部活動
同棲
アテネを発って翌々日、西野とローズは日本に帰ってきた。
竹内君たちは更に二日間を滞在してから、日曜の夜に帰国する予定となっている。本来であれば金髪ロリータもまた、彼らと同様の日程を取る筈であった。それを彼女は体調不良を理由に辞退した。急な航空券の調整はフランシスカの仕事である。
そして、羽田帰着から一晩を経て本日、彼と彼女はローズ宅に居る。
「これで一通り運び込みが終わったわね」
もの凄く嬉しそうな表情でローズが言った。
「あぁ、そうだな」
これに西野は平素からの仏頂面で淡々と答える。
二人が眺めているのは、ローズ宅の空き部屋に新設された西野ルーム。六畳一間のボロアパートから、本日いよいよ引っ越し先が為された次第である。旅行先で交わした約束に従い、本日からフツメンの生活の場は、こちらへ移される運びとなった。
物件としては広さも施設も比べようがないほどに優れる。
「お風呂とシャワーは共用になってしまうけれど、好きなように使ってもらって構わないわ。ルールのようなものを設けるつもりもないから。その代わりと言ってはなんだけれど、備品がなくなったら補充しておいてもらえると助かるわね」
語るローズは口元がニヤけるのを押さえるに必死である。
「分かった」
「それと、これが部屋の鍵よ」
家主の手から一枚のカードが渡される。
「……カードなのか」
「え? どうかしたかしら?」
「いいや、なんでもない」
ごく一般的なピンシリンダーの鍵しか持ったことのないフツメンにとっては、いよいよ本格的に肌で感じ始めたブルジョアの世界。一歩を踏み込んで、それが怨敵の手によりもたらされたものだと思い返しては、なんとも複雑な気分だろうか。
「なにか質問はあるかしら?」
「これまでの説明で十分だ」
「そう? なら良いのだけれど」
ローズ宅の賃料は月額三桁を超える。そこに西野宅にあった安物の家具が並ぶ様子は、違和感も甚だしい。部屋の広さに関しても、彼が借りていたアパートと比較すると、キッチンやトイレなどを含めたとしても、まだこちらの方が広い。
格差社会の極まりを如実に表わす光景だった。
「それで俺は何をすればいい? 跪いて足でも舐めればいいか?」
「っ……」
一瞬、ドキンと胸を痛いほど強く脈打たせるローズ。
凄く舐めて欲しいキチガイ女だった。
しかしながら、まさか悟られてはいけない恋心。
「それは非常に魅力的な提案ね? けれど、貴方に足を舐められたところで、私の懐はなんら潤わないの。それよりも一つ、家事の分担に関して事前に話があるのだけれども、聞いてもらって良いかしら?」
泣く泣く軽口を叩く金髪ロリータ。
今晩の彼女のオカズは、今し方の発言に決定である。
現在進行形で下腹部のステータスはキュンキュンだ。
「あぁ」
「当面は生活にも慣れないだろうし、炊事洗濯掃除は私が行うわ」
「それはまた偉く献身的だな?」
「あら、女に飢えている童貞の西野君は、もしかして私の下着を洗いたかったのかしら? そこまで熱望されたのなら、下着だけ別で洗濯させてあげても良いのだけれど。一つくらいなら、部屋に持ち帰ってくれても構わないわよ?」
「勝手に言っていろ。家事に関しては了解した」
「張り合いがないわねぇ」
「張り合ったところで意味が無い」
この手の話題で目の前の相手に敵わないことは、西野もまた理解していた。無理して張り合うこともないと、素直に頷いて早々に会話を打ち切る。ローズとしては、もう少し逆セクしたかったところだが、逃げられてしまっては致し方なし。
代わりに今晩より、西野の下着をしゃぶり尽くす腹づもりの彼女である。
「私から事前に伝えておくことはこの程度ね」
「それだけか?」
「ええ、それだけよ。西野君からは何かあるかしら?」
「いいや、十分だ」
さっさと会話を切り上げるべく、言葉少なに応じる西野。
一方で会話をしたくて堪らないローズは、何かと話題を見つけて語り掛ける。
「それなら代わりに私から一つ、あなたに質問があるのだけれど」
「言ってみろ」
「左目の眼帯はいつになったら取れるのかしら?」
