現地 二
レフカダに落合った西野とフランシスカは、身体を休める間もなく同所を発った。ヘリやら何やらを乗り継いで、延々と移動すること数時間ばかり。エーゲ海のキクラデス諸島南部に位置するサントリーニ島までやってきた。
「やっと着いたわね」
「まさか夜通し移動に費やす羽目になるとはな」
「仕方ないじゃない、相手が動いてしまったのだから」
「その割にはサントリーニなどと、観光気分も良いところだ」
「事実、その通りなのでしょう? 随分と軽く見られたものね」
観光名所として季節を通し賑わう同所にあっても、一等に有名な高級ホテル。その傍らに真っ赤な日本産のメガスポーツを止めて呟くのがフランシスカ。一方、これに悪態を返しては、不満そうな表情を向けるのが、米国産のツアラーに跨がる西野。
共に二人の到着に併せて、わざわざ島外から空輸してまで手配されたものだった。細い畦道が多い同所においては、自動車にも増してバイクやバギーが重宝される。彼と彼女も多分に洩れずこれに習う形だった。
ちなみに車両のチョイスは、完全に二人の趣味である。
見た目からして金髪白人美女で足の長いフランシスカが、その豊満な肉体を余すことなく表現するピッチリとしたライダースーツを着用の上、メガスポーツに跨がる姿は頗る映える。だが、碌に舗装もされていない道を進むには酷く不便な乗り心地、自然豊かな同島の光景には違和感も甚だしい。
一方、西野は地形に合致した大型のハレーダビッドソン。砂利道を駆けるには最適な太いタイヤと大型のスポークが、しかし、彼の色白くモヤシな体型にまるで合わなくて、これがまた非常に不格好なもの。更にサングラスを着用の上、黒い革ジャンなど羽織っているから、いよいよ始末に負えない。
共に残念な仕上がりの二人だった。
「しかし、アンタの失態のおかげで、とんだとばっちりだ」
「だから補償はちゃんとすると言ってるじゃないの」
一連の移動は本来であれば想定されないものだった。フランシスカの相棒の失敗により、既にターゲットは場所をレフカダから他へ移した後であったとのこと。これを追い掛ける為に、二人は夜通しで移動する羽目となったのだった。
おかげで西野は一睡も叶わず貫徹の態である。当然、機嫌も悪い。
「いい加減に眠いんだよ」
「あら意外ね、飛行機は慣れていないのかしら?」
「白々しい女だな。既に及んでいるだろうに」
「なら感謝してもらいたいものね。こっちからの根回しがあってこそよ?」
既に空の上での一件は彼女にも伝わっていたようだ。
というより、西野が早々に同所を抜け出せた理由の幾らかは、フランシスカの暗躍が影響していたようである。そうでなければ或いは、太郎助に同じく、彼もまた長時間の拘束を余儀なくされていたかも知れない。
「そもそも依頼を投げてきたのはアンタの上司だろうに」
「いいえ、違うわよ?」
「マーキスのヤツが嘘を言うとは思えない」
「私の上司のそのまた上司からだもの」
「似たようなものだろうが」
「私の前でそういうことを言うの、本当、貴方くらいなものよね……」
いちいち勘に障る西野の物言いに対して、フランシスカは何か言われる度に、ピクリピクリと眉間を震わせる。今まさに彼が指摘した立場こそ、彼女にとっては他の何を犠牲にしても目指すべき地点であるから、適当に扱われるのは面白くない。
ただ、どこかの委員長と比較すれば、フランシスカは幾分か堪え性のある女だ。
「とりあえず、ホテルに入りましょう?」
「ここなのか?」
二人の眺める先には、歩道を挟んで白を基調とした建物がある。イメロヴィグリの崖上に急な斜面へ段を重ねるよう屋根が並ぶ様子は、凡そサントリーニ界隈のホテルと称して、万人に連想される典型的な外観の施設である。
他方、バイクの停まる道路を挟んで反対側、遙か眼下には延々とエーゲ海が続く。本日は日柄もよろしく、澄んだ青が上にも下にも広がる様子は、徹夜明けの西野にしてあまりにも眩しいものだ。
