現地 九

 西野がフロントから伝え聞いた情報は、すぐさまフランシスカとローズ、志水に共有が為された。一番顕著な反応を見せたのは、こういった出来事に免疫のない委員長である。サァと血の気が引いた顔は、今にも倒れてしまいそうだ。


「そ、それって本当なの!? リサたちが拉致とかっ……」


 酷く狼狽した様子で悲鳴染みた声を上げる。


 竹内君たち、ではなく、リサたち、と訴えが上がった点からも分かる通り、これでなかなか熱い女である。愛情に友情を優先させて、後で後悔するタイプの性格だ。実際問題、性に目覚めた小学校中学年から始まって、現在に至るまでその連続である。


 ただ、それでも彼女は本日もまた、同じ過ちを繰り返す。


「ちょっと、あのっ、リ、リサたちは今、ど、どうしてるのっ!?」


「委員長、落ち着け。皆は無事だ」


「でもっ……」


「狙いはローズだ。まあ、相手は十中八九で例の女だろうな」


 猛る志水を傍らに諫めつつ、西野が事実の共有を続ける。


 応じたのはローズだ。


「迷惑な話だわ。折角の旅行が台無しじゃないの」


「その点には同意しておこう」


 ちなみに彼らはプールから上がり、普段着に着替えた後である。


 リビングに設けられたソファーに腰掛けて、ローテーブルを囲いながらの作戦会議といった態である。幅広なカウチに西野と志水、フランシスカとローズの並び。互いにテーブル越しに向かい合っている。


「アンタの伝手でどうにかならないのか? フランシスカ」


「冗談じゃないわね。でなければ、わざわざ貴方を召集していないわ」


「……だろうな」


「これ以上、今回の一件で局員を減らしたら、上は元より私の首さえ危ういわ」


「アンタみたいなペーペーまで責任問題か?」


「別に問題など無いでしょう? さっさと片付けてくれば良いじゃない」


「相手は一人で来いと指定している。まさか表立って手伝う訳にはいかないだろう? こうした場合、安全を優先するのであれば、裏から組織的に畳み掛けるのが定石だとは、アンタたちの方が詳しいものだとばかり考えていたのだが」


「だからと言って、無いものねだりをしても始まらないわよ?」


「分かっている」


 さてどうしたものか、頭を悩ませ始めるフツメンだ。


 相手が太郎助を襲ったのと同程度の手合い、組織であったのなら、西野も躊躇することはなかった。軽い歩みに出掛けて、小一時間と掛からずに全てを解決して、残る猶予をバカンスに過ごしたことだろう。


 しかしながら、今回の相手は例外にして強敵。僅か小一時間ばかりの小競り合いから判明した事実は、ゴスロリ少女が決して油断のならない相手であるということ。そして、これは直接に拳を交えた西野にしか分からない。


 更に今の彼は普段の彼でないから、どうしたものか。


「らしくないわね。臆病風に吹かれたかしら?」


 ローズが何気ない調子で尋ねた。


「人質はクラスメイトだ。慎重になるのも当然だろう?」


「あら、それだけ? 私も一応、貴方と同級生なのだけれど」


「どこででも野垂死ねば良い」


「……流石に酷いわね。志水さんも見ているわよ?」


「っ……」


 ローズの指摘を受けて、反射的に西野の視線が委員長へ向かう。


 どうやら彼女の存在を失念していたようだ。或いはそれほどまでに、彼にとってのローズとは、反抗心を唆られるものなのか。いずれにせよ吐いてしまった唾は、自ずとその顔に落ちてきた。


「別に西野君とローズさんがどういった仲なのか、私は知らないし、知りたいとも思わないわ。けど、リサたちが無事でなかったら、多分、きっとこの旅行って、最低の旅行になっちゃうと思う」


 自然と皆々の視線が集まる。


 これに答えるよう、委員長は訴えてみせた。


「だから、わ、私も手伝えることがあるなら、なんでも手伝う。皆のことを助けたいの。お願い、今は喧嘩なんてしてる場合じゃないでしょ? せめてそれくらい、西野くんも空気を読んでよっ!」


 とても切実だった。


 次の瞬間にでも泣きそうだった。


「ああ、任せ……」


 おかげでフツメンの口は反射的に動いた。伊達に女性経験がゼロでない。異性の涙に弱いのだ。人が良いとも言う。今日この場へ臨む以前にも、幾度と無く同じようなシチュエーションに騙されてきた阿呆である。


 ただ、そうした彼の思いは最後まで続かず、ローズの言葉に遮られる。


「嫌よ」


 相変わらずのマイペースっぷりを発揮する金髪ロリータだ。


 凛として響いた音は、彼に疑問を口とさせた。


「……何故だ?」


「協力したところで、私にメリットがあるのかしら?」


 酷く冷淡な物言いだった。


 平素にも増して突き放した語り草である。


「同級生の命が助かる。これ以上のメリットがあるか?」


「代わりに私はあの女に囲われて、性奴隷にでもされるのかしら?」


「そうは言っていないだろう」


「それとも貴方が最後までエスコートしてくれるのかしら。ねぇ、王子様?」


「…………」


 昼に出会ってから、いつになく強気の目立つローズだった。


 今もニヤニヤと厭らしい笑みを浮かべて、楽し気に西野を見つめている。そこにどういった思惑があるのか、異性の機微に疎いフツメンには如何とも知れない。ただ、決して不機嫌には思えなくて、真意を測りかねていた。


「俺がバックアップで入る。フロントは相手の意向通りアンタが立ってくれ。フランシスカは役に立ちそうにないから留守番だ。ここで委員長の面倒を見ていてほしい」


「それくらいなら別に良いわよ」


 手に発泡性のミネラルウォーターのボトルを傾けながら、フランシスカが頷いた。冷蔵庫には見つけられず、わざわざホテル従業員に言伝て取り寄せた一本だ。これに機嫌を良くしたのか、取り立てて難色を示す様子は無い。


 一方で素直に応じないのは、やはりローズである。


「私は他に報酬を要求するわ」


「ああ、それで構わない。額はアンタの言い値を用意する」


「私が貴方に金銭だなんて、そんな下らないものを要求すると思ったの?」


「……なら何が欲しいんだ?」


「そうねぇ」


 顎に手を当てて、なにやら悩む素振りを見せる金髪ロリータ。依然として水気に湿る長い金髪はポニーテールにまとめられて、高い位置から垂れた尾の脇には綺麗に生え際の整えられたうなじが窺える。風呂上がりならぬプール上がり。


「西野君の童貞を貰おうかしら」


「クラスメイトの生命が掛かっている。俺が持っているものなら、何でもくれてやる程度の甲斐性はあるつもりだ。その上で今一度だけ問うが、アンタは何が欲しいんだ?」


「そう素直に返されるとつまらないわね」


「時間が惜しい、ふざけていないで早く言え」


 割と本気で西野の童貞が欲しかったローズである。こう見えて童貞信仰の激しい彼女だ。由来は偏に生来の潔癖症から。とはいえ、まるで相手にされていないと理解しては、仕方なく要求を変更した。


