中間試験

ガブリエラ 一


 夕食の席、ガブリエラからの問い掛けは、西野の心を大きく揺さぶった。


 それは彼にとって、生まれて初めて耳にする異性からの告白。もしも相手がローズやフランシスカであったのなら、冗談や皮肉の類いとして受け取ったことだろう。しかし、今まさに声を掛けてきたのは、彼を他の誰よりも忌諱している相手だった。


 流石のフツメンも相手が嘘を言ったとは思わない。


 なによりその表情は、どこか真剣味の感じられるものであった。


「……どうですか?」


「…………」


 追い打ちを掛けるように問われて、反射的に口が動きそうになった。


 女なら間に合っている、とかなんとか、条件反射の域にまで至った皮肉屋の性である。しかしながら、いかに年齢イコール彼女いない歴の童貞だろうと、目の前の相手の真意は理解できた。小刻みに震える手元が、彼女の本心を如実に現していた。


 そういう細かい点に対して、妙に目敏いのが西野の長所であり短所でもある。


 なにより彼女はつい数日前まで、フツメンのことを毛嫌いしていたのだ。


「ちょっと待ちなさい、貴方は……」


 彼が何を言うより早く、ローズが割って入るべく動いた。


 これを割り入るように西野は言った。


「アンタが感じている感情は一過性のものだ。今晩はゆっくりと眠るといい。色々とあって心が疲弊しているのだろう。物事を正しく計れていない。それで尚も、意識が揺らぐことがなければ、改めて場を設ければいい」


 返されたのは例によって、圧倒的な上から目線。


 ただ、そこには童貞が故の躊躇が見て取れた。


 もしも竹内君であったのなら、今晩あたりホテルのお部屋で生結合余裕である。ローズやガブリエラが相手ならば、知り合いの薬剤師に頼んで、ピルをちょろまかすくらいのことは容易にやってのけるだろう。


 しかしながら、告られた彼は残念ながら女性経験が皆無だった。


「怯えているのですか?」


「……なんだと?」


 告白してきた相手に煽られて、思わず声色が低くなる西野。


 図星のフツメンである。


 どういう状況だよ、とはこれを眺める竹内君も困惑を隠し得ない。


「らしくない気遣いではありませんか? デートの最中には、一度として財布を見せなかった男が、今更自らを見直せだなどと、なんと素っ頓狂な話もあったものでしょうか。まるで私に怯えているようです」


「っ……」


 異性から告白される。そうした状況を妄想したことは、過去に幾度となくある思春期真っ只中の童貞だ。しかし、相手がガブリエラというのは、彼も予想外であった。結果的に一歩を引いてしまったのは事実である。


「初な童貞に気持ちを整理する時間をあげます」


「不要だ」


「今晩、部屋の鍵は開けておくです」


 今この瞬間、二人の間でモノを言うのは学園カーストのそれである。


 少なくとも第三者にはそのように映る。


 自らの優位を理解して、ガブリエラは一方的に呟くと共に席を立った。


 見送る皆々の表情はと言えば、千差万別である。驚愕の眼差しを浮かべるのが竹内君。ピクリピクリと目元を震わせながら、静かに怒りを燃やすのがローズ。そして、どこか納得した表情を見せるのが向坂。


 つかつかとヒールを鳴らして、ガブちゃんは悠然と席から去っていった。


 舞台の上でおトイレを我慢していた彼女とは雲泥の差である。


 高校生というには歳幼く映る外見の彼女だが、段々と遠ざかってゆくその背中には、どこか見る者を圧倒する迫力めいたものがあった。少なくともローズにはそのように感じられた。恋のライバルが登場である。


 西野に対する苦手意識は一変して、好奇心に変わったようである。


 一方で告られた当人はと言えば――


「やれやれ、モテる男は辛いな……」


 完全に負け犬の遠吠えである。


 周囲の注目から逃れるように、その意識は自ずと食事に向かう。ナイフで切ったマッシュポテトをフォークに乗せて優雅に口へ運ぶ。


 妙に綺麗な一連の流れが、別段悪いことをした訳ではないものの、それを目の当たりとした者たちの意識をこれでもかと逆撫でた。




◇ ◆ ◇




 同日の夜、ローズは苛立ちと焦りに苛まれていた。


 食事を終えてホテルの居室に戻ったのも束の間、居ても立ってもいられなくなった彼女は、すぐに同所を発った。その足が向かった先は、同じホテル、同じフロアに押さえられた、ガブリエラの居室である。


