西野とローズ


 ローズによる案内の下、西野が向かったのは、学園の最寄り駅から幾度か電車を乗り継いだ先にある喫茶店だ。雑居ビルの一階に居を構えており、その概観は至って普通で、どこにでもあるようなお茶処然としている。


 喫茶、木漏れ日。


 二人が腰を落ち着けたのは、同店舗の奥まった二人掛けの席である。テーブルを挟んで互いに向かい合わせの位置となる。着席以降、ローズの眼差しは鋭いもので、西野の一挙一動も見逃すまいと注目していた。


「それで、用件とはなんだ?」


 極めて事務的に尋ねるのが西野だ。


 これに彼女は緊張した様子で言葉を返した。


「貴方がノーマルのコードを有するエージェントであることは、私も転校当初から知っていたわ。いえ、この言い方だと誤解を招くわね。そもそも私が同校へ転校してきた一番の理由は、貴方に接触する為だったのだから」


 対して西野は、これに酷く淡々と受け答える。


「それで?」


 その眼差しには一欠片ほどの暖もない。


 酷く冷淡なものだ。


 他人から媚を売られるなど日常である。ローズの振る舞いに諂うところを見つけて、あぁ、そういうことなのね、などと大凡を理解する。ここ数ヶ月、連日に渡り身体をぶつけられていた理由も把握だろうか。


 でなければ、彼女のほどの美少女が自分に惹かれる筈はないとも。


 そこで彼は気を引き締める。


 同じ学校の生徒だからと助けたものの、こうして尾を引くこととなれば話は違ってくる。学校は学校、仕事は仕事。確実かつ絶対的に線を引いて区切るのが、西野という少年の処世術だった。伊達に痛い目を幾度と無く見ていない。


 体育の授業中、わざわざ目立つ形で近づいてきた時点で、ローズの意図するところを少なからず感じていた。だからこそ、自身に対する戒めも兼ねて、今この場での西野は極めて頑なに彼女へ対する。


「……それで、その……」


「それで?」


 ちなみにノーマルとは、西野が仕事を受ける際に利用するあだ名のようなものだ。まさか非合法な仕事を請け負うに際して、戸籍に示された名前を晒す訳にはいかない。故に彼はそのような酷く凡庸なあだ名を利用していた。


 曰わく、悪目立ちしないように。


 ただ、当初は決して目立つことのなかったそれが、今や業界の事情を知る者であれば、耳として一歩と言わず数歩を後ろに引くだけの影響力を持つようになった。それがここ数年の出来事である。


 仕事内容の都合、人材の新陳代謝が激しい同業界にあっては、当事者の評判など本人の意図に関係なく右往左往。昨日のトップが今日のブービー。けれども、その中で決して揺るがないのが、ノーマルという名前だった。


「まずはお礼を言いたくて。昨日はありがとう、本当に助かったわ」


 ローズは深々と頭を下げて言った。


 コーヒーの満ちて湯気を上げるカップが置かれたテーブル越し。


 同級生の少女が頭を下げる。


 それも学園のアイドルと謳われて止まない金髪ロリ美少女。


 だからだろう。


「……別に、気にしなくて良い」


 西野は努めて抑揚のない調子で答えた。


 その口調は完全に商売用である。ここで下手に踏み込んでは、後々碌なことにならないと、過去の経験からフツメンは理解していた。次に相手が何を言ってくるのか、手に取るように理解できて、少しばかり表情を曇らせる。


 彼も決して期待していない訳ではなかった。


 しかしながら、その顔立ちはどこまで行ってもフツメン。


 まさか叶う筈がない。所詮は夢か幻か。


「それで、あの、お礼のついでという訳ではないのだけれど、ノーマルである貴方にお願いがあるの。話だけでも聞いて貰えないかしら? 図々しい話だとは私も十分に理解しているのだけれど」


「悪いけれど、これ以上は聞けないな」


 速攻で断った。


「……駄目かしら」


「駄目だね」


「そ、そう……」


 淡々と述べて、西野は手元のカップを口に運ぶ。


 一口、二口、口の中を紅茶に湿らせる。すると途端に、その不味さから顔が歪んだ。フツメンがブサメンに歪んだ。なんだこの妙な香りの苦くて酸っぱい汁は、訴えんばかりの表情だろうか。早々にカップを受け皿へと戻す。


「話はそれだけか? そうであれば、失礼させてもらう」


「あ、ちょっ」


 話し相手が悪ければ紅茶もマズい。


 これ以上は長居も無用とばかり、早々に席を立とうとする。


 キィと椅子を引く音が響いたところで、ローズが慌てた。


「あのっ!」


「まだ何かあるのか?」


「いえ、あの、何かっていうか……」


 しどろもどろ。


 美少女は続く言葉に悩んで見せる。


 悩む姿も可愛らしい。


「…………」


 だから、彼女が何を考えているのかは、西野にも容易に想像がついた。


 どれだけ大した力量を備えていようと、こちらのフツメンはまだ十代中頃の若輩者である。可愛い異性に困った顔でお願いされれば、コロッといってしまうのではなかろうかとは、本人にして当らずとも遠からずといったところ。


 事実、そうした過去が西野にはある。しかしながら、幾度となく似たような失敗を経験した結果、その先には何一つ実るモノがないことを、今の彼は十分に理解している。故に相手が学園のマドンナであったとしても、決して頷くことはなかった。