 右手の指を五本立てて伝える


「それならこれだけ要求するわ」


「五千万か? 良いだろう」


「あら、違うわよ?」


「五億か? 問題ない。その程度の蓄えならばある」


「いいえ?」


「……幾らだ?」


「五十億、現金で用意して欲しいわね」


「…………」


 それまでの笑みから一変して、酷く真面目な表情となっての問い掛けだった。まさか冗談で語っているようには思えない。とても真剣な眼差しである。その瞳は瞬きすら忘れたように西野を見つめていた。


 これには西野も続く言葉に躊躇だろうか。流石の彼もそこまでの蓄えはない。マーキスに預けて運用に移している資金を全て掻き集めても、数年をただ働きしてようやっと届くか否か。相場如何によっては、更に長引くかもしれない。


「これくらい当然でしょう? 自身の命が掛かっているのよ? 下手をすれば永遠に、あの女に繋がれたままかも知れない。それを五億程度のはした金で動くほど、私は安い女ではないわ」


「つい失念したくなるが、アンタも同業だったな」


 その所得は同じ界隈に働く西野であれば、少なからず及びはつく。


 そこいらの会社勤めに倣うものではない。


「理解してくれたかしら?」


「現金での支払いは不可能だ。当然、一括も同様だ」


「それなら手持ちを一括、残りは貴方の身体で支払ってもらうことになるけれど、それで良いかしら? 無理だと言うのであれば、私も自分を優先させてもらうわ」


 素面のまま淡々と伝えるローズ。


 その振る舞いから、今の言葉を本心と理解したのだろう。


 西野は素直に頷いて答えた。


「いいだろう。アンタの手駒になってやる。だから今回は協力しろ」


「…………」


 これまで幾ら押しても倒れなかったフツメンが、しかし、クラスメイトの背を追って自ら勝手に倒れ行く姿は、その心を求めるキチガイ女にとって、少なからず不平と不満の伴うものだった。自分はどれだけ彼に嫌われているのかと。


「どうした? まだ足りないのか?」


「いいえ」


 ギリリと歯を食いしばり、決して小さくない悔しさを胸の内に抱く金髪ロリータである。だが、それも数瞬のこと。すぐに冷静を取り戻すと、今後を如何に動くべくか考えを巡らし始める。


 今この瞬間、彼女が西野に作った貸しは非常に大きかった。


「なんでも申しつけて頂戴。今から私は貴方の言葉の全てに無条件で従うわ」


「……あぁ」


 見た目美少女な彼女が、生真面目な表情で恭しくも答えた。


 勤めて従順な彼女の振る舞いは、それまでの態度とは雲泥の差である。それこそ靴を舐めろと指示をすれば、間髪を容れずに舐め始めそうだ。もちろん当人の心内はと言えば、やはり、いつでもウェルカムでペロペロである。


 これを受けては流石の西野も、少なからず驚いた様子だ。同時に彼女もまた、自分と同様、仕事に対して一定のプライドを持っているのだろうと、勝手に納得する。いわゆるプロ意識というヤツだった。


 彼を見つめたまま、ピクリとも動かない長い睫毛を目の当たりとして、その凛々しい表情を正面に眺めて、僅かではあるが、西野の中でローズの株が上昇した。彼の美学的に、今し方の彼女の振る舞いは、評価が高かったようである。


 ここまで全てがローズの思惑通りであるから、両者の差は圧倒的だ。


「先程に伝えたとおり、こっちでバックアップを持つ。アンタは一人でやって来た態で、正面から女の相手をしてくれ、先んじて竹内君たちを救出し次第、アンタを回収して現場を離脱する」


「あら意外ね」


「何がだ?」


「ノーマルが逃げの一手というのは、もしかしなくてもレアケースじゃないかしら? 聞いたところによれば、過去、全ての現場で敵を殲滅。後には何も残らない。おかげで貴方の顔を知る者は、本当に僅かなのだとか」


「人質とアンタの安全が最優先だ」


「ふふふ、ものは言いようね」


「何とでも言え」


 いつになく慎重な西野を目の当たりとして、ローズも生唾をゴクリ。


 他に理由があることを、彼女は知らない。


「お世辞でなく、素直に感謝しておくわ。ありがとう、西野君」


「……アンタに感謝される謂われはない」


 契約の前後で、急に態度を変えたローズ。


 そのギャップに少なからず反応を濁すのは、西野が童貞であるからに他ならない。例によって軽口が返ってくるかと想定していた手前、素直な感謝は予期せぬ不意打ちとなり、その脇腹を抉った。普段なら否応なく溢れる軽口が、上手く作れなかった童貞だ。


 そして、一連のやり取りの全てが、彼女にとっては、自らを売り込む為の作戦であるから、強かなのはローズである。ただ、彼女もまた自身の素直な気持ちをぶつけて、会話を楽しんでいる節がある。これでなかなか、具合の良い関係なのかもしれない。


「あ、あのっ、私もっ!」


 そうしてフツメンと金髪ロリータの間で話が一段落した直後、不意に傍らから声が上がった。誰かと言えば、委員長である。何やら感極まった表情で、酷く真剣な眼差しから二人を見つめている。


「私も一緒に行きたいっ!」


 伊達に友達を奪われていない。


 伊達に竹内君に惚れていない。


 そして、彼女は仲の良い友達や惚れた男を、自らの手に取り戻すことに価値を見出すタイプの女だった。伊達にその拳で、西野の上第一臼歯と下第一臼歯を奪っていない。委員長の称号、クラスのまとめ役は伊達でなかった。


 今この瞬間に限っては、西野くんマジでキモいんだけど、そんな突っ込みも鳴りを潜めて、至極真面目な顔付きである。実際には一連のシニカルトークを受けて、二の腕あたりに鳥肌を浮かべているが、彼女は場の空気を読める出来た女だ。


「駄目だ。委員長は留守番をしていてくれ」


「ど、どうしてよっ!?」


「足手まといだ」


「はぁ? なに格好付けてるの? 私が足手まといなら西野君だって同じでしょう? っていうか、貴方って帰宅部だったよね? それなら運動部で鍛えてる私の方が、よっぽどマシだと思うんだけどっ!」


 委員長の訴えは尤もだった。


 少なくとも学校内に眺める西野とは、そのような生き物だ。


 おかげで状況の説明はなかなか大変なことである。


「この手の面倒には多分に経験があると言ったんだ」


「だから、それがどうしてなのかって聞いてるのよっ!」


 まさが学校の知り合いに素性をバラすわけには行かないフツメンである。事情を説明した結果、碌でもない未来が待つことは、当人でなくとも理解がゆく。しかしながら、今この場を脱するには、その一歩こそ足りない。


「委員長が言うことは分かる。だが、ここは俺に任せて欲しい」


「任せられる訳ないじゃない! そもそも、どうして竹内君を助けにいくの? こういうことを言うのは嫌だけれど、二人とも仲が悪いでしょう? 相性最悪でしょう? 意味が分からないわよっ!」


「それは委員長の勝手な判断だ。俺は彼を嫌ってはいない」


「どうしてよ!? ああも露骨に苛められてるのに、おかしいじゃないの!」


「確かに竹内君は選り好みの激しい性格の持ち主だが、決して悪い人間ではない」


「だ、だから、またそうやって上から目線でっ……」


 度重なる面倒事を受けて、着実にフラストレーションを溜めてゆく委員長である。いよいよ我慢の限界も近そうに思われた。むしろ酷い事を言われているのは西野の方なのだが、今の彼女は友達の大事とあって、周りが見えていなかった。