ローズの見つめる先、フツメンの片目は真っ白い布生地によって覆われている。旅先から本日に至るまで、一度として人前に外されることのなかった眼帯だ。現地では医者の世話になっていたこともあり、流石の彼女も気になるのだろう。
しかしながら、答える彼の態度は素っ気ないものだ。
「さあな」
「…………」
それ以上は触れてくれるなとばかり、西野の視線はローズから逸れて、窓ガラスより屋外の景色を眺めるよう移る。存分に勿体ぶりながらの振る舞いは、委員長あたりが目の当たりとしたのなら、非難の声の一つでも上げていたことだろう。
これと時を同じくして、リビングから廊下越しに、ボーンボーンと穏やかな音が響いた。掛け時計の鳴る音である。それ一つで西野邸の家賃を数ヶ月分、まとめて支払えるだけの代物である。
時刻はちょうど、正午を回った頃合いだった。
「それならお昼にしましょうか」
「ああ」
ローズが先導する形でダイニングに向かう二人。
テーブルには先んじて彼女が注文していた寿司が並ぶ。つい数分前に到着したばかりの特上寿司二人前である。都内でも有数の名店。価格にして二桁万円の傲りっぷりは、如何に彼女が今日という日を喜んでいるかを示す一種の指標である。
日々を大手牛丼チェーンの二百九十円に過ごすフツメンにとっては、滅多でない御馳走だった。貯蓄残高がサントリーニの一件で失われた昨今、もはや他者に縋らねば食すことのできない銀シャリたちである。
「随分と良いモノを食べているようだな」
「そうかしら? ノーマルの稼ぎには遠く及ばないと思うのだけれど」
「その稼ぎの全ても、今やアンタの懐だ」
「ところで西野君、毎月のお小遣いはどれくらい必要かしら?」
椅子に腰掛けて、パチンと割り箸など割りながらローズが尋ねた。
当然、ニヤニヤといやらしい笑みを浮かべながらの台詞である。
「不要だ」
「そうなると貴方は、明日から学校で食事を食べることもままならないわね」
「…………」
目の前の相手なら、本当にやりかねないと西野は考えた。
一方で軽口を叩いて見せたキチガイ女はといえば、ふっと湧いて浮かんだ名案に心を踊らせ始める。その意識が向かった先は、ダイニングカウンターを越えた先に望む広々としたキッチンだ。越してから碌に使用されておらず、埃を被っている。
「そういうことなら食事も現物支給で良いわね」
「……好きにしろ」
「ふふ、そうさせて貰うわ」
今後、彼の学校での昼食は、ローズにより与えられることが決定した。
週明けの登校が楽しみで仕方がないキチガイ女だろうか。
そんな彼女の前で不意に西野が倒れた。
それはもう見事に倒れた。
何の前触れもなく、イクラの軍艦巻きを箸に摘んで、今まさに口へ運ばんとする最中の出来事であった。椅子に腰掛けた姿勢のまま、スタンドを蹴り倒された自転車が倒れるように、呆気ないほど容易に倒れていった。
バタンと大きな音と共に、身体がダイニングの床に横たわる。
「……え?」
これにはローズも驚いた。
倒れて以降、ピクリとも反応を示さないフツメン。その姿を目の当たりとして、彼女の手から箸が落ちた。カランカランと乾いた音が、やけに大きくリビングに響いては聞こえた。飛び散った醤油が彼女の衣服を飛沫で汚す。
「に、西野くん?」
問い掛けるも反応はない。
まるで時間が止まってしまったように、室内は静まり返っていた。
◇ ◆ ◇
西野が倒れてから、ローズの動きは迅速であった。
自らの端末でマーキスに対して連絡を取った。医者の用意も併せて行い、タクシーを走らせてフランシスカ御用達の病院へ直行である。ローズが西野をおぶって現地に赴いた時、そこには既に見知った姿が揃っていた。
「こっちよ、急いで頂戴!」
街路に面した救急搬送口、その脇に立つフランシスカが吠えた
傍らにはマーキスの姿もある。
「おいおい、マジかよ……」
彼は酷く驚いた様子で、ローズに抱かれたフツメンの姿を見つめていた。
小学生と間違われることもある小柄な彼女だから、これにお姫様抱っこで抱かれる現役高校生の姿はといえば、常識的に考えて異様な光景である。同所で事情を理解するのは、本人とフランシスカくらいなものか。
