ローズという女
ローズ・レープマンは三日ぶりの排泄を終えて、洗面所で手を洗っていた。
ハンドソープを丹念に泡立てて、これを指と指の間から爪と肉の僅かな隙間まで、丹念に撫で付ける。わずか一ミクロンの洗い残しもないよう、ゴシゴシと皮膚を擦り合わせる。親の敵をおろし金に擦り付けるような気迫。その表情は酷く険しい。
時間にして十分間。
洗面所には出しっ放しの水が流れる音だけが淡々と響く。
やがて、満足が行ったのか、少しばかり表情を穏やかにして、蛇口の水道から垂れる水に泡を流し落とし始める。
その最中に手の甲が僅かばかり蛇口の先へと触れる。途端、彼女の顔はこの世の終わりとばかりに歪む。
「…………」
再びハンドソープを手の平に垂らして、激しく泡立て始める。今し方に洗い終えたばかりの手を再び、先程にも増して激しく洗い始める。
また十分ばかりが経過する。
今度は慎重に手の泡を水道水に流して行く。その顔は今にも泣き出してしまいそうなほど、苛立ちと悲しみにまみれていた。
ややあって、泡が全て流れたところで、彼女はタオルを手に取る。
水に濡れる指先をブランドもののそれに拭う。指の先から手首まで丹念に拭き取る。激しい手洗いの為か、部屋着の袖はビショビショに濡れている。
「……面倒、面倒なのよ。こんなの」
場所は都内に所在する高級賃貸マンションの一室。
両手の水気が完全に取れたところで、彼女はようやっと洗面所を後とする。
かれこれ数十分を籠もっていただろうか。
タオルはすぐさま洗濯かごに放り込まれる。植物の枝に編まれたそれに入れておけば、翌日には洗濯されて、綺麗に折りたたまれて部屋に戻される。一連の流れは彼女がこの街に越してから数ヶ月、延々と繰り返されてきた儀式の一つ。
「はぁ……」
リビングまで移動してソファーへ腰を落ち着ける。
すると時を同じくして、端末が振動に震えた。ソファーテーブルの上に置かれたそれは、ガラスに作られた天板に触れて、ブブブと小刻みな音を立てた。ディスプレイに移された呼び出し元は、つい先日にも顔を合せた相手。
「まったく、あの女は」
それとなく部屋の掛け時計を眺めれば、既に深夜の零時を過ぎている。
「……はい、ローズです」
『もしもし、私だけれど』
「そうね。こんな時間に電話してくるのは貴方くらいなものよ。フランシスカ」
『随分と待ったけれど、もう無理。明日に例の件を開始するから』
「それは協力が取り付けられたと考えて良いのかしら?」
『いいえ、彼は抜きでやるわ。アポすら取れなかったのだもの。これ以上は待っていられないわ。遅らせることの出来ない後発の仕事が、列を成して並んでいるのだから』
「……私に死ねと?」
『あら、貴方は死ねるのかしら?』
「…………」
何気ない電話相手の言葉にローズの表情が固まる。何か言葉を返そうとして、けれど、上手い軽口の一つも見つからない様子。口が二、三度ばかり、開いては閉まってを繰り返したところで、続けられる電話越しの一方的な通達。
『明日、貴方の学校が終わったら合流しましょう。いつもの喫茶店で良いわね?』
「……分かったわ」
『それじゃあ、おやすみなさい』
「ええ」
やり取りされる会話は酷く淡々としたもの。三分ばかりを繋げたところで、どちらからともなく回線は切断された。端末に表示された相手の名前と通話時間を眺めて、ローズは顔を苛立ちに歪める。
端末をソファーへと投げつける。
勢い良く放たれたそれは、ボスっと軽い音を立ててクッションの合間に埋もれる。
そして、彼女自身もまた身体をこれに預ける。
「なんなのよ、あの女。こっちがどれだけ気を遣って、アプローチを繰り返していた思っているのかしら。それを三ヶ月以上を待たせて碌にアポすら取れないなんて、どれだけ無能ならそんな成果が示せるのよ」
背もたれに頭を預けて天井を眺める。
大型のシーリングファンが音もなくゆっくりと回っている。
「…………」
瞬きを三回して、首を右に揺する。
瞬きを三回して、首を左に揺する。
瞬きを三回して、首を右に揺する。
瞬きを三回して、首を左に揺する。
瞬きを三回して、首を右に揺する。
「……ああもう、奇数じゃないのよ」
呟かれたのは意味不明な独り言。
それは彼女以外、誰も理解できないところにあるぼやき。
「なんの為に三回にしたと思ってるのよ。やり直しじゃない」
それからしばらく、彼女はソファーに身を預けたまま、天井を眺めて、目をパチパチとやったり、首をガクガクとやったり。苛立たしげな表情を顕わにキチガイ染みた行為を延々と続けた。
一連の儀式には小一時間ばかりを必要とした。
◇ ◆ ◇
その日もまた昨日と同様、津沼高校では授業が終えられて、放課後が訪れた。部活動や課外活動に従事する生徒は、所定の活動スペースへと急ぐ。そうでない学生は鞄を手に街へ繰り出すか、帰路に着くか。
西野五郷はと言えば後者である。
「っ……」
教室を後としてしばらく、昇降口へ至る直前の出来事だった。不意に彼の身体へ衝撃が与えられた。後ろから走ってきた誰かが、その身体を彼の肩にぶつけたようだ。転倒するほどではないが、完全な不意打ちに蹈鞴を踏む。
「あ、ごめんなさいっ!」
「…………」
何が起こったとばかり声の聞こえてきた側を振り返る。するとそこにはローズ・レープマンの姿があった。彼女も彼と同様に帰宅の最中であったのだろう。その手には学校指定の鞄が提げられていた。
昨今、缶バッチやキーホルダーの類いに装うのが常である女子高生としては、それらしいめかし込みも見つけられない。購入から間もない為か、汚れや擦れた様子もなく綺麗なものである。
「ごめんなさいね? ちょっと急いでいたものだから」
「ああ、別に気にしていない」
「そう? ありがとう」
