現地 五
サントリーニ島のフィラ界隈において一番にグレードの高いホテル。そのスイートルームに設けられた屋外ラウンジでのことである。
同所では現在、日本で一番に売れている芸能人、緒形屋太郎助がテレビコマーシャルの撮影に挑んでいた。再来月に発売を予定する缶コーヒーの販促映像で、彼がエーゲ海を背景にゴクリと一杯、喉を鳴らすというシーンである。
西野とロンドンのガトウィックで別れて以後、何の因果か彼もまたサントリーニ島までやって来ていたようだった。本日の朝に現地入りして以降、これまで延々とカメラの前であれやこれやポーズを取っていた次第である。
当人もまさか、西野が同じ町にいるとは思わない。
「いよぉしっ、今日の撮影はここまでっ!」
監督だろう人物が声高らかに言う。
「次は明日の朝、街へ出て続きの撮影だ!」
号令に応じて撤収作業が始まった。
撮影開始から二、三時間ばかり、早々にカメラから解放された太郎助は自由となる。他のスタッフもまた、さっさと仕事を終えるべく片付けを始めた。まだ陽も高い頃合ながら、本日の仕事は残すところ、打ち合わせという名の飲み会が精々である。
「さて、どうするか……」
手が空いた太郎助は、誰に言うでもなく呟いた。
「……アイツに土産の一つでも買っていってやるか」
脳裏に浮かんだのは、つい先々週に出会った少年の顔だ。なんだかんだで今一度、西野の下に足を伸ばす為の口実を探している太郎助であった。そうでなければ、他人に土産など、柄でないのが彼という男である。
事実、独り言を耳にしたスタッフが、太郎助を見て驚いた顔をしていた。
「たまには、たまにはいいよな、そういうのも」
周囲からの注目も、当人には知ったことでない。誰に言うでもなく、言い訳などブツブツと呟きながら、部屋の外へ向かい歩み出す。心なしか浮かれて見えるイケメンの姿に、監督以下一同、今日のタローさんは随分と機嫌が良いな、云々。
そんな彼に背後から声が掛かった。
「あ、あのっ!」
とても可愛らしい女の声だ。
イケメンが振り返ると、そこには彼を見つめる十代中頃の日本人女性。
「なんだ? 俺に何か用でもあるのか?」
「あのっ、そ、そのっ……」
いわゆるアイドルというヤツだった。
今回の撮影を共にする相方であり、太郎助が男性として世間の人気を攫う一方、彼女は女性として彼に次ぐ流行を博している。二人の共演は広告費に糸目を付けない販売元のゴリ押し戦略による成果だ。
「も、もしよろしければ、あの、一緒に……」
とても可愛らしい娘だった。
黒髪オカッパは清楚の証。真っ白なワンピース越しにも窺える胸と尻は、年の割にふっくらと膨らんで、熟年女性さながらに男好きするもの。それが周囲より頭一つ小さな背丈から与えられる幼い印象と相まり、背徳的な魅力を醸す。
しなし、そんな超級アイドルの色仕掛けも、太郎助には届かない。
「悪いな、少しばかり野暮用があるんだ」
「え? もしかして、知り合いとか居るんですか?」
「似たようなものだ」
フッと遠い目となり海など眺めながら、右手で前髪を掻き上げてみせる。
適当に語って格好つけては見せたものの、まさか現地に知り合いなどいない。どうしても一人でお土産を買いに行きたいイケメンだった。ガチで選ぶ気満々である。この手の人間が、迷いに迷った末、タペストリーやキーホルダーの類いを購入するのだ。
「ふわぁあ、すごいですぅー!」
「失礼する。明日もよろしく頼む」
「あ、はいっ!」
奔る気持ちを抑えて、クールを気取りながら退場の太郎助。
その背を後ろから眺めるアイドル。
後者は前者が部屋から完全に去ったことを確認して、傍らに立つアシスタントディレクターへと声を掛けた。声を掛けられた側は、同現場において一番に目立たない、パッとしない、冴えない、まるで西野のような雰囲気の二十代前半男性。
「あのぉー、バギーを出して欲しいんですけどぉー」
「え?」
「やっぱりお忙しいでしょうかー?」
「あ、いえ、行きますっ! すぐに用意しますっ!」