「言われなくても急いでいるわ!」
「貴方と違って、彼は替えが聞かないのよっ!?」
「そんなの私が一番に理解しているわ!」
フランシスカの案内に従い、三人は院内を駆ける。
本来であればタンカーを用いて大人二人を要する運搬だ。それローズは何の苦もなく一人で運んで見せる。向かった先は、同院の手術室となる。室内には既に白衣姿となった医者と看護師の姿があった。
中央に設けられた手術台へ、ローズは西野をゆっくりと横たえる。
傍らには様子を伺うようフランシスカが並んだ。
マーキスは部屋の出入り口付近に立ち、おぼつかない表情で様子を窺っている。
「それで容態は? 状況を説明してちょうだい」
「急に倒れたわ。直前までは普通に会話をしていたし、食事も食べていたの。他にこれと言って変な素振りも見えなかったし、至って普段通りだったのに、急に倒れて、ピクリとも動かなくなってしまってっ……」
「それだけ聞くと、まるで脳梗塞のようね……」
あれこれと悩むように眉へシワを寄せるフランシスカ。
そんな彼女の傍ら、医師の手により西野の身体から衣服が剥ぎ取られてゆく。予期せず学園のマドンナに全裸を晒す羽目となるフツメンだ。ハサミでチョキチョキと切り取られて、シャツからズボン、下着に至るまで一切合財が汚物入れに収まった。
やがて、最後に医師の手が眼帯を取り外す。
「っ……」
間髪を容れず、その表情に変化があった。
どうやら原因を特定した様子だ。
「え、ちょっと……」
その光景を目の当たりとして、フランシスカも少なからず驚いて見える。
「ど、どういうこと? 彼は貴方と一緒にいたんじゃないの!?」
フランシスカがローズに吠えた。
「い、いたわよっ! でも、こんなことになっていたなんてっ……」
「完全に潰れてるじゃないのっ、しかも凄い腫れだわっ!」
彼女の指摘通り、フツメンの左目は完全に潰れていた。
更に数日を放置したことで、今まさに腐り始めている。表面に限っては化膿を避ける為なのか、炎にでも炙ったらしく、焼け焦げた跡が見られる。それで尚も、染み出した膿の溢れる様子が窺えた。
素人目にも彼が倒れた理由は及びがつきそうだった。
炎症から発した発熱と肉体の疲弊によるものか、患部から入り込んだ細菌の繁殖によるものか、或いはその両方か。いずれにせよ左目が原因なのは間違いなさそうだ。副鼻腔が炎症を起こしただけでも満足に動けなくなるのが人体である。
ローズの西野を見つめる眼差しが、事更に極まったものとなる。
「どうするつもりなの? 彼は貴方とは違うのよ?」
「…………」
フランシスカからの問い掛けに対して、ローズは答える言葉を持たない。手術台に横たわる西野を眺めて、悔しそうに下唇を噛んだ。切れた皮膚から赤いものが垂れて、顎を伝い床にポタリと落ちる。
それもこれも格好つけて、眼帯を頑なに外さなかった西野が悪い。
同時刻、彼と同じように見栄を張ったどこぞのロックスターが、その身の負傷も構わず撮影に臨んだ結果、現地の病院でお世話になっていたりする。曰く、全治二週間。いつの世にあっても、素直でない男ほど面倒臭い生き物はいない。
ただ、そんな生き物が、こちらの金髪ロリータは大好きだった。
「私の話を聞いているのかしら?」
「頼みがあるわ、フランシスカ」
マジキチ女は股臭おばさんに向き直った。
その視線はいつになく真剣なものである。
「……なにかしら?」
「…………」
挑むように問いかけてくるフランシスカへ、ローズは伝えた。
それは彼女にとっても、過去に覚えのない提案だった。語られるに応じては、場に居合わせた誰もが驚愕から振り返っていた。今まさに患者へ挑む医師や看護師に至るまで、ギョッとした眼差しを向けていた。
平静を保っているのは唯一、彼女が言葉を交わす相手だけである。
ローズからそのような提案が為されることを、なんとなく想定していたフランシスカだった。伊達に長いこと付き合いを続けていない。苦楽を共にすることも度々。多少なりとも、その心象には考えが及ぶようだった。
「それがどういうことか理解しているのかしら?」
「ええ、理解しているわ」