「どうした?」


「そ、その……」


 キッパリと断ってみせたフツメン。これを受けてローズは、早々に交渉の方向性を変えてきた。幾分か表情を固くして、ソファーに腰掛けたまま居住まいを正す。そして、殊更に真面目な調子で言葉を続けた。


「ちゃんと報酬は支払うわ。だから、どうか検討しては貰えないかしら?」


 色仕掛けの無賃労働から正式な依頼へ。


 これに西野は少しばかり考える素振りを見せる。


「…………」


 別段、金銭に困っている訳ではない。銀行には彼の名義で十桁近い額が納まっている。一生涯を遊んで暮らせるだけの貯蓄だ。幾つかの銀行に分割して資産運用中だ。高校卒業と共にニート生活を初めるのが彼の具体的な進路設計となる。


 食って寝て酒を飲んでの幸せロンリー生活。


 だからこそ、他人が余所へ投げたがるほど面倒な仕事を受ける必要は無かった。


 そう、全く無い筈だった。


 しかしながら、昨日にローズ宅の豪華絢爛な様子を眺めて、少しばかり思うところ出てきたのが今の彼の素直な心境である。稼ぎに対して自宅が貧相なのではなかろうかと。もう少し良いところに住んでみたいなと。


 そうなると事情は変わってくる。


 少しばかり稼いでみるかと考えるのが、凡人の凡人たるところ。


 数分ばかりを黙って後、彼はゆっくりと頷いた。


「……分かった。額次第では応じよう」


「本当? ありがとう!」


 気分は大きな買い物を前に残業時間を増やすリーマンが如く。


「報酬は?」


「これだけ出すわ」


 問い掛けに応じて、ローズは五本の指を立てて応じる。それは彼女が受け取る報酬の八割に相当する額だった。


 これに西野は再び、悩んだ素振りを見せる。報酬に不満があろうとなかろうと、一度は悩んでみせるのが自分の為にも相手のためにも良いのだということを、ここ数年の経験から彼は学んでいた。


「……良いだろう」


「ありがとう。とても助かるわ」


 ローズの顔に笑みが戻った。


 どうやら心底から困っていた様子だ。


「それじゃあ場所を移しましょう。私の家で詳しい内容を説明するわ」


「分かった」


 十数分ばかりの小休止を終えて、二人は喫茶店の席を立った。




◇ ◆ ◇




 二人は場所を喫茶店からローズの自宅に移した。腰を落ち着けるのは昨晩にも利用したリビングのソファーである。三人掛の幅広なそれにローテーブル越し、互いに向かい合う形で座っている。


 テーブルの上にはローズの入れた紅茶が湯気を上げる。茶請けにはクッキーが添えられていた。チョコレートに銘打たれた模様は、ヨーロッパに拠点を置く有名菓子メーカーのものだ。一個数百円の高級品である。


「麻薬カルテルの上役か」


「ええ、本日中に片付けなければならないの。明日のフライトで本国へ戻る予定になっているから、もしもこれを逃してしまうと、非常に面倒なことになるわ。現地まで飛んで仕留めるには、流石に根性がいるでしょう?」


「時間は?」


「午前零時前後、対象がホテルへ帰ってきて、一人になったところを狙うわ」


「なるほど」


 ローズと受け答えをしながら、それでも西野の意識は仕事の話ではなく、部屋の内装へ向いていた。まるで高級ホテルのロイヤルスイートを思わせる作り。彼の住まう単身者用の安物アパートとは比べるべくもない。


 仕事の都合、似たような間取りの建物へ足を伸ばすことは間々ある。とは言え、だからと言って自分も同じようなグレードの物件に住みたいと考えたことはなかった。少なくとも真面目に検討することはなかった。


 別の世界の出来事、そう考えていた。


 伊達にフツメンしていない。思考も極めて普通である。


 しかし、こうして同じ学校に通う同級生が住まう姿を目の当たりにしてしまうと、だったら自分も、などと考えてしまうのが人の欲というもの。そして、そんな願いを叶えられるだけの立場に彼はいる。


 財布は豊かでも心は凡人。それが今の西野だ。


「ただ、昨日の今日だから、警護もかなり厳重になっていると思うわ」


「だろうな」


「私じゃ火力が足りない。だから、貴方に協力を願ったの」


「具体的な策は?」


「ごめんなさい。これといって立てられていないわ」


「なるほど」


 二人のやり取りは淡々としたもの。


 西野は元よりローズもまた、学校での彼女とは少しばかり雰囲気を変えていた。口調は固いものとなり、声色も幾分か低く落ち着いたものに。こちらこそ彼女の本来の姿なのかもしれない、とはフツメンの脳裏によぎった下らない寸感だ。


「なら細かいところはこっちで何とかしよう」


「え、いいの? 流石にそこまで任せるのは……」


「策がないんだろう?」


「それはまあ、そ、そうなのだけれど」


 つまるところ、丸投げ。


 流石にそれはどうなのかと狼狽えるローズ。


 けれど、これに構わず彼は淡々と言葉を続けた。


「その方が簡単で良い。時間も掛からない」


「貴方がそれで良いと言うのなら、こっちとしては万々歳なのだけど」


「ではそのように」


「……ええ」


 西野が主導権を得たところで、早々に打ち合わせは終えられた。ローズとしては釈然としないものを抱えつつ、しかし、既に一度失敗している都合、自身ではどうにもできない背景から素直に頷く他にない。