彼は指示されるがまま、バギーのレンタルへ向けて動き出す。
悲しいまでの小物感。
その姿を眺めては、ニィと人知れず口端を歪めるオカッパッ子だった。
◇ ◆ ◇
ところ変わって、こちらは撮影が行われるスイートの隣室。
お隣より少しだけグレードの高いロイヤルなスイート。差額お一人様数万円分だけ、部屋が広かったり、水回りが立派だったり、サービスが良かったり、同ホテルが胸を張ってオススメする最高のロケーション。押さえたのはフランシスカの仕事。
そこへ彼女の他、西野、ローズ、志水の四名は集まり、屋外ラウンジのダイニングに食卓を囲っていた。食事はコース一式が先刻に運び込まれて、大半が平らげられた後である。今は食後に冷たい紅茶など啜っている次第だ。
「なんか隣が賑やかねぇ」
建物の壁に阻まれて直接拝むことの適わない隣の部屋を眺めては、フランシスカが不満を口とした。西野たちが訪れる以前から、彼女が指摘した通り、同所では人の声が絶え間なく響いていた。
如何にロイヤルでスイートとは言え、所詮は人口一万人足らずの素朴な観光地である。更に重ねた歴史も相応となれば、防音だの何だのと気が利いた設備は存在しない。屋外で大きな声が上がれば、青空の下、これを遮ることは難しい。
「観光地だ。仕方あるまい」
「日本人観光客のようね。流暢な日本語が聞こえてくるわ」
相槌をうつのは西野とローズ。
「これまでの流れからして、映画か何かの撮影でも行っているようだな」
「もう少し静かに録れないものかしら?」
「まさか乗り込むなよ? 恐らくアンタは不快な気分になるだろう」
「今でも十分に不快よ。これだからアジア人は騒々しくて嫌だわぁ」
興味なさげにカップを傾けるフランシスカ。
その姿は酷く寛いで見える。
エーゲ海を背景に床も壁もテーブルや椅子さえも白一色のラウンジ。ダイニングセットのすぐ脇には、空の色を強く映しては水面を揺らせる、底を薄い青に塗られたプール。凡そ万人がサントリーニのホテルと耳として脳裏に描くような風景がそこにはある。
これに丈の短い黒のワンピースで挑むフランシスカは、意図して太股を晒すよう足を組み、時折、緩い風に靡く髪を片手に押さえる仕草を見せる。まるで映画のワンシーンのようだとは、傍目に眺める誰もの胸に浮かんだ寸感。ただし、口に出して誉める者はいない。ちなみに服の色を黒としたのは、偏にローズへの嫌がらせである。
一方で同所を訪れてより、今尚も緊張を強いられているのが志水である。
食事こそ飢えから平らげたものの、人心地つけば居心地の悪さから、何を語ることも叶わず、モジモジと太股を摺り合わせ始める。当人の主観からすれば、同所には彼女の味方が皆無だ。元気が取り柄の委員長であっても攻略は難航して思える。
彼女にとっては敵そのものと称しても過言ではないローズ、加えてここ数日で大嫌いになった西野、更には自分に対してまるで興味を示さない金髪美女。一連の布陣は、姉川の合戦、単身敵陣に乗り込んだ本多忠勝も斯くやあらんといった有り様である。
「西野君、これから貴方はどうするつもりかしら?」
場の話題を変えるよう、ローズが尋ねた。
こちらもフランシスカと同じようなデザインのワンピース姿。しかしながら色合いは、これまで着用していた黒から変わって赤。艶やか且つ鮮烈なそれは、彼女の内包する攻撃性を示しているようであった。同性の目から見ても恐ろしいほど似合っているから、志水は一目見て殊更に、彼女のことが嫌いになった。
更に本日の彼女は、普段以上に色気づいており、腰下まで伸びた長髪をツインテールに結っている。陽光を浴びてキラキラと輝くブロンドは、数週前の文化祭最中、まだ二人の仲が良かった頃、委員長が当人へ尋ねた際に曰わく、特に手入れなどしていないわ。これを思い起こして、ますます面白くない委員長である。
ちなみにこれら衣装は全てホテルの手配によるものだ。
「確認してどうするつもりだ?」
「仕事は終えられたのでしょう?」
ローズは西野の言葉を無視して強気に続ける。