「このアジア人もまた、私たちの監視対象になるということよ?」
「既に十分監視しているじゃないの。今更だわ」
いつになく挑むように与えられた、フランシスカからの問い掛け。
対するローズには、なんら怯んだ様子も見られなかった。
「…………」
「貴方だってせっかく足を運んだのに、対象の身体に欠損が生じた云々、上に報告するのは嫌でしょう? それが原因で状況が変わったりしたら、それこそ全てが骨折り損のくたびれ儲けじゃないの。そういうわけだから、頼むわね?」
「後で彼に殺されても知らないわよ?」
「あら、それなら望むところだわ」
「……わかったわ」
ローズからの提案を受けて、フランシスカは粛々と頷いて見せた。
一方で何が何やらといった様子で困惑するのがマーキスだ。しかしながら、彼には発言の機会が与えられなかった。
「おい、ど、どういう……」
「今の仕事を続けたかったら、貴方は黙っていなさい」
「……あ、ああ」
フランシスカにぴしゃりと言われて続く言葉を失う。
以降は所在なさげに、事の成り行きを黙って眺めるばかりである。ただ、それでも彼が同所を去ることはなかった。後日、西野からあれこれとぶつけられるだろう文句に備えて、状況を確認するのに必死である。
現時点で既に彼は確信してた。
コイツは目覚めてから絶対に、自分に八つ当たりすると。
まさか西野がどうにかなるとは、夢にも考えていないマーキスである。
◇ ◆ ◇
西野の意識が再び戻ったのは、それから二日後の晩のことだった。病院に搬送されたのが金曜日であるから、翌日に登校を控えた日曜日の夜ということになる。時刻はそろそろ日も変わろうかという頃合いだ。
「…………」
外界からの刺激ではなく、十分な睡眠から自ずと瞳は開いていた。
直後、その眼が捉えたのは、彼が運び込まれた個室の天井だった。病棟でも一等に豪華な、本来であれば政治家や資産家の類いが利用する部屋である。ベッドの設けられた部屋の他に、会議室だの風呂場だの、なんだかんだと用立てられて間取りは3LDK。
「…………」
自ずと目に入った天井も広々としたものだった。
同時に感じたのは違和感。
つい数日前に失われた視界が、元に戻っていた。
その事実を理解した彼は、咄嗟に身を起こしていた。
「……なんだ、これは」
その呟きには、珍しくも驚愕が感じられた。
サントリーニを発つ以前より失われていた左目の視力は、彼もまた二度と戻ることはないだろうと考えていた。他の誰でもない自分の身体であるからこそ、目玉の潰れっぷりには辟易していたフツメンである。
だからこそ、気を失い倒れたという事実以上に、彼は慄いていた。
「あら、目が覚めたようね」
時機を合わせたように部屋のドアが開いた。
姿を表したのはローズである。
「これはどういうことだ?」
「貴方、倒れたのよ? 随分とやせ我慢を重ねていたようね」
「…………」
ローズから続けられたのは、本心とは裏腹の憎まれ口だ。
その手にはロール状に巻かれたタオルが数本ばかり、お盆に載れてホカホカと湯気を上げている。内心、フツメンが意識を取り戻したことに踊り出したい気分の彼女だが、その思いが強ければ強いほど、続く言葉は辛辣なものとなる。
「……アンタに助けられたのか」
「そうよ? ああ、でも勘違いしないで欲しいわね」
「勘違い?」
「せっかく私のものになったのに、ここで死なれたら大損だもの」
「当然だ。言われるまでもない」
彼女はつかつかと歩みを進めて、ベッドの傍らまで移動した。
サイドテーブルへ手にしたお盆を置く。
「……それは?」
「そこで看護師からもらったわ。使うならどうぞ」
「…………」
本当なら自らの手により、隅々まで拭う予定であったローズだ。事実、昨晩は隅から隅まで、服のみならず皮まで脱がせて、綺麗に拭った次第である。フツメンの肉体は、その粘膜部位に至るまで、彼女が目にしていない部分は存在しない。
本日もまたと綺麗にしてやろうと、意気揚々訪れた直後、こうして今に至る。
「一応、感謝しておく。助かった」
「ちゃんと働いてくれれば問題ないわ」
「……承知している」