 更に言えば、折角の旅行は交通事故に始まり、公共施設の盥回し。ローズに引きずり回されて無理矢理な市内観光とあっては、お目当てのイケメンとも離ればなれのまま、いよいよ一日目が終わろうとしている。その事実が彼女を滾らせていた。


 これを受けて、動き出したのがローズである。


 ソファーを立った金髪ロリータは、正面に置かれたテーブルを迂回して志水の前に立つ。不意に動き出した彼女の姿に、西野と委員長は自ずと身構える。先程より始まった能面のような表情からは、感情らしい感情が読み取れない。


「ねぇ、志水さん」


「な、なによ?」


 次の瞬間、ローズの拳が志水の顎を捉えた。


 ガツンと良い音がリビングに響く。


「ぎゃっ……」


 凡そ女の子らしくない悲鳴を上げて、委員長はソファーに倒れた。背もたれに頭を預けて、グッタリと両手両足を投げ出す形だ。キャバクラで酔いつぶれた、中年オヤジのような格好だろうか。そして、以後はピクリとも動かなくなった。


 的確に顎を狙った一撃は、彼女の意識を刈り取っていた。


 完全に白目を剥いていた。


「……おい、他にやりようは幾らでもあった筈だ」


 西野が渋い顔で言う。


 これに何ら動じた様子も無くローズは答える。


「貴方に任せていては日が暮れてしまうわ」


「既に日は暮れている。なんら問題はない」


 チラリと西野の視線が向かった先、そこには窓越しに臨む夜景。


 たしかに日は暮れて、空には星々の煌めく様子が窺える。


「ああ言えばこう言うその捻くれた性根、とても素敵よ? こうして軽口を叩かれる度に濡れてしまうわ。幼少の家庭環境に問題があったのかしら?」


「俺の幼少時分もアンタの股の湿り具合もどうでもいい。行くぞ」


 期待された文句を洩れなく答えて、西野が腰を上げる。


 その背中を追うように、ローズもまた早足で歩き出した。


「あんまり大事にしないでちょうだいね」


 二人の背中越し、フランシスカから注文が飛ぶ。


「善処はする」


「それと一つ、貴方たちにお願いがあるのだけれど」


「……お願い?」


「あの娘なのだけれど、生かして捕らえてもらえないかしら?」


「どういうことだ?」


「訳ありなのよ。それも相当に面倒な背景を持っているわ」


 いざ出発せんとしたところ、フランシスカから与えられた妙な情報に、西野は歩みを止めた。ローズもまた彼に従って傍らに待機である。この期に及んで何だとは、先を急ぐフツメンだから、非常に焦れったく感じる。


「詳しく説明しろ」


 自然と問い掛ける口調も強いものになった。


 対してフランシスカは、少なからず声を潜めて続きを語る。


「できれば説明したくないの。だから、ここで私が喋ったことは誰にも言わないで欲しいのだけれど、約束してもらえるかしら? 他へ漏らせば貴方も私も、共に大きな損をすることになるのだけれど」


「……あぁ」


 真剣味を増して思える美女の呟きに、フツメンもシリアス調で頷いた。


 これを確認して彼女は続ける。


「彼女はとある資産家の一人娘なの。それもただの資産家ではなくて、この世界でも指折りの資産家ね。最初に顔を見たときは、まさかとは思ったけれど、あれだけ近くで確認する機会があったのだから、間違いないわ」


「どうしてそれをアンタが知っている?」


「ちょっとした面倒があって、その関係で近づく機会があったの。あの特徴的な身体を確認すれば、否定するだけの材料は皆無ね。間違いないわ。私自身、直接言葉を交わした経験はないけれど、面会に立ち会った経験はあるから」


「……続けろ」


「どこにでも転がっている話よ? 金持ちの家の娘が攫われて、素敵な映画の主演に掛けられて、ああなったの。彼女が救出されたのは、最後の作品へ出演する為に、手術台へ乗せられて、メスが入れられる直前だったそうよ」


「…………」


 想定外の情報を得て、自然と表情の固くなるフツメンだろうか。


 彼にとっても完全に想定外のお話である。


「いつ頃だったかしら。入院先の病室から姿を消したという話が流れたの。また攫われたのかと、今も界隈では随分な騒動の最中にあるのだけれど、それが驚きよね。何がどう転んだのか、こうしてちゃんと手に職を得ているじゃないの」


「それは正しい情報なのか?」


「ええ。元はペニスのペの字も知らない、とても大人しい箱入り娘だったらしいのだけれど、人って変われるものなのね。あの舌の這いずり廻る感触なんて、あぁもう、思い出しただけで鳥肌が立つわ」


「……なるほど」


「だから、出来る限り五体満足……はもう無理だけれど、穏便に済ませて欲しいの」


「別案件だと考えて良いか?」


「伊達に資産家していないわね。今回の一件と比較しても破格よ?」


「分かった」


「ただ、もしもどうにもならなくなったのなら、決して跡を残さないことね。下手を打てば、貴方、この世界に居場所がなくなるかも知れないわ。私もとばっちりは御免だから、その点には十分に気をつけて頂戴」


「理解した。善処しよう」


「ええ、頼むわね」


 フランシスカの頷く姿を確認して、今一度、西野は踵を返す。


 ローズもまたこれに無言で続く。


 パタパタと慌ただしい足音と共に、二人はホテルを後にした。




◇ ◆ ◇




 一方こちらはゴスロリ少女に率いられた強面の男一同。


 彼らが所在するのは、竹内君たちを拉致したホテルの居室、その隣室である。ここで男たちは大きく二つのグループに分かれて、今後を巡り言い争っていた。どういった形で別れているかと言えば、以降をゴスロリ少女に従うか否かである。


 規模としては二十数人からなる面々が、大凡、半々に別れていた。


「だから、今は大人しく従うべきだと言ったんだ」


 先刻、少女に口を利いていたグラサンスーツが言った。


 彼は少女の意向に従うべきだと語るグループの筆頭に立って居る。どうやら相当に恐ろしい目を見たようで、自分たちの命を優先しての保守的な選択と思われた。少女の姿が見られない今であっても、語る調子は多分に怯えが垣間見える。


 他方これに対するのは、少女の下を去るべきだと意見するグループだ。


「ふざけたこと抜かすんじゃねぇよ。ボスを目の前で殺されてるんだぞ? そんなヤツにどうして従う必要があるんだ。これ以上は御免だ。そんなに続けたいって言うなら、テメェらだけで勝手にやってろ」


 吠えるのはアロハシャツを身につけたチンピラ風の男性。


 大義名分こそ親分が云々と語ってみせる。しかし、こちらもまた少女に対して少なからず恐怖を伴って思える意見だ。ただ、その度合いが彼女に従うべきだと主張する側より、少しばかり穏やかであるが故の逃亡案である。


 そして、スーツとアロハ、この二人が上から頭二つといった様子だった。他の面々は一様に黙って、彼らの言い合いを眺めている。あまり大きな声で騒いでは、隣の部屋に居する少女にまで聞こえてしまうのではないかと危惧してのことだ。