「帰りの便まで暇を潰す限りだ。たまには余暇を味わうのも悪くない」
委員長の視線も手伝い、渋々といった様子でフツメンは答えた。まさかクラスメイトの見ている前で、彼女を無視する訳にはいかなかった。その僅かばかりのやり取りに勝機を得て、キチガイ女は意気揚々と続ける。
「それなら提案なのだけれど、本来の予定通り過ごすのはどうかしら?」
「どういうことだ?」
「同じクラスの友人と海外旅行。最高のシチュエーションよね?」
「っ……」
ここぞとばかりにローズは西野の弱点を攻める。昨今の彼が掲げる目標を、他の誰より正確に理解する彼女だから、この機会を利用しない手はなかった。どのように伝えれば、目の前のフツメンが乗ってくるだろうとは、いちいち考えるまでもない。
「ねぇ、志水さん。貴方もそう思うわよね?」
ニコリと菩薩が如き穏やか且つ朗らかな笑みで問い掛ける。
「え、えぇ……わたしも、に、西野君が一緒だと嬉しい、かな」
これに委員長は頬を引き攣らせながら、それでも笑顔で答えた。
ローズ志水協定の効力だ。
そうなると、まさか二人が裏で通じ合っているとは、夢にも思わないフツメンである。西野君が一緒だと嬉しい、などと志水から言われては、断れよう筈もない。むしろ奮い立った心が即座に燃え上がる。
「……そういうことなら、是非、一緒させてもらいたい」
チーム竹内はクラスでもカースト最上位に位置する仲良しグループ。そこに居場所を作れたのなら、教室に居場所を作ったも同然である。ガールフレンドを作るという当面の目標に対しても、非常に大きなステップである。
「決まりね」
委員長の意志など何処吹く風、皆々での現地観光が決定された。
するとどうしたことか、一連のやり取りを眺めていたフランシスカから反応があった。カチャリとカップを受け皿に置いて、それとなく西野に流し目など送りつつ、脇からちょっかいなど出してくる。
「あらぁん? それじゃあ私も一緒させて貰おうかしら」
どうやら三人の語らい合う様子が楽しそうに見えたらしい。一人だけ年齢が離れている点も、疎外感を感じさせるに一役買っているのだろう。彼女にとっても、接待をするには絶好のロケーションだった。
「貴方、アジア人は嫌いじゃなかったの?」
「ローズちゃんのお友達だもの、挨拶の一つくらいしておかないと」
「結構よ。貴方と一緒にいるところを見られたら、末代までの恥だわ」
「末代? 貴方の身体は子供を育めるほど贅沢な作りをしていたかしら?」
何気ない調子で語られた、しかし、他に聞く者にとっては割と衝撃的な事実の公表だった。志水は息を飲んで、反射的にローズを見つめてしまう。そんな彼女の反応を目の当たりとしては、西野も顔を顰める羽目となる。
「フランシスカ、大人気ない真似は止めろ」
「あら、この子を庇うの?」
「分別を付けろと言っただけだ」
志水の手前、止めに入る西野だろうか。
そうでなければ口を出すことは無かっただろう。
「良かったわね、ローズちゃん。彼が貴方のことを庇ってくれたわよ?」
「甚だ心外ね。私は誰かに庇われるほど弱くないし、大人しくもないわ」
「勘違いするな。アンタたちに気遣ったつもりは微塵もない。やりたければ他で幾らでもやればいい。しかし、こっちの委員長はローズの学友でもあるんだ。思慮深い心の持ち主なのだから、無駄に気苦労を与えてやるな」
「ふぅん? ノーマルってそういうのが趣味なのね? また一つ収穫だわ」
「思慮深い心の持ち主、ねぇ」
ジロジロと志水を見つめてフランシスカとローズが言う。その眼差しは夏場の路上、アスファルトの上にのたうちまわるミミズでも眺めるようだ。同じ人間に対する品評とは縁遠い、とても冷めた視線だった。
見つめられる側は、殊更に肩を小さくして身を萎縮させる。言葉を返すだけの根性が、今の委員長には窺えない。フランシスカとローズの金髪白人タッグに圧倒されていた。両膝を揃えて浅く椅子に腰掛ける様子は、まるで借りてきた猫のようである。
「あ、あの、ローズさん……、それで旅行というのは……」