つっけんどんな物言いしかできないローズ。
そんな具合だから、西野もまた遠慮なく自らの疑問をぶつけた。
「しかし、この目はどうなっているんだ?」
鏡で外観を確認した訳ではない。しかしながら、彼は自身の眼球が元あった機能を取り戻していることを理解していた。今後とも視力が戻ることはないだろうと考えていた手前、少なからず驚いている様子だった。
「片目で仕事の質を落とされても困るじゃないの」
「潰れたとばかり考えていたのだが」
「ええ、そうね」
「医療の進歩は大したものだな。フランシスカか?」
角膜移植による失明の治療は一般的なものだ。一方で眼球そのもの、視神経の移植を伴うような、眼球それ自体の移植は、少なくとも西野が知る限り、現代では実現していなかった。だからこそ、何か特別な手術が行われたのではないかと考えたようである。
だがしかし、返されたのは否定の言葉だった。
「違うわ」
「……どういうことだ?」
「さて、どういうことでしょうね」
「…………」
意味深にも呟いてみせるローズ。その言葉は一向に要領を得ない。西野の脳裏には実に様々な仮定が浮かんでは消える。どれだけ考えても、彼は左目の視力が戻るだけの根拠を探り当てることができなかった。
そんなフツメンの姿を眺めて、ローズの口元にニィと笑みが浮かぶ。
「……なにか面白いことでもあったのか?」
「いいえ? あとでゆっくり、鏡でも見てみると良いわ」
短く呟いて、ローズは踵を返す。
本当なら想い人の無事を抱きついて祝いたい彼女だが、この場は早急に去るべきだと判断したようだ。理由は今まさに西野が抱えている疑問が故である。真実を知った彼の反応は、彼女にも想像がつかなかった。
その瞬間に居合わせるのは危険だと、判断した次第である。
「それじゃあ失礼するわね」
「……ああ」
ツカツカとヒールを鳴らして、ローズは病室より去っていった。
その姿はすぐに見えなくなる。
ややあって、遠くドアの開け閉めする音が西野の耳に届いた。
ローズの気配が完全に感じられなくなったところで、フツメンは身体を起こした。肉体は取り立てて苦労することなく動いて、自らの足で床に降り立つ。続けざまに片腕を振るい、身体に刺さっていた点滴の類いをまとめて一息に引き抜く。
映画などでよくあるシーン。それを意識してのアクション。
すると内一本が膀胱まで刺さっていた為、思わずウッと来た童貞だ。
起床から間もない為、カテーテルが入っているとは思わなかった彼である。若い尿道は伸縮性に富み、おかげで返される刺激も相応のもの。深々と刺さっていた管が、青少年の敏感な部分を勢い良く駆け抜けて、その肉体に未知なる感覚を与えた。
意識のない患者に点滴が刺さっているのだから、当然、尿道カテーテルも刺さっている。
「…………」
静かに悶えることしばらく、なんとか平静を取り戻す。
映画と現実は違うのだと、少し賢くなったフツメンだろうか。
然る後、ローズの言葉に従い、彼は鏡を探した。
ベッド脇のサイドデスク。その正面に卓上ミラーを見つけた。大きさは高さ四十センチ、幅二十センチほど。顔立ちを確認するには丁度よいサイズ感だ。これ幸いと彼はその正面に立った。躊躇なく鏡面に自らの顔を写した。
すると、どうしたことか。
「っ……」
一目見て、その表情が強張った
ローズの意味深な発言から、或いは手術の影響で顔形が変わっているのではないか、などと考えていた。覚悟もしていた。しかしながら、鏡に写ったフツメンの顔は、彼が想像した以上の変化を伝えてみせた。
「……あの女」
彼の左の眼孔には、ローズと同じ青い色の瞳が収められていた。
◇ ◆ ◇
翌日、病院を退院した西野は学校に向かった。
担当医師は向こう数日の入院を進めたが、フツメンは丁寧に断りを入れて、退院の処理を済ませた。費用に関しては事前にローズが支払っていたようで、これといって請求を受けることもなかった。
自宅となるローズ宅に寄って、教科書と筆記用具をカバンに詰め込む。
同所に家主の姿はなかった。
その姿を求めて、彼は学校までの道のりを急いだ。