これで何度目だったろう。
西野の脳裏に浮かぶのは、彼女と身体をぶつけた回数。ここ数ヶ月前、ローズという少女が隣のクラスに転校して来て以来、休み時間や放課後、クラス合同で行われる体育の授業に至るまで、場所や時間を選ばず接触する機会があった。
まさか偶然とは思えなくて、彼はこの点を疑問に思っていた。
しかしながら、相手は転校から一週間と経たずに学園のアイドルとなった美少女。まさか能動的に言葉を投げ掛けることも憚られて、真意は未だに確認できないまま、今日までを過ごしてきた。
ただ、流石にこのまま放置するのもどうかと考えて、彼は口を開く。
「一つ確認したいことがあるんだが……」
ついぞ数ヶ月目にして初めての積極的接触だ。
彼としても自身の境遇を鑑みれば、一つや二つ、思うところが無いでもない。もし仮に推測が正しかったとすれば、たとえ相手が学園のアイドルとはいえ、然るべき対処を行う必要があった。
しかし、意を決した彼の問い掛けも、彼女には届かない。
「ごめんなさい、本当に急いでいて、ちょっと時間がないの」
「……そうか」
「もしも話があるなら、えっと……明日の昼休みとか、いいかしら?」
「わかった」
「ありがとう。それじゃあ失礼するわね」
西野にとってのローズ・レープマンとは、いわゆる高嶺の花だった。上品で、知的で、快活としていて、いつも人垣の中心に立っている。また、そうした評価は他の生徒にとっても同様であって、同校に限らず、周辺校にまでその存在は噂となっていた。
小学生さながらのロリボディーに在りながら、万人を魅了するだけの知性と包容力が、学校生活に眺める日々の振る舞いには感じられた。体育の時間、一時間限定でツインテールとなる姿に打ちのめされたロリコンも多い。
今も笑みを浮かべる彼女の姿に、西野もまた少なからず男心を滾らせる。しかしながら、所詮は決して交わらない道を行く相手なのだと、諦め混じりの憧れだ。遠目に眺めて楽しむのが正しい距離感だと考えていた。
普段からシニカルを気取る彼であっても、中身は年相応の男である。
「ああ、道中気をつけるといい……」
西野は平素からの仏頂面で彼女を見送った。
他方、送られた側は急いで昇降口まで向かうと、内履きから外履きに手早く履き替える。そして、駆け足で学校を後にした。正門を抜けてから、多少ばかりを駆けたところでタクシー拾い、運転手に行き先を命じて数キロばかりを走る。
向かった先は都内有数のオフィス街。
その端に位置する背の雑居ビルの囲まれた界隈。
自動車から降りてしばらくを歩むと、彼女は一件の喫茶店へ入った。
カランコロン、鈴が鳴って客の入店を知らせる。乾いた音が響く。
ローズは手早く店内を眺めて、奥まった席に見知った相手を見つけると、早歩きにその下へ向かった。彼女に店内を案内するべく数歩を踏み出したウェイトレスも、これを待ち合わせと理解して、厨房へ回れ右だ。
「あら、早かったわね」
「貴方が急かしたのでしょう? わざわざメールまで送ってくれて」
「私はローズちゃんが遅刻しないよう気遣っただけよ?」
「……どうかしら」
二人掛の席。
空いた椅子を引いて、ローズはこれに腰掛ける。
「それで、算段はどうなっているのかしら?」
「ローズちゃん、貴方は何を飲む?」
「……この女は」
露骨に苛立ちを見せるローズ。
彼女の正面に腰掛けるのは、つい先日、西野の前に現れたブロンド美女だった。場末の喫茶店へ腰掛けるには過ぎた代物。タイトなミニスカートから洩れたムチムチの太股は、否応にも人目を引く。それを大胆にも組んでいるのなら尚更。
対する現役女子高生の身の丈が百三十センチ足らずであることを鑑みれば、殊更にその女らしさは強調された。同じ白人種にありながら、酷く対極的な二人である。外国人の顔に判別の利かないアジア人が見れば、年の離れた姉妹として映るやも知れない。
「紅茶で良いかしら?」
「コーヒーを。エスプレッソで」
「あら、紅茶は止めたの? あんなにこだわっていたのに」
「不味いと分かっている店で好物を頼む馬鹿がどこにいるのかしら?」
「そう言えば、前にもそんなことを言っていたわね」
「これ以上、下らない問答を続けるなら、帰るわよ?」
苛立たしげに美女を睨み付ける美少女。そこまで露骨に態度を示されて、ようやっとフランシスカはローズからの問いかけに答えた。
「場所は抑えてあるわ。彼女は同時搬入で、開始時間は午前零時きっかり」
「今度の彼女は可愛らしい子なのかしら? 前のはあまりにも酷かったわ」
「メイドに相応しいものを用意してあるわ」
「メイド? また今回も趣味の悪いシチュエーションのようね」
「あら、殿方を落とすなら悪くない選択よ?」
「貴方のような色狂いと一緒にしないで欲しいのだけれど? 私は結婚するまで、ちゃんと取っておきたいの。婚前にありながら、誰にでも股を開くような尻軽女と一緒にしないで欲しいわ」
「そういう子に限って、ちょっとした切っ掛けでハマるのよねぇ」
「黙りなさい。下らない話を続けるのなら、依頼を放棄して帰るわよ?」
「あら、貴方はそんな選択が取れる立場かしら?」
「…………」
咄嗟、続く言葉が出てこないブロンド美少女。
ニィと口元に笑みを浮かべてミニスカ美女は続ける。
「理解したかしら? このまま向かうのであれば私が送るけれど」
「結構よ。一度着替えてから向かうわ」
「ええ、それじゃあよろしく頼むわね。支度が出来たら連絡を頂戴」
「……分かったわ」
多少ばかりを語ったところで、ブロンド美女が席を立った。手元には碌に嵩を減らしていないコーヒーのカップが残る。テーブルに置かれた伝票を手にして、手早く会計を終える。その際にローズの下へ紅茶の注文を入れることも忘れない。