なんとか場を取りなそうと委員長が口を開いた。
これを無視してローズは西野に向き直る。
「でもまあ一応、感謝はしておくわね。西野君」
「今一度繰り返すが、アンタの為じゃない。勘違いするな」
「仮にそうだとしても、ふふ、嬉しいわね?」
「言っていろ」
割と本気で嬉しいローズである。しかしながら、その表情は相手の神経を逆なでるよう嘲笑が混じったもの。彼女の心中を理解する余地のない西野にとっては、ただただ顔を顰めさせるのに一役だろうか。
「…………」
委員長はと言えば、完全に蚊帳の外。
もうコイツには話し掛けまいと心に誓う。
「ところで貴方たち、一緒に観光をするのは良いのだけれど、それよりも先に連絡を取らなくて良いのかしら? 紛いなりにも友達をしているのなら、少なからず心配していると思うのだけれども」
ここへ来てフランシスカが最もらしいことを言った。
まったくもって正論であるから、西野も頷いて応じる。
「確かにそれもそうだな」
自然と皆の視線は志水の下へ。
しかしながら、これに答える委員長はと言えば、芳しくない。
「あ、あの、それが……」
「どうした?」
「端末が壊れちゃって、ぜ、ぜんぜん起動できなくて……」
スカートのポケットから取り出されたそれが卓上に置かれる。
皆々の注目の下、彼女は電源を繰り返し押下する。しかしながら、どれだけを試したところで、端末は反応を示さなかった。アプリケーションが起動しないどころか、電源が入らず、LEDの点灯すら起こらない。完全に故障していた。
バイト代を注ぎ込み買ったばかりの最新機種である。
「それならローズの端末を使えば良い」
西野は早々に頭を切り換えて、ローズへ視線をやる。
たったそれだけの振る舞いさえ、志水にとっては苛立ちの原因となる。それならいちいち私に話を振らないでよ、とは喉元まで出かかった文句だ。フランシスカとローズの手前、これを危ういところで飲み込む。
「まさか忘れたとは言わないだろう?」
「持って来てはいるわね」
「ならさっさと連絡を入れれば良い」
「でも、ごめんなさい? 私の端末には彼女の連絡先しか入っていないの」
彼女とは志水を指しての話だ。
いつだか学園の屋上で一方的に交換されたアドレスである。けれど、今の彼女たちに必要なのは、志水以外の誰かの連絡先である。
「学園のアイドルだなんだと持ち上げられている割には大したことないな」
「随分と偉そうに指示してくれるけれど、貴方自身はどうかしら?」
「俺の端末に彼らの連絡先は入っていない。でなければ既に連絡を入れている」
件(くだん)の彼らはおろか、同級生の連絡先は唯一、ローズのアドレスがメール交換の履歴として残るばかりだ。伊達にカーストの最底辺で足掻いていない。それでいて高機能な最新モデルの所有が、逆に哀れを誘う。
「自分のことを棚に上げて、随分と良い身分ね?」
「それはアンタも同じだろう? お互いに同じ棚の上だ」
「っ……」
ドクンとローズの胸が早鐘を打つ。見開かれた瞳が若干潤む。
どうやら今し方の発言が、彼女的にアリだったようだ。一方で同キチガイ女の傍ら、隣の席に腰掛けた志水は、ローズの西野へ向ける眼差しの変化から相手の心中を察する。今の台詞のどこが良かったのかと、その狂った感性に辟易したよう両の眉を震わせた。
「しかし、それは困ったわねぇ」
他人事のように、何ら困った様子もなくフランシスカが言う。
「委員長、竹内君が予約したホテルはどの辺りだ? 大凡で構わないから教えて欲しい。しらみつぶしに連絡を入れていけば、時間は掛かるが特定は出来るだろう。日本人の子供ばかりが数名となれば、それなりに目立つ」
「どの辺りって言われても、住所も名前も分からないわよ……」
「ふむ、そうなのか」
ふむ、の辺りに志水は苛立ちをプラス。
我慢の限界まで残すところ三ポイントほど。ローズに振り回され続けた移動や、予期せず遭遇した交通事故。更には好意から行った人助けの末に待っていた、数時間という異国での放置が、彼女の心を腐らせていた。
