアパートだっていう話だったよな」「あ、私もその噂は聞いたことある。竹内君が見たとか言ってたよね」「あいつの目にはシェアハウスに見えてるんじゃね?」「いやいや、流石にそれは悲しすぎるだろ」「でも、ありえそうなのが怖いよな」


 そこかしこで好き勝手に言われたい放題である。


 せめてもの抵抗に、西野は自らの身の上を委員長に語ってみせた。


「これまで住んでいたアパートが火事で焼けてしまってな。当面の住処として、シェアハウスに引っ越したんだ。昨日、学校を休んでいたのも、これに関係した手続きや、引っ越しの作業に追われていたためだ」


「ふ、ふぅん?」


 委員長の顔が苛立ちから引き攣る。


 彼ら十代の若者にとって、家族と離れて暮らすシェアハウスでの生活は、一種のステータスのようなものである。それをよりによって、目の前のフツメンが実現していたとなると、彼女もまた面白くない。


 決して家族との同居が嫌な訳ではない委員長だが、彼女もまた現役女子高生である。シェアハウスでの共同生活に、憧れてしまったりするお年頃だった。よしんばイケメンの彼氏なんかできちゃったり、とは童貞の妄想と大差ない処女の夢物語である。


 おかげでクラスメイト一同からは嫉妬も一入。


「西野のやつ、絶対にワンチャン狙ってるよな」「だよな」「わざわざシェアハウスに引っ越すとか間違いないって」「三十過ぎのオバサンなら、自分でもイケるかも、とか考えてたりして」「うわ、マジキモいんですけど」「結構キツい匂いの香水だったし、ありえるよな」「言えてる」「どこまで堕ちれば気が済むんだろうな」


 おかげで巻き沿いを喰らった山野辺は、三十過ぎのオバサン扱いだ。


 まさか同い年の黒ギャルとは、誰も思わない。


「二年の二学期って高校生活において、とても重要な時期だと思うのだけれど、西野君は随分と余裕があるのね? シェアハウスっていうと、何かと騒々しいのでしょう? そんな環境でちゃんと勉強ができるのかしら」


「さて、どうだろうな。大丈夫だとは考えているが……」


「っ……」


 相変わらずな西野の物言いを受けて、志水の表情が殊更に強張る。


 私だって自撮りの動画が流出さえしなければ、もっと落ち着いて勉強に向き合っていられたのに。ちゃんと試験に向けて勉強できていたのに。そんなどうしようもない鬱憤を腹の中に抱えて、委員長は迫る中間試験にストレスを溜めていく。


 ここ数日、お腹の具合がよろしくない彼女だ。


「どうした? 顔色が思わしくないように見えるが」


「き、気の所為じゃないの?」


 これ以上は無様を晒すだけだと考えて、志水は二つ隣の自席に戻る。


 撤退の委員長である。


 すると彼女と入れ替わるように、他所から声が掛かった。


「西野君、ちょっといいかしら?」


 ローズである。


 人の出入りも激しい朝の教室、その後方に設置された出入り口の辺りから聞こえてきた。彼女は教室内にフツメンの姿を確認するや否や、ズンズンと歩みを進めて、彼の席のもとまでやって来くる。


「……なんだ?」


「今、シェアハウスとか何とか聞こえて来たのだけれど」


 どうやら委員長との会話を聞かれていたようである。


 耳聡い女だ、などと心中で愚痴を溢しつつ、西野は淡々と応じた。


「それがどうした?」


「随分あっさりと引越し先が決まったのね?」


「ああ、おかげさまでな」


「家財道具を抱えて、橋の下で途方に暮れているかと思ったのだけれど、無事に雨風を凌げていて何よりだわ。同じ学校の友人が十代でホームレスだなんて、いくらなんでも笑えないもの」


 西野の懐事情を理解して尚も、彼女は軽口を叩いてみせる。


 そこでふと、フツメンは一つの仮定に思い至った。


「……まさか、アンタか?」


「さて、なんのことかしら」


 この女だったらやりかねない、とは声にならない彼の思いだ。


 その脳裏に生まれた推測は、過去の彼女の行いを思い起こすと、決して一方的な妄想だとは言い切れない。あまり考えたいものではないが、一連のタイミングを考慮すると、どうしても現実味が湧いてくる西野だった。


「大家からはタバコの不始末と聞いたが?」


「冬場は空気が乾燥するから、火の始末は大切よね」


「…………」


「なにかしら?」


「……いいや、なんでもない」


 黒ではないのかも知れないが、到底白とも思えない物言いを受けて、西野は結論を急くことを辞めた。近隣住民を巻き込んでいる都合上、フランシスカも一枚噛んでいる可能性がある。そのように考えて、西野はこの場での追及を止めた。


 何故ならば今居るのは二年A組の教室である。


 これ以上、クラスメイトの前で言葉を交わすことは憚られた。


「それで、何の用だ?」


「私も火事の話はあの女から聞いていたから、心配していたの」


「よくまあ言ってくれる」


「本当よ? 行き場のない貴方に私から素敵な提案をと思って……」


 互いに見つめ合う二人。


 すると会話を始めたのも早々、ローズの言葉は他所からの声に遮られた。


「おはようございます。 昨日はどこにいラしたのですか?」


 ガブリエラである。


 彼女は教室内にフツメンの姿を見つけて、パタパタと駆け足でやって来た。今し方にローズが現れたのと同様、教室の後ろ側のドアから登場である。そちら側に彼女たちが所属する二年B組があるためだ。