「ありがとうございました」
レジ越しに頭を下げるのは同店の店長だ。
紅茶が不味い。コーヒーも不味い。目立った商品もない。立地も良くない。ついでに内装も冴えない。一連の事情も手伝い、客足は甘味時であっても遠く閑散が常。それでも店が潰れないのは、一重に地主である彼の趣味に営業されている所以。
「まったく、面倒な仕事ばかりで嫌になるわね」
誰に言うでもなく呟いて、ローザもまた美女に続き席を立つ。
卓上にはチップ代わりにと財布から取り出した五百円硬貨。
これを卓上において、人差し指に撫でる。
一度、二度、三度撫でたところで、椅子に何故か座り直す。
かと思えば、すぐに立ち上がり、中指で硬貨を撫でる。
一度、二度、三度撫でたところで、椅子に何故か座り直す。
かと思えば、すぐに立ち上がり、薬指で硬貨を撫でる。
一度、二度、三度撫でたところで、椅子に何故か座り直す。
その間、表情は極めて真面目。
これを三セット繰り返したところで、彼女は席を離れた。
彼女の備える強靱な意志により、自宅外での儀式は極めて短縮されている。自宅であれば最低でも二十セットは繰り返すべきであったところを、僅か一桁に済ませた事実は、当人にして非常に希有なケースである。
キチガイ認定五秒前。
店長に見つかる直前、危ういところで現場を脱する。
ドアを押して店の外へと向かう。
カランコロン。
「ありがとうございましたー」
背に届くのは出入り口に括り付けられた鈴の音と、店長の暢気な声。
喫茶、木漏れ日。同店舗は本日もガラガラだ。
◇ ◆ ◇
その日、西野はペットの餌を購入するべく夜の街を歩んでいた。
目当ては二十四時間営業の総合ディスカウントストア。そこでハムスターの餌を購入するのが、今の彼が何より優先する事項だった。ここ最近は忙しくあった為、餌の備蓄を切らしてしまった為である。
昨日に手持ちの全てを与えてしまい、本日の食事にも困る有様だ。
というわけで、彼は愛するペットの為、買い物へと繰り出した次第である。
「……同じ製品が販売されているといいが」
同居人が好みとするラインナップを思い起こしては呟く。過去に色々と選定を重ねた結果、ここ数年に渡りご愛顧にしているブランドの品だ。西野にとっては数少ない友人であるが故、その点に妥協するつもりはなかった。
そうした最中のこと、ふと彼の視界に見知った姿が映った。
「あれは……」
ローズ・レープマンだった。
酷く真剣な表情で通りを歩む美少女。ブロンドの白人である彼女だから、傍目にも非常に目立った。政府の意向により移民受け入れの施策が国政として大々的に為されて数年。それでも流入する大半は同じアジア人であるから、白人の姿は際立つ。
ただ、今の彼女はそれ以外の要因からも、酷く人目を引いた。
肌や髪の色、瞳の色以上に目立つ、全身ラバースーツ。各所には破れや解れを伴い、その先には剥き出しの傷口を晒している。年頃の娘が街中を歩むには滅多でない姿恰好だ。腰回りには何やら、エプロンのような被服の切れ端がまとわりついている。
「……なんだあれは」
ペットの食事に向けられていた意識が、路上を駆ける同級生に傾いた。
彼の他にも彼女を捉える視線は多い。終電を間近に控えて駅へ急ぐサラリーマンや、客引きに勤しむ風俗屋の客引き。派手な衣服に着飾りクラブへ向かう女や、そんな女を求めて街を闊歩する粗雑な風貌の男たち。などなど。
対してローズが晒すのは、バイク搭乗中に横転してアスファルトに放り出されたライダーのような無様であるから、これに声を掛ける通行人も出てくる。気遣い三割、下心七割。これら全てを無視して、彼女は必死の形相で通りを歩んでいた。
その足は人気のある通りを避けるよう、細路地へと進路を取る。
「…………」
見て見ぬ振りも出来た。
しかしながら、相手は少なからず言葉を交わしたことのある相手だ。更に言えば同じ学校の生徒である。万が一にも今晩のうちに何かあって、翌日、全校集会の末に黙祷の時間を用意されたのでは、流石の彼にしても目覚めが悪い。
「……追われてるのか?」
西野は少しばかり考える。どうするべきか考える。
同居人の食事は用意することは、彼にとって割と重要なミッションである。しかしながら、一晩を放置した程度でどうにかなるようなものでもない。餌こそ尽きても、水分に関しては十分にタンクへ入れてある。二、三日は十分持つだろう。
「…………」
結論は彼女の姿が建物の影に消えたところで出た。
西野は急ぎ足で駆け出す。
向かった先は背の高いビルとビルの合間に生まれた細路地。道幅三メートル程度であって、自動車の通行も難しい通路だ。道と呼ぶにも怪しい。そのまま真っ直ぐに五十メートルばかり抜けると、また別の大きな通りに出る。
他に通行人の姿もなく、西野は早々にローズを確認した。
前方十数メートルの地点。
酷く弱々しい足取りで細路地を歩む彼女の姿があった。自重を支えることも辛いのか、通りを作るビル壁面の一辺に手を突いて、辛うじて立っているよう。前へ前へと向かう進みは赤ん坊が四つ足に這うよりも遅い。
「…………」
彼が声を掛けようとしたところ、通路の反対側に人影が現れた。
スーツ姿の大柄なラテン系男性が三名。銃器に武装している。彼らは登場して即座、その照準をローズに対して向けた。間髪を容れずに発砲。消音装置が取り付けられているようで、本来であれば響いたろう甲高い音は聞こえない。
代わりに飛び出した薬莢の、路上に転がる音が立て続けに響いた。
二度、三度と繰り返される発泡。うち一発がローズの太股に命中した。ビスッという音と共に、彼女の身体が地面へと倒れる。頭部が脇に置いてあったゴミ箱に当たる。転倒した水色のそれは勢い良く転がり、内側に収まっていた廃棄物を派手にまき散らした。