ちなみに問題のホテルとは、彼女たちが今居るホテルだったりする。
しかしながら、その事実を彼らはまだ知らない。
「それなら当面は三人でまわれば良いじゃない」
ここまで来ていよいよ、ローズが自らの目指すところへ打って出る。彼女の脳裏には、今この瞬間から始まる、素敵な観光地巡りが描かれていた。元よりこの為に意図して竹内君を撒いた健脚美少女である。
「えっ、なんで私がっ……」
西野君なんかと一緒に、とは危うく漏れかけた委員長の本音。
「ホテル探しはそこの女に頼んでおけば良いわ」
「ちょっとローズちゃん、どうして私がそんなことしなきゃならないの?」
「良いから今は頷いておきなさい。彼に恩を売るチャンスなのよ?」
「……まあ、それくらいなら良いけれど」
ローズからの言葉を受けて、フランシスカは少しばかり悩んでから頷いた。
損より得の方が大きいと理解したようだ。
「それじゃあ決定ね。行きましょう」
我先にとローズが腰を上げる。
身体が動くに応じて、腰下まで伸びた長いブロンドが、ふわりと浮かび上がった。窓より差し込む陽光を反射して、金糸のキラキラと煌めく様子は、まるで今の彼女の心中を表すが如く、力強い輝きを放つ。
これに流される形で、他二名の予定もまた決定された。
行ってらっしゃい。
手を振り三名を送り出すフランシスカは、少し羨ましそうだった。
◇ ◆ ◇
西野たちがホテルを出発した同時刻。
太郎助はフィラの街中を歩んでいた。撮影現場のホテルを発ってから、半刻ばかりが経過していた。共連れの姿は見られない。一人、Tシャツにジーンズというラフな格好で、鞄の一つも持たずに町を歩んでいる。
これがまた様(さま)になるから、スタイル良しのイケメンだ。
「しかし、一口に土産とは言っても、考え出すと難しいな……」
日本国内では外を歩み通行人に囲まれること度々の彼であるが、サントリーニ界隈とあっては、その顔を知る者も数を減らす。これを良いことに、久方ぶりの自由を満喫するアジア系イケメンである。
「ここいらの土産っていうと、何が有名なんだ? サッパリだな」
ブツブツと独り言など呟きながら通りを歩む。
すると幾らかを歩んだところで、不意に彼の視界に見慣れた色が入ってきた。自分と同じ黄色の肌。年頃は彼より幾分か幼くて、十代中頃と思しき男女のグループである。土地柄、アジア人は目立つため、自然と太郎助の意識は彼ら彼女らに向かった。
位置と歩む方向の関係上、先行する相手側は彼に気付いた様子もない。距離にして十数メートルほど。身なりから観光客であることは間違いない。男が二人、女が二人。うち一人はよくよく見てみれば、太郎助も覚えのある顔立ちをしていた。
「……おいおい、ヤツのクラスメイトかよ」
ヤツとは他の誰でもない、どこぞの某フツメンである。
想定外の遭遇に思わず声が漏れていた。
そして、和気藹々と路上を歩む一団の傍ら、彼ら彼女らの後方より車道をゆっくりと進むバンがあった。全ての窓にスモークの張られたそれは、酷使されて長いようで、車体のあちらこちらに凹みや塗装の剥げなどが窺えた。
随分とゆっくり進んでいるなとは疑問に思っても、きっと道を探っているのだろうと、適当に理由を見つけて納得してしまう。やがて、同車両は同グループの向かう先、数メートルばかりの地点に停車した。数多ある路上駐車の一つとなる。
本来であればそれまで。
しかしながら次の瞬間、状況は一転した。
彼ら彼女らがそのバンの横を通り過ぎようとした際のことだ。不意に後部座席のドアが開いた。かと思いきや、そこから数名からなる白人男性の一団が、我先にと飛び出してきた。手にナイフを握る者の姿も窺える。
多くはラフな出で立ち、短パンにTシャツ姿である。これといって顔を隠している様子も無い。ほぼ全員が二十代から三十代と思しき男性で構成されており、一様に顎髭や入れ墨など、めかし込まれた粗雑な風貌が特徴的な一団だった。
そして、彼らは瞬く間に少年少女を取り囲んだ。
「マジかよ……」
まさかの展開を受けて、太郎助の歩みが止まる。
