現地 十

 こちらは先んじて脱出した太郎助と竹内君グループである。


 ホテルの建ち並ぶ一帯を後とした彼らは、内陸部に向かい移動していた。現在進んでいるのは、地元住民も利用する商店や飲食店などが建ち並ぶ界隈だ。日中であれば土産物を求める観光客に賑わう一帯でもある。


 しかしながら、既に日も落ちて数刻という頃合い。通りに人気は見られない。


「さ、流石はタローさんですねっ!」


 太郎助の傍らを歩みながら、甚く興奮した様子で竹内君が言った。


 学内では落ち着きのある大人ポジに立ち、異性のみならず同性からも指示を集めてきた彼である。だが、それも憧れのタローさんと共に歩む最中とあっては、瞳をキラキラと輝かせて、年相応に感情を表して見える。


「いや、お前らの協力あっての結果だ。よくやった」


 対して答える側は、意識して素っ気ない態度を装う。それでいて自らがカッコ良いと思う声色で、今という瞬間をクールに演出だ。実のところ現在進行形で心臓はバクバク、手足も震えが止まらないロック野郎である。


 そんな自分を隠すのに必死だった。


 もしも叶うことなら、その足で帰国したいと説に願うほど。当分、海外ロケは行かないと心に決めたタローさんである。向こう一ヶ月、仕事を休んで自宅に引き籠ろうかとは、かなり真面目に検討している長期休暇の計画だろうか。


「そんなことないですよ! それもこれもタローさんが一緒だったからっ……」


「ところであのっ、こ、これからって、どうするんですかっ!?」


 松浦さんが竹内君の発言を遮り、声も大きく問い掛けた。


 自ずと皆々の視線が声の下に向かう。


「ま、また怖い人たちが、やって来るかも知れないじゃないですかっ!」


 普段の彼女さんであれば、一斉に集まった視線を受けて、肩をすくめたことだろう。伊達に平素から事なかれ主義を貫いていない。小動物を装い、周囲からの庇護を誘うべく、その身体は勝手に動いていたことだろう。


 しかしながら、自らの危地を理解した松浦さんは一味違う。そして、待っているばかりでは誰も自分を助けてくれないと理解した松浦さんは、まるで別の生き物である。その行動力は学園カーストもなんのその。


 現在の松浦さんの中では、竹内君小なり自身の安全だ。


 そんな彼女の不安を理解してだろう、太郎助は落ち着いた調子で答える。


「あぁ、仕事先の連中に連絡を入れて迎えに来て貰おう。こっちも日が暮れるまでには戻る予定だったから、少なからず探しているだろうさ。あいにく端末はアイツらに取られちまったから、そこいらに公衆電話でも探すか、或いは借りるかするしかないが」


「え? マジですか!? それって撮影のっ……」


「折角の旅行中に悪いが、少しばかり窮屈な想いをさせるかもな」


 ニィと真っ白な歯を輝かせるよう、爽やかな笑みと共に答える太郎助。


 これを受けて、竹内君を筆頭とする皆々の顔には、満面の笑顔が浮かんだ。芸能人の撮影と聞けば、無条件でキャッキャ出来るのが、学園カースト上位の精神構造だ。その経験は学内へ持ち帰られた時、校内での身分向上に一役買うこと間違いない。


 一緒に写真の一枚でも撮っておけば、当面は水戸黄門の印籠さながらだ。


「いえ、そ、そんなこと無いですよっ!」


 特に太郎助の仕事先と耳にした途端、竹内君のテンションはマッハだった。実は医者として実家を継ぐより、アイドルを目指したい彼だった。読者モデルの先に芸能界を夢見る十七歳。これを機会にコネの一つでも作れれば、などと考えていた。


「とりあえず、今の時間でもやってる店を見つけるか」


「はい!」


 一同、端末の類いは拉致の際に奪われて、使用不可能なまでに破壊されていた。そこで電話連絡を入れる為に、彼らはそれが可能な店舗を探して歩み始める。太郎助を先頭として、ああだこうだと雑談を交わしながら、夜道を散歩の体である。


 すると、しばらくを進んだところで一軒の飲食店が見えてきた。窓ガラスからは明かりが洩れており、同店舗が営業中であることを窺わせる。店舗の周りには客が乗り合わせただろう自動車が止まっている。


「やったっ! 店だよっ!? 店っ!」


 リサちゃんが嬉しそうに言った。


「よっしゃ、助かった! 実は俺、もっそい便所行きたかったんだよ」「鈴木、おまえホテルの部屋でも念の為とか言って、行ってなかったか?」「中途半端に踏ん張ったから、真打ちが今頃になって降りて来たんだよ」「早く行こう? ね? 早くっ!」


 これに続くよう、他の面々もまた嬉々として声を上げる。


 自然と歩む足も速くなり、最後の方は駆け足になりながら、一同は店に向かった。広めに取られた駐車場を越えて、カランコロンと乾いた鈴の音が入店を知らせる合図が鳴る。店内は五十坪ほど、カウンター席を併せて三、四十席ほどの規模だ。


 同所においては中規模ほどと見積もられる店舗である。


「忙しいところ申し訳ないが、ちょっといいか?」


 入店して早々、奥に向かい進んで行く太郎助。


 背後には竹内君グループが雛鳥のように続く。


「金は十分に払うから、少しばかり電話を貸して欲しいんだが……」


 料理の上げ下げをしていた店員が通り掛かったところで、これに英語で語り掛ける。すると、夜中に子連れのアジア人という構図が珍しかったのか、店内に居合わせた先客が彼らに注目した。


 そして、その中には太郎助たちにとって、決して無視できない相手がいた。


「おい、見ろよ。あの女が攫ってきたガキ共じゃねぇか?」


 つい数時間前のこと、彼らを路上に捕縛した男と、その仲間たちである。一同は四人掛けの席を幾つか併せて、和気藹々と食事の最中にあった。内一人が太郎助たちに気付いて、声を上げた次第である。


 両者の視線がかち合う。


「やべぇ、オマエら逃げろっ!」


 これに気付いたイケメンは咄嗟に、声も大きく吠えた。


 自然と竹内君たちの口からは悲鳴が上がった。


「マジかよっ!?」「ちょ、ちょっと、あのアロハ着たオッサンって、私たちのこと攫ったヤツじゃないっ!?」「確認するまでもないだろっ!?」「っていうか、タローさんが逃げろっつってるだろっ!?」


 大慌てで駆け出す竹内君グループ。


 殿(しんがり)を勤める太郎助もまた同様、駆け足で急ぐ。


「ディエゴさん、アイツら……」


「たまにはアジア人も悪くねぇよな? 男はいらねぇ、殺して埋めちまえ。女は生かして捕まえろ。オマエらもあのメスガキに良いように使われて苛ついてるだろう? ここらで一つ、憂さ晴らしは正統な権利ってやつだ」