「……どうやら面倒なことになっているようだな」
ここへ来てようやっと、西野も状況を理解した様子だ。
彼は咄嗟に地を蹴ってローズの下まで跳躍した。十数メートルという距離を瞬く間に詰める。片膝を地面に突くと、両腕を背中と膝裏へと差し入れて、彼女の肉体を胸中に抱き入れた。この間、数秒と要さない早業である。
「なっ……」
一方で抱かれた側はと言えば、今の今まで彼の存在に気付いていなかったようだ。突如として現れた同級生の姿に瞳を見開いていた。
「ど、どうして貴方がここに、いるのよっ」
「買い物に出掛けたら、アンタがボロボロで歩いていた」
「……それはまた、大した偶然もあったものね」
「普通じゃないと思っていたけれど、やっぱり普通じゃなかった訳だ」
「え、ええ……そうね。悪かったわね」
「ところで、あれは?」
「さぁ? どこかの雇われボディーガードじゃないかしら」
軽口を呟いて、ローズは懐から拳銃を取り出した。これを迫る男三名に向けて片手に撃ち放つ。一発目が先頭を走っていた男の太股に、二発目がその後ろから迫っていた男の頭部に、それぞれ着弾した。
後者は絶命。
前者はその場に倒れて、足を庇いながら呻き声を上げる。
残る三人目は二人に構わず、拳銃を構えたまま彼女に迫る。
「銃が使えるのか。大したものだ」
「そこまででもないわ」
パスンと軽い音を立てて、三人目の放った弾丸がローズの眉間に向かう。
受ければ絶命必至。
即死は免れない一撃。
だがしかし、それは着弾まで数センチのところで、空中にピタリと静止した。
「っ……」
これを目撃したところで、何事かと酷く戦いたのがローザ。目と鼻の先に留まる弾丸を目の当たりとして、その瞳が大きく見開かれた。ライフリングに擦れた跡の刻まれる弾頭の、緩やかに尖る先端までもが鮮明に確認できた。
「気にするな。問題ない」
「えっ、そ、そんな……」
目の前の出来事が信じられないとばかり。
他方、西野はこれに淡々と応じる限り。
「これで終わりだ」
彼は左腕を彼女の膝下から抜くと、残る三人目に向けて振るう。下から上にすくい上げるよう振り上げられた先、目に見えない何かが飛ぶ。ブゥンと低い音が一帯に響いた。腹の中側に響くような野太い音だ。
次の瞬間、対象の身体が左右に分断された。
綺麗に股を割られて、背骨を縦に割るよう肉体が離れる。呻き声を発する間もなく、三人目の男は地面へと倒れた。断面から吹き出した大量の血液が、辺り一帯を真っ赤に染めた。数メートルを経て、彼らの足下にまで至るほど。
まるで巨大な水風船でも割ったよう。
「っ……」
衝撃的な光景を目の当たりとして、小さく息を飲むローズ。
一方でそれを行った彼はと言えば、淡々と言葉を続ける。
「逃げるぞ」
「え、ええ、それが良さそうね」
短く呟いて、西野はローズの膝下へ腕を通す。
今し方と同様に、彼女を抱いて立ち上がった。
「ちょっと、じ、自分で立てるわっ!」
「こっちの方が早い」
非難の声を上げる彼女に対して、有無を言わさず駆け出す。
早々に場を後とするフツメンだった。
◇ ◆ ◇
ローズの案内に従い、西野は彼女の自宅へと向かった。
スカートからはみ出した太股の中央に銃痕。それが流血の最中とあっては、まさか公共の交通手段で移動する訳にもいかない。更には懐の拳銃。万が一にも人目に触れてはおしまいだ。結果、西野は彼女を抱えて空を飛ぶこととなった。
一路、夜の暗がりの下を空中飛行である。
何故に空を飛べるかと言えば、彼自身もまた分からない。鳥類が空を飛ぶように、彼もまた空を飛べた。翼が生えている訳でもなければ、腕を上下に動かす必要も無い。ただスイスイと。音もなく穏やかに。
やがて辿り着いた先は、つい昨年に竣工したばかりである外国人向け高級賃貸マンションの一室。不動産最大手が都内に販売する有名ブランドのシリーズだ。最も安いワンルームでも、月々の支払いが三桁を越える素敵なお家である。
そこで彼は彼女と向き合う。
「なるほど、再生能力があるのか」
「……貴方の力と比べたら些末なものでしょうけれど」
「再生者というやつか」
「呼び方なんてどうでも良いわ」
指摘された彼女は、自嘲するように答える。
これに答える西野の言葉は酷く淡々としたもの。
「それはそれで大したものだ。別に謙遜することはない」
「そう? ありがとう」
目的地へ到着したとき、ローズの怪我は完全に癒えていた。血液にこそ濡れてはいても、銃創は見当たらない。つい数分前には間違いなく確認できた損傷だ。これは彼にしても想定外の出来事だった。
結果、一連のやり取りである。
「……なんというか、その、本当に助かったわ」
場を取繕うようローズは言う。
彼女が腰掛けているのは、同宅のリビングに設えられたソファーだ。正面にはガラス製のソファーテーブルが設けられており、これを挟んで対面のもう一台に西野が腰掛ける。共に広々とした三人掛けの向かい合わせだ。
広々とした間取りのリビングルームだからこその贅沢である。
「いや、別に構わない」
感謝の言葉を受けて、彼は平素からの淡々とした態度で応じた。
彼女のような不思議能力を備えた相手と対するのは、西野にとって初めての出来事ではなかった。だからだろう。特別に驚いた様子はない。早々に事情を把握したところで、それ以上を追求することもない。一連のやり取りは落ち着いていた。
一方で落ち着きがないのがローズである。
「あの……」
小刻みに体を震わせては、もじもじと太股を擦り合わせる。情けないところを救ってもらった都合、居心地が悪いのだろう。甚く気恥ずかしそうに言葉を続ける。普段、学内で眺める彼女とは、幾分か振る舞いが異なっていた。
「どうして私を?」
「偶然だ。他意は無い」