病院での手続きやら何やらで時間が掛かった為、フツメンが教室に到着する頃には既に昼休みとなっていた。授業を終えて教室から吐き出された生徒たちが、思い思いの場所で休みを満喫している。
ひとまず荷物を置こうと、西野は自席に向かった。
そんな彼の姿を目の当たりとして、教室の各所からはヒソヒソと話し声が上がり始める。どれもこれもフツメンの外見を目の当たりとして、その評価を意見交換する為だ。黒髪黒目が九割九部を占める同校において、彼の姿は非常によく目立った。
「え、なにあれ、カラコン?」「おいおい、マジかよ」「学校にカラコン付けてくるとか中学生かよ?」「もしかして自分のこと、格好いいとか思ってるのか?」「マジ受けるんですけど」「ここ最近の西野って、めっちゃ笑えるよな」
オッドアイ西野、教室デビューの瞬間である。
「…………」
これで彼の顔面偏差値が一定以上の高みにあったのならば、評価はガラッと様変わりしたことだろう。事実、竹内くんは読モとして華麗にオッドアイを披露の上、表紙をバストアップで飾った経験を持つ。当時の刊行は歴代二位を記録したという話だ。
しかしながら、フツメンには過ぎたオシャレアイテムである。
「見てるこっちが恥ずくない?」「中学の頃に一人はいたよな、カラコンして学校くるやつ」「っていうか、あいつ細目だから、あんまり意味なくないか?」「いえてる」「目の色変えるより、先に眉毛を整えるべきだよな」「教えてやれよ」「嫌だよ」
もしも委員長辺りが同じ立場にあったのなら、まず間違いなく黒い色のカラーコンタクトを用立てていたことだろう。そうした意識の差が、彼の学内における地位の低下を担っていることに、本人はまるで気づいていない。
おかげで彼の学園カースト順列は位を下げるばかりだ。
「…………」
それでも自分の意志によって行った結果であれば、彼もまた素直に周囲からの評価を受け止めたことだろう。自分には過ぎた行いであったと、その決断を振り返ったことだろう。しかし、今回ばかりは彼もまた被害者である。
倒れて起きたら、いつの間にやら目の色が変わっていたのだ。
「……あの女、どこに言った」
荷物を置いたフツメンは、ローズを探して早々に教室を後とした。
すると、教室を出て直後の出来事である。
「あら、西野くん?」
「っ……」
西野は廊下で目当ての人物と鉢合わせした。
隣のクラスなので、そういうこともあるのだろう。
「休んでいなくて良かったのかしら? 貴方、病み上がりじゃないの」
「これはどういうことだ?」
相手からの問いかけに構わず、彼は自らの瞳を指し示して問うた。
そんな彼にローズはニコリ、穏やかに微笑んで答えてみせる。
「あら、随分と素敵な色ね。どうしたのかしら?」
「っ……」
なんら構った様子がない。そんな彼女の立ち振舞いを受けては、流石の西野もショックを隠しきれない。何故ならば、彼が鏡の前で再三に渡り確認した瞳の色は、今まさに見つめる相手の瞳の色と、全く同じであったからだ。
「カラーコンタクト、流行っているの?」
「……そうだな。ここ最近、若者の間でトレンドのようだ」
廊下には他に生徒の目も多い。更にローズが一緒とあらば、否応なく注目を受ける。今まさに後とした教室からも、視線は絶えず向けられている。そんな状況でまさか、眼球の具合がどうの、入院がどうの、言葉を交わす訳にもいかない。
「私も試してみようかしら」
「それよりも少し、話に付き合ってもらいたい」
「あら、ランチのお誘い?」
おかげでローズは絶好調だ。
想い人の肉体に、自身の血肉が流れている。そう考えただけで股間を熱くさせるキチガイ女である。こんなことなら右目の方も入れ替えておけば良かったとは、心中に呟かれた切なる思いだろうか。
ちなみに摘出されたフツメンの左目の残骸は、ホルマリンに漬けられて、彼女の私室で大切に保管されている。ローズが誇る西野コレクションの中でも、一等にレアリティの高い品として、鑑賞台の上に飾られている。
「これから食堂へ向かうところだったのだけれど、一緒にどうかしら?」
「……いいや、それなら結構だ」
「そう?」
学園内は全てがローズの味方である。