「まさか? 先んじて内通者との顔合わせを行うわ」
「なるほど」
単車を路上脇に止めて、二人は正面玄関に向かった。
際しては周囲を行き交う人々から、数多の視線が向かう。狭っ苦しい通りを無理矢理大きなバイクが二台も押し入ってきた為だ。もしもその場にフランシスカの姿がなく、フツメン一人であったのなら、苦情の一つでも飛んでいただろう。
「行くわよ」
「いちいち宣言せずともいい」
多少ばかりを歩んで、控えめな玄関を越えた先はエントランス。
朝方という時間も手伝い、従業員を除いて人の姿はほとんど見られない。その内装は外壁に同じく、壁から天井まで四方八方を真っ白に塗られたカナベス式。これは同地域に並ぶ他のホテルもまた同様であり、近隣一帯を観光名所たらしめる一番の要素だ。
来訪の旨は既にフランシスカから伝えられていたらしい。受付ではカウンター越し、バイクの鍵を放るに通過した。ホテルマンはようこそいらっしゃいましたと、恭しく礼と共にこれを受け取る。それ以上は何を求められることもなかった。
二人はカウンターの前の過ぎて、エントランスを後とする。
金髪美女が先導する形で目的の部屋を目指す。
「しかし、内通者とはまた手間を掛けているな」
「この手の仕事では定石じゃないかしら?」
「対象は一人なのだろう? 根回しが過ぎるように思うが」
「本人だけなら問題なかったわ。ただ今回は、護衛が随分と強力なのよ」
「誰か付いているのか?」
「今月だけで既に十三名が殺されているわ」
「数より質が問題だ」
「貴方でも危ういと思うわよ? 皮肉じゃなくて本当に」
「姿は?」
「送り込んだ誰もが音信不通。姿を確認して尚、生きて連絡を寄越した者はゼロ。だから相手の容貌はおろか、年齢や性別さえも判別がついていないの。報酬を後払いにしておいて良かったわ」
「内通者はなんと言っているんだ?」
「さぁ? なんでもフードをしているだとか。主人の前以外では、顔を見せるどころか声さえ発しないそうよ? 貴方のように開けっぴろげに学校へでも通っていてくれれば、こっちも楽で良かったのだけれど」
「アンタのところが掴めないとは、珍しいこともあったものだな」
「そうね。おかげで私の上司は躍起になっているわ」
「ご愁傷様だ」
「私にとっては悪いことばかりではないのだけれどね」
「アンタは今くらいの立場が丁度良いと思うが」
「その言葉、ちゃぁんと覚えておくわ。いつか後悔させてあげる」
「できるものならな」
途中で幾度か階段を上り下り、更にエレベータで数フロアを昇る。すると、それまで眺めてきたドアの並びと比較して、少しばかり大きめの一枚が廊下の突き当たりに現れた。いわゆるスイートと呼ばれる類いの居室だろう。
これを正面に臨んで、フランシスカの歩みが止まる。
「ここよ」
「随分と居心地の良さそうな部屋だな」
「一人で泊まるような部屋じゃないわね」
「さっさと開けてくれ」
「分かってるわよ」
フランシスカが軽くドアをノックする。応じて木製のそれは、小気味良い音を立てた。しかしながら、幾ら待ったところで反応は返って来なかった。今一度、少しばかり強く叩いてみても結果は変わらない。
「寝ているのかしら?」
「ちゃんと目が覚めれば良いがな」
「……そうね」
自然と手はドアノブに向かう。彼女が手首を捻るに応じて、それは何の抵抗もなくグルリと回った。どうやら鍵は掛かっていなかったようだ。
必然的に二人の間では緊張が高まる。
「ねぇ、開けても良いかしら?」
「そこを退け、アンタじゃ不安だ。俺が先行する」
「あら優しい」
フランシスカに代わりドアノブへ手を伸ばす西野。取り立てて躊躇することなく、彼はひと思いにドアを引いた。
すると何が起こることもなく、それは従来の通り廊下の側に向けて開かれた。
出入り口から奥に向かって廊下が続く。突き当たりにはダイニングと思しき空間だ。更に奥まった場所に、リビングに続く一角が確認できる。他にも幾つかドアの類いが並び、寝室やらシャワールームやらが窺えた。