 すると食事の際に伝えられたとおり、ガブちゃんの部屋のドアは鍵が掛けられていなかった。ドアにストッパーが挟まれて、少しだけ隙間が空いていた。西野に対して格好つけて語った手前、一方で全室オートロックであったが故の処置だろう。


 それはまるで昭和のサラリーマンが、エアコンの普及していない地方のビジネスホテルで、寝苦しい夜に耐えるが如く。あるいは平成の世にありながら、エアコンの設置が見送られた、貧乏な公立大学の学生寮さながらの光景である。


 おかげでこれ幸いと、戸口を越えたローズは廊下を奥に向かい歩む。


 際しては内側からドアを閉じてロックを作動させる事も忘れない。


 すると目当ての相手は、リビングスペースのソファーで寛いでいた。


「あラ、お姉様。こんな夜更けにどうしたのですか?」


 片手にはワインのグラスなど持ち、これを燻らせている。


 テーブルの上には値の張りそうなボトルと、綺麗にカットされたチーズやハムが皿に乗せられており、まるで映画のワンシーンのような光景だ。また卓上には、彼女が手にしたものとは別にもう一つ、空のグラスが窺える。


 その様子を目の当たりにして、ローズは殊更に気分を焦らせた。


「少し話がしたくで来たわ」


「でしたラ早めに切リ上げて欲しいです。彼が来てしまうので」


「……さて、それはどうかしら」


 二人の間で視線が交わされる。


 ピリリとした空気が一室に流れた。つい昨日までであれば、到底考えられなかった雰囲気だ。ガブリエラはソファーに腰掛けたまま、これといってローズに構う素振りを見せない。そんな銀髪ロリータの姿に金髪ロリータは焦りを覚える。


「お姉様、まさか彼に何かしたのですか?」


「さぁ?」


「…………」


 決して順風満帆とは言い難い金髪ロリータのフツメン攻略の進捗。


 それがガブリエラの登場で完全に破綻の兆しを見せていた。


 西野と交わした約束の三ヶ月が、今のローズにはあまりにも近い。


「どうしても、私の部屋かラ帰って頂けませんの?」


「どうしても貴方とお話をしたい気分なの。駄目かしら?」


「…………」


 これといって何をした訳でもないローズ。しかしながら、それでも見栄を張ってしまうほどに、追い詰められている彼女だった。同棲こそ勝ち取ったものの、二人の間柄は旅行から戻って以来、なんら進展を見せていない。


 だが、それは悪手だった。


「お姉様、知っていましたか? 私、惚レた相手にはとても優しいのです」


「それがどうしたの?」


「こういうことです」


 先んじて動いたのはガブリエラである。


 何気ない調子でソファーから立ち上がった肉体が、次の瞬間、床を蹴ってローズの下に迫った。咄嗟に身を引こうとした後者は、いつの間にやら、身体の自由が失われていることに気づいた。指先すら碌に動かせそうにない。


「っ……」


「あぁ、なんて可哀想なお姉様っ」


 ガブリエラの拳がローズの顔面を捉えた。


 固く握られた義手が金髪ロリータの顔面を撃ち抜く。鼻骨を押し潰して、更に頭蓋骨さえ凹ませるほどの拳骨だ。殴られた側は、まるで爆風にでも煽られたように、後方に向い飛んでいく。数瞬の後、部屋の壁に当って床に落ちた。


「ぅっ……」


 悲鳴を上げる余裕もなさそうだ。


 顔を両手で抑えて、耐えるばかりである。その凹み具合は、まるで交通事故にでもあったかのようだ。患部からはしゅうしゅうと白い煙が上がっており、その下で今まさに崩れた顔面の造形が、元あった形を取り戻してゆく。


 これを悠然と見下ろすのが、仁王立ちのガブリエラ。


「再生者というのは、そういうふうに怪我を治すのですね」


「…………」


「なんだかエッチな気持ちになリます」


 短く呟いて、ローズに向かい一歩を踏み出した。


 おもむろに突き出された右腕、その手の平から先に真っ赤な炎が灯る。松明ほどの炎が立ち上って、照明も控えめの薄暗い室内を暖かな色に照らす。二人の影がゆらゆらと揺らいでは、やけに大きくリビングの壁に映る。