 ややあって、フツメンが話題を変えるよう言った。


 それは彼にとって、依頼内容より気になっていた内容だ。


「ところで、ここにはアンタしか住んでないのか?」


「ええ、そうよ」


「ふぅん……」


「なに? 親が同居でもしていると思ったのかしら?」


「いいや、それにしては豪華だな」


「今回はターゲットがターゲットだったから、拠点はそれなりにセキュリティのしっかりしたところにする必要があったの。おかげで散財してしまったわ。以前に来た時は、もう少し安かったと思ったのだけれど」


「幾らくらいなんだ?」


「ここは賃貸だから、月二百万弱ってところかしら。上のグレードになると五百万くらいのものもあるらしいけれど、その層は人気があるから、なかなか抑えるのは難しいんじゃないかしら?」


「金持ちってのは思ったより沢山いるものだな」


「それを貴方が言うのかしら? 十分に稼いでいるのでしょう」


「だとしても、だ」


「ここは外国人向けだから、日本人はほとんど住んでないけれどね」


「ちなみに空きはあるのか?」


「え? まさかここに引っ越すつもり?」


 ローズの肩がビクリと震えた。


「……参考までにだ」


「流石に部屋の空室状況までは把握できないわよ。集合住宅とは言っても、出入り口だって各部屋別に設けられているのだから、実質的には戸建ての集合みたいなものよ。管理会社に連絡を入れれば分かると思うけれど」


「なるほど」


「審査で落とされる場合もあるから、その点は注意かしら」


「…………」


 続けられたローズの言葉に、途端、返す言葉を失う西野。


「……そうだな」


「あら、ノーマルでもそんな表情をするのね」


「別に」


 実家を離れて一人暮らしをする彼は、両親と事実上の離縁状態にある。生活費から学費に至るまで、必要な金銭は全て自身の手により賄っている。当然、他に頼れる人間もいない。まさか保証人など夢のまた夢。


 今住んでいるアパートも、真っ当な不動産屋で正規の手順を踏んで借りたものではない。住む場所を好き勝手に選べるような自由は、十代半ばの子供に過ぎない今の彼にはなかった。少なくとも真っ当な手段を用いては。


「夕食を取ろうと思うのだけれど、何か好みはあるかしら?」


「なんでのいい。好きにしてくれ」


「ええ、分かったわ。それじゃあ久しぶりにお寿司でも頼もうかしら」


 少しばかり機嫌を良くして、端末へと手を伸ばすローズだった。




◇ ◆ ◇




 ローズ宅で夕食を摂った後、二人は現場に向かい出掛けた。彼女が手配した自動車で移動することしばらく。到着したのは都内でも有数の高級ホテル。これを裏口の側から眺めることのできる細路地の中程だ。


 深夜とあって他に人の姿は見られない。背の高い建物に周囲を囲まれて、電灯の類いもまばらな一帯は非常に薄暗い。よからぬことを企む人間にとっては、これほど適した場所もないだろう。


「本当にこのままで良いの?」


 ローズが訝しげな表情に尋ねる。


 彼女は例によってライダースーツのような仕事着に着替えており、その上からロングコートを羽織っている。懐には銃器と刃物。昨晩に街中を彷徨っていた際と同じような姿格好だ。ぴっちりとしたスーツは彼女の残念体型を如実に浮きぼらせる。


 一方で西野はと言えば、学校指定の制服の上に、ローズが着るものとはデザインの違うコートを一枚羽織った限り。持ち物と言えばズボンのポケットに財布と端末が入っているだけで、銃はおろか刃物の一本も携帯していない。


 彼の着るコートがどこから出てきたかと言えば、車を呼ぶ際に併せて催促したものだ。流石に制服を晒すのは不味かろうという判断の下である。本来であれば下に着ている時点でアウトなのだが、彼には自信があるよう。


「アンタはここで待っているといい」


「え? ちょっと、どいういうことかしら?」


 彼は彼女に向き直り、淡々と伝える。


「対象の顔は覚えている。あとはこちらで片付ける」


「こちらでって、あの、そ、それじゃあ私は……」


「ここで待っていろ。下手に付いてこられても足手まといだ」


「あ、足手まといって、ちょっ、あっ……」


 言うが早いか、スタスタと歩み出す西野。コートのポケットに両手を突っ込んだまま、飄々と歩んでは遠ざかって行く。ややあって、角を曲がったあたりで姿は見えなくなり、靴音も聞こえなくなる。


 これをローズは呆然と眺める他になかった。




◇ ◆ ◇




 それから十数分が経過した頃合のこと、彼は戻ってきた。取り立てて怪我をしている様子は無く、衣服に汚れや解れも見つけられない。コートのボタンも綺麗に止められている。先程に歩み去って行った際と、何ら変わらない風貌だった。


 ただ唯一、異なる点があるとすれば、それは右手に握られた人間の首。


 髪の毛を掴んで、何気ない調子にぶら下げている。切断面は何故か凍り付いており、血液が垂れることもなく綺麗なものだ。これを手にする西野にしても、返り血の一滴すら付着していない。