そして、少なくとも今見えている範囲には、誰の姿もない。物音も聞こえず、人の気配も碌に感じられない。
近隣一帯のホテルはどれも、同地域の伝統様式に従い、海に面した崖を洞窟状にくりぬいて建造されている。その為、一般的なホテルと比較して全体的に丸みを帯びる。それがのっぺりとした壁や天井の白に相まって、妙な不気味さを醸していた。
「行くぞ」
「え、ええ」
自ら先行して、西野が室内に向かい歩み出す。
その調子は普段の振る舞いと大差ない。ズボンのポケットに両手を突っ込んだまま、ズンズンと早足に奥へ向かい廊下を行く。しかも室内に在りながら、サングラスと革ジャンを共に着用したままだ。どうやら気に入ったらしい。
その後ろから、拳銃を構えたフランシスカが続く。
こちらは酷く緊張した様子で腰を落として、あっちを見たりこっちを見たり。行く先に次々と照準を移ろわせながら、先行するフツメンの歩みへ必死の形相でついて行く。彼女の振る舞いから察するのであれば、二人の置かれた状況は、かなり良くないのだろう。
多少ばかりを歩み、廊下を抜けてダイニングへ至る。
そこで西野たちは見つけた。
「あラ、遅かったですね? ずっと待っておリましたのに」
届けられたのは第三者からの声だった。
ダイニングと床続きのリビング。同所に設えられた大きめのソファーに、何やら人の姿があった。革張りのクッションにどっしりと腰を落ち着けて、大仰にも足など組んでは寛いでいる。その表情には満面の笑みが。
年の頃、十代も前半と思しき少女である。
特徴的なのは身につけた衣装だ。フリルの多分に付けられた、圧倒的な黒と多少の白に作られるツートンカラーの衣服は、小柄な少女の体格と合わせて、いわゆるゴシックロリータ。その手の衣装にしては長めのスカートが膝下十数センチほど。
一方で袖は肩先にカットされており、併せて着用する長めのロンググローブが、二の腕までを覆う。頭頂部にはフリルに彩られる大きめのリボン。凡そ普段着と称するには極まった姿格好である。
そして、衣服が衣服なら、中身もまた相応のものだ。
色白い肌は欧米人であっても殊更に白い。尚且つ長い銀髪のサラサラと流れる様子は、傍目、先天性白皮症のそれを彷彿させる。クリクリとした大きな瞳だけが鮮やかな赤色で、唇に重ねられた同色の口紅と相まれば、まるで人形のようだった。
「捜査員の方ですよね? ずっと、待っておリました」
無駄に丁寧な物腰落ち着いた物言い。
だからだろうか、彼女の呟きを受けて西野が隣へと尋ねる。
「アンタの同僚にしては随分と品があるようだが?」
「まさかっ、違うわよっ!」
フランシスカが吠えた。
それが合図となった。
「その似合わないサングラス、首ごとサックリ落としてあげますね」
ソファーに腰掛けて居た少女が、何の予備動作もなく飛び出してきた。
それこそまるで目に見えない糸にでも釣られたよう、気付けばブワリと全身を浮かして宙を舞い、次の瞬間には西野の正面に肉薄していた。身の丈百三十ほどの小さな身体が、更に腰を落としての接近は、迫られる側にとって相手の頭部が臍ほどの位置に来る。
音もなく右腕が振り抜かれた。
フツメンの首元を狙い、右から左へ軌跡を取った。
「っ……」
咄嗟、振るわれた相手の腕を遮るよう、西野の腕が動く。すぐ傍らに置かれた花瓶を掴んで、これを盾とした。彼の残念な反射神経にしては大したものである。いつぞや志水から幾度となく殴られた経験が生きたようだ。
際してはキィンと甲高い音が響いた。
「あラ、残念です」
「なるほど、確かにこれは面倒な手合いだ」
西野は何かを理解した様子で頷いた。
彼が正面に掲げた花瓶は上下に真っ二つ、目に見えない何かに切断されていた。支えを失った下半分が落下して、ガシャンとけたたましい音を立てる。内に湛えていた水が足下に敷かれた厚手のカーペットを水浸しにした。