「お前たちの逃げた八つ当たりに、俺たちが巻き込まれたらどうする?」


「んなもん知るかよ。だったらテメェらも逃げればいいだろうが」


「そう易々と逃げられるとは思えないから、こうして説得してるんだろうが」


「説得だ? あの女が怖くて泣いてるようにしか見えねぇぜ」


 既に幾度となく議論を重ねた後なのだろう。両者の言い分は、一向に交わる気配が見られなかった。話し合いというよりは、非難の擦り付け合い。互いに和解することは不可能だと、少なからず感づいているような語り草である。


 もしくは少女への恐怖から逃れる為に、こうして啀み合っているのかも知れない。


「あの女が怖くないのか? 俺はもう目の前で人間が桂剥きになるのを拝むのは御免だ。罵りたければ幾らでも罵ればいい。だが、これ以上あの女を刺激するような真似は止めてくれ。俺たちは穏便に過ごしたいんだ」


「はっ、冗談じゃねぇ。ガキの一匹にビビって身動きが取れねぇなんて、地元の連中に知れてみろ? 二度と商売なんざ出来なくなっちまう。そんなの俺は御免だぜ。こんな下らねぇところで落ちぶれて堪るかよっ!」


 凄み合う両者の背後では、そうだそうだと言外に合戦でも行うよう、代表である二人の主張を支持する者立ちの物言いたげな視線が交差する。誰も彼も自らの今後が掛かっている為、必死の形相だ。


「何事も命あっての物種だ。お前もボスと同じようになりたいのか?」


「そうなる前に逃げちまえば、なんら問題はねぇって言ってんだよ」


「あの女の執念は異常だ。万が一にも追い掛けられたら堪ったもんじゃない」


「おいおい、随分とビビっちまってるな? こりゃ重傷だ」


 相手をからかうよう、アロハの男がおどける。


 けれど、グラサンスーツは彼からの挑発など何処吹く風で、冷静に続ける。


「なんとでも言え。俺たちは生き残ることを優先しているだけだ。この急場さえ凌げば、後はどうとでもなる。あの女だって別に組織の人間って訳じゃない。ボスが何処ぞから雇ってきた手合いだ。少しばかり言うことを聞くだけの辛抱だ」


「それがムカつくって言ってるんだよ」


「ディエゴ、お前は俺の言うことが聞けないのか?」


「いいか? ダニエル。二番目だか何だか知らねぇが、これだけ組織がごたついてるんだ、上も下も関係ねぇんだよ。俺たちは俺たちのやりたいようにやらせてもらう。テメェらは精々、あのション便くせぇガキの足の指でもペロペロとやって、ご機嫌を取ってろ」


 これ以上は時間の無駄だと考えたのだろう。


 あまり長く言い争っていては、騒動に気付いた少女が文句を言いに訪れかねない。まさか一連のやり取りを耳とされては大変だ。他に部屋を隔てた壁越しとは言え、直線距離にして十数メートルという位置関係である。


「銃も効かねぇ化け物を相手にしてられるかってんだ。俺たちは降りる」


「お、おい待てっ!」


「待たねぇよっ!」


 短く言い放ち、踵を返すアロハシャツのディエゴ


 それを呼び止めるグラサンスーツのダニエル。


 前者は後者に構わず、自らに賛同する仲間を引き連れて部屋を後とした。幾重にも重なった騒々しい足音は、けれど、数分と掛からず遠退いて、すぐに聞こえなくなる。後に残されたのはスーツ組の男たちが数名ばかりだ。


 途端に部屋は静かになった。


「ダ、ダニエルさん、どうします?」


 グラサンスーツの傍ら、彼より幾分か年若い青年が問うた。


「仕方ない。どうするも何も、素直に伝える他にあるまいよ」


 これに答えて、ダニエルと呼ばれた彼は額に汗を浮かばせる。眺める側にしても、既に額の上にはビッシリと滴が浮かんで、ポタリポタリと顎から滴を垂らせるほど。エアコンが十分な設定温度で運転しているにも関わらずだ。


「俺が行ってくる。お前たちはここに居ろ」


「す、すみません」


「もしも俺が戻らなかったら、その時はお前らで決めろ。じゃあな」


 そして、グラサンスーツの彼もまた、部屋から出て行った。


 残された男たちの間では、それ以上、言葉らしい言葉は交わされなかった。




◇ ◆ ◇




 竹内君たちが連れ拐われたホテルは、西野たちが宿泊を予定するホテルから徒歩数分の距離にあった。元より手狭い島であるから、ホテルもまた特定の地域に密集している。こうした偶然もあるのだろう。


「ここか」


 建物に面した通りから、その外観を眺めて西野が呟いた。


「たしか、八○一だったかしら?」


「ああ」


 多くの宿泊施設がそうであるように、そのホテルもまた崖に沿って部屋が段上に並ぶ作りをしていた。おかげで八百番台が何階だとか、そういった形式的な推測はまるで当てはまらない。


 それどころか、隣接施設との繋がりさえ危うい建築様式は、これまた他のホテルがそうであるように、どこからどこまでが目的とする店舗の営業圏内であるのか、一見しただけでは判断が難しい。


「出たとこ勝負になるのかしら?」


「端末を通話状態にしておけ。音を拾ってテラス側から回り込む」


「分かったわ」


「恐らくだが、女がアンタを攻撃することはないだろう。仮にしたとしても、少なからず躊躇がある筈だ。この間を利用して竹内君たちの救出を行う」


「プランは?」


「悪いがアドリブだ」


「貴方って本当にスタンドプレイが好きね。何か理由があるの?」


 そんな猪突猛進な性格もまた大好きなローズである。


「すまないが、今回ばかりは諸事あって伝えられない」


「諸事?」


「その点に関しては素直に謝る。この土壇場で申し訳ないと思う。アンタの身柄も竹内君たちと同様に優先するつもりだ。だから悪いが、どうかこっちの勝手を信じてくれ。現時点で状況を共有することはできない」


「いつだかのお手並み、今度は目前に眺められる訳ね」


「さて、それはどうだかな……」


 普段と変わらず軽い調子で語る西野。ただ、その首元にはツツツと、粘っこい汗の滴が筋に沿って垂れていた。もしも昼時であれば、普段と比較して発汗も激しく、幾分か幅広に色の変わったシャツにローズも気付いただろう。


 しかし夜の暗がりでは、彼女がこれに気付くことはなかった。


「では行ってくれ」


「ええ、頼りにしているわ」


 ローズはホテル正面で西野と別れた。彼女が歩む姿は、学園に眺める立ち振舞いと何ら変わらない。堂々と胸を張って、優雅な足取りでエントランスを抜ける。フロントの案内に従い、目的の部屋に向かっていった。


 その姿が建物の内側に消えて見えなくなるまで、西野は物陰に隠れて、通りからジッと眺めていた。やがて、彼女の気配が完全に一階フロアから消えたところで、ボソリと誰に言うでもなく呟く。


「しかし、今回は災難続きだな……」


 懐にしまっていた拳銃を取り出して、安全装置の外れを確認する。


 マーキスに注文した品だ。


「これ一丁でどこまでやれるか甚だ疑問だが、今は信じてやるしかないか」


 グリップを握り、やたらと勿体ぶった台詞を呟いてみせる。もしも志水あたりが目の当たりにしたのなら、二の腕に鳥肌など立てながら、非難の声を上げたことだろう。西野君マジキモイんだけどの称号は免れまい。