 首は四十代後半と思しき白人男性のもの。良く肥えた顎の肉と、その上に生えるもみあげまで繋がった髭とが特徴的だった。酷く暴力的な顔つきである。小さな子供なら睨まれただけで泣いてしまいそう。


 けれど、そんな男が最後に晒す表情はと言えば、恐怖の一色。口元から目元まで激しく引き攣っている。悲鳴を上げている最中に絶命したのか、大きく開いた咥内は覗き込めば喉ちんこすら確認できるほど。


「貴方、それは……」


「確認してくれ」


 呟いて、西野は生首を放り投げる。


 放物線を描いてローズの足元へ。


「ちょ、ちょっとっ、なんてモノを投げるのよっ!?」


 まさか受け取る気にはなれなくて、頭部はドサリと彼女の足下に落ちた。首元に付着する氷の幾らかが割れて乾いた音が響く。ギョロリと大きく剥かれた瞳が、夜の闇に輝いては、ローズを睨むように見つめていた。


「……ええ、間違いないわね」


「ならいい」


 彼女の反応を確認して、小さく頷く西野。


「これどうやったの? そもそもノーマルはどういう……」


「それじゃあ、俺はこれで失礼する」


「あ、ちょっとっ」


 かと思えば、用は済んだとばかり、そそくさと歩み始める。


 ローズの脇を通り過ぎて、そのまま真っ直ぐに。


「ちょっと、す、少しくらい待ってくれても良いじゃないっ」


「金は六本木のサイドグラス、そこのマーキスという男に渡してくれ」


 自らの背中越し、相手を振り返らずに片方の腕を上げて語る。彼が死ぬまでに一度はやってみたいと考えていたシチュエーションの一つだった。心中、少しばかりの充実感。この仕事、受けて良かったかも知れない、と。


 半端なくナルってるのはひとえに趣味だ。


「ちょっとぉ……」


 一方で彼のスタンドプレイから迷惑を被るのがローズ。流石の生首を拾ってまで西野を追いかける根性はなかった。彼女はこの後、仕事の完了を報告する義務がある。あまり長く時間を掛けてはいられない。


 万が一にも他者に見られては全てがおじゃんである。


「どうなってるのよ……」


 足下に転がる仏を眺めては、大きな溜息を吐く。


 その呟きは誰の耳にも届くことなかった。




◇ ◆ ◇




 都内有数のオフィス街、その端に位置する背の高い雑居ビルの囲まれた界隈。


 喫茶、木漏れ日。


 紅茶が不味い。コーヒーも不味い。目立った商品がない。立地も良くない。ついでに内装が冴えない上に店長もダサい。一連の事情が手伝って、客足は甘味時であっても遠く閑散が常。周辺住民からは何故に潰れないのかと影に囁かれること度々の同店舗。


 その奥まった席で、顔を合わせる二人の女性の姿があった。


「なるほど、それで偶然に居合わせたノーマルの助力を得たと」


「ええ、全て昨晩に送った報告書の通りよ」


「まったく、私の苦労はなんだったのかしら」


 やってられないわね、と続けたのは真っ赤なドレスのブロンド美女、フランシスカである。どうやら昨晩は遅くまで仕事をしていたらしく、目の下にくまを作っている。そんな彼女の正面には、白いワンピース姿のブロンド美少女、ローズが座っている。


「貴方の苦労なんて知らないわよ。それより支払いをさっさと済ませて欲しいわね。彼への支払いは私の責任で行うのだから、できる限り急ぎたいの。せっかく得た信用なのだから、今後とも大切にしてゆかないと」


「私の方で処理しておいてあげようかしら?」


「嫌よ。そんなにコネが欲しいなら、自慢の股を開けば良いじゃない」


「あの坊やはまだまだ子供ね。大人の色香がまるで理解できていないのだもの。酒のつまみに上等なチーズを出されて、腐っているだの、匂いがキツいだの、五月蠅く文句を言う類いの安い男ね、あれは」


「フラれた後だったのね。ご愁傷様。でもね、どれだけ美味しいと謳って回っても、匂いのキツいチーズはなかなか受け入れられないものよ? 大衆が好むのは程良く美味しい普通の香りのチーズなのだから」


「……別に臭くはないわよ?」


「貴方の下の匂いについてなんて聞きたくないわ。気持悪い」


 冗談を口にしたつもりが、いつの間にか自爆している。この金髪美女にとっては、割と良くある出来事だった。無駄に遠回しな物言いをして、相手に混乱を与えることも度々。本国の上司から月に一度の頻度で指摘される。


「まあ良いわ。とりあえず今回の件はこれで片付いたのだから」


 場を取りなすようにフランシスカが言う。


「そうね」


 手付かずのコーヒーをテーブルの上に挟んで、女性二人は淡々と会話を続ける。それは店長の手により届けられてから、既に十数分ばかりが経過。湯気も|形(なり)を収めては冷たくなり始めた最初の一杯だ。


「それで次の仕事は?」


「あぁ、それなのだけれど、しばらくないわ」


「ないの?」


「貴方は昨日の一件で終わりだけれど、私はまだ引き続き色々とやることがあるのよ。全体から見ればパーツなのよパーツ。それに日本へ来たついでとばかり、あっちこっちから面倒な調整事ばかり押しつけられてもう、貴方の面倒を見ている暇もないわ」