「そ、そうなの?」
「ああ」
素っ気ない態度で答える西野に対して、答える彼女は口調が覚束ない。
相手の調子を伺うように、ローズは怖ず怖ずと言葉を続ける。
「学校とは話し方が違うわよね? 少し固いような気がするのだけれど」
「……こっちは商売用だ」
「商売用? どういうことかしら」
「舐められないようにしないとならない」
「あ、あぁ……」
続けられた彼の言葉に、ローズもまた納得した様子。
例えば教室に眺める彼は、どこにでもいる普通の生徒。例えば卒業アルバムに眺める彼は、普段の三割増しでブサメン。例えば風呂場の鏡に映る彼は、もしかしたらイケメン。それでも実際に白昼の下で眺める彼は、やっぱりフツメン。
どこまでいってもアジアのフツメン。ハゲたらブサメン。
「え、えっと……」
何と答えたものか、困惑するローザ。
それほどまでに彼の顔面偏差値は極めて普通だった。一重まぶたに不揃いの歯、やや突出した頬骨。カッコ良いとは決して言えない。それでもブサイクと指を差されるほどでもない。クラスに一人と言わず数名はいる学園カーストの中層階層の担い手。
二十代に若者と呼ばれても、早々、三十路を過ぎた頃には中年オヤジと吠えられるようになり、四十を越えれば頭髪も寂しくなって、キモいんだよ禿オヤジ。やがて、五十、六十と数える頃には老害。そんな他者に何を誇ることも出来ない宿命の外見。
学生のうちから見た目に気を遣い、異性に気を遣い、世間に気を遣っていれば、その六割ほどが彼女を作って、真っ当な恋愛を経験の上、セックス。やがては結婚できる程度のフツメン。けれど、その一つでも厳かにすれば、未来永劫素人童貞。
そんな至って普通のフツメン。どこにでもいるフツメン。
現代日本における顔面的マジョリティ。
だからこそ、こうした非日常では、その普通さが際立つ。
本来、フツメンでは挑めない領域。
特にローズのような美少女が並び立つと、彼の存在はまるで冗談のようだ。例え金属に作られた本物の拳銃であっても、彼が手にした途端、プラスチック製の模型に成り代わってしまったのではないかと錯覚するほどの、圧倒的なフツメン。
それが西野の顔面偏差値。
日常においては平凡を示唆すべく顔面も、こうして少しばかり込み入った事情を前としては、ブサメンと大差ないまま、その惨めなところばかりが浮き彫りとなり、如何ともしがたい違和感を現場へご提供。
「……邪魔したな」
更に言えば彼は見た目に気を遣うタイプでなく、異性に気を遣うタイプでもなく、ましてや世間に気を遣うようなタイプでもない。その出自が所以か、自分は自分、他は他と、境界線を自身に近いところでキッチリ引くタイプだった。
躊躇なくソファーより腰を上げる。
早々に繁華街まで戻り、購入し損じたペットの餌を手に入れる必要があった。友達が一人もいない自称ロンリーウルフな彼にとって、それでも心を許せる相手がいるとすれば、それは自室でケージに収まり、腹をすかせた一匹のハムスターだけだ。
「ちょ、ちょっと待ってっ!」
そんな彼をローズは声も大きく呼び止めた。
「……明日も学校はある。早く寝たい」
「あ、いや、あの、でもっ……」
しどろもどろと美少女は酷く焦った様子で口を開く。
そして、幾らばかりか悩んだ末、ふと出てきた言葉がこれだ。
「と、泊まっていくかしら?」
「…………」
酷く唐突な提案は、まさか真っ当に解釈できる筈もない。
更に相手が同業者となれば尚更のこと。西野は彼女からの問いかけを冗談だと判断した。話題に事欠いた彼女からの、場をもたせる為のリップサービスのようなものだと考えた。故に答えは決まっていた。
「人をからかうにも、まずは相手を選ぶべきだ。そして、俺はその手の冗談が大嫌いだ。それでも盛りたいというのなら、悪いが他を当ってくれ」
淡々と答えて足を動かす。
ふと彼の脳裏に浮かんだのは、胸の谷間をチラつかせるフランシスカの姿だろうか。これがまた彼の気分を苛立たせた。目の前の相手に非がないとは理解している。しかし、彼はどうしても彼女のことが嫌いだった。
その歩みが向かう先は、リビングから廊下に通じるドアである。
「えっ、あっ! ちょ、ちょっとっ!? 違うのっ! 待ってっ!」
何が違うのか、西野には判断がつかない。
ただ、このような軽口の叩き合いは、彼にとって頻繁にある出来事だった。外見が非常にアジアンで、極めて普通であるから、どこへ行っても軽く見られるのだ。おかげで対処にも慣れたものである。
「悪いが、他人に指図される覚えはない」
短く断りを入れて、フツメンはローズ宅を後とする。
「あ、ちょっ……」
ローザの言葉も虚し。
リビングのドアは開かれて、閉じられて、パタンと小さく音を立てた。
◇ ◆ ◇
翌日、一時間目の授業はクラス合同の体育だった。
同校の慣例に従えば、学年を二つに割って四クラス合同での授業となる。今期の体育に関しては、サッカー、バスケット、バレー、卓球といった選択枠が存在する。いわゆる文科省指定の学習指導要領が示すところ、所定球技種目だ。
男子の多くはサッカーやバスケットに流れる。
一方、女子はバレーや卓球に流れる。
男女別に体育を行わない大きな理由の一つとして校長の意向がある。
現在同校の校長を勤める男は、学園カースト最底辺出身の高学歴坊ちゃんである。伊達に凡校を成績優秀に卒業した後、都内の有名国立大学に進学していない。入省も本来であれば、もっと上を目指せたアッパー系キャリアでもある。
その存在はローズに次いで、普通極まる同校の普通じゃないところの一つだ。
とは言え、この事実を知るのは教頭を筆頭とした一部の教員に限られる。生徒にとってはどこにでもいる禿オヤジの一人。校長にしては少しばかり年が若いかな、とは社会を知るごく僅かな生徒が抱く些末な寸感か。