 ただ、当の本人としては割と死活問題。


 こちらのフツメン、つい先日から件の不思議な力が全く使えていなかった。


 適当な頻度で訪れる、当人曰わく、あの日、である。




◇ ◆ ◇




 ところ変わってこちらは太郎助と竹内君グループだ。


 場所は変わらずホテルの一室に設けられたリビングである。部屋の中央に設けられたソファーには、彼らを攫った張本人であるゴスロリ少女の姿もまた、依然として見受けられる。退屈そうに端末などいじくり回している。


 ある程度を喋ったところで話題が尽きたのか、もしくは時間の経過と共に緊張が増したのか。いつの間にか交わされる言葉は失われていた。つい数分前、隣室から男たちの怒鳴り声が響くに応じては、誰も彼も視線を床へ向けて、完全に閉口である。


 そうした沈黙が、どうにも耐えられなかったのだろう。


「ローズさん、ほ、本当に来てくれるのかな?」


 松浦さんが何気ない調子で呟いた。


 誰かに向けたというよりは、場の全員に縋るような物言いだった。誰でも良いから私を助けてと、まるで自分のことしか考えていない発言は、非常に彼女らしいものだ。おかげで数日の旅路ながら、彼女の本性を目の当たりとした竹内君グループである。


「ローズちゃんが来たら来たで、今度はローズちゃんが大変なんだけどね」


 だからだろうか、リサちゃんから返された言葉は些か厳しいものだ。しかしながら、生命の危機に瀕した松浦さんは強い。学園カーストだって軽々と超えてみせる。リサちゃんに対しても、ずばり口答えだって出来てしまう。


「でもっ、それじゃあ私たちが……」


 ただ、そうした彼女の口上は、他所から響いた音に遮られた。


 パタンという軽い音と共に、リビングのドアが開かれる。


 廊下より姿を現したのは、出会って当初、リビングでゴスロリ少女と言葉を交わしていたグラサンスーツの男性である。部屋を見渡した彼は、変わらずソファーに腰掛けた少女を確認して、その下まで歩んでいく。


「すみませんが、少々いいですかね?」


「……なんですか?」


「今のうちに耳へ入れておきたい話があるんですが」


「耳に入れておきたい話?」


「ディエゴのヤツが、姉御を裏切って逃げ出しました」


「ディエゴ? 誰ですか、それは」


「わ、私と一緒にいたアロハシャツの男です……」


「あぁ、あのむさ苦しい男ですか」


「一応ですが、ご報告しておこうと思いまして」


 努めて丁寧に受け答えするグラサンスーツに対して、これに応じるゴスロリ少女は酷く適当なものだった。その視線も最初にチラリと向けられた限りで、あとは端末の画面を見つめながらの会話である。


 ちなみに端末の画面に映っているのは児童ポルノだ。


 昨今、先進国では所持しているだけで怒られるマニア垂涎の代物だ。


 児童ポルノのアップロードは、彼女の数少ない趣味である。


 おかげで二人のやり取りを眺める太郎助たちは気が気でない。グラサンスーツの懐に拳銃が収められていることは、彼らもまた理解していた。その苛立ちが自分たちに向けられるのではないか、などと考えた日には居ても立ってもいられない面々である。


「別にどうでもいいです。好きにさせておけば」


「……構わないのですか?」


「そレよりも、お姉様はまだですか? どレだけ待てばいいのですか」


 太郎助たちの心配など露知らず、ゴスロリ少女は不平不満を口にする。


 おかげでグラサンスーツの額には青筋が。


 ただ、そうしたやり取りも束の間のことである。次の瞬間、コンコンコンとドアノックの鳴る音が部屋に響いた。グラサンスーツがそうであったように、まさか仲間内で玄関先のそれを鳴らすような真似はしまい。


 間髪を容れず、遠く年若い女の声が響いた。


「あら、人を呼び寄せておいて、誰もいないのかしら?」


 ローズである。


 自ずとゴスロリ少女にも反応があった。


「お姉さまっ!」


 ソファーから勢い良く立ち上がると共に、玄関先へ駆けてゆく。


 グラサンスーツに接する際とは雲泥の差だ。


 その姿を目の当たりとして、男は苛立ちからギュッと拳を握る。あのクソガキ、いつか絶対に殺してやる、とはその心中で呟かれた彼の素直な気持ちである。喜々として駆け出した姿を眺めて、咄嗟に懐へ手が伸びかけたほどである。


 その一連のやり取りを受けて、今という瞬間に勝機を見出したのが太郎助だ。


「もしかしたら、チャンスなのかも知れないな」


「……太郎助さん?」


「ちょっと静かにしていろ」


 彼は竹内君たちだけに聞こえるよう、小さく呟く。


 同時にゆっくりと動き出した。


 グラサンスーツの背後、相手に気づかれないように、すり足である。その両手にはいつの間にか、花の活けられた花瓶が持ち上げられていた。何をどうするつもりなのか、傍目にも理解できよう光景である。


 そして、彼は多少の躊躇とともに、これを男の頭部に振り下ろした。


「っ!?」


 直前、咄嗟にグラサンスーツが後ろを振り返る。


 だがしかし、時既に遅し。


 その額めがけて、花瓶の底は勢い良く振り下ろされていた。


 ガシャンと耳喧しい音が部屋に鳴り響く。


 同時に太郎助が吠えた。


「今だっ! バルコニーから外に出るぞっ!」


 頭を強打されたグラサンスーツは、リビングの床に倒れて動かなくなる。全身は水に濡れてびしょびしょだ。砕けた花瓶の破片が、その身体が倒れると共に、スーツの上から肌を刺して、赤いものを床に滲ませる。とても痛そうである。


「えっ、ど、どうして外なんスかっ!?」


「廊下側は十中八九で押さえられているっ!」


「でも外は崖ですよっ!?」


「サントリーニでもホテルが並ぶこの辺りは、幾つもの建物が互いに重なり合うよう並び立っている。多少の上下はあるが、壁伝いにテラスを移動すれば、隣の建物を経由して地上まで降りられる筈だ」


 竹内君からの疑問に、太郎助がツラツラと答えた。


「窓越しだが、具合は確認はしている。それに丈夫な縄もあるしな」


 その手に掲げて見せたのは、自分たちを縛り付けていた厳ついロープである。その強度に関しては、自らの身体を持ってして嫌というほど味わった後だ。ちょっとやそっとでは千切れることもないだろう。


「マジですか。スゲェ、かっけぇ……」


 心底から惚れたと言わんばかり、熱い眼差しで太郎助を見つめる竹内君。


 他三名も同様だ。


 目がキラキラと輝いていた。


 出会い頭に見せた無様は、完全に払拭された様子だった。それもこれも太郎助が誇るイケメンと肩書が所以である。もしもこれで役者がどこぞのフツメンであったのなら、誰一人として後には付いてこなかったことだろう。


「この程度で格好が付いていたんじゃ、鉄火場は凌げないぜ?」


 続けざま答える太郎助は、自慢の茶髪ロン毛を片手で掻き上げる。


 フッと小さく笑みを浮かべるのがポイントだ。


「そ、そう言えば、ハイジャックの件もタローさんがってニュースでっ……」


「その話は後だ。今はここからの脱出を優先するぜ?」


 美少女美少年一同から羨望の眼差しを受けて、なかなか悪い気のしないダゼ男である。思う存分格好付けながら、しかし、ズボンのポケット越しでは必死に太股の肉を抓っている。足の震えを押さえつけるのに必死の太郎助だった。