「調整で片付くなら願ったり叶ったりじゃない」


「ブルーカラーは気楽で良いわね?」


「そういう貴方こそ、オープンカーばかり乗り回して、いい加減に首の後ろが赤く焼けてきたのではないかしら?」


「あら、本当に?」


「……皮肉も通じないなんて、学が無いというのは怖いわね」


 なんら動じた様子もなく答えるフランシスカにローズは溜息を一つ。


 これ以上は付き合っていられないとばかり、そそくさと席を立つ。


「それじゃあ、今日のところは失礼するわね」


「ええ、彼によろしく言っておいて頂戴」


「約束はできないわね」


 美女に先んじて席を立つ美少女。


 その姿を店長は少しばかり悲しそうな眼差しに見送る。理由は一度として手をつけられなかったコーヒーか。ここ数ヶ月で常連となりつつある彼女たちが、完全に場所だけを求めていると理解して、少なからず心に来た様子である。


 カランコロン。


 レジに立つことなく、ローズはその足に店舗を後とした。


 これを見送ったところで、ボソリと呟いたのがフランシスカ。


「ノーマルの確保も仕事のうちなのよねぇ。どうしようかしら?」


 呟かれた言葉は誰の耳に届くこともない。




◇ ◆ ◇




 喫茶店を後としたローズは、その足で街を歩むことにした。


 ちょうど時間帯が昼時とあって、昼食を摂ることに決めたようだ。最寄り駅から電車を二つばかり乗り継ぎ、飲食店に賑わう界隈まで足を運ぶ。休日となり殊更に賑やかな渋谷界隈。ハチ公の傍らを過ぎて、スクランブル交差点を渡り行く。


 向かう先は特に決めていない。それっぽい店へ適当に入ってみようという、少しばかり冒険心の入った散策。一仕事を終えて心に余裕が生まれた為だろう。その足取りは数日前と比較して軽い。


 そうして白線の上を渡り行く彼女の正面、不意に見知った相手が通り過ぎる。


「……あ」


 西野五郷である。


「ちょ、ちょっと、西野君よねっ!?」


 彼女はその姿を目の当たりとして、駆け足に後を追いかけた。


 そう距離は離れていなかった為、すぐに追いつく。


 立ち止まった彼は彼女の側を振り向いて、事も無げに呟いた。


「……なんだ?」


 渋谷の人混みに出会うという、滅多でない偶然にも何ら靡いた様子がない。相手がローズであると知っても、立ち振る舞いには何の変化も見られない。まるで学内に出会った際と変わらず、どうして自分を呼んだと疑問を訴えんばかり。


 或いは先月までの事情を知らない彼あったのなら、少なからず緊張したかも知れない。学校の綺麗どころと出会って、少なからず心を浮つかせたかも知れない。ただ、それもこれも相手が同業者と知ってしまった今となっては完全に過去のもの。


「偶然じゃない。これからお出かけかしら?」


「大したものじゃない。昼食を摂りに来ただけだ」


「本当? なら私と同じね」


「そうか」


「もしかして一人?」


「ああ」


「もし良かったら、あの、一緒に行かない?」


「何故に?」


「何故にって言われると、ちょっと返答に困るのだけれど……」


 彼女としては自然な流れで食事へ誘ったつもりだった。しかしながら、西野にとっては十分に疑問の余地を残していたようだ。彼女という存在に対して、少なからず危惧を抱いているのだろう。


「あ、別にまた面倒を押しつけようとか、そういう意味じゃないわよ?」


「そうか」


「私も一人だから、せっかくだし二人で美味しいものでも食べに行きましょう? 貴方には世話になったし、今日くらいは私に奢らせてくれても良いんじゃない? もちろん、それ以上の意味合いなんてないわ」


「…………」


 チカチカと点灯を始める歩行者用信号機。


 その様子を視界の隅に眺めたところで、彼は頷いた。


「分かった。良いだろう」


「良かったわ。承諾して貰えて」


 これに答える少女は口元に笑みを浮かべていた。




◇ ◆ ◇




 しばらくを歩いたところで、二人は飲食店のキャッチに捕まった。なんでも昨日に新規オープンしたばかりのイタリアンレストランとのこと。今ならサービスでドリンクの飲み放題が付いてくるのだそうな。


 彼らのような年若い層にまでビラを配るのだから、決して値の張る店ではないのだろう。チラシの地図に従えば、今に歩む大通りから一本を内へ入ったところに所在しているようで、距離的にもそう離れてはいない。


 名刺大の紙切れを眺めて、少しばかり呆れ調子に語るのがローズ。


「流石にこれは無いかしら」


「別に構わないが」


「あら、こういう安っぽいのが好み?」


「……そういう訳じゃない」


 彼にとっては決して安くないどころか、大手牛丼チェーンが常である休日の昼食事情を思えば割高である。しかし、まさか商売敵を相手に真実を語ることは出来なくて、何はともあれ舐められてはいかんと、お茶を濁す羽目になる。


「貴方がそう言うのなら、行ってみましょうか」


「分かった」


 チラシを受け取った彼女が先行して、二人は件の新規店へ向かった。


 一、二分ばかりを歩いて、目的地にはすぐ辿り着いた。


 ドアを開くと、カランコロンと小気味良い音と共に良い香りが届けられる。街頭宣伝の効果だろうか、既に席は九割方が埋まり、残すところ二人掛の席がちらほらと、カウンター席を二つ残す限り。