 ディエゴさんの口元が、ニィと意地悪そうに歪んだ。


 追いかけっこの始まりである。


 飲食店を後にして、大慌てで通りを駆け始める太郎助たち。


 対してアロハ一味は、自動車に乗り込んで彼らを追いかける。


 先行する徒歩勢と自動車勢との距離は大したものでない。前者が後者へ追いつくには、数分と掛からないだろう。ハイビームに設定されたライトは、彼らのすぐ足下までをも照らしてきている。


「クソっ、今月は本当についてないぜっ……」


 走りながら毒付く太郎助だろうか。


 そんな彼を先行する竹内君が振り返りつつ訪ねる。


「タ、タローさんっ! どうしますかっ!?」


「細道に入れっ! 車が入れないような、出来る限り細い道だっ!」


「分かりましたっ!」


 集団の先頭を走る竹内君に太郎助から指示が飛ぶ。


 面々は素直に従い、一生懸命、汗だくとなりながら走る。


 夜のサントリーニを舞台として、彼らの冒険はもう少し続きそうだった。




◇ ◆ ◇




 ところ変わってこちらは股くさオバサンが待つホテルの一室。


 そのリビングへ、今まさに姿を現したのがローズとゴスロリ女である。西野に言われるがまま、騒動を脱した金髪ロリータは、銀髪ロリータを回収の上、待ち合わせ先となるホテルまで戻って来た次第である。


「あら、お早いお帰……」


 ソファーで寛いでいたフランシスカが、人の気配を感じて出入り口を振り返る。


 すると視界の移った先で、ローズの腕に抱かれた少女を目撃だ。


 彼女は口に含んだ紅茶を、壮大にブーと吐き出した。噴出されたそれは、振り向いた先、リビングの床をびちゃびちゃに汚す。飛距離は随分と飛んで二、三メートルばかり。幸い出入り口に立つローズの元まで届くことはなかった。


 ただし、当人が着ているワンピースは胸元がビショビショだ。


「げほっ、ごほっ、ちょ、ちょっとっ、ゲホっ……」


 更に良いところへ入ったらしく、苦しそうに咽せ始める。


「汚いわね」


 応じる側は眉を潜めて酷く気分が悪そうだ。


 仕事を終えて戻った直後という状況も、不服を孕むに一入である。


「ちょっとローズちゃん、ど、どうしてその子までっ……」


 酷く狼狽えて見えるのは、昼の出来事が未だ響いている為だろう。彼女の右手は当人が意識することなく、自らの頬を親指を除いた四本の指でカリカリと掻いていた。続く二の腕にはいつの間にやらビッシリと鳥肌が浮かんでいる。


「可能であれば回収しろとは、貴方の言葉ではなかったかしら?」


「た、確かに言ったけれど、ゲホっ、でも、幾らなんでも……」


 こうも容易に連れてくるとは、彼女もまた想定外であったようだ。西野ですら苦労したのだから、とは非常にシンプルなものの考え方である。フランシスカの評価ではフツメン大なり金髪ロリータとなる。


「毎度のことながら、貴方は本当に失礼な女よね」


 ローズはゴスロリ少女を抱えて、フランシスカが腰掛けるソファーに向かう。そして、まるで反応を見せない義足を綺麗に揃えて、銀髪ロリータを座らせた。両手は膝の上だ。西野の言葉を律儀に守ってみせる金髪ロリータだろうか。


 自ずとフランシスカの尻は動いて、少女から距離を取るようソファーの隅まで移動した。少しでも距離を稼ぎたいのか、肘置きに凭れ掛かかるほど。まるで人形が人形遊びをしているようね、とは彼女の喉元まで出掛かった言葉である。


 ソファーに身体を落ち着けて直後、少女が口を開いた。


「お姉様。一つ尋ねたいことがあリます」


「一つ確認なのだけれど、その物言いはどうにかならないかしら?」


「お姉様?」


「……貴方のような妹を持った覚えはないのだけれど」


 ゴスロリ少女とフランシスカが座るものとは別に、その対面に設けられたソファーに腰を落ち着けるローズ。そうして語る彼女の顔は、割と本気で嫌そうな表情だった。まるで道端に落ちた汚物でも見つめるようである。


 けれど、少女は何ら堪えた様子もなくツラツラと言葉を返す。


「どうして私を助けたのですか? 理由を教えて下さい」


「貴方は何を言っているのかしら。別に助けたつもりなんてないわよ?」


「え?」


「私は自分の仕事をしただけだもの。相手が誰であれ、間違いなく同じように行動したわ。それよりも貴方、どうして急に倒れたのかしら? 彼が言うから運んでは来たけれど、まるで納得がいかないわね」


「……それは」


 質問に質問を返すローズ。


 すると途端にゴスロリ少女は口を閉ざした。


 どうやら言いたくないようだ。


「彼は力がどうのと言っていたけれど、それが失われると、貴方は手足を動かせなくなってしまうのかしら? たしかに作り物にしては、良く動くものだと出会って当初から関心していたのだけれど」


 ピクリとも動かない義手義足を眺めて問う。


 パットみたところ本物の四肢と大差ない。相応に金が掛かっているのだろう。しかしながら、どうやら駆動系は内蔵していないようで、どれだけ待っても一向に動く気配は見られない。いつまで経ってもローズが整えた姿勢のままだ。


「……そうだと言ったら、お姉様は私のことを殺しますか?」


「貴方の身柄を確保するまでが私の仕事、そこから先は知らないわ」


「そ、それでは、私はこれからどうなるのですか?」


「それはあっちのオバサンに確認して貰えないかしら」


 ローズは少女の隣に腰掛けたフランシスカを視線で指し示す。


 そこでは紅茶に濡れてしまったワンピースを、ハンカチで必死に拭う股くさオバサンの姿があった。彼女は話題が自らへ移ったことを理解すると、大慌てで布巾を畳んで胸元に仕舞い込み、居住まいを正して口を開いた。


「あ、貴方の身柄は、貴方のご実家へお送りさせて頂きます」


「……私の実家、ですか?」


「病室を抜けられてから凡そ一ヶ月、そろそろ家が恋しくなりませんか?」


 問われて少しばかり、ゴスロリ少女は躊躇してみせた。


 ややあって、続けられた言葉は自嘲じみた物言いだ。


「こんなになってしまった私を、両親が暖かく迎えルと思いますか? それに私は外の世界を知りました。とても刺激的な場所です。家の中に籠もって過ごす生活は、今の私には退屈が過ぎます。なによリ、そこにお姉様は居ません」