その先にあったフツメンの首には、薄皮一枚、僅かコンマ数ミリの薄い切り傷。
一方でフツメンのすぐ傍ら、銃を構えたフランシスカが吠える。
「両手を後頭部に沿えてうつ伏せになりなさいっ!」
これに構わず西野の腕が動いた。
腰に差していた銃を引き抜くと共に、躊躇なく引き金を引く。パァンパァンと甲高い音が連続して響いた。放たれた弾丸は合計四発である。それぞれが左右の手と足を器用に捉えていた。身動きを封じようという魂胆だろう。
しかしながら、彼の思惑は外れた。
彼女の肉体に当たった弾丸は、甲高い音を立てて明後日な方向へ弾け飛んだ。
まるで金属にでも当たったような反応だった。
「……随分と硬い身体をしているようだな」
「ちょ、ちょっと、いきなり撃たないでよっ!」
発砲音に驚いたフランシスカが西野を振り返り吠える。
これに構わず彼は立て続けに銃を撃ち放った。
今度は胴体を狙って二発ばかり。
「失礼な男ですね。乙女の柔肌に銃弾を撃ち込むだなんて」
不意を突いた初撃とは異なり、今度は相手にも反応があった。ゴスロリ少女は大きくその身を飛ばすと共に、フツメンから距離を取った。人体らしさの感じられない、ワイヤーにでも吊られたような不自然な動きは、今し方の急接近と通じるところがある。
内一発が彼女の右足に当たった。
同時にガシャンと音を立てて、膝から下が床に落下する。
「え、義足?」
フランシスカの呟きが示すとおり、それは義足であった。
フリルのあしらえられた靴下に飾られて、けれど、そこには人体らしからぬ金属光沢が窺える。今し方、弾丸を弾いた際に生じたものだろう。スネの辺りには凹みのようなものが確認できた。
「やはりか」
「え、ちょ、ちょっとっ……なによ、あれ……」
したり顔でキメてみせる西野とは対照的、フランシスカの表情がこわばる。その視線が見つめる先には、片足を失って尚も、平然と身を立てるゴスロリ少女の姿があった。これまでと何ら変わらない立ち振る舞いは、自重とバランスに反したものだ。
「いやですね、年頃の娘の身体をまじまじと見つめて」
床に落ちた義足を指し示してのことだろう。
ゴスロリ少女は両手を頬に当てて、恥ずかしがるような素振りを見せる。イヤンイヤンと身体をくねらせる。二対一という状況下、銃口を向けられて尚も、その立ち振る舞いには余裕が感じられた。
一方で落ち着きを失うのがフランシスカである。
「これはどういうこと? ねぇ、お、おかしいわよねっ!?」
「いちいち騒ぐな。うるさい女だな」
「だってっ……」
共連れに構うことなく、西野はゴスロリ少女に向かい一歩を踏み出す。
フツメンの野暮ったい一重が、その顔を捉える。
「年頃の娘ならば、もう少し慎みを持ったらどうだ?」
「……せっかちな男は女にモテませんよ?」
少女が語るに応じて、エアコンプレッサーから射出された行き漏れの空気が、大気中に溢れたような、スパンという軽い音が部屋に響いた。かと思えば、どうしたことか、少女の残る手足が胴体から外れた。ゴトリと音を立てて床に落ちた。
よく見てみてみると、それらもまた義手義足だった。
一方で支えを失った肉体はと言えば、どうしたことか、床に落ちることなく宙に浮いている。いつだかの西野と同様に空を飛んでいた。地面と彼女とを繋ぐものは何もない。当然、天井から釣り下げるワイヤーの類いも見つけられない。
丈の短い袖から晒されるのは、肘の辺りから失われた両腕。患部を視認することこそ不可能であるが、下半身もまた同様だろう。義足の補強領域から鑑みるに、スカートの下も膝より下が失われて思われる。
「なっ……」
フランシスカの顔は驚愕の一色だ。
これに普段と変わらず、軽い調子で振舞うのが西野である。
「なるほど、道理でどこを撃っても感触がおかしかった訳だ」
「今のを防いだのは貴方が始めてです。油断なリませんね」