 店内はどこにでもあるイタリアンレストラン然とした風情。


 木目調に統一された家具に、四方を囲う白とブラウンの上下ツートンカラーに作られた壁紙。厨房に隣接するカウンターの奥には、石積みの釜戸が設けられて、これにピザピールへ載せられて出入りするマルゲリータが窺える。


 早々にやって来たウェイトレスに案内されて、二人は空席へと向かった。


 そこで彼と彼女は予期せぬ相手を発見する。


 案内された二人掛けの席、その隣の居していた面々である。


「あ……」


 先んじて声を上げたのは、既に席について食事をしていた人物だ。西野の同級生にしてクラスメイトの志水知佳子である。


 そして、彼女と席を共にする面々はといえば、彼女と仲の良いグループの女子が二名、更に加えて、同クラスでもイケメンと評判の竹内君である。


「ローズちゃん? それに、え、えっと……西野くん?」


 誰にも先んじて声を掛けたのは志水である。


 咄嗟に西野の苗字が出てこなかったのは、同クラスの誰しもよくあること。


「あら、奇遇ね……」


 これにはローズも少しばかり驚いた様子で口を開いた。


「二人で食事? あ、もしかしてデートとか?」


 彼と彼女の他に誰の姿も見つけられず、その場のノリで軽口など叩いてみせる志水。


 これにブロンドな彼女は軽い調子で答えた。


「別にそんな浮いた話じゃないわ。彼の名誉の為に言っておけば、ここ最近で少しお世話になった経緯があって、そのお礼として誘っただけだもの。ついでに言えば、取り立てて約束をしていた訳でもなく、偶然に街中で会っただけよ?」


「あら、そうなんだ。残念」


 ニコニコと笑顔で語る志水。一連の振る舞いは学校の教室に眺める際と大差ない。予期したとおりの言葉が返って来たことに手応えを感じているのだろう。


 そんな彼女の傍ら、話題を攫うように口を開いたのが竹内君。


「世話になったというのは、ちょっと気になるかもね」


 ローズと西野を交互に見つめて、軽い調子に語りみせる。


 残る女子二名は言えば、そんな竹内君の言動に注目だろうか。


「別に大したことじゃないわ」


「そうなの? 君みたいな可愛い子が、幾ら偶然とは言え、休日に異性を食事へ誘うのだから、よっぽどかと思ったのだけれどね。どうやら宛てが外れたみたいだ」


「そうね。気にするほどのことでもないから」


「ねぇ、どうせなら席をくっつけない? 隣同士だし」


 志水の提案。


「俺も賛成かな」


 竹内君が頷く。


 休日の渋谷、予期せず学友と出会ったのが嬉しいよう。少しばかりテンションを上げて思えるクラス委員長。彼女はローズの承諾を待つこともなく、隣に並んだ二人掛の席を引き寄せる形で、自分たちの座る四人掛けの席に繋げた。


 しかし、実のところは気遣いが所以の提案。


 並び立つ二人の姿を目の当たりとして即座、志水の脳内予測には一つの帰結があった。曰わく、西野が一方的にローズを食事へ誘ったに違いない。負い目があったローズがこれを承諾して、今の状況が作られたのだ。といった塩梅である。


 一連の提案は彼女なりの親切心である。


 西野にとっては随分と失礼な話もあったものだが。


「西野君、良かったかしら?」


「別に構わない」


 ローズに尋ねられて、西野は答えた。学校用と仕事用、どちらの口調で話そうかと考えていたところ、結論を出せぬ間に回答を求められて咄嗟、出てきたのは微妙な語り草だ。少し機嫌が悪そうな感じ。


 思えばここ最近、学校での会話など、号令を除けば皆無の彼だった。それこそ教師から叱られるのが精々といったところ。自然と馴染みの深い方へ向かい、舌や喉は動いたようである。パッと見た感じ完全にコミュ障である。


「それじゃあ申し訳ないけれど、ご一緒させて貰いましょう」


 二人分の意見を取り纏めたローズが言う。


 これに促されるよう、西野は竹内の隣に座ろうとした。


 しかし、彼が一歩を踏み出したところで、不意にイケメンが口を開く。


「はい、ローズちゃん。どうぞ」


 自らの隣の席、そこに置かれた椅子を引いて、彼女を促す。


 その顔には爽やかな笑顔が。


「あら、気が利くのね。ありがとう」


 これにローズは誘われるがまま腰掛けた。


 結果として、西野は余る彼女の対面へと移動だ。すぐ隣には面識こそあっても、一度として言葉を交わしたことのないクラスメイトの女子が並ぶ。同クラスにおいて、上から二番目に可愛いと評判の少女だ。


 一連の流れを目の当たりとした女子一同は、その表情が緊張に強ばった。伊達に竹内攻略を目標に掲げて、今日という日に集まっていない。この食事も昨日から続く文化祭の準備活動改め、イケメン争奪戦の一環だった。