「そうなった貴方の身体を確認して尚、ご両親は貴方の捜索を我々に依頼したのです。また、貴方が実家に戻られて以降、再び外へ出掛けるも、家に籠もられるも、全ては我々の関知するところにありません」


「オバサンは私に辛くあたルのですね」


「……別に辛くあたったつもりはありませんが」


 普段のオバサンと比較して、幾分か口調が固い。


 少女が特別な背景を持っていると、西野やローズに説明してみせたのは、決して嘘や冗談ではないようだ。それもこれも偏に緊張が故である。


「でも、お姉様が言うとおリ、手足が動かないのでは仕方あリません。こんな身体になってしまっても、そレでも私は死にたくあリません。手間を掛けますが、私を実家まで輸送して下さい」


「ご協力を感謝します。それでは手続きを始めますので、少々お待ちを」


 端末を片手に、どこへとも連絡を取り始めるフランシスカ。


 そうした傍らで、ゴスロリ少女がローズに語り掛ける。


「お仕事とは窺いましたが、助けて頂いた事実は変わりません。改めてお礼はさせて下さい。あリがとうございます、お姉様。お姉様のおかげで、私は九死に一生を得ることができました。また明日を生きることができます」


 元来、育ちは良いのだろう。


 手足こそ動かずとも、首から上をぺこりと恭しくも礼をとる。


 これにローズは酷く素っ気ない態度で応じる。


「仕事に礼なんて要らないわ」


 それに、と彼女は続けた。


「貴方を助けたのは私ではなく、西野君なのだから」


「その名前は以前にも聞きました。西野君というのは誰ですか?」


「私の未来の夫よ」


「お姉様の、夫?」


 だから貴方はこれ以上語り掛けてくるんじゃない、とは言外にローズの訴えて止まない本心だ。自身が同性愛に転ぶとは夢にも思わない金髪ロリータだが、西野にそういった目で見られることには耐えられないようだった。


「……お姉様は、ああいうのが好みなのですか?」


 銃撃戦の際、ローズと共に行動していたフツメン。


 その姿に思い至った彼女は、訝しげな表情でこれに応じた。


「とてもではあリませんが、釣リ合いが取れルとは思えません」


「どこかで聞いたようなことを言ってくれるわね?」


 ローズの眉間に皺が寄った。


 どうやらイラっと来たようだ。


「勘に触られたのであれば謝ります、お姉様」


「……別に貴方の意見などどうでも良いわ」


「ただ、仮に仕事であっても、私は非常に嬉しかったのです」


「それなら西野君にもお礼を言っておきなさい」


「お姉様がそう言うのであれば、私は彼にもお礼を言います」


「ええ」


 力を失った為か、それともローズと一緒だからなのか、ゴスロリ少女は非常に大人しかった。過去に披露してみせた過激な物言いも|形(なり)を潜めて思える。おかげで金髪ロリータは、それ以上を熱くならずに済んだ。


 かと思われた。


「けれど、きっとそれは難しいです。恐ラく無理です」


「……どういうことかしら?」


 ゴスロリ少女の何気ない一言を受けて、ローズの表情が動く。


 それは彼女にとって、聞き逃すには刺激的な内容だった。


「あレだけ沢山の人に囲まれて、無事でいられるとは思えません」


「彼は貴方と同じで特別なの。あの程度のチンピラなどモノの数に入らないわ」


「そうなのですか?」


「以前も敵の只中に正面から切り入って、親の首を取ってきたのだから。そう言えば、あの時は切断された首の断面が凍り付いていたわね。貴方は炎を出していたけれど、火やら氷やら、なにかしら人によって方向性があるのかしら?」


「……あのアジア人も私と同じなのですか?」


「ええ、そうよ。それとアジア人ではなく、西野君よ」


「それはおかしいです。確かに知ったような口を利いてはいましたが」


「どこがおかしいのかしら?」


「あのアジア人は私に対して、一度も力を使ってきませんでした。確かにお姉様の仰ルとおリ、慣れている素振リは見えました。けレど、それなラ一度も力を使わないというのは自殺行為です。少なくとも私はそんな状況なんて御免です」


「貴方にそれだけの価値がなかったのでは? それとアジア人ではなく、西野君」


「わざわざ頸動脈に刃を擦ラせてまで、力を使わない理由が知レません」


 少女は断言する。


 これにはローズも意識を揺さぶられた。


 彼女が想像した以上に、二人の争いは危ういものであったようだ。


「……だとすれば、どうしてなのかしら?」


「もしかしたら、私と同じように力が使えないのでは?」


「…………」


「少なくとも、私はあのアジア人が銃を使っている姿しか見ていません」


「銃……たしかに、あの時も西野君は銃なんて……」


 少女の言葉を耳にして、ローズは一つ疑念を抱く。騒動の最中に感じた違和感は、決して勘違いではなかったのかも知れないと。しかし、仮にそうであった場合、西野の身柄はどうなるのか。自ずと彼女にとって、よろしくない状況が推測された。


「ちょ、ちょっと待ちなさい。仮にそうであったのなら……」


 彼女の胸の内に、ふつふつと浮かび上がるのは、嘗てない焦燥感。


「もう少し詳しく説明をなさいっ!」


 鋭くつり上がった眼差しは、ギロリとゴスロリ少女を捉えていた。




◇ ◆ ◇




 フィラのホテル街からほど近い海辺、夜の暗がりに紛れて動く人影の姿があった。数名ほどが砂浜の一箇所に固まり、足元の何かに注目するよう、その周りを囲っている。誰もが男性であり、女性の姿は見られない。


 男たちが見つめる先には、荒縄で雁字搦めの上、砂浜に首から下を埋められた西野の姿がある。拳銃一丁では流石の彼も、騒動を収めるには至らなかった。懐事情を相手に知られた時点で、一斉に畳み掛けられること数分ばかり、拿捕された次第である。


「おい、目を覚ませ」


 グラサンスーツが足先に西野の頬を蹴りつけた。


 ガツンと良い音が一帯に響く。


 周囲を岩場に囲われた一帯は、ホテル街からの明かりも碌に届かず、非常に薄暗い。日中帯でもあまり人の訪れない場所だ。夜中という時間帯も手伝い、彼らを除けば、他に人の姿は見られない。


「っ……」


 きつく閉じられた口から、僅かばかり呻き声が漏れる。


 彼らの発する声を除けば、他に響くのは延々と繰り返される波の音くらいなものだ。おかげで多少の苦悶も、やけに大きく響いて聞こえる。それでも人目が至らないのは、同所が相応に奥まった場所にある為だ。