「私はこレから彼をお迎えすルのです。おかえリ願えませんか?」


「……む、迎えて、どうするのかしら?」


 どうにか上半身を起こして膝立ちとなり、相手を睨むように唸るローズ。


 苛立ちからか、床に敷かれた絨毯をギュッと握りしめる。


 接触から数分と経たぬ間に、その顔面は元の形を取り戻していた。


「さぁ、どうしましょうか? 私は彼のことを色々と知リたいのです」


「…………」


 語るガブリエラの声色が本気であると理解したのだろう。


 自ずとローズの身体は動いていた。


 つい今し方に掴んだ絨毯、これを馬鹿力に物を言わせて力一杯に引いた。ソファーやテーブルなど、上に乗っていた家具が大きく揺れ動く。音を立てて倒れる。そして、それは人もまた例外ではなかった。


 予期せず動いた足場を受けて、ガブリエラの身体が大きくグラついた。


 手の平の先に灯った炎が消える。


 これを勝機と見たのか、ローズは間髪を容れずに駆け出した。フローリングを凹ませるほどの脚力で床板を蹴り付けて、大きく身体を飛ばせる。向かった先には、ガブリエラの姿がある。


 その顔を目掛けて拳が迫った。


 当たれば人体など容易に吹き飛ばすほど、勢い付いた一撃だ。


 しかし、彼女の反撃は相手まで届かなかった。


 相手の鼻先に拳が接しようかというギリギリのところで、ローズの身体は空中に固定されたように、動きを失っていた。そして、どれだけ力を入れても、身じろぎすら儘ならない状況となる。強引な急制動を受けては全身が激しく痛んだ。


「っ……」


「以前受けた彼かラの教示は、なかなか的を射たものでした」


 拳を突き出した姿勢で静止する金髪ロリータ。


 ここで彼女は出会って当初のガブリエラを思い起こす。ここ数週間に渡る一方的な求愛から、更には西野から軽くあしらわれる弱々しい姿から、本来であれば抱いていた筈の脅威が薄れていたと、今更ながら理解するローズだった。


 おかげで虚を突いたつもりが、逆にしてやられてしまった。


「お帰リ下さい、お姉様」


「っ……」


 空中で固まった姿勢のまま、ローズの身体が動き出す。


 取り立てて腕で押したりせずとも、ガブリエラが念じるに応じて、スイスイとベランダに向かって移動してゆく。その様子はまるで、目に見えないベルトコンベアーにでも乗せられているようだった。


 やがて、辿り着いた先は屋外に面したテラスである。


 彼女たちが近づくに応じて、ドアノブは勝手に下がった。戸口もまた自ずと開かれて、空中に浮かんだローズは外に連れ出される。この間、どれほど身体に力を込めようとも、拿捕された肉体は指先さえピクリとも動かせない。


「お姉様ではどう足掻いても、私に勝てませんよ」


 ローズの肉体が、落下防止の為の柵を越えて空中に晒される。


「……どうするつもりかしら?」


 これを受けては彼女も表情が引き攣る。


 いかに死なないとはいえ、痛いものは痛いのだ。また、衣服や髪に飛び散ってしまった血液や血肉は、決してなかったことにはならない。後片付けの面倒を思うと、頭が痛くなる思いの彼女である。


「そんなの決まっています」


 ガブリエラが呟くと同時に、ローズの身体から支えが失われた。


 地上数十メートルの地点から、真っ逆さまに落ちていく金髪ロリータ。これを銀髪ロリータは最後まで確認することなく、さっさと踵を返した。やがて、数秒ほどの間隔をおいて、遠くからどさりと物音が響いた。


「おやすみなさい、お姉様」


 テラスと居室を繋ぐドアは早々に閉められた。


 再び彼女の居室に静寂が戻る。


 これと時を同じくして、金と銀のロリータ二名が争うのとはちょうど反対側、ガブリエラの居室に通じる廊下に人の気配があった。他に人通りも少ない上等な部屋ばかりが並ぶフロアでのこと、ドアの正面で行ったり来たりしている。