「アンタみたいな手合いには覚えがあるんでね」
「まさか貴方も?」
「俺は手足を捨てた覚えなどないが?」
ここぞとばかりにシニカルなフツメン。
おかげでゴスロリ少女はといえば渋い顔だ。
どうやら彼のウザさは万国共通のようである。
「……そういうことを言う人は、嫌いです」
二人は数メートルほどの距離を隔てて向かい合う。
フランシスカは銃を構えた姿勢のまま、完全に空気だ。
そんな彼女に西野は伝える。
「おい、部屋の外に向けて走れ。そして出来る限り遠くへ逃げろ」
「ど、どうしてよっ!?」
「アンタのお守りをしながら、コイツを制圧する自信がない」
滅多でない物言いだった。
いつだって自信満々、誰が相手であっても、肩で風を切って真正面から向かい行くのが、こちらのフツメンのスタイルである。
故にポロリと溢れた文句を耳にして、彼女もまた大層のこと驚いた。数年来の付き合いながら、自信が無いなどという単語が、その口から聞こえたのは初めてだった。
「なっ……ちょ、ちょっと、どうして弱気になっているのよっ!」
フランシスカの顔色が真っ青となる。
「そレは良いことを聞きました」
ニィと気味の悪い笑みを浮かべるゴスロリ少女。口を開く都度に発せられる可愛らしい声は、時折、舌でも咬んだように音を跳ねさせる。どうやら両手足の他、発声器官にも欠陥があるようだ。
「アンタも紛い物の手足を気遣う余裕がなくなったからこその判断だろう?」
「まずはそちラのオバさんかラですね」
西野の言葉を無視して少女の意識がフランシスカに移る。
その口端がつり上がるに応じて、銃を構えた美女の周囲に、バレーボール大の火球が、どこからともなく生まれた。まるでライターに火が灯るよう、ボゥと小さく瞬いては、即座に激しく燃え上がり轟々と大きさを増す。
「ひっ、な、なにっ、なによこれっ……」
「私と同じようにしてあげます」
「ちょっとぉおおおおおおおっ!」
悲鳴を上げるフランシスカ。
腰でも抜けたのか、その場にストンと尻から落ちた。
「ちぃ、世話の焼ける女だっ」
吐き捨てるように呟いて、西野は彼女を庇うように動いた。共に火の玉を受ける羽目となる。幾つも浮かんだ火球は、次々と二人に向かい降り注いだ。まるで火薬でも爆ぜるよう、ズドンズドンと低い音が大きく連なり響く。
激しい土埃が空間を満たす。
それなりに広さのあるスイートとはいえ、室内には違いない。床は凹み天井や壁にはヒビが入りと酷い有様だ。まるで台風の直撃を受けたようである。家具も大小を隔てず二人を中心として放射線状に飛び散ってしまっている。
窓ガラスは一枚の例外もなく破れて、爆風に流されるよう屋外へと破片を散らせる。これに気付いた他の客からは、何が起こったとばかり遠く声が上がり始める。
ただ、それでも西野とフランシスカは生きていた。
爆発の瞬間、足下のカーペットを掴んだ西野が、これをフランシスカ諸共、自分たちの身体を包むように引き寄せていた。
花瓶の水に湿っていたことも多分に影響してだろう。炎に晒されたカーペットこそ焼け焦げているものの、これに包まれて飛び退いた二人は、僅か髪を焦がす程度に済んだ次第である。代わりに直撃を受けた床は焼け焦げている。
「し、信じられないわね。あの子も、アンタも……」
「どうやら派手なのが好きなようだ。フランシスカ、アンタとは気が合うんじゃないか? あのビッチより幾分か腕も立つ。ここは一つ交渉してみたらいい」
「そうね。き、機会があれば是非とも席を設けたいわ」
土埃が晴れるに応じて、その只中より姿を現わす。
これを目の当たりとして、少女は少なからず驚いた様子で言った。
「もやし体型の癖に、意外と元気良く動きますね」
その姿は相変わらず宙に浮いたまま、先程から一ミリとして動いた様子が無い。爆風に腰下まで伸びた銀髪を揺らしながら、飄々と構えている。
一方で西野はと言えば、ツゥと僅かばかり額に赤いものが垂れる。コンクリート片でも掠ったのだろう。浅い傷とそこからの出血が確認できた。