「俺が先行する。お前らは後ろから付いてこい」


「はいっ!」「了解ッスッ! っていうか、なんか緊張してきたわー」「ちょ、ちょっと、声が大きいよ。また怖いオッサンとか来たらヤバいからっ」「あの、は、早く、早く行こうよっ、早くっ……」


 竹内君グループからの返事は上々。


「よし、行くぞ」


 ダゼ男を先頭として、リビングから屋外バルコニーに移動する。


 以降、彼らはプール脇の壁を越えて、時には飛び降り、時にはよじ登り、着実に同所より距離を稼いでいった。夜中であることも手伝い、意図して人目を避ければ、闇に隠れた彼ら彼女らの姿は、誰に見つかることもなかった。




◇ ◆ ◇




 幸か不幸か、太郎助と竹内君グループが脱走した直後の一室。


 そこを尋ねたのが西野である。


「……やけに室内が静かだな」


 南に逃げた太郎助たちとは、反対から姿を現した西野である。おかげで両者が顔を合わせることはなかった。入れ違いというやつだ。フツメンは開け放たれたままの戸口を越えて、軽い足取りで室内に侵入する。


 すると、自ずと目に入ったのが床に倒れたグラサンスーツだ。


「…………」


 はて、何があったのだろう。


 疑問に首を傾げる。


 そうこうしていると、居室の出入り口の方から反応があった。


「あラ? どこかで見たような顔ですね……」


 ゴスロリ少女だ。傍らには彼女に連れられて、ローズの姿もある。


 リビングで鉢合わせだった。


 後者は西野の姿を確認すると共に、甚く関心した様子で口を開いてみせる。その視線は部屋の中ほどに立った彼と、びしょ濡れの上、床に倒れたグラサンスーツ、更には割れて破片を散らした花瓶との間で行ったり来たり。


「随分とスマートに事を運ぶものね」


 間髪を容れず、その口から皮肉が飛んだ。


 部屋中びしょ濡れである。


「いいや、これは違う。最初からこうなっていた」


「ふぅん? もしかして自力で脱したのかしら?」


「可能性はある。竹内君も一緒に行動しているだろうからな」


 なんだかんだ、西野の竹内君に対する評価は高い。


 一方で心中穏やかでないのがゴスロリ少女だろうか。


「貴方、どうして来たんですか? お姉さま一人でとお願いした筈です」


「これも仕事だ。その女を返してもらう」


「…………」


 西野とゴスロリ少女の間で視線が交差する。


 両者の間隔は、距離にして五、六メートルほど。摩訶不思議な力を扱う少女にとっては、あってないようなものである。そして、彼女と似たような力を備える西野であるから、自身が既に相手の間合いに入っていることは、正しく理解している。


 おかげで場は緊張も一入。


「お断リします。こレからお姉さまは、私と一緒に楽しむのですかラ」


「その女にレズっ気はない。勘弁してやれ」


「私にはあリます。なんラ問題はあリません」


「……そうか」


 呟いて、西野の腕が動いた。


 フツメンらしからぬ勢いで、腰に差した拳銃を抜き放ち、これをゴスロリ少女に向けて撃ち放つ。引き金が絞られるに応じて、パァンパァンと乾いた音が鳴り響く。照準は相手の胴体を捉えていた。


 しかしながら、弾丸はその手前数十センチの位置で停止する。


「その程度の武装で私に挑むとは、愚かなアジア人ですね」


「やはりか……」


「これはお返しします」


「っ……」


 宙に浮いていた鉛の塊が、今まさに打ち出された軌跡をたどるよう、西野に向かって飛んでくる。これを彼は咄嗟に横へ飛ぶことで、危うくも回避した。当初より予想していたからこそ避けられた反撃である。


 そうでなければ、グラサンスーツと同様、床に倒れていたことだろう。


「意外とすばしっこいですね……」


「アンタのことはフランシスカから聞いている。その女さえ返してくれれば、決して悪いようにはしない。聞いた話では実家も随分と心配しているそうだ。家で何があったのかは知らないが、一度ご両親とも話をしてみたらどうだ?」


 ここへ来て交渉へと舵を取るフツメン。


 別段、倒すばかりが術ではない。


 フランシスカからも妙な要望を受けている。


「冗談ではあリません。私は自由を知ったのです。いつまでも病院に監禁さレてなんていラレません。その為の力も、こうして手に入れルことができました。今の私はこの世で最も自由な存在なのです」


「なるほど」


「人生とは短く、そして、とても呆気ないものです」


「その意見には同意だ」


「だかラこそ私は、これを全力で楽しむと決めたのです。誰にも邪魔はさせません」


「……そうか」


 ここへ来て、ゴスロリ少女の口から伝えられたのは、フツメンの胸にもまた響く言葉であった。伊達に彼も似たような感慨から、今という時間を一生懸命に生きていない。もしもローズとの約束がなければ、踵を返したかもしれない。


「だが、仕事は仕事だ。素直に頷く訳にはいかない」


「そうですか」


「ああ」


「……でしたラ、ここで死んで下さい」


 少女の腕が、大きく頭上へ掲げられる。


 だが、それが振り下ろされることは、なかった。


「っ……」


 その膝が折れると共に、身体がふらつく。操り人形を釣り下げる糸が切れたように、自重に任せるがまま、手も、足も、胴体も、全てが床に向かい落ちてゆく。その光景は見ている側が不安になるほど、酷く歪で人間らしくない挙動だった。


 併せてゴスロリ少女の表情が変化する。


 それは驚愕の一色だ。


「あレ……また、しかもこんな……」


 崩れ落ちる自らの肉体を理解して、瞳が見開かれた。


 間髪を容れず、顎を床に打つ衝撃から、その瞼を閉じる羽目となる。


 可愛らしい口からは、小さく悲鳴が漏れて聞こえた。


「多少の個人差は見られるが、アンタもまた例外ではなかったようだな」


 その様子を眺めて、西野は彼女に訪れた不幸を口にする。


 語る眼差しはどこか、遠い景色でも眺めるようだ。


 ただでさえ細い目元が殊更に細くなる。最高に似合っていない。


「っ……こ、なっ……わ、わたしの身体っ! 身体がっ!」


 一方で慌てるのがゴスロリ少女である。


 リビングの床にうつ伏せで倒れた彼女は、必死に両手両足を動かす。しかしながら、せいぜい義足と義手がデタラメに動きまわる限りだ。四つん這いで這いずり回ることも困難に思われる。


 今の今まで悠然と立ち回っていた姿が、まるで嘘のような無様だった。


「どういうことですかっ!? ど、どうしてっ!」


「落ち着け、そう大した問題ではない。少なくとも命に別状はない筈だ」


「な、何か知っていルのですかっ!? まさか貴方がっ……」


「だったら良かったのだがな」


 少女を諭すよう呟いて、西野が一歩を踏み出した。


 これ幸い、確保してしまおうという算段だろう。


「ひっ……」


 間髪を容れず、ゴスロリ少女の顔に恐怖が浮かぶ。


 短く悲鳴を上げて、床に腰をついたままの姿勢から、後ろに後退ろうとする。しかし、それも稼働部位の短くなってしまった手足では難しい。碌に身体は動かず、義手や義足がぶつかり合い、ガチャガチャと音を立てるばかりだ。