「よくもやってくれたな? おかげでこっちは半分以下だ」


 スーツの男が唸るように言う。


「随分と脆い組織だな?」


「…………」


 目鼻口と顔のあちらこちらを腫らせて、それでも強がるのがフツメン。


 自然とスーツ男の足は再び彼の顔面へ向けられた。


 ガツン、今度は額が爪先に強打される。


「っ……」


 固い靴皮に肌を刷られて、破れた皮膚から赤いものが滲み始めた。


 身動きは取れない。


 砂浜の柔い地面であれば、細切れに腕や足を動かすことで抜け出せるかも知れない、などと考えたのはフツメンの非リアが所以。夏のビーチ、友達に埋められた経験のないコミュ障の安直な判断は、容易に裏切られた次第である。


 水に湿る砂は彼が想像した以上に重かった。


「あと数分もすれば、ここは海の底だ。そこの洞窟の岩、壁の色が違っているのが見えるだろう? 潮が満ちれば海面はあそこまで上がる。次にお前が人目に付いたとき、その面は誰も寄りつかないほど気味の悪い土左衛門になっているだろう」


「…………」


「……なんか言ったらどうだ?」


「話し相手が欲しいのか? 仲間なら沢山いるだろうに」


「子供一人に仲間をこれだけ殺られたんだ。アメリゴの件を差し引いたとしても、お釣りがくる。おかげで国にも戻れなくなっちまった。これから残った奴らと、どこへ逃げるか相談しなけりゃならない」


「懇切丁寧に説明すれば、意外と納得して貰えるかもしれないぞ」


「っ……」


 相変わらずなフツメンの物言いにグラサンスーツの足が動く。


 革靴の爪先、尖った部分が左の眼球を捉えた。


「ぐっ……」


 頭の裏側まで突き抜けるような痛みが西野の身体を揺さぶる。


 しかし、それでも西野の口からは軽口が絶えない。


「こ、こんなところで油を売っていて良いのか? 早く逃げないと、すぐに追っ手がやってくるぞ。それもこの世でもっとも性質(たち)の悪い連中が。あんたら程度の組織力じゃあ、とてもじゃないが追い返せないような奴らが」


 蹴りつけられた目元から赤いものを垂らしながらの軽口。


 未だ士気は折れていないようだった。


 だが、それでも彼の最後は確実に近づいてきている。


 フツメンの背後、数センチのところには、寄せて返す波が迫る。時折、伸びの良い潮が後頭部まで辿り付いては、うなじの辺りをヒンヤリとさせる。この調子で水面が迫れば、数分と経たぬ間に彼の頭部は水の下に収まるだろう。


「……上等だ。一人でもそうやって強がってりゃいい」


 スーツの男は身体を動かすに乱れてしまった服装を整え始める。どうやらこれで終わりらしい。今し方に西野が語ったとおり、他に追手を危惧してのことだろう。その顔には少なからず焦りが見受けられた。


 グラサンスーツは周囲の仲間に視線をやる。応じて他の面々もまた踵を返すと、西野の周りより去ってゆく。最後に彼がチラリ、背後を確認したところで、西野の口元には既に波の一端がちょろちょろと。


「今回の一件はこっちも被害者だ。恨むんじゃねぇぞ」


 短く言葉を残して、スーツ男は去って行った。


 しばらくして岩場の先、数十メートルの地点から、自動車がエンジンを吹かす音が響いた。ただ、それも長いことは続かず、早々に離れて、すぐに聞こえなくなった。後に残されたのは、首から下を地面に埋められた西野が一人。


 絶体絶命である。


「縦に埋めてくれるとは、なかなか用意周到なことだ」


 穴の具合如何によっては、脱出できたかも知れない。しかしながら、相手はこの手の作業に熟れていたようだ。如何に身体を踏ん張らせようとも、積もる土は一向に動く気配がなかった。無駄に体力を消費するばかりである。


「ぐっ……このっ……」


 それでも西野は必死に藻掻き続けた。自身の生を諦めた様子は微塵もなかった。どれだけ追い詰められようとも、絶命の瞬間まで足掻き続けるのだという気迫が、このフツメンの普通なところからは感じられた。


 しかしながら、潮の満ち引きは酷く機械的で、彼の都合や努力など知ったことではない。容赦なく波は迫り、そうこうする間に海水は彼の口元を覆う。首を捻り、鼻の穴を上に向けて、辛うじて呼吸を行う。


 それも二、三分の後には、波にふさがれてしまう。


「んぶっ、ぅうっ……」


 寄せては返す波のリズムに従い、浅い呼吸を繰り返す。


 身体を動かすにも、必要な酸素を十分に得ることが出来ない。


「げほっ……あがっ……」


 やがて海水は完全に彼の口と鼻を覆ってしまう。それでも西野は必死に身体を動かした。全身を縄に巻かれている為、地面の下では不格好にも芋虫のよう身がうねる。身動ぎに応じて、ブクブクと口や鼻から空気が漏れて、海面に泡と届く。


 スーツ男の足蹴にされて生まれた傷が、海水に浸りピリピリと焼けるような痛みを伝える。それだけが今の彼を支えていた。この痛みが失われた時、自分の命もまた失われるのだと理解しての奮闘である。


「んっ、ぐぅっ……」


 呼吸を失って三分と少しばかり。


 遂にフツメンの頭頂部までもが波に飲まれた。


 同時に全身から力が失われる。


「っ……」


 一際大きく、ゴポリと空気の泡が海面に吐き出された。


 どうやら酸欠から意識を失ったようだ。


 水に濡れて嵩を減らした髪が、波の満ち引きに応じてワカメのように、ゆらゆらと海面に揺れ始める。靴の爪先で強打された目元から漏れ出した赤いものが筋を引いて、これに絡まるよう水中になびいた。


 以降、うんともすんとも言わなくなったフツメンである。


 完全に死人の態だった。


 これで一晩が経てば、全身が水を吸って立派な土左衛門である。




◇ ◆ ◇




 ところ変わってこちらは西野の所在を求めて猛るローズである。


「どこっ!? 西野君、ねぇ西野君っ! 貴方はどこに居るのっ!?」


 彼女がやってきたのは、つい先程にも脱したばかりのホテル。ゴスロリ少女が居座っていた一室だ。しかしながら、そこに思い人の姿を見つけることは叶わず、途方に暮れる羽目となった金髪ロリータである。


 銃撃戦の跡こそ残されていても、彼らの向かった先など、現場を眺めた限りでは皆目見当が付かない。故に吠えて吠えて、この世の終わりだと言わんばかりに狼狽えるのが、彼女の現在の状況である。