 金と銀のロリータが彼の席の正面で横に並んだ。


「……気にするな。野暮用だ」


 いつぞやホテルでの出来事を思い起こして、西野は彼女から距離を置く。誘われるがまま、まんまんと部屋まで足を運んでしまった一件だ。ガブリエラ自身は誘った気も満々である一方、彼は完全に騙されたと思っているから羞恥も一入である。


 万が一にもその事実を知られては、とはフツメンの脳裏に浮かんだ黒歴史だ。もしも委員長が事情を知ったのなら、もっと他に恥ずかしがるべき事柄が沢山あるだろうと、突っ込みの一つでも入れていたことだろう。


「それじゃあな」


「あ、ちょっと西野君っ……」


「待ってください!」


 これ以上は構っていられないとばかり、フツメンは自席を後にした。




◇ ◆ ◇




 その日、ローズは午後の授業を休んで学校を発った。


 敷地内を正門から出た彼女は、正面の道路を流していたタクシーを拾う。運転手に行き先を告げて向かった先は、都内有数のオフィス街。その端に位置する、雑居ビルに囲まれた界隈である。


 自動車を降りてしばらくを歩むと、彼女は一件の喫茶店に入った。


 ドアに取り付けられた鈴が鳴り、客の入店を知らせる。


 平日も午後の昼下がり、書き入れ時にありながら店はがらんどうとしていた。手早く店内の様子を確認したローズは、奥まった席に見知った相手を見つける。二人掛けの席に一人で腰掛けたブロンドの女だ。


 ローズは早歩きで、その下に向かった。


 すると相手も彼女に気付いたらしい。


 相手の歩みが席の正面まで訪れたところで、口を開いた。


「ローズちゃん、私は貴方と違って忙しいのだけれど、いきなり一方的に呼び出すだなんて、どういう了見なのかしら? それとも学生ごっこに毒されて、自身の立ち位置まで見失ってしまったの?」


 しょっぱい顔で非難の声を上げるフランシスカ。


 どうやらこの場は、ローズの要請により設けられたようである。


「彼の引越し先が判明したわ」


「それならこっちも昨晩、貼り付けていた監視から報告を受けたわ」


「段取りはどうなっているの? 職務怠慢ではないかしら」


「アパートの大家が同情して、彼に物件を紹介したらしいのよねぇ」


「……それで?」


「その調査中よ。これから同居人の身辺を洗うところなのだから」


「そう……」


 フランシスカの言葉を受けて、ローズは少しばかり落ち着きを見せた。


 手元の椅子を引いて、その正面に腰を落ち着ける。


 テーブルの隅の置かれたメニューにチラリと視線を向けるも、これといって注文する素振りは見られない。表に並んだ記載を目の当たりにして、少しばかり顔を顰めると共に、改めて目の前の人物に向き直る。


「今後はどうするつもりなのかしら?」


「調査結果次第かしらねぇ? 今の時点だと何とも言えないわ」


「何よそれ。じれったいわね」


「貴方がここへ来たということは、本人だって多少なりとも疑っているのでしょう? あまりこちらから積極的に動いて、彼に距離を置かれるようなことになったら、それはそれで面倒じゃないの」


「…………」


「それともローズちゃん、貴方は何か良い案があるのかしら?」


「……分かったわ。報告を待てばいいのでしょう?」


「そういうこと」


 フランシスカの手元には、一度も手を付けられた痕跡のないカップが置かれている。注文されてからそれなりに時間が経っているようで、既に湯気が上がる様子も見られない。嵩を減らしているのは、サービスで一緒に付いてきたお冷だけだ。


「それともう一つ、確認したいことがあるわ」


「なにかしら?」


「あの女はいつまであの施設に通うつもりなのかしら?」


「あの女?」


「貴方が仕事の最中に拾った達磨よ」


「あぁ、それなら……」


 ガブリエラを指しての話だ。


 ここ数日、何かにつけて西野との交流を邪魔されているローズである。元々はフランシスカの指示で付き合いを持ったこともあって、自ずと非難が向いていた。彼女としては、すぐにでも引き取りに来てもらいと願って止まない。


 だが、そうした金髪ロリータの思いとは裏腹に、物事は悪い方へと転がる。


「……それなら、なに?」


「本人に聞いたらどうかしら?」


「…………」


 フランシスカがローズの背後を視線で指し示して言う。


 致し方なく振り返った先、彼女の視界に入ったのは、二人の元に向かい店内を歩む人物の姿だった。人間離れした真っ白な肌と綺羅びやかな銀色の髪は、まさか見紛うこともない。ローズと同様、学校をサボってのお出掛けだ。


「お姉さま、ぜひ私もお話に混ぜてください」


 ガブリエラである。


 今まさに話題に上がった人物を目の当たりにして、ローズは続く言葉に悩む。


「……どうして彼女がここにいるのかしら?」


「電話で貴方の所在を尋ねられたのよねぇ。駄目じゃないの、学校をサボっちゃ」


「尋ねられたからと言って、貴方はそれを素直に教えたの?」


「私の立場上、彼女からのお願いを断れる訳がないでしょう?」


「…………」


 素っ気なく答えるフランシスカを睨むように見つめるローズ。


 そんな彼女の顔を眺めて、ガブリエラは笑みと共に言葉を続けた。


「お姉さま、お顔が怖いです。そんなことでは彼に嫌わレてしまいますよ?」


「誰のせいだと思っているのかしら」


 昨今、ガブリエラに振り回されてばかりのローズである。

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