そんな校長が言ったのだ。
男だろうと女だろうと、体を動かすことが得意なヤツはいるし、苦手なヤツもいる。前者は上の方へ行けば良いし、後者は下の方でゆっくりしていれば良い。自ずと流れるよう選択の猶予を与えるべきだ。体育の授業はそういう感じにしろ、云々。
結果、今の選択授業がある。
そうした背景も手伝い、毎年、運動の苦手な女子生徒と、女性関係を諦めるモヤシ系男子生徒が卓球へと流れる。特に後者が卓球へ向ける思いは熱い。卓球最高、卓球愛してる。卓球楽勝。まわりにリア充がいないから最高に落ち着ける。云々。
卓球部こそ負け組のオアシス。
そして、西野のまた負け組の一人だった。
体育の授業に対して向上心の無いフツメンにとっては、決して外せない選択である。まさかサッカーやバスケットなど混じれる筈もない。ルールすら碌に知らない。トラベリング上等。他に選ぶ余地はなかった。
更に出不精で運動らしい運動もせず猫背がちな彼であるから、近い将来、背骨の彎曲から胃下垂を併発して、行き場を失った内臓が下へ流れること数年、肋軟骨の萎縮から漏斗胸となり、殊更に貧困ボディーを極める未来も割と現実的だ。
「…………」
第二体育館、卓球台の並べられた一角で、その隅に体育座りで挑む。
卓球台にピンポンするのはクラスが違う同級生。
名前も知らない男子生徒二名。
これをぼんやりと眺めては、早く授業が終わらないものかと、穏やかな時間を過ごす。授業中であれば、他に教科書を眺めて時間を潰すこともできる。しかしながら、体育の授業は如何ともしがたい。他にやることのない暇な時間。
これが彼にとっての日常。
一昨年に入学して、今年で二年目を重ねる高校生活の一端。昨年も同様に過ごしてきた秋先の球技授業の光景。入学当初はバスケだサッカーだと盛り上がる他の男子生徒に思うところ無かった訳でもない。心揺れることもあった。
しかし、いざ卓球に落ち着いてみれば、卓球最高。
その精神は安穏とした卓球空間へ完全に飲まれていた。もしも卓球という種目が体育の科目に存在しなかったら、どれほどの被害が運動音痴一同に訪れていただろうとは、彼もその心中に常々思い返しては背筋を凍らせるところ。
「…………」
だから彼は今日も今日とて先週に同じく、第二体育館の隅で体育座り。
そこへ現れたるは闖入者。
何故かバスケット用のビブスを着ていた。
「あら、いるじゃない」
ビブス着用のそいつは、彼を見つけて声を上げた。
「そんなところに座り混んで、もしかして体調が悪いのかしら?」
「……いいや?」
これに答える西野は呆れ顔。
その正面には、体操服姿で仁王立つ女子生徒の姿があった。
ローズである。
「流石にその反応は寂しいわ」
「…………」
彼の他、同第二体育館で卓球に興じる面々の意識が、ビブス姿の彼女に向かう。腰下まで伸びた長い金髪が、けれど、今日はゴムに止められてツインテール。これ拝む為に授業中、先生、トイレ、言い出す他学年の生徒も現れ出すほど。
彼女の一挙一動に併せて、穂先のサラサラと流れる様は綺麗だ。
男子生徒の多くはこれに目を奪われる。
女子生徒は少なからず嫉妬混じり。それでも憧れに一入。
現れて早々、周囲の意識を奪って止まない美少女。それがローズ・レープマンである。そして彼女は、どうやら西野に用があるらしい。体育座りで控えたフツメンの前に陣取り、声も大きく語ってみせた。
「卓球、やりましょう?」
その眼差しは一ミリのブレもなく西野を見つめていた。
手にはシェイクハンドのラケットが握られている。
「そのビブスを着てか?」
「邪魔なら脱ぐわよ」
「いや別に、そういう訳じゃなくて……」
彼女は元気だった。彼より遙かに元気だった。
すぐ正面でビブスを脱ぎ始める。もしも胸の大きな女子生徒であれば、その襟口を胸元から抜く際、乳房の揺れる様子が拝めただろう。けれども、彼女は超高校生級のロリータ。平坦な胸は僅か生地に触れて擦れた限り。
ビブス生地を掴み腕を上げた際には、体育服が僅かばかり上にずれて、臍が彼の正面、手を伸ばせば触れられるところに顕わとなる。中央には形の良い綺麗な臍。程良く付いた腹筋に引き締まる腹部は、彼女が運動を日常としている現れだ。
ローズはビブスを脱ぎ終えると、これを壁際へ放り置いて彼に挑む。
「ほら、卓球をやりましょう」
「……バスケはいいのか?」
「今日は卓球がやりたい気分なのよね」
「…………」
どんだけ卓球がやりたいんだ、とは西野の心中に呟かれた本心。
ローズという少女は、同校において誰よりも有名だった。学園のアイドルと称しても不都合無い存在だった。むしろ呼ばれること度々である。当然、その一挙一動には他の生徒からの注目が集まる。これを嫌う西野としては、どうしたものか。
「向こうに大勢女子がいる。彼女たちに相談したらどうだ?」
西野が視線で指し示したには、一カ所に固まった卓球女子の姿がある。彼女たちもまた、突如としてやってきたローズに注目していた。ただ、彼女たち以上に目を皿として、その姿を眺めているのは男子である。
学園のアイドルが日陰者の巣を訪れた事実に、その多くが注目していた。
「おい、なんでローズちゃんがここにいるんだ?」「たしか選択はバスケだったよな」「俺、前に第一体育館まで見に行ったことある」「ブルマ姿も可愛いよなぁ」「っていうか、なんで西野のヤツと話してんだ?」「西野ってアイツのこと?」「そうだよ。A組のヤツ」「いつも隅の方で座ってるヤツだよな」
西野とローズ、二人が言葉を交わす姿を眺めては交わされる呟き。
これは女子の方も似たようなもの。