「お、お客様、これ以上は……」


 ローズの傍らには、同ホテルに勤める女性従業員の姿があった。


 年齢は二十代中頃。


 茶色のショートヘアと、同じ色の瞳。


 大人しそうな顔立ちをしている。


「ここに泊まっていった連中はどこに行ったのかしら?」


「いえ、あ、あの、私たちも流石にそこまでは」


「であれば何でも良いから、気になったところを教えなさい」


「気になったところと申されましても……」


 共に部屋の惨状を眺めながら、うーんと頭を悩ませ始める店員さん。


 見た目年齢一桁の少女を相手にして、それでも誠実に受け答えしているのは、今の彼女が見せる気迫と、向かう先、銃痕も生々しい居室の在り方が、当人に何らかの非日常を与えている為だろう。もしくは彼女を良いところのお嬢様と勘違いしたのか。


 ややあって、店員さんは口を開いた。


「そう言えば、お客様の一人にスコップをお貸ししました」


「……スコップ?」


「はい。大きめのものが良いと言われまして、ホテルの庭仕事に使っているものをお渡しした覚えがあります。これくらいサイズで、どこにでも有り触れたものですが」


 店員は語りながら、自らの両手で一メートルほどの間隔を取ってみせる。


「まさかっ」


 これを耳にして、ローズは西野の行き先に一つ閃きを得た。


「……どうかなさいましたか?」


「この辺りの海辺で、人の足で降りていける場所はあるかしら? できれば近くまで自動車で乗り付けることが可能な、それでいてあまり人の寄りつかない、尚且つ、砂浜のあるような場所なのだけれど」


「え、あの?」


「そういった場所に心当たりはない? 貴方、地元の人よね?」


「そうですねぇ……」


 今一度、うーんと頭を悩ませ始める店員さん。


「ここから西へ少し行ったあたりに、地元の子供の遊び場になっている、ちょっとした巌窟があります。取り立てて見るものもないので、観光の人はあまり寄りつきませんけれど、私も小さい頃は遊んだ覚えがあります」


「西ね? ありがとう」


「いえ、あ、ちょっと、お客様っ!?」


 これを耳として途端、ローズはフロアを駆け出した。廊下を歩む時間すら惜しいのか、その足はバルコニーに向かった。そして、店員が上げた静止の声も聞かず、手摺に足を掛けると共に、勢い良く飛び出していった。


「なっ……」


 驚きのあまり固まる店員さん。


 構わずローズは夜のホテル街を飛び回る。連なる建物の外壁を足場として、案内を受けたとおり西へ向かう。あるときは屋根であったり、またあるときはテラスに設けられた柵であったり、足場にできるものは何でも利用してピョンピョンと。


 ややあって、一際高く空に舞い上がったところ、彼女の視界に映る白浜があった。崖続きの一帯においては、岩肌に隠れて存在する、際立った一画だろうか。地上を歩んでいたのでは、見つけられなかったかもしれない。


「西野君っ! 西野君に会いたいわっ! 西野君っ!」


 当然、これに彼女は飛びついた。


 足場にした建物の壁面、コンクリートを踏み抜く勢いで飛び出した。


 間髪を容れず、彼女は砂浜の下まで辿り付く。


 干潮時であれば、もう少し幅広であっただろう同所は、しかし、既に半分ほどが海に沈んでいた。あと半刻も経てば大半が沈むだろうとは、砂浜の傍らに口を開けた巌窟の岩肌にこびり付くフジツボの並びから確認できた。


「っ……」


 そして、そこで彼女は目当ての人物を発見した。


 首から下を土中に埋められた上、唯一、地上に出ている首から上もまた、既に海中に沈んでいる。瞳は閉じられてピクリとも動く気配が無い。ただただ波の押しては引くのに併せて、海草よろしくユラユラと揺られるばかりだ。


 凡そ生きているとは思えない。


「西野君っ!」


 けれども彼女は諦めなかった。


 衣服が濡れるのも構わず、大慌てに彼の下へと駆けた。そして、大急ぎでフツメンの埋まる周りを掘り返し始める。まるで犬のように足を開いて腰を構えると共に、両手で土を抉って後方に飛ばしてゆく。


 土は凄まじい勢いで掘り返されていった。


 膝下まで海水に浸かる状況にありながら、それでも着実に掘り進められて行く。少女らしからぬ人間離れした腕力が、これを可能としていた。こちらの金髪ロリータでなければ、絶対に不可能であっただろう芸当である。


 やがて土中に脇の辺りが見えた。


 彼女はこれを両手で抱きしめると共に、声も大きく咆哮を上げる。


「西野くぅぅぅうううううううううんっ!」


 まるで大ぶりの根野菜でも畑から引き抜くよう、フツメンをサルベージである。大声を上げて、がに股で踏ん張る姿は、学内でアイドル視される彼女とはまるで別人である。血走った眼は瞬きすら忘れて思える。


 フツメンの水揚げに伴い、ザパァと景気の良い音が静かな夜の海に響いた。


 砂浜から掘り起こされた西野の身体は、両手両足の自由を奪うよう、荒縄でグルグル巻きにされていた。随分と長い縄を使ったようで、シャツの生地が見える以上に、縄の覆う面積の方が多いほど。完全に芋虫の態である。


 これを抱きしめているのが歳幼い少女だから、酷く奇怪な光景だ。


「っ……、脈がっ」


 首筋に脈を取ったところで、ローズの顔から血の気が引いた。


 彼女はフツメンを抱えたまま、大慌てに海水の及ばないところまで駆けた。砂場を一息に飛び越えて、砂利道が続くあたりまで移動した。人の足に踏み固められたそこは、少し離れた道路から海辺に伸びた道のような場所である。


 そこに西野の身体を横たえて、彼女は腕を大きく一振りさせる。


 鋭い爪が、フツメンを拿捕していた荒縄を切り裂いた。


「西野君っ、西野君っ、西野君っ!」


 ローズはフツメンの身体に絡まった縄を除去すると共に、胸部が上になるよう仰向けに姿勢を整える。そして、間髪を容れずに心肺蘇生を始めた。


 肋骨圧迫と人工呼吸の繰り返し。その間にも延々と相手の名前を呼び続ける。それは彼女自身、今の状況が不安で堪らないから。眦に大粒の涙を溜めて、長い髪を振り乱して、それでも一連の行いは正確で淀みないもの。


「お願い、西野君っ! 死なないで、西野君っ! 西野君っ!」


 遠く海原からは規則正しい波の音が届けられる。


 その全てを掻き消すよう、同所にはローズの訴えが騒々しくも響く。これがあまりにも五月蠅かったのだろう。


 数度ばかりが繰り返されたところで、西野の肉体に反応があった。


「っ……がっ、がはっ……」


 どうやら息を吹き返したようだった。


 心臓が動きを再開すると共に、失われていた呼吸が取り戻される。同時に体内へ取り込まれてしまった海水が、当人の咽せるに応じて、勢い良く吐き出され始めた。まるで古井戸に水が引き直されたよう、苦しそうにゲホゲホとやり始める。