如何にカースト最下層のフツメンであっても、それくらいは理解できた。だからこそ、フツメンに付け入る余地はない。ここ数週間に渡る学内での奮闘を思い起こしたところで、西野は同所での交渉を諦めた。
幸か不幸か、先週から西野はローズと住まいを共にしている。学校で場を持つことが不可能であっても、放課後には幾らでも機会があるだろうと考えた次第である。コミュニケーションを取る機会は校内に限った話ではない。
「それじゃあ失礼するわね、西野くん」
「ああ、食事を楽しんでくるといい」
「ありがとう、そうさせてもらうわね」
フツメンは大人しく彼女を廊下の先まで見送った。
◇ ◆ ◇
教室に戻った西野は、自らの犯した致命的なミスに気づいた。
「…………」
きっかけはグゥと大きな音を立てて鳴った腹の音である。
そう言えば目覚めてから食事を取っていなかったと思い出したのも束の間、フツメンは過去の浅慮を思い起こす。旅行から戻って直後、彼は通帳から財布に至るまで、有り金の全てを彼女に渡していた。
売り言葉に買い言葉、格好付けまくった結果である。更に言えば彼女から与えられたお小遣い額の交渉でも、これまたシニカルを気取って、素っ気ない態度を繰り返した為、もれなくゼロ円。現物支給が決定していた。
「…………」
怨敵を前にして意気揚々と語ってみせた強がりが、今まさに彼の胃袋を苛む。
伊達に土曜日曜と入院していない。
空腹を意識した途端、空きっ腹は遠慮なくグゥグゥと鳴き始めた。本人がどれだけ強靭な精神力を備えようとも、肉体までは嘘をつけない。すぐ近くで食事を取るクラスメイトの姿が、これに拍車を掛けて事更にグゥグゥと。
「おい、西野のヤツめっちゃ腹ならしてるぞ」「飯食ってこなかったのか?」「っていうか、鳴りすぎじゃね?」「マジ受けるんですけど」「お前ちょっと弁当分けてやってこいよ」「嫌だよ」「どんだけ腹減ってんだよ、アイツ」「いくらなんでも鳴りすぎだろ」
当然、周囲にも響いて聞こえる。
瞳の色の次は、腹の音から注目を受けるフツメンだ。
「…………」
自席に腰掛けたまま、西野は考える。このまま午後の授業に突入しては面倒なことになると。賑やかな休み時間でさえも、こうして人目を引いているのだ。静かな授業中にはどれほど響くことか、想像に難くない。
一度帰宅して、居候先の冷蔵庫を漁ろうかと考え始める。
ただでさえ学内カーストを凄まじい勢いで急転直下の最中にある身の上、これ以上立場を落とすことは避けたいフツメンだった。今の彼にとって大切なのは、学業より青春の甘酸っぱい思い出である。
すると、そんな腹ペコ野郎の下に、再び聞き慣れた声が響いた。
「随分と賑やかにしているわね」
ローズだ。
いつの間に教室へ入ってきたのか、フツメンの机の正面に立つ。
「……食堂に行ったんじゃなったのか?」
「約束を思い出したのよ」
その手には布に包まれて、なにやら角ばった箱状の物が下げられている。
誰の目にも明らか、お弁当である。
「…………」
「不要だったかしら?」
ローズは西野を挑むような眼差しで見つめる。
続けられたのは、彼の退路を立つ言葉。
「ちなみに、家には何も残ってないわよ?」
「……貰おう」
フツメンには最初から、選択肢など存在していなかった。
「せっかく良い天気なのだし、外で食べましょう」
「…………」
弁当を手にしたまま、ローズは踵を返す。対する西野はと言えば、御免こうむる、口元まで出掛かった言葉を飲み込んで、自席から立ち上がった。もしもここで断れば、昼食のみならず、夕食、更には明日の朝食に至るまで、食という食を欠くことになる。
一方で二人の会話を耳とした周囲からは、わっと驚くような声が上がった。まさか学園のアイドルが、カースト底辺の勘違い野郎を昼食に誘うとは思わなかったようだ。特にカースト上位及び女子からのが反応が顕著である。
「こっちよ、付いて来てちょうだい」
「分かった」
金髪ロリータに言われるがまま、フツメンは教室を後とした。
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