「…………」


 西野である。


 皆々の前では格好つけた手前、それでも気になってやって来た童貞だった。


 別に承諾するつもりはない、だが、相手は真正面からこちらに好意をぶつけてきたのだから、これに対して紳士的に対応することもまた、人として大切な云々、あれこれと面倒くさいことを考えつつの来訪である。


 多少ばかり躊躇したものの、やがて彼はドアノブに手を伸ばした。


 しかしながら、これが一向に下がらない。


「…………」


 二度、三度とドアノブを下げては見るが、万力で固定されたように動かない。


 それはそうである。昨今、ホテルの居室はオートロックが普通だ。


「……鍵が掛かっているな」


 おかげで西野は、自分がガブリエラにからかわれたのだと理解した。


 足を運んでしまった手前、ちょっと恥ずかしい感じ。


 ただ、同時に少しホッとした童貞だった。


 まんまと相手の言葉に騙されて、素直に同所を訪れてしまった自身の愚かさを猛省する一方、これといって気分を害した様子もなく自室に戻る。少しばかり残念ではあるがな、などと格好付けたことを誰に言うでもなく呟いての帰路だった。


 予期せず差し迫ったセックスに狼狽える初な童貞は、そんな感じで去っていった。


 まさか今まさに、ローズが地上に向かい落下しているとは思わない。




◇ ◆ ◇




 翌日、ホテルをチェックアウトした西野は、その足で六本木のバーに向かった。


 イベント会場でガブリエラのパパから確認した話をマーキスに伝える為である。


 ちなみに彼の財布は依然としてスッカラカンだ。おかげで移動手段は徒歩となる。会場近隣のホテルを発ったフツメンは、レインボーブリッジを越えて、増上寺の脇を通り、東京タワーを傍らに眺めつつの二時間コース。


 自ずと到着する頃には、太陽も高いところまで登っていた。


 おかげで上手い具合、店の仕込みに出ていたマーキスを捕まえることができた。


「そういう訳だから、当面は安心して商いを続けるといい」


「……そうか」


 例によってカウンター越し、両者は客とバーテンの装いで言葉を交わす。


 表に掛けられた札はクローズ。店内には彼らの他に、誰の姿も見られない。これ幸いとフツメンは、ここ数日で得た情報を一通り、目の前の相手に語ってみせた。取り立てて隠し立てすることはない。


「他に気になることがあるなら、あの女が色々と知っている」


「分かった」


「話はそれだけだ」


 昼から酒を飲む気にはなれないようで、西野はこれといって何を注文することもなく、椅子から腰を上げた。彼が店を訪れてから、まだ三十分と経っていない。カウンターには出されて間もないミネラルウォーターが、グラスに半分ほど残っている。


 フツメンの歩みは店の外に向かう。


 そんな彼の背をマーキスが呼び止めた。


「まあ待て、こっちからも渡したいものがある」


「……なんだ?」


 西野は素直に振り返ってこれに応じた。


 そうしたフツメンの面前、マーキスはジャケットの内側から封筒を取り出す。そして、丁寧な手付きでカウンターに置いた。口の部分が糊付けされた茶封筒には、これといって送り状も見受けられない。


「念のため、この場で確認してくれ」


「随分と慎重じゃないか」


「モノがモノだ、慎重にならざるを得ない」


「…………」


 マーキスのけったいな文句を受けて、西野は素直に封筒を手にした。


 糊付けされた封を丁寧に開けて、その内に納められた紙面を確認する。三つ折りにされた簡素なコピー用紙だった。開いてみると紙面には、黒いインクでサラサラと横書きのメッセージが短く示されていた。


 曰く、娘が迷惑を掛けた補償及び謝礼とのこと。


 また手紙を開く応じて、ひらりと他に一枚、小さな紙が舞ってカウンターに落ちた。どうやら小切手のようだ。記載された額面を確認してみると、西野のローズに対する借金を一括で支払って、それでも余りあるほどの金額が記載されていた。


「たしかに渡したからな」


「……これは?」


「俺はただの運び屋だ。事情は本人に聞いてくれ」


「…………」


 小切手の差し出し人には、ガブリエラのパパの名が記載されていた。


 押し付けがましいほどの額を眺めて、西野はその理由を理解する。相手はフランシスカの上に立つ人物だ。彼女が挙げた報告書にも目を通しているに違いない。十中八九、昨今のローズとの関係を知った上で、こうして小切手など送ってきたのだろう、と。