「大人しくしていろ。危害を加えるつもりはない」


「こ、来ないで下さい! 私に触ラないで下さいっ!」


「…………」


 ゴスロリ少女は必死の形相で叫んだ。


 眉間に皺を寄せるほどの嫌がりっぷりである。その表情を目の当たりにして、西野は伸ばしかけた手を引っ込める。いやいやと首を振って怯える少女を眺めては、まるでレイプ犯にでもなったような気分のフツメンだった


 代わりにその視線をローズに向ける。


「悪いがコイツを運んでくれ。男の俺だと収まりが悪かろう」


「正直、断りたいのだけれど」


「これも仕事だ」


「……分かったわ」


 渋々と言った様子で、ローズは少女に手を差し伸べた。


 ただし、その扱いは随分と適当なものだ。その髪を鷲掴みにして、クレーンのように持ち上げてみせる。勢い良く持ち上げられたものだから、ぶちぶちと毛が抜ける。ただ、ローズはこれに何ら構った様子を見せない。


「おい、もう少しどうにかならないのか?」


「だってこの子、レズビアンでしょう?」


「クライアントの意向だ」


「…………」


 しぶしぶといった様子で、ゴスロリ少女の胴体に腕を回すローズ。これまでの彼女であれば、その事実に瞳を輝かせたかもしれない。しかしながら今の彼女はといえば、氷水にでも浸けられたように、ガクガクと身体を震わせるばかりだ。


 そうした最中の出来事である。


「なんだよおい、いいことを聞いちまったな」


 不意に予期せぬ声が響いた。


 皆々の視線が向かう先、そこには床へうつ伏せに張り付いた姿勢のまま、片手に拳銃を構えるグラサンスーツの姿があった。その照準はローズに抱えられたゴスロリ少女に向けられている。


「なんだ、狸寝入りをしていたのか」


「悪いがその女を渡す訳にはいかねぇ」


「何故だ?」


「こっちはボスを取られてるんだ。最低限、落とし前は付ける必要がある」


「なるほど」


「おっと、動くなよ? そっちのガキ、お前もだ」


 語りながら、男はゆっくりと身体を起こした。


 その間も銃口は、ゴスロリ少女に向けられたままだ。


 ちなみにそっちのガキとは、西野に向けられた言葉である。


「子供相手に随分と物々しいじゃないか」


「その女で痛い目を見ている。子供だからって容赦はしねぇぞ」


「懸命だな」


「うるせぇよ、なんとでも言え」


 互いに正面から向かい合うアジアのフツメンと南欧のイケメン。


 距離にして数メートルほど。


 本来ならば多少なりとも格好の付く筈であった光景は、しかし、前者のおかげで台無しだ。サントリーニを訪れて以来、お気に入りとなった革ジャンが、殊更にフツメンの無様さを強調している。委員長のイライラの原因の一つでもある。


「死ね、クソどもが」


 引き金に掛けられた指が絞られる。


 パァンと乾いた音が響いた。


「っ!?」


 或いは西野が倒れる未来も、あったかも知れない。


 けれど次の瞬間、膝をついたのはスーツの男だった。いつの間にやら西野の手には拳銃が握られており、その銃口からは硝煙が上がっている。恐ろしいまでの早撃ちだった。発せられた弾丸は、スーツ男の手を打ち抜いていた。


 飛ばされた男の拳銃は放物線を描いて、割れた窓ガラスから外に飛んでいった。


「テ、テメェっ……」


 グラサンスーツが鬼のような形相でフツメンを睨み付ける。


 対する側は、それがどうしたと言わんばかり、涼しい表情で受け答え。


「悪いがこれも仕事なんでな」


「くそっ! その女といい、オマエといい、訳が分からねぇ!」


「どうせ死ぬんだ。確認しても無駄だろう」


 続けざま、西野は照準を男の頭部に併せて引き金を引く。


 しかしながら、次の一発が爆ぜることはなかった。


「ダニエルさんっ!」


 代わりに玄関の側から飛んで来た銃弾が、西野の口上を遮った。どうやらスーツ男の仲間が駆けつけてきたようだ。拳銃の発砲音を聞きつけたのだろう。足音からして一人や二人ではない。かなりの人数であることが窺えた。


「ちっ……」


 これを受けてはフツメンもゆっくりしていられない。


 今の彼はただの男子高校生に他ならない。拳銃に打たれれば死ぬし、ナイフに刺されれば、やっぱり死ぬ。これを防ぐ手立ては失われて、復帰するのはいつ頃になるのか、当人にも厳密な日時は及びがつかない。


「西野君?」


 そこに西野らしからぬ焦りを見つけて、ローズが声を上げた。


「アンタはその娘を連れて脱出しろ」


「ええ、それは分かっているわ。けれど貴方は……」


「早く行け」


 有無を言わさぬ物言いを受けて、西野至上主義なローズは言われた通り歩みを取る。いつだか見た仕事っぷりから、フツメンの実力に関しては、なんら不安を抱かない彼女である。取り立てて心配することもない。


 それでも聡明な彼女は、今し方のやり取りに違和感を得た。


 これまで一度として見ることのなかった、拳銃を用いるフツメンの姿。数度ばかり場を共にした彼女であっても、始めて見る光景だった。だからこそ、少なからず疑問のようなものが浮かんでの躊躇である。


 けれど、行けと言われれば従うのが今の彼女だ。


 他方、そうこうする間にスーツ男の仲間たちがリビングまで押し寄せてきた。十名近い人数である。誰も彼もが銃器や刃物に武装している。それでも元来の西野であれば、ものの数に入らなかっただろう。しかし、果たして現在の彼では如何なるものか。


「今のって銃声ッスよねっ!?」「ダニエル、どうしたっ!? どうなってるんだよっ!」「っていうか、あ、あのっ、あの女はど、どどど、どうなりっ」「テメェ、邪魔だからさっさと中に入れっ!」「うはぁんっ!」


 南部訛りの激しいイタリア語が連なった。


 廊下を挟んで出入り口の側から、ぞろぞろと男たちが姿を現す。


「仲間か……」


「このクソガキ、よくも俺の手を撃ったな? ふざけやがって、穴が開いちまってるじゃねぇか。ぶち殺してやる、絶対に許さねぇ。痛ぇ、とんでもなく痛ぇわ。ちゃんと治るんだろうな? こいつは」


「その程度でいちいち熱くなるな。のろまなアンタが悪い」


「んだとコラァっ!?」


 止せば良いのに、フツメンの口からはツラツラと軽口が漏れた。


 既に反射の粋だ。


 本人も口に出してから、言い過ぎたかと思うほど。


 おかげで男たちは怒り心頭である。


「何が何だかよく分からねぇが、こうなったらまとめてぶち殺してやる。おいっ! テメェらっ! なんの遠慮もいらねぇ、どいつもこいつもヤっちまえっ! どうせ逃げるんだ! 後のことなんて考えるなっ!」