「やっぱりローズちゃん、可愛いよねぇ」「あの金髪とかマジで羨ましいよぉ」「だよねぇ。日本人の限界ってやつ? 感じちゃうわぁー」「えー? そうかなぁ? 確かに可愛いけど、そんなでもないようなぁ」「あの太もも、触ってみたくない?」「私は外人系って苦手かな?」「ああいう妹が欲しかったなぁ」「あ、私もそれ思うっ」
ただし、こちらは同性とあって若干のやっかみも含まれた。
肌の色、髪の色、瞳の色、色が色々違うから、同校において良くも悪くも人の注目を集めてしまう。それがローズという少女だった。
「……悪いがトイレに行ってくる」
このままでは良くないと判断したのだろう。
即座、自ら折れたのが西野である。
彼はいそいそと立ち上がり、第二体育館の出入り口を目指す。
「あ、ちょっとっ!」
反射的に後を追うべく足を動かすローズ。
これに西野は彼女だけに聞こえるよう、ぼそりと続けた。
「……用件があるなら放課後に聞く」
「っ……」
少しばかり声のトーンを落とした、彼曰く商売用の物言い。
◇ ◆ ◇
その日、帰りのホームルームでのこと。
「翌週から文化祭の準備期間に入る。放課後に遅くまで準備を行うこともあるかとは思うが、決して泊まり込みなどしないように。九時には先生方が見回る予定になっているからな。それと道具の扱い、特に火や薬品の扱いには十分に注意して行うこと」
教室から去り際、担任教師が述べた文句だった。
その注意が示すとおり、再来週の頭から二日間、津沼高校では文化祭が執り行われる予定だった。これに先だって来週一週間は放課後、その準備期間として時間が抑えられていた。各学年クラス単位、或いは部活動単位で何かしらの催しを上げるのが常である。
普通の高校であれば、どこにでもある行事の一つだ。
「……文化祭か」
ボソリ、西野が呟いた。
昨年は他に用件があり欠席した彼である。
そう言えば今年は何をするんだろう。
疑問に思ったところで、担当の去った教壇、そこへ登る生徒の姿があった。同じ教室で勉学を共にする女子生徒だ。同クラスにおいて中心に位置する女子生徒であって、クラス委員なる仕事を行っている人物でもある。
名前を志水知佳子と言う。
「はい、ちょっと聞いてー聞いて-!」
彼女は担当が去った教室、帰り支度を始めた生徒を前に言葉を続ける。
「先生の言ったとおり、来週から文化祭の準備だけど、今年の出し物はちょっと準備に時間がかかりそうなの。だから、有志を募って今週末、つまり明日の土曜から支度を始めたいと思っているのよ!」
元気の良い声が教室に響く。
外見は学年で上から五本の指に入る程度に可愛らしい。ミディアムストレートの黒髪はどこにでもいる女子高生のそれ。長い睫毛と大きめの瞳、それに引き締まった体付きとが印象的な少女である。課外活動の所属は水泳部だ。
「そこでって訳なんだけど、男子で協力して貰える人はいない? 女子の方はもう人数を集めてあるから、後は力仕事担当ってことで、三、四人くらい、男子の協力が欲しいの。主に荷物運びとか、そういうので!」
ハキハキとした物言いに説明を続ける志水。
「休みからとかマジかよっ!?」
男子の一人から声が上がった。
「マジだよっ!」
これに彼女は元気良く答える。
「コスプレ喫茶だっけ?」
「そうそう! 色々とこだわりたいじゃん?」
外野からの声に答えて、志水は景気良く返事を返してゆく。
相手が外見も可愛らしい少女だからだろうか、席を立とうとした男子生徒一同は、これを前に腰を落ち着けて、投げかけられる言葉を耳とする。他方、既に女子の方はあらかた話が回っているようで、一連のやり取りを落ち着いた様子に眺める限り。
「コスプレ喫茶か……」
志水と男子生徒の会話を耳として、西野は今年の出し物を把握した。
文化祭でコスプレ喫茶。この手の催しでは王道である。十代の若者に満ち溢れる自己顕示欲や変身願望、異性への興味、その他諸々を男女とも一挙に満足させる。極めて優秀な出し物である。
「そういう訳で、協力してくれるイケメン、ちょっと手をあげてっ!」
「うわぁー! いきなりハードル上げてくれるなよっ!?」
「マジかよっ!? っていうか、あーもー、俺とか立候補できないわー」
「あ、田辺と鈴木やってくれるの? ありがとー!」
名前が挙がった二名の男子生徒。
今に吠えた彼らは共に、学園カーストでも上位に位置するイケメンだ。自他共に認めるイケメンだ。本人も自分がイケメンであると理解しているからこそ、声も大きくリアクションを取ることができる。このイケメンを選べと女子にアピールできる。
志水もまた、これ幸いと二人の名前を黒板へ示していく。
「二人じゃ足りないから、あと二人くらい誰かお願い!」
教室を見渡したところで、両手を顔の正面に合わせ拝んでみせる。
その視線が行き来するのは、往々にして同クラスでも顔面偏差値に優れるイケメンの席近辺だ。チラリ、チラリ、田辺と鈴木の他、宛てとする二、三名のところへ、それとなく意識を向ける。
彼女の意志は共に明日からの準備に参加する女子一同の意志でもあった。
「…………」
つまり西野にとっては、まるで関係のない世界の出来事である。
彼女の意図するところを早々に汲み取って、その意識は教室から他へ。ぼんやりと窓の外など眺めながら、今晩の夕食の購入先など考える。コンビニ弁当は飽きてきたので、そろそろ他に弁当屋でも開拓しようかな、とかとか。
そうこうする内に、数名のアシスタント野郎が選出された。
「それじゃあ、田辺と鈴木と林、それに竹内君、よろしくね! この後で打ち合わせするから、部活動が終わったら教室に戻って来てくれると嬉しいかな。あ、もしも遅くなりそうだったら連絡を頂戴ね!」