 そこでフツメンは少しばかり考える。


 受け取るべきか否か。


 結論はすぐに出た。


 元はと言えば、ローズに借金を作る羽目となったのも、ガブリエラとの一件が原因である。もちろん、それが直接的な理由ではない。だが、彼女という存在が介在しなければ、二人の関係が金銭を挟んで拗れることもなかった。


 ならば、わざわざ送り返すこともないだろう。


 そのように判断して、西野はこれをカウンターの上に差し出し言った。


「悪いが、いつもどおり処理しておいてくれ」


「分かった」


 マーキスは差し出された小切手を丁寧に受け取り、ジャケットの胸元にしまった。一連の振る舞いは、なかなか熟れたものである。だが、実際にはドキドキと胸を痛いほどに鳴らせているバーテンだ。それくらい大きな額だった。


「手数料はサービスしておこう」


「いいのか?」


 少しばかり驚いた様子で西野は問い掛けた。


 扱う桁が大きいので、手数料だけでも結構な額になる。大きな企業を定年退職したサラリーマンの退職金ほどには魅力的なものだ。しかし、彼はなんてことないように振る舞い、淡々と応えてみせた。


「なんだかんだでアンタに救われた身の上だ」


 口元にはニィと、小さく笑みなど浮かべている。


 顔立ちに優れるマーキスが行うと、とても絵になる光景だった。


「…………」


「どうした?」


「いいや、なんでもない。それじゃあ悪いが頼んだ」


 短く応じた西野は、改めて踵を返す。


 色々と擦った揉んだもしたが、なんだかんだで元の鞘である。


 マーキスともまた、共に仕事をすることになるだろう。


 そんな事実に、少しばかり心が温かくなった西野だった。




◇ ◆ ◇




 同日の晩、西野はローズ宅のダイニングで家主と共に夕食を取っていた。


「ねぇ、西野くん」


「なんだ?」


「今日は朝から出掛けていたようだけれど、どこへ行っていたのかしら?」


 ダイニングテーブルの上にはローズ手製の夕食がズラリと並ぶ。


 つい先月までは、連日に渡って出前ばかりであった同宅の食生活が、西野を迎え入れるや否や、一変してパスタの生地からドレッシングのソースに至るまで、全てが手作りである。しかも全ての料理に彼女からの、溢れんばかりの愛情が注ぎ込まれている。


「マーキスに会っていた」


「あら、そうなの?」


「なんだ? 何か問題でもあったのか?」


「いいえ? そういうことなら別に、取り立てて何もないわ」


「…………」


 もしかしたら、ガブリエラと一発ヤッていたのかもしれない。そんな想像が自ずとローズの口を動かしていた。伊達に昨晩、本人からフルボッコにされていない。こうして顔を合わせるまで、気が気でなかった金髪ロリータである。


 ただ、そうした彼女の問い掛けは、藪蛇であった。


「あぁ、そういえばその件で一つ、アンタに報告がある」


「報告? なにかしら? 良い報告だと嬉しいのだけれど」


「少なくとも、こちらにとっては好ましい報告だ」


「……ふぅん」


 西野の言葉を耳にして、ローズの頬がこわばる。


 残念ながら、目の前の彼にとって好ましい報告は、大抵の場合で彼女にとって、好ましくない報告となる。


 そして、今回もまたそれは例外ではなかった。


「アンタに借りていた金を返す目処が立った」


「っ……」


 フツメンからの報告を受けて、ローズは衝撃を受けた。


 何故ならばそれは、昨今の彼女にとって、西野との唯一と称しても過言ではない繋がりであった。いつぞやクラスメイトとの卒業旅行を巡り、偶然からフツメンの命を助けたことによって得た金銭のやり取りである。


 こうして彼が彼女の自宅で食事を取っているのも、偏にそれが理由である。


 もしも貸し借りが無くなったのなら、目の前の男は翌日にでも家を出ていくだろう。ローズはそのように考えていた。そして、フツメンもまた実際に、そのように考えて話を切り出していた。