 撃たれた手が痛むのか、グラサンスーツが吠えた。


 対して彼の仲間からは躊躇の声が返る。


「で、ですがダニエルさん、あの女はっ……」「そうだよっ、ボスみたいな目は、俺は二度と御免ですぜっ!?」「っていうか、そのガキはなんなんスかっ!? 仲間なんスかっ!?」「俺はもう嫌だよっ、勘弁してくれよっ。家に帰りてぇよ!」


 どうやらゴスロリ少女との活動を巡って、相当怖い目を見たらしい。


 しなしながら、続く言葉を耳としては彼らの態度も一変する。


「気にすることはねぇ! どういう訳だか、あの女、今は碌に動くこともできねぇみたいだっ! やるなら今しかねぇっ! ボスを剥かれた意趣返しだっ、やっちまうぞっ!? むしろ今やらなきゃ、後でこっちが殺されちまうっ!」


 皆々の視線がローズと彼女が抱く少女に向かう。


 抱かれた彼女は為されるがまま、困惑混じりに問い掛けた。


「……お姉さまは、私を助けて下さルのですか?」


「ええ、そうよ。でもこれは仕事だからであって、決して私の意向じゃないわ。そこのところちゃんと理解して貰えるかしら?」


「いいえ、それでも嬉しいです。こうして助けて下さルなんて……」


 ウットリとした眼差しで金髪ロリータを見つめる銀髪ロリータ。見つめる側は、頬を朱に染めて全力。窮地を救われたことで、殊更に熱が上がって思えるガチレズ美少女だった。スカートを捲れば股の湿りが窺えたろう。


 一方で見つめられる側は、抱きかかえる腕に鳥肌を立てながらの対応である。伊達に西野一筋を掲げていない。持ち前の怪力を駆使することで、腕は肘を伸ばして、抱える対象とは出来る限り距離を取っていた。


「その手の趣味はないの。妙な目で見るのは止めて貰えるかしら?」


「こうして近くで見ルと、ますます凄く綺麗です。キス、したいです」


「……放り出すわよ?」


「そのクールな眼差し、凛とした物言いも素敵です。愛して良いですか?」


「よろしくないわね」


 やり取りは一方通行。


 そうこうする間に同室では銃声が鳴り響き始める。


 スーツ男の仲間たちが攻勢に移ったようだ。


 銃撃戦である。


 西野はソファーテーブルをひっくり返して、これを二本足で立たせると共に盾としての迎撃。一方でスーツ男一派は部屋の出入り口に仁王立ちとなり、数に物を言わせてイケイケゴーゴー状態。


 如何せん数に違いがあり、両者の競り合いは後者に分があるように見える。


 テーブルは彼のみならず、その背後にローズやゴスロリ少女を守る形で設けられていた。彼は続けざま、他に数多の家具を片っ端から蹴り上げて、バリケードに急場を凌いでいる。雨あられと降り注ぐ銃弾の最中、奇跡的と称しても過言でない舞台作りだ。


 一つでも配置が狂っていたのなら、今頃は負傷していたフツメン一派である。


「……西野君?」


 おかげでローズは疑問を覚える。


 いつだかの彼は、現在抗する戦力とは比較にならない相手の懐に忍び込み、返り血の一滴も浴びずに親分の首を取ってきた。それが幾ら守りに回っているとは言え、ここまで苦労するものなのかと。


「さっさと場を離脱しろ」


 二人目となる獲物の眉間を打ち抜いたフツメンが吠える。


 弾は残すところ五発、マガジンはゼロ。未だ七、八名が元気良く撃ってきている状況を思えば、絶望的とも思える戦力差だった。しかし、そうした状況にも動じることなく、西野は淡々とローズに指示を出す。


「貴方、もしかして調子が悪いの?」


「そう言えばここ二日ばかり眠っていないな。いい加減に眠い」


 軽口を叩きながらも一発を撃ち放ち、ヘッドショットを決める。


 バリケードの先、並び立つ男の一人が悲鳴を上げる間もなく倒れた。これを受けて、流石に棒立ちでは不味いと理解したのか、スーツ男一派もまた建物の壁や、大型家具の裏など、物陰に隠れるよう身を移し始める。


 舞台は本格的に銃撃戦の態を成し始めた。


「そ、そういうことを言っているのではないのだけれどっ」


「道は俺が作る。こちらの合図でベランダから外へ逃げろ。それと申し訳ないんだが、一、二発は覚悟してもらいたい。アンタ的に被弾したら不味い箇所を教えてくれ。相手はご丁寧にもベレッタの九ミリだ」


 もしも志水が耳にしたのなら、西野君マジでキモいんだけど判定は免れない取りである。ベレッタとか絶対に知ったか振りでしょ? 私だって知ってるし。ゲームで聞いたことあるし。とかなんとか、質疑応答を仕掛けられること間違いない。


 けれど、語ってみせる本人は至って真面目だ。


「別に頭だろうと胸だろうと大丈夫だけれど、で、でも、そうじゃなくて……」


「頼もしい限りだな。では、いち、に、さんで出発だ」


「ちょ、ちょっとっ!」


 西野は有無を言わさず話を進める。


 狼狽えるのはローズだ。


 以前に確認した、根元の凍る生首は何だったのだろうと。


「いち、にぃ」


「わ、分かったわよっ!」


 それでも、カウントを開始した西野を前にして、食い下がることは出来なかった。彼に強く言われれば、反射的に従ってしまうのが彼女である。まさか、西野が負けるとは思わない金髪ロリータだった。


「さんっ!」


「ホテルで待ってるわっ!」


「ああ」


 西野がテーブルの陰から開けた場所に踊り出す。


 男たちは不意に姿を現わした西野を狙った。銃弾が集まる只中、彼は手にした家具で身体を庇う。大半は狙いも甘く、何をせずとも後方へと流れて壁や窓に当る。残る直撃コースも、どうにかこうにか凌いで見せる。


 その間にローズは、テラスに向かい駆け出す。


 すると流れ弾の一発が、金髪ロリータのお尻に命中した。


「っ……」


 その顔が予期せぬ衝撃を受けて引き攣る。え、そこなの? 言わんばかり。


 弾頭は貫通することなく体内に留まり、彼女が抱いたゴスロリ少女までは届かない。ムチムチの尻肉が、与えられた衝撃を受け止めきっていた。ロリロリな割に肉付きの良いローズの尻肉の勝利である。


 ただ、できれば肩辺りを負傷して、格好良く恩を売りたかった金髪ロリータだ。


「お姉さま?」


「だ、黙っていなさいっ、舌を噛むわよっ!」


 撃たれた彼女は痛みから顔を顰めさせる。だが、その歩みが止まることはなかった。ゴスロリ少女を両手に抱いたまま、悲鳴を上げることもなく、人間離れした脚力でテラスまでひとっ飛びである。西野の手前、格好悪い姿は晒せない。


 さも自分は撃たれていませんよ、必死に装ってのこと。


 そして、彼女の常人を逸脱した身体能力を持ってすれば、以後を逃れることは容易だった。銀髪ロリータを両腕に抱いたまま、隣接するホテルのテラスを伝い、まるでワイヤーアクションのようにピョンピョンと跳ねて場を後にする。


「クソっ、女を逃したっ!」


 グラサンスーツ男が忌々しげに吠えた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る