呆然と呟いた彼の見つめる先、竹内君が抵抗の報復に腹パンを受けて地面に膝をつく。これに松浦さんが悲鳴を上げる。その傍ら、鈴木君は男たちが手にしたナイフを一瞥して、何をすることも叶わないまま怖じ気づくばかり。
唯一、知的に動いたリサちゃんが緊急連絡を試みる。しかしながら、懐から端末を取り出すも束の間、すぐに腕を抑えられて、身動きを取れなくなってしまう。事前に現地の緊急連絡先を抑えていた彼女だが、少しばかり指の動きが遅かった。
場所は道幅が七、八メートルほどの通り。辛うじて中央線は窺えるものの、歩道と車道の境界も曖昧な道だ。日本であれば裏路地のような扱いを受けたかもしれないが、手狭い島にあっては、南北を行き来する重要な通りの一つである。
人通りは他に前後をバギーが二、三台の他、散歩の最中らしき現地住民が同じく二、三人ばかり。いつだか竹内君がヤクザに拉致された際と比較しては、幾分か物静かに思えるロケーションである。
「お前らっ、いきなりなんだよっ!」
竹内君が吠えた。
イケてるボイスで日本語が響く。まさか相手には通じない。そして、なけなしの勇気によって発せられた訴えも、喉元にナイフを突きつけられるに応じて、続く台詞を失った。大人しく拿捕される他になかった。
皆々身柄を押さえられて、追いやられるよう後部座席に載せられていく。
「……おいおい」
太郎助は考えた。自分はどうするべきなのかと。
自動車に乗り付けた男たちは一目見て普通でなかった。現地人か余所者か、一介の観光客には判断がつかない。ただ、それでも相手が一般人でないことは容易に窺えた。マフィアだとか暴力団だとか、その手の類いだろうと。
「…………」
自然と彼の手は端末へと伸びる。
しかし、緊急の到着を待っていたのでは、間に合いそうにない。そうなると自分はどのように行動すべきなのか。自ずと脳裏に蘇ったのは、過去に攫われた自らの経験。喉の薄皮をナイフに裂かれた痛み。そして何よりも、圧倒的な恐怖。
「……マジ、かよ」
途端に足が震え始める太郎助だった。トラウマがフラッシュバックしたようだ。ガクガクと酷くみっともない。行く先を変えようと、来た道を振り返るべく、意識が背後に向かいたがる。俺は知らない、俺は何も見てない、後で緊急へ連絡は入れるから、云々。
ただ、踵を返そうとして、ふと彼は考えた。
西野だったら、どうするだろう。
「…………」
すると太郎助の身体は、まるで雷にでも打たれたよう、衝撃と共に静止した。
未だ視界の先には、今まさに連れ去られようとする竹内君たちの姿がある。
その光景を目の当たりとして、太郎助はあれこれと考えた。もしも西野が自分の隣にいたら、アイツはなんと言うだろうか。アイツはどういった反応を示すだろうか。そんな酷く阿呆なことを考えた。
すると答えは、彼が想定した以上にスルスルと吐き出された。
『急用が出来た、悪いがしばらく一人でまわってくれ』
それはいつだって空気を読まない上から目線。
けれど今この瞬間、太郎助にとっては自身を突き動かす衝動の発端。
イケメンだけが見える何かが、彼の隣を離れて、竹内君たちの下に向かい歩んでゆく。決して急がず、極めて自然体で、それでも堂々と。太郎助と比較して、背格好が小さければ肉付きも良くない、典型的なモヤシ体型。
にも関わらず、その背にはいつだって、何故か絶対の自信が溢れる。
「っ……」
気付いた時、太郎助は一歩を踏み出していた。
彼が幻視したフツメンと同様、ゆっくりと落ち着いて、穏やかに、それでいて優雅に、自身が思う最高にカッコ良い歩みで、今し方に垣間見た理想へ、自らの背を重ねるよう、騒動の只中に向かって行く。
とはいえ、緊張もまた必然。全身の汗管という汗管から大量の汗が噴き出して、シャツやズボン、下着までをも濡らし始める。額には他者の目にも容易に確認出来るほど、ビッシリと隙間無く粒が並んだ。
けれども、一度動き出した歩みは止まらない。
一歩、また一歩と着実に。
そうして数メートルの距離まで近づき、イケメンは言うのだ。