「竹内君、さすが誰にでも優しいね!」


 速攻、志水がジャブを打ちにゆく。


「いやいや、ローズちゃんが可愛かったから特別だよ」


 真正面からの一撃を、しかし、イケメンは綺麗に回避して迎撃。


 逆に打った側が狼狽するほど。


「そ、そうなんだ! うわ、ちょっと私ってば焼いちゃうかも?」


 焦る志水。


 他二名の女子生徒も、それは同様である。


「私も焼いちゃうかもぉー?」「いいなぁ? 次は私も椅子を引いて貰おうかな? 教室とかで」「ちょっとぉ! 教室で椅子を引いて貰うって、どんだけー!?」「なにそれウケるんですけどー!」「でしょでしょー!?」


 焦っている。非常に焦っている。


 その場のノリと勢いで、全てを流してしまおうと結託する女子一同。ローズが訪れるまでは、同三名によりイケメンを巡って激しい小競り合いが行われていた。私が竹内君の彼女になるのよ、いいえ、それは私なんだから、云々。


 それが今まさに現れた共通の敵を前として、咄嗟の機微から寄り合ったようだ。この金髪ロリータは危険だと、彼女たちの間で同じ音色の警笛が鳴らされていた。偶然から居合わせただけの西野にとっては、これほど居心地の悪い昼食もない。


 そうした喧噪の傍ら、彼ら彼女らの下へウェイトレスさんがやってきた。


「すみません、ご注文はお決まりでしょうか?」


「この日替わりのヤツを一つ……」


 淡々と答えて、注文を口とする西野。


 こちらはローズに何ら構った様子も無い。


「あら、私はまだ決めてないのだけれど」


「ローズちゃん、これとかオススメかな」


 一方、すかさず合いの手を入れるのが竹内君。これがイケメンとフツメン、生まれ持った顔面偏差値と、それを根拠として育まれた人間関係の違いに基づく、人間力の圧倒的且つ絶対的な差違だった。


「そうなの? じゃあそれをいただこうかしら」


 各人の思惑を乗せて、昼食の時間は始まった。




◇ ◆ ◇




「へぇ、凄いね。日本語以外にフランス語も話せるんだ?」


 竹内君が甚く感心した様子で言った。


「あっちの方の言語は英語と似ているから、比較的簡単に覚えられるわ。それよりも日本語を覚える方が遙かに大変だったもの。特にこの漢字っていうのは、苦労させられた覚えがあるわね」


 これにローズは平素からの態度で答える。


「え? っていうと、もしかして三カ国語イケちゃう感じ?」


「えぇ、まあ、それなりには」


「うわー、凄い。めっちゃ格好いいよそれっ!」


 竹内君、ローズを大絶賛中だった。


 イタリアレストランという場所から、話題は海外のあれこれへと移り、自然な流れで外国人であるローズへと繋がっていた。これに竹内君のヨイショに次ぐヨイショが手伝い、かれこれ会話の中心は三十分以上に渡り彼女である。


「…………」


 他方、話題に上る金髪美少女の正面、フツメン西野はと言えば、モクモクと食事を摂っている。ローズにして安っぽいと言わせる日替わりランチは、しかしながら、彼の貧乏な舌へ十分な幸せを運んでくれた。


 ただ、それも大半を食べ終えて、そろそろ手持ち無沙汰になろうかという頃合である。ボリュームのあるデザートでも頼んで、ロスタイムを稼ごうか、などとせせこましいことを考えていたりする。


 同い年の異性とのお食事は初めての経験。まさか話題の提供など不可能である。そこで食事に専念している振りをして、手持ち無沙汰を回避する作戦である。こんなことなら誘いに乗らなければ良かった、とも。


「英語と言えばさ、竹内君もかなり得意だったよね? たしか前のテストは学年で二番目だったような気がするんだけど。たしか九十八点とか取ってたような」


 志水が突破口を開くべく口を挟む。


 ちなみに一番はローズであるが、そこには敢えて触れない。


「あ、そうだよねっ! 私すっごい驚いた」「だよねっ! 一番の人と二点差だったから、ほとんど同じだったし!」「そうそう、しかも一番の人は満点だったから、一問くらいしか間違えてないってことだよね!」「それもう実質的に満点だよね!?」


 これに共連れの二人が協調して、なんとか話題を他へ移そうと試みる。


「わ、私、竹内くんの英語聞いてみたいなっ!」


 ここぞとばかりに声を上げる志水。


 今の状況はある種、志水の自業自得な感がある。当然、連れ立つ二名の視線も気になる。今でこそ援護してくれるが、後で陰口の一つでも吐かれそうだ。これで万が一があっては、向こう数年、延々とネタにされることは間違いない。


 故に必至である。


「いやまあ、学校のテストとネイティブな彼女とじゃあ、月とスッポンってやつさ。いずれは日本を出てみたいとは思うけれど、流石にまだ難しいね」


「そんなことないんじゃないかな? 竹内君なら楽勝だよ」「そうだよぉー」「あー、私も竹内君と一緒に海外とか行きたいなー」「あっ、私も私もぉー!」


 甘ったるい声を出す女子二名。危ういところで話題を取り返して、心中ガッツポーズを決める志水。三人は互いに良くやったと笑みを浮かべてアイコンタクト。場所が場所なら互いに歩み寄りハイタッチでも決めていそう。