 その姿を目の当たりにして、ローズの目元には、ほろりと嬉し涙がこぼれた。


「に、西野君っ!」


 反射的にその身体を抱きしめてしまう。


「げほっ……ぅっ……がはっ……」


 意識を戻してからしばらく、西野はゲロゲロとやっていた。飲み込んでしまった海水を吐き出し、呼吸に余裕が戻るには、更に数分ばかりを必要とした。流石の彼も、その間にはシニカルを気取る余裕も見られなかった。


 やがて、呼吸が落ち着いたところで、視線がローズを捉える。


「こ、ここは……」


「私の顔が判断できるかしら?」


「……どうしてアンタが、いるんだ?」


「この指は何本に見える?」


「……二本だ」


「身体に動かせない場所はあるかしら?」


 ローズに言われるがまま、西野は身体の調子を確認する。


 どうやら気を失うまでの出来事はちゃんと覚えているようだ。だからこその疑問が、彼の脳裏には渦巻いていた。とはいえ状況が状況なだけあって、今は彼女の言葉に従い、素直に返事を返していく。


「……いいや、これといってない」


「どうやら脳も無事のようね」


「まさかアンタが俺を?」


「貴方も随分と悪運が強いわよね。本当、大したものじゃないかしら?」


「…………」


 ローズは話をはぐらかすように語った。彼女もまた、このような場所で恩を売るのは本意でなかったようだ。ふと自らの振る舞いに気付いて、抱き留めていたフツメンの身体を優しくゆっくりと地べたに下ろす。


「ぐっ……」


 すると早々にも、西野は自らの足に立ち上がろうとする。


 ふらつきながらも、身体を起こしてみせる。


「心停止していたのよ? 無理はしないほうが良いと思うのだけれど」


「今は動いている。問題ない」


「…………」


 そこまで言葉を交わしたところで、ようやっとローズは気付いた。


「……西野君、その目、どうしたの?」


 青痣だらけとなった首から上でも、殊更に意識を引くのが、赤いものを垂らす左目だった。本来であれば眼球が収まっているべきところに、けれど、今はなにやら砂と石ころとグチュグチュしたものが詰まっている。


 凡そ機能しているとは思えなかった。


「……さぁな」


「強がるのも結構だけれど、とりあえずホテルに戻りましょう?」


 ギリリと奥歯を噛み締めながら、それでもローズは素知らぬ態度に振舞う。フツメンの無様を目の当たりとして直後、彼女の内側に溢れた感情は怒りだった。別れ際に西野と争っていた者たちに対する憤怒だ。


 固く握られた拳から、赤いものが滲んでは雫を落とす。


「肩、貸してあげましょうか?」


「……これ以上、アンタに借りを作りたくはない」


「それは良いことを聞いたわ」


「っ、お、おいっ!」


 突っ慳貪な西野の物言いに構わず、彼女は彼の身体を抱き上げた。いわゆるお姫様だっこというやつだった。当然、フツメンは大いに慌てた。ついでに暴れた。しかし、能力を失った彼にとって、ローズは過ぎた相手である。


「大人しくしていないと怪我をするわよ?」


「放せっ」


「その身体でちんたら歩いていたら、ホテルへ戻る頃には朝になってしまうわ」


「っ……」


 そんなこんなで無事に回収されたフツメンだった。




◇ ◆ ◇




 ローズの助力を得て西野が危機を乗り越えた一方、別所でもまた今まさに、人生の岐路とも言うべき状況に晒される男の姿があった。


 ロックの伝道師こと、緒形屋太郎助である。


「ちっ、また先回りされたっ……こっちだっ!」


 アロハ男が率いる一団から逃げ回ること幾らばかり。気付いたら再びフィラのホテル街である。あっちへ行ったりこっちへ行ったり。ハァハァと息を荒げながら、忙しなく駆け巡るも虚しく、彼らは着実に追い詰められていた。


 今は自動車を乗り捨てたアロハ一味と追いかけっこの最中である。


 始めて訪れる地域であることに加えて、まるで迷路のように入り組んだ街の作りが、彼らを翻弄する。更に行動を共とする竹内君グループのうち、松浦さんの持久力の無さが一同の足を激しく引っ張っていた。


「ハァハァハァ……」


 今にも死にそうな顔をしている松浦さん。


 他三名が現役運動部員であるに対して、彼女は歴史研究会の姫だ。ここ最近は部室の棚から目当ての書籍を取るに際しても、男子部員の手を借りるほど、見事なプリンセス具合を披露しているという。


 当然、運動神経は最悪だった。


「タ、タローさん……松浦さんが……」


 傍らを走る竹内君が申し訳なさそうに口を開く。


「今度はどうした?」


「わたし、も、もう、走れない……」


 縋るような眼差しが松浦さんから太郎助に向けられた。


 一方で鈴木君やリサちゃんからは、非難の眼差しが松浦さんに向かう。何故ならば、こうして走るペースもまた、過去二度に渡って、彼女からのもう無理です宣言を受けて、現状まで落とされていた。


 体育も休みがちで、滅多に運動をしない文化系少女の汗腺からは、ドロドロとした臭い汗が滲み出て、シャツをぐっしょりと濡らしていた。


 二週間前よりオマンコしちゃっている手前、これに強く言えないのが竹内君。対して彼女とは碌に交流らしい交流もないのが鈴木君とリサちゃん。後者は一連の流れを非難することにも大した抵抗がない。自らの命の危機とあっては、自然と口も軽くなる。


「なぁ松浦さん、もうちょっと頑張ろうぜっ!?」


「そうだよ! 普段から運動してないからこういうことになるんだよ!」


 教室では交わされることのないキツい言葉だ。


 ちなみにリサちゃんは女子陸上部員である。


「でも、わ、私っ、みんなとは違うもんっ……こ、こんなのもう、無理っ……」


 それでも無理なものは無理だと、遂には立ち止まってしまう松浦さん。


 姫のメンタルはブレイク寸前だった。


 仕方なく他の面々もまた歩みを止めて彼女を振り返る。


「どうする、どうすればいい……」


 疲労困憊な竹内君グループのやり取りを目の当たりとして、太郎助の心労もまた限界ギリギリである。それでも彼が挫けないのは、偏に彼ら彼女らが西野の友人であるという、一方的な思い込みから生まれた勇気から。


 アイツだったらどうするだろう。


 アイツだったらどうやって解決するだろう。


 必死に思考を巡らせる。


 その間にも追手は迫る。


 そう遠くないところからはアロハ一味の声が聞こえてきた。


「おいっ! アイツらどっちへ行った?」「そっちの方へ行った!」「クソッタレが、絶対に逃がしゃしねぇ」「お、俺、疲れてきたんだけど、もう良くねぇ?」「ここ数日の鬱憤、晴らさず帰れるかってんだ!」「ガキ風情に舐められて堪るかよ!」「生きたまま腹掻っ捌いてやるわ!」「おい、見つけたぞっ! あそこだっ!」