「おいおい、随分と物騒なことをしてるじゃないか。えぇ?」
相手に向かい斜め四十五度の角度で軽く挑発するような笑み。
今の彼にできる精一杯のロックだった。
竹内君たちに襲い掛かった面々は、急な声を受けて彼を振り返る。誰も彼も目付きが悪ければ人相も厳つい。見つめられた側は、視線が合うに応じてビクリと肩を震わせた。全身を殊更に硬直させる。それでも引く訳にはいかないイケメン。
「そんなに急いで何処へ行こうってんだ? お、俺も一緒に連れて行けよ」
今にも震え出しそうな膝を必至に踏ん張らせて軽口を叩く。
当人曰わく、イギリス仕込みのブリティッシュ・イングリッシュ。ところどころ発音がおかしいのは緊張している為だろう。しかしながら、意図するところは問題なく伝わったようで、男たちの形相は今まで以上に、おっかないものに変化した。
グループメンバーは片言を交わし互いに頷き合う。やがて二人ばかりが太郎助の下へと歩み寄ってきた。片割れの手にはナイフが握られている。切っ先は僅かなブレもなく、彼の胸元に向けられている。
「お、おいおい、いきなり刃物かよ。少しばかり力み過ぎじゃないのか?」
やれやれだとばかり、両手の平を頭上へ、肩の高さまで上げてみせる。
一生懸命に平然を装っているが、その胸は痛いほどに鼓動を強くしていた。脈拍も全力疾走した直後のように早まる。どうしよう、あぁ、どうしよう、まともに物事を考えられなくなるほどに緊張しているイケメンだ。
「乗れ」
男はナイフを突きつけたまま、淡々と呟いた。
その表情には、有無を言わさぬ迫力があった。
「なんだ、一緒させてくれるのか? 気前が良いじゃないか」
対する太郎助はと言えば、時間稼ぎのつもりか、それとも行き過ぎた緊張の為か、普段以上に多弁となり語ってみせる。その姿はどこか滑稽ながらも、傍目には余裕の感じられるものであった。
おかげで一連のやり取りを目の当たりとしては、竹内君たちの顔に希望が宿る。予期せず誰かが助けに来てくれた。しかもそれは、よくよく見てみれば、テレビにラジオに引っ張りだこの有名人ではないか。
「おい、あ、あれっ、マジかよっ!?」「うそっ……もしかしてタローじゃない?」「わ、私たちのこと、助けに来てくれてるとかっ!?」「っていうか、なんか無茶苦茶カッコ良くねっ!?」「うんうんっ!」「スゲェっ!」
必然的に期待は高まる。
おかげでイケメンもまた、少しばかり格好つけてみたくなる。
伊達に西野に憧れていない。
「大人しく子供たちを解放しろ。要らぬ怪我をしたくなかっ……」
ただ、そうした彼ら彼女らの期待は、とても儚いものだった。
「うるせぇよ」
ガツンとナイフの柄で顎を強打されるイケメン。
「ぐはっ……」
まともに悲鳴を上げる間もなく、その身体は地面へ倒れる羽目となった。
一発で撃沈。
以後、身体はピクリとも反応しなくなる。
「えっ……」「マジかよ……」「なにそれ……」「おいおい……」
これには竹内君と他一同、驚きの上にガッカリである。
あれこれ偉そうに語っておいて一発かよ、とは居合わせた誰もの素直な感想だった。加害者である男たちもまた、呆気なく消沈したイケメンを指し示して、コイツは何をしたかったんだとばかり、疑問から顔を見合わせている。
「…………」
太郎助の意識は白目を剥いたまま、帰ってくる気配が無い。
気を失った彼は、最終的に自動車のトランクへと詰め込まれた。まるで荷物旅行でも運ぶよう、ドスンと放り込まれて、車外へだらんと垂れた手やら足やらを、小突かれるように収納である。その光景は酷く哀れなものであった。
竹内君たちも、それ以上は何も語ろうとしなかった。
それから男たちは、当初の目的である竹内君たちを後部座席に追いやると、自動車を発進させた。運転手がアクセルを踏み込むに応じて、ブォンと大きくエンジンが唸る。逃げ出すよう同所を後にするのだった。
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