「もしかして、ピンチというやつかしら?」
「アンタを捨てて良いなら、七秒で制圧する自信がある。どうする?」
「急いてばかりの男は女にモテないわよ? 貴方の国では急がば回れという素敵なフレーズがあったでしょう? ここは一つ、ゆっくりと行きましょう? ね?」
「回ることを否定するつもりはないが、その道にアンタが居るか否かは別問題だ」
「ちょ、ちょっとっ……」
「この貸しは高く付く。覚えておけ」
「ぐっ……」
どうやら西野はフランシスカを守ることに決めたようだ。
一方でゴスロリ少女はといえば、一連の出来事を受けて甚だ興奮して思える。殊更に笑みを深くすると共に、大きな赤い瞳をギラギラと輝かせて、西野を見つめている。その様子は飢えに飢えた獣さながらだ。
「私と貴方、どちらがより優レているか競争ですね」
少女の語るに応じて、目に見えない何かが二人の元へ飛ぶ。
いつだか西野が見せた、かまいたち的な超常現象である。
それが幾十と数を重ねて放たれたようだ。
周囲の景色を歪めて進む脅威を、西野は脇に転がる椅子やらテーブルやらを盾として防ぐ。互いがぶつかるに応じて、キィンキィンと甲高い音が部屋に響く。大半は障害物に弾かれて、これといった成果を上げることはなかった。
ただ、一つばかりが防壁を突破して、フツメンの右手首をスパンと切り裂いた。僅かに皮膚が裂かれて、額に同じく血液が滲み、やがて垂れ始める。これを左手の指先に拭ったところで、西野からフランシスカに指示が飛んだ。
「場所が悪い。外へ移動する」
「移動するって、で、出口は塞がされていると思うのだけれど?」
外に出るならば、ゴスロリ少女を押し退けて向かう必要があった。
彼女は窓際に浮かんでいる。それこそ屋外への進行を阻むが如くである。もちろん外へ出るには、他に道もある。しかし、転進しては延々と廊下が続くばかり。手狭い空間でのやり取りは、今以上の危地が想像された。
「正面を突破する」
「流石にそれは無理があるんじゃないかしら? わ、私は反対ね、反対」
「反対意見は許されない」
火事場の馬鹿力とでもいうのか。ダイニングテーブルを危うくも持ち上げて、西野が走り出した。明日は筋肉痛だな、とは一歩を踏み出すのに躊躇した理性の警告。或いはもう少し重量があれば、腰を痛めていたかも知れない。
彼は木製の天板を盾にして、ゴスロリ少女に向かい駆け出した。
「ちょ、ちょっとっ、待ってよっ!」
仕方なくフランシスカもまたこれを支えるべく動く。
そのまま二人揃って、宙に浮かんだ少女に向かい体当たりである。
「っ!?」
これには迫られた側も驚いた様子だった。
二人と一人は正面衝突。
両者の距離がそう離れていないことが幸いした。まさか正面から向かってくるとは、少女も想定外であったようだ。互いにもみくちゃとなりながら、背後のガラス窓に空いた大穴を、今度は枠ごと打ち破って外に飛び出ることとなった。
スイートのテラスには大きめのプールが併設されている。プールサイドから数十センチの先は断崖絶壁、エーゲ海を水平線の彼方まで見渡せる絶好のロケーション。観光者向けのパンフレットなどでもよく目にする光景であって、同ホテルの一番の売りだ。
ここにドボン、ドボン、大きな水柱が幾つか立ち上がった。
一人の例外もなく水の中へと突っ込んだ次第である。
「こレだから男は嫌いです。乱暴で、品がなく、更に貴方はアジア顔で」
早々にプールから浮かび上がったゴスロリ少女が言う。
当然、全身から滴を垂らしている。びしょ濡れだ。長く綺羅びやかな銀髪が顔にベッタリと張り付いて、キラキラと輝いている。両手両足を失っている彼女だから、その姿はまるで墓場に眺める幽霊のようだ。
形の崩れた髪毛に同じく、衣服もまた水没したことで嵩を減らし、形を崩している。フリルはどれも萎びて元気がない。ペタペタとしている。生地が身体へ密着してしまった為に、色々な意味で残念な肉体のラインを白昼へ晒す羽目となっていた。