 これを耳としては殊更に焦りも増す。


「クソっ、どうすれば……」


 何かないものかと周囲の様子を窺う。


 すると、そんな彼の目に止まったのは路上に放置された原付だ。


「……しめた、ハンドロックが掛かってない」


 傍らにああだこうだ言い合う竹内君グループを放り置いて、彼はその下に向かう。当然、エンジンにキーは掛かっていなかった。しかしながら、今まさに彼が確認したとおり、ハンドルは真っ直ぐのままスタンドに止められている。


 太郎助はおもむろに、原付きのフロントカバーに向けて、ブーツの踵で蹴りを入れる。いつだかマーキスのバーの椅子を蹴飛ばしたご自慢の一発だ。プラスチックの拉げる音が大きく一帯に響き渡る。


 当然のこと竹内君たちの意識もまた、彼に向かった。


 突如バイクに蹴りを食らわせ始めた太郎助。その姿を目の当たりとして皆々一様に驚愕だ。自分たちがちんたらやっているから、遂にタローさんがキレちまった、松浦さんが愚図るからよ、そ、そんなこと言われても、云々、言わんばかりの態度で震え始める。


 蹴りは続けざまに何度か振るわれて、フロントカバーは完全に吹き飛んだ。


 太郎助は大慌てでバイクの傍らに膝を落とす。


 かと思えば、剥き出しとなった配線を手に取り、なにやら弄くり始めた。月明かりを頼りに、これでもない、これでもない、一本一本、確認を行い始めた。そして、数十秒と掛からず、その内側から二本ばかり、ビニールに皮膜された線を取り出した。


 何事かと怯え眼に見つめる竹内君たちの目前、皮膜を破り、これを接触。


 すると同時に、ブルンとエンジンが震えて、数瞬の後に排ガスがマフラーから洩れ始めた。数秒ばかりを頼りなくしていた振動は、幾らかを待てば平時と変わらないほどに動き始める。どうやら完全にエンジンが掛かったようだ。


「すげぇっ! タローさんすげぇっ!」


 竹内君が甚く感動した様子で吠えた。


「オマエらこれに乗って逃げろっ!」


「マジでそういうのって出来るんですねっ!? すげぇカッコイイです!」


 スゲェスゲェとスゲェをスゲェ連呼する竹内君。


「昔のヤンチャがこの歳になって生きるとは思わなかったがな」


 余裕たっぷりを装い答える太郎助。


 ロックは泥棒の始まりである。


 しかし、内心はそれどころでない。声が聞こえるまで迫ったアロハ一味を確認して、いいから早く乗っていってくれと言わんばかり。今も膝が震えだしそうなのを必死になって我慢している。


「け、けど、俺ら五人いるんスけど……」


 竹内君の隣、鈴木君が不安げに言った。


 その表情はエンジンの掛かったバイクを目の当たりにしても覚束ない。


 学内に眺める彼とは雲泥の差だ。


「俺の若い頃なら、四ケツくらいものの数には入らなかったぜ」


 実は三ケツが限界で四ケツを諦めた太郎助が言う。


 当時、四ケツ目に意気揚々と乗り込んで、ものの見事に振り落とされた男だ。


「そうだよ鈴木っ! うだうだ言ってても仕方ないだろっ!?」


 太郎助が隣に居ることで、竹内君は普段の三割増しで勢い付いている。ヤクザ者に追われているという状況と相まって、精神が高ぶっているのだろう。伊達に医者の息子として良い教育を受けていない。本番と逆境に強い人間性の持ち主だった。


 一方で平時と比較して、幾分が威勢が失われているのが鈴木君である。こちら両親は普通のサラリーマン。大手上場企業の子会社で課長代理を勤める父親と、専業主婦に収まる母親との間に生まれた凡夫である。


 こういった危地でこそ、人としての地力の差が出た。


「そ、そりゃそうだけどさ、でもそれだとタローさんはどうなるんだ?」


「それはっ……」


 これを指摘されては竹内君も言い淀む。


 すると話題と上がった彼は、ニィと不敵な笑みを返して応じた。


「俺はまだ余裕がある。適当にこの辺で奴らを巻いてから逃げるさ」


 実は余裕なんて皆無の伊達男である。目の前の原付きも、できることなら自分の足にしてしまいたいくらいだ。しかしながら、ここ最近の彼が掲げる信条は、それを目の前の少年少女へ伝えることを良しとはしなかった。


 今を驕らずに、いつ驕るのだと訴えんばかりである。


「い、いいんですか? タローさん」


 竹内君が再三に渡り確認する。


「いいからさっさと行け。時間がない」


「……わかりました」


 太郎助に尻を叩かれる形で竹内君グループは原付に飛びついた。ハンドルの下に松浦さんを収納する形で、舵を握るのが竹内君。その後ろにリサちゃんがタンデムシートへ腰掛けて、彼女の後ろに鈴木君が張り付く。


 辛うじて乗っかっている。そんな感じ。


 松浦さんとリサちゃんが小柄だからこその曲芸だ。


「じゃあ、い、行きますっ、タローさんっ!」


「あぁ、事故るんじゃないぞ?」


「はい!」


「もしも道が分かるなら、エニグマの八○二号室へ向かえ。そこに知り合いが泊まってる。俺の名前を出して事情を説明すれば、色々と面倒を見てくれる筈だ」


「わ、分かりました!」


 頷いてエンジンを捻らせる竹内君。


 タイヤが動いて、車体が発進する。


 その直後、彼は太郎助に向けて吠える。


「タローさん、マジで最高にロックですっ!」


 振り向きざまに掛けられた声だった。太郎助が何を返す間もなく、四ケツたちの姿は通りの角を曲がって見えなくなる。トコトコという控えめなエンジン音も早々に遠退いて、すぐに聞こえなくなった。


 これを確認して、誰に言うでもなく太郎助は呟く。


「こんな為体じゃあ、ロックにはまだまだ程遠いぜ」


 最高にロックだと称されて、思ったよりも嬉しいイケメンだった。


 ただ、そうして余韻に浸っている余裕はない。


 その鼻面には、アロハ一味の振るう拳が迫っていた。


「テメェこの野郎っ! 女を逃がしてんじゃねぇよっ!」


「クソッ……」


 これを危ういところに交わして、金的を一発、奇跡的にも撃退する。


 相手は碌に悲鳴を上げる余裕もなく、悶絶して地面に倒れた。しかし、敵は一人ではない。後続が次々と彼の下に向かい駆けてくる。手に鉄パイプやナイフを握った者の姿もちらほらと見受けられる。