求められていたイケメンを無事に確保したのだろう。志水の顔には笑みが浮かぶ。他に幾名かガッツポーズなど見せる女子生徒もちらほら。その実、同案件にはクラスメイトの女子の恋愛を実らせるという、文化祭とな何ら関係のない裏ミッションが存在しており、そのターゲットが竹内君である。
竹内君はクラスでも一番のイケメン。
茶色に脱色された肩に掛かるほどのロン毛がトレードマーク。サイドに緩く掛けられたパーマに、彫りの深い顔立ち、更に古めかしいデザインの丸めがね。加えて身の丈百九十近い長身とあって、高校二年生という実年齢以上に、貫禄と知性を見る者へ訴える。
学年でも異性から一番に人気のある男子生徒だった。
当然、憧れる女子生徒も多い。よって同ミッションは、複数の女子生徒が同時に参加するハンティングスタイル。志水もまたその筆頭参加者として名を連ねていた。誰が手に入れても恨みっこ無しだからね、そんな密約が多数の女子の間で交わされたのが昨晩の出来事となる。
文化祭の準備云々に関しても、彼を巡るクラス女子一同のいざこざと、これを解決する為に出された提案の具体化こそが本質である。竹内君は貴方の彼氏じゃないのよ。それは貴方だって同じじゃない。だったら決着をつけましょう。それなら文化祭を利用しない手はないわね。とかなんとか。
クラス女子の企みなど、まさか異性の機微に疎いクラスのモテない男子生徒一同は気付くはずもない。これを理解するのは察しの良い一部のカースト上位だ。やれやれ、また竹内かよ、言わんばかりの表情に眺めながら、少しばかり不満そうな表情を浮かべている。当の本人はと言えばそしらぬ素振りか。
賑やかにも進行する文化祭の打ち合わせ。
そうした最中のこと、不意に教室の後方に位置するドアが開かれた。
「あら……」
廊下より顔を見せたのはローズである。
ガララと教室のドアを引いたところ、既に放課後である筈が、何故か誰も彼も自席に腰掛けている。しかしながら、教室内に教師の姿は見当たらない。自ずと彼女の下には視線が数多集まってしまい、はてこれはどうしたものか。
教室中からの注目を受けて、彼女は少しばかり反応に躊躇する。
自然と教壇に立った志水の意識も、彼女に向かった。教室の前と後ろとで、互いに視線が交わる。先んじて口を開いたのは志水である。どうしたものかと戸惑うローズに対して、それとなく助けに入る形だろうか。
「あれ、ローズさん? どうしたの?」
「ごめんなさい。まだホームルームだったかしら?」
「ううん、そういう訳じゃないけど」
「そうなの? でもなんか……」
「気にしなくていいよ? ちょっと文化祭に関して話し合ってただけだから。チャイムも鳴ってるし、先生ももう職員室に戻っちゃったし。それで、どうしたの? もしかして誰かに用事とか?」
志水は気さくな態度でローズに問い掛ける。
すると彼女はチラリ、西野に視線を向けて応じた。
「ちょっと西野君に用事があって」
「え?」
聞き慣れない苗字に一瞬、ポカンとする志水。
「このクラスだったわよね? っていうか居るじゃないの」
彼女は遠慮無く教室に入る。誰に気遣うこともなく、ツカツカと机の間を歩んで、今し方に挙げた人物の下へ向かった。都合、椅子に腰掛けた西野と、その傍らに立つローズとで顔を向き合わせる形となる。
他のクラスメイトは少なからず緊張。
教室の誰も彼もは驚いた様子でこれを見つめていた。どうして彼女が西野なんかに用事があるんだろう。そんな疑問が声を聞かずとも、表情を眺めただけで、手に取るように理解できる。これは今し方に話題と挙がったイケメン軍団も同様だ。
「……どうした?」
「だって、貴方が放課後にって言ったじゃない」
「ああ……」
よりによって何故に今来たのかと、心中で愚痴を吐く。
自身に集まった注目から、居心地の悪さを感じる西野である。これが先程名前の挙がった田辺や鈴木、林といった面々であれば、適当に場を濁すことも出来ただろう。しかしながら、いかんせんフツメンには難易度の高い鉄火場だ。
「今からいい?」
「……分かった」
短く頷いて席を立つ西野だった。
それが一番被害の少なくて済む選択と判断したようだ。彼は机の脇に掛けていた鞄を手に取ると、ローズと連れ立って教室を後にした。ガラガラ、ピシャリ。開けっ放しであった教室のドアが、二人が出てゆくと共に閉じられる。
然る後、フロアに訪れたのは喧噪である。
「ちょっとちょっと、今のってどういうことっ!?」「ローズちゃんがどうして西野なんかとっ!?」「うそぉっ!」「同じ部活やってるとかじゃねぇの?」「いやそりゃないだろ、西野って確か帰宅部だったぞ」「そうなの? っていうかオマエってアイツと友達だったりする?」「いや、いっつも速攻で帰ってるの見るから。俺も帰宅部だし」「うわぁ、すっごい気になるんですけどー」
男子も女子も、閉じられたドアの先に想像を膨らませては語らい合う。
男女の色恋沙汰に興味を示す後者には、ローズの真意を探らんとする思いが見て取れる。自分より外見の優れる同性が、自身の彼氏よりレベルの低い男と結ばれることは、彼女たちにとって少なからず幸福な出来事であるからだ。メシウマだ。
一方、下半身で物事を考える前者は、嫉妬の思いも一入といったところ。特に西野と同じフツメン層からのパッシングが強い。逆にイケメン層は自らのプライドも手伝ってだろう、本心こそ知れないが、見た目穏やかに疑問を口にする限り。
この枠に収まらないのが、男女を隔てずブサメン層。具体的にはブサデブハゲグロ層。全てを諦める彼ら彼女らは、我関せず携帯ゲームや文庫本の類いに熱中している。端末の無線経由でパーティーを組み、狩りにチャットに取り組む者もちらほら。
良くも悪くも明日は土曜日、休日だった。
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