ちなみにブラを付けている気配は無い。
「うちのクラスの竹内君を見てもそう言えたのなら大したものだ」
彼女とほぼ同時、プールの縁から這い上がった西野がプールサイドに立つ。こちらもまたびしょ濡れだ。ぺったりとオデコに張り付いた前髪が、フツメンの普通なところをこれでもかと強調する。もしも志水が目の当たりとしたのなら、ブサメンとの烙印を押すかも知れない。
その傍らでは、同様に陸へ揚がったフランシスカが四つん這いとなり、今にも死にそうな顔でゲロゲロとやっている。どうやら水を飲んだようだ。髪は濡れに濡れて肌にへばり付き、化粧も流れ落ちて、更に鼻水やら涙やらで顔はべちゃべちゃ。それでも美しさを保つ御年二十五歳は、伊達に絶世の美女をしていない。
「タケウチクン? タイ料理か何かですか?」
「うちのクラスの竹内君だ。学年でも一番顔が良いと評判だ」
「……どうでも良いです、アジア人の男なんて興味ありません」
「機会があれば紹介してやろう。アジア人男性に対する認識も改まる筈だ」
「いちいち感に触ル男ですね。もう少し、どうにかなリませんか?」
言葉通り、苛立たしげに語ってみせるゴスロリ少女。
そんな彼女に答えのは、絶賛ゲロ吐き中の美女である。酸っぱくなった口の中を堪えて、息も荒く、必死の形相で姿勢を正す。四つん這いからの復活。どうしても、これだけは語ってやると言わんばかり、腕を組んで、胸を張って、粉骨砕身の気迫で伝える。
「申し訳ないけれど、こればかりはどうにもならないわねっ!」
妙なところで根性を発揮して見せるフランシスカだった。
伊達にここ数年、フツメン相手に苦労させられていない。
「……ふん」
少女の身体から垂れる滴が、プールに数多の波紋を浮かべる。都度、各々が広がり、互いにぶつかり合って複雑な形を描いてゆく。その朝日に照らされてキラキラと輝く様子は、室内に同じく白一色に作られたバルコニーに美しく映えた。
平時であれば少なからず心動くモノがあっただろう光景だろう。
けれど、今この瞬間に限っては、誰もこれを楽しむ余裕がない。窓枠の失われた窓枠の先、室内は爆弾でも爆ぜたよう。既に白の塗装も剥げて土色を顕わとしている。その光景を傍らに眺めては一同、緊張も相応である。
ハァハァと荒い呼吸を整えながら、フランシスカが少女に問い掛ける。
「ところで一つ、確認したいことがあるのだけれど」
「なんですか?」
「私の仲間は元気でやっているかしら? ここで落合う約束だったのだけれど、姿が見えないのが気になるわ。彼とは色々と話があったのだけれども」
語りながら西野の傍らに並び立つ。
「刻んでトイレに流しておきました。男は嫌いです」
「そ、そう……手間がなくて良いわね……」
美女の口元が引き攣る。
少なからず想定はしていたフランシスカだが、まさか下水に流されているとは想定外であったようだ。再三に渡り刺激された危機感から、更に半歩ばかり、その身体が西野へ寄り添うよう移動する。
対してフツメンはと言えば、淡々と問答を続ける。
「そういうことなら、もうこの場所には用もないな?」
「……どうするつもり?」
「そんなもの決まっている」
西野の視線がゴスロリ少女からバルコニーの先に移る。
「逃げるぞ」
「えっ……」
短く呟くと同時に、彼はフランシスカの腕を手に取った。同時に脱兎の如く走り出す。プールサイドを蹴り出し、その身を宙に舞わせる。数瞬の後、危ういところで隣接するホテルのベランダへ着地。そしてまた走り出す。
以後、同じアクロバットの繰り返しから、逃げの一手を打つ西野である。
「いいえ、逃がしません」
相手はこれを許さない。
場所を屋外に変えて、追いかけっこが始まった。
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