 当然、金髪ロリータは焦った。


「結構な額だったと思うのだけれど、随分と景気が良いわねぇ?」


 精々余裕を取り繕って、大上段に語ってみせる。


 一方でフツメンは、普段と変わりない態度でこれに応じた。


「伊達に銀行屋などしていないということだろう。気前のいい話だ」


「っ……」


 西野の言葉を受けて、ローズの脳裏に浮かんだのはガブリエラの姿である。


 昨晩から続けざま、肉体的にも精神的にも、ガブちゃんによってフルボッコの憂き目を見ている彼女だ。両者の力関係は完全に逆転していた。あの娘、また私の邪魔をするつもりかしら、とはその脳裏に浮かんだ一方的なやっかみである。


「暇を見てマーキスのところに行ってくれ。話は通してある」


「……わ、分かったわ」


 まさか頷かない訳にはいかないローズだった。


 ピクリ、ピクリと口の端が震えている。


 これを取り繕うように、ナイフとフォークを大仰にも動かして、皿の上に盛られたハンバーグを口に運ぶ。もっきゅもっきゅと肉を噛み締める顎には、普段以上に力が込められており、肉の細かな繊維の一本一本まで摺り潰さん勢いだ。


 何故ならば彼女には、あまり猶予が残されてはいなかった。


 同じく旅行の最中、ローズは西野に対して宣言した。


 三ヶ月後、貴方が私に惚れていなければ、二度とその前に姿を現さないと。


 そして、なんだかんだで丸一ヶ月が経過した昨今、フツメンが彼女に惚れる兆しはまるで見られない。誤算に次ぐ誤算が、ローズの計画を著しく乱していた。更に今回の一件を受けては、当初のプランなど完全に崩壊である。


「おかげでこれ以上、ここで厄介になる必要もなくなった」


「……ええ、そうかもしれないわね」


「今週中にでも元のアパートに戻ろうと思う。そう大した荷物もないが、一人で運ぶには些か量がある。業者を手配するので、出入りの許可が欲しい。もしも必要であれば、そちらの指定する業者に頼むとしよう」


「…………」


 続けられた言葉に、彼女の頭は真っ白になった。


 大した進展らしい進展もなかった同棲生活。気づけばあっという間に過ぎていた時間。もしも進歩があったとすれば、それは毎日の食事に際して、今日は何を入れようかと、あれこれ考えて臨んだキッチンでの調理の手際くらいなもの。


 本日の献立もまた例外なく、彼女の体液が十分に練り込まれている。


 その為のハンバーグに他ならない。


 如何に素材の味を生かすことなく、全体として複雑な風意味に仕上げるか。彼女の調理技術はその一点において、ひたすらに高みを目指していた。より深みのある素材の味を隠すため、努力に余念のないキッチンライフだ。


「どうした?」


「いいえ、なんでもないわ」


「許可をもらえるか? ここのセキュリティはしっかりしているからな」


「そうね……」


 どうにかして眼の前の男を自宅に残す方法はないものかと、ローズは必死になって考えた。このままでは据え膳も食いっぱぐれ。せめて一度くらいは逆レイプしないと、引くに引けない金髪ロリータである。


 すると彼女にしては珍しくも、その脳裏にピンと閃くものがあった。


「分かったわ。私もそろそろ引き払おうと思っていたの」


「そうなのか?」


「ええ、そうよ? なにも好き好んで、こんな成金趣味の場所に住んでいる訳じゃないわ。貴方には以前にも言ったと思うのだけれど、仕事の為にセキュリティを確保する必要があっただけだもの」


「そういえば、そんなことを言っていたな」


「それも貴方のおかげで無事に終えたから、近々引っ越すつもりだったの」


「アンタたちは、まだ日本にいるのか?」


 たち、と語尾に付いたのは、フランシスカも含めての話だろう。


 西野にとっては、あまり嬉しくない主従である。


「ええ、当面はその予定かしら」


「……そうか」


 なにやら面倒臭そうな表情となるフツメン。


 これに喜々として、ローズは続く言葉を返した。


「セキュリティには話を通しておくわ。好きにして頂戴」


「あぁ、助かる」


「ところで、引っ越しはいつ頃を考えているのかしら?」


「平日は学校がある。やるとしたら週末になるだろう」


「週末ね? 分かったわ」


 穏やかに笑みを浮かべたローズは、軽い調子で頷いてみせた。

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