「ははっ、スゲェな、こりゃ」


 自嘲じみた笑みを浮かべて、再びフィラの街を走り始める太郎助だった。




◇ ◆ ◇




 一変してこちらは再び、フランシスカが寛ぐホテルの一室となる。


「貴方、随分と酷い顔をしているわね」


 室内の照明に照らされて眺める西野の顔は、本人が想像した以上に酷いことになっていた。出会い頭にフランシスカが述べた台詞も、普段の皮肉交じりな発言とは程遠く、割と本気で引いて思える。


「……少しばかりドジを踏んだ」


「そ、そう? 医者を呼ぶわね」


「悪いがそうしてもらえると助かる」


 素直に告白するフツメンの殊勝な態度が、これに拍車を掛ける。


「それなりに時間が掛かると思うけれど……」


「構わない。最低限、消毒さえ済めばいい」


「…………」


 ソファーから席を立つと共に、フランシスカは懐から端末を取り出した。お願いすれば何でも持って来てくれる魔法の端末だ。これを口元へ向かわせると共に、彼女はバルコニーの側に向かい歩いてゆく。


 そんな彼女を視界の隅に収めて、ローズは西野に向き直った。


「……これ、潰れてないかしら?」


「さぁな、医者に診せるまでは分からないだろう」


 二人は一つのソファーに並び腰掛けている。


 ちなみにゴスロリの彼女はと言えば、対面のソファーに置かれている。


「見えているの?」


「どうだろうな」


「見えてないのね」


「……さてな」


 普段は弱みらしい弱みを晒さない西野である。だからこそ今この瞬間、母性を最大限に刺激されたローズは、目の前の男をギュッとしたくて堪らなかった。これでもかというほどに抱きしめたくて堪らなかった。


 フランシスカやゴスロリ少女の目がなければ、適当に言い訳など見繕い、実行に移していたかも知れない。


「貴方の力でどうにかならないのかしら?」


「流石に怪我を癒やすような真似は不可能だ」


「……そう」


 二人の間でやり取りされる言葉は、平素からの関係を思えば、随分と穏やかなものである。それもこれも、自らの失態から無様を見せた西野が、これを恥じて大人しく受け答えしている為だ。


 そうした普段とギャップを感じさせるフツメンの振る舞いが、ローズにとっては堪らないようで、益々のこと目の前の男に思いを滾らせる。チラリチラリとその表情を窺いながら、股ぐらを濡らす金髪ロリータである。


「お姉様、私にも構って下さいませんか?」


 おかげで穏やかではないのが、ゴスロリ少女である。


 身体こそ動かずとも、自ずと口は動いていた。


 しかし、今のところ彼女の望みは薄そうである。


「嫌よ」


「冷たいのですね。でも、そんなところもクールで素敵です」


「勝手に言っていなさい」


 とりつく島もない。


 そんな二人のやり取りを眺めて、ふと西野が口を開いた。


「そう言えば委員長はどうしたんだ? 姿が見えないが」


 指摘に上がったとおり、リビングに志水の姿は窺えない。


「さぁ? そう言えば見てないわね」


「フランシスカ、アンタはどうだ?」


 電話を終えた股くさオバサンに問い掛ける。


「あの子? さぁ、知らないわよ?」


 どうやら二人は志水という少女に対して、碌に興味もないようだ。その姿が消えても、なんら動じた様子はない。何事も自己責任の上に成り立つ自由を信条とする彼女たちだから、関心の範囲外の出来事には極めて冷淡だ。


「他の部屋を見てくる」


「それなら私が見てくるわ」


 ソファーから腰を上げかけた西野を制して、代わりにローズが立ち上がった。


 彼女はリビングを発って、他の部屋を巡り始めた。一頻りを見て回るのに、およそ二、三分ほどだろうか。やがて出て行った際と同様に、彼女は一人で戻って来た。そして再び西野の隣に腰掛けて伝えた。


「寝室やシャワールーム、トイレにも居なかったわ」


 ちなみにシャワールームに関しては、西野が海水を落とす為に利用したばかりである。おかげで未だに湯気が籠もっていた。これに包まれて発情した彼女が、排水溝に残る黒髪をムシャムシャとやったのは、フツメンが永遠に知ることのない秘密である。


「それはつまり、この部屋には居ないということか?」


「そういうことになるわね」


「っ……」


 途端に西野の表情が険しくなった。


 自然と視線はフランシスカに向かう。


「フランシスカ、何か言伝は残されていないのか?」


「さぁ? 知らないわよ」


「本当か?」


「あ、でも、警察に行くとか何とか、一人で賑やかにしていたわね」


「警察、か」


「こんな小さな島の警察に、どれだけのことができると思っているのかしら? 目の前でもっと凄いのが保護しているというのに、本当、人の話を聞かない娘よね」


「……悲しい話だが、なんとなく当時の状況が理解できた」


 フランシスカの適当な物言いと相まって、西野は両者の間で交わされただろうやり取りを把握した。委員長の潔癖な性格と、無駄に高い行動力を思えば、この売女とは相性が悪いだろうとは、彼でも容易に想像ができた。


「少し出掛けてくる」


 ソファーより立ち上がる西野。


 これにローズが酷く心配そうな表情で問い掛ける。


「ちょ、ちょっと、何を言っているの? 医者はどうするのよ」


「すぐに戻る」


「子供じゃないんだから、勝手に帰ってくるわよ」


「勝手に帰って来れなかったのが委員長だ」


「まぁ、その点は否定しないけれど」


 日中帯に警察署まで出迎えに行ったのは誰も記憶に新しい。


 しかし、だからといって素直に行かせる訳にはいかないのがローズだ。今まさに現在進行形で西野に対するラブが止まらないラブマシーン金髪ロリータである。せめて今晩くらいは一緒に過ごしたいと、切に願って止まない。


「西野君、せめて治療を受けてからにしたらどう?」


「治療は後でも可能だ」


「海へ沈んだ上に心停止よ? 下手に動き回ってポックリ逝ったらどうするのよ」


「その時はその時だ」


「そ、その時って、そんな……」


 言うが早いか、リビングから玄関へ向かい、歩み行くフツメン。


 まさか放り置けなくて、ローズはその後に続いた。


「あ、お姉様っ!」


 これにまた自らも続きたいゴスロリ少女。しかしながら、手足が動かずソファーより立ち上がることができない。必死に身体をうねらせては見せるも、少しばかり義手が揺れただけだった。それどころかバランスを崩して、ソファーの上で横に転がってしまう。


「もう医者は呼んじゃったんだから、早く帰って来なさいよね」


 一方で完全に他人事の態を晒すのがフランシスカだ。


 ゴスロリ少女を無事に保護したことで、彼女の仕事は円満を迎えたにも等しい。


「分かっている」


 短く答えて、西野とローズはホテルを後とした。

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