 ただ、ようやっと得た反撃の機会は、明後日な方向から打ち砕かれた。


 ローズが何気ない調子で、正面の彼に問い掛ける。


「西野君、貴方は海外での経験があるのかしら?」


 暗に海外で仕事をしたことがあるのか否か尋ねる。


 彼女の知識が正しければ、それは是だ。


 これに対して、テメェ、なんてことするんだよ、叫ばんばかりの心境で、けれど表面上は笑顔を浮かべて、志水と他二名がローズに視線を向ける。こんなフツメンのスペックなんて知りたくないんだよ、とは竹内君も加えて皆に共通するところ。


「……まあ、少しは」


「最近だと、どうかしら?」


「直近だと先月にナポリと、あとニューヨークだったか」


「……ふぅん?」


 先月、同所の地元新聞を賑わせた事件を思い起こし、ローズは意味深な笑みを浮かべる。フランシスカからも、それらしい情報の共有はあった。彼女は彼女で西野の活動状況に興味がある様子だった。だからこその問い掛けである。


「え? 本当に?」


 そして、彼の何気ない発言は、志水をも釣った。


 こちらは素だ。


「西野君って、海外の経験あるの?」


 どうやら彼女にとって、彼の渡航経験は衝撃的だったようだ。彼女自身、海外経験は幼少の砌にグアムへ家族旅行で滞在した三泊四日が精々。残る二名に関してはパスポートすら持たない。


 更にグアムでもなくハワイでもなく、ニューヨークとナポリ。昨今のイケてる女子高生にとっては、これ以上ないオシャレスポットだった。そこへ行ったことがある、というだけで学園カーストにおいては箔がつく。


 だからだろうか、自然とその視線は彼に向かった。


「……人並みには」


 すると返ってきたのは、ボソリと消え入りそうな声だ。


 同世代の異性、それもクラスメイトの可愛いどころから注目されるのは、フツメンにとって生まれて初めての経験だった。自然と緊張して、声の調子は固くなり、答えるところも素っ気ないものとなる。


 本人は格好つけたつもりだが、逆に無様な感じだ。


「っていうか、何しに行ったの? 旅行? 観光?」


 教室でカースト中層を担う冴えないフツメン君。これが自分より豊富な海外経験を持っている点に、志水は多分の驚きと幾らばかりかの嫉妬を向ける。自ずと口調も強いものとなって問いかけが飛んだ。


「まあ、そんなところだ」


 本当はビジネス。


 西野は事実を適当に誤魔化して言う。


「へぇー、凄いね。私なんて海外なんて小さいころにグアム一回だけだよ」


「私なんて一度もないしー!」


「わたしも-!」


 男、旅行、オシャレ。女性が賑やかになる話題の三代柱が一柱を得て、途端に賑やかとなる三人。これ以上をローズに出張られては堪らないとばかり、会話の主導権を奪うべく必至になって口を開く。


 すると、そうした彼女たちの只中、竹内君もまた西野に尋ねる。


「へぇ、西野も海外の経験あるんだ? やっぱりツアーとか?」


 今度は竹内君が西野を攻める。


 割と強めに打たれた左ストレート。


 しかし、これは容易に避けられて、逆にカウンターを貰う形に。


「いや、別にそこまで畏まったものじゃない」


「へぇ、そうなんだ? 海外に強いご両親がいるって、とことん羨ましいな。俺の親はあまり国を出たがらない|性質(たち)でさ。どうしても家族旅行って言うと、国内旅行かツアーになっちゃうんだ」


 まいっちゃうよな、と苦笑いの一つを浮かべて語る竹内君。


 その顔も絵になるわぁと、これに悶える女子三名。


「あー、わかるっ! うちの親もそんな感じだよ」「そうそう、もっとグローバルの視点を持たないと駄目なのにねー!」「うちなんて国内旅行すら面倒だからって滅多にないんだよねぇ」「マジ老害ってヤツだよね!?」「そうそう! 老害、老害!」


 話題は完全にローズから剥離した。


 女子二人が猛る。


 背中を押されるよう、志水が勢い任せに言葉を続ける。


「ねぇ、竹内君。もしよかったら今度、卒業旅行で海外とか企画しない? 学校の修学旅行とは別に、私たちだけで旅行を企画するの。仲間で集まって、どこか海の向こうへ行くの。駄目かな?」


 この際、ローズが関わらなければ何でも良いとばかり。


「あ、それいいっ! すっごくいい!」「それじゃあパスポート取らなきゃ! なんかドキドキ!」「パスポートってどこで取れるんだっけ?」「え? 区役所とかじゃないの?」「へー、区役所で取れるんだ!」


 ここぞとばかりに畳み掛ける女子二名。


 だがしかし、そんな彼女たちの努力は、如何せん当人に伝わらない。


「なるほど、それは名案だね。どう? ローズちゃんも」


 竹内君が笑顔でローズを見つめる。


 彼女は二つ返事に頷いて応じた。


「ええ、予定が合えば考えさせて貰うわ」


「じゃあ決まりだな。ちょっとオヤジに相談してみるわ」


 これが自然な流れとばかり、ローズを誘い満足気な表情の竹内君。ただ、そんな彼の笑みも、続けられた同ブロンド美少女の言葉に強ばる。二転三転する話題の矛先は、またしてもフツメン野郎の下へと転がった。


「西野君、貴方も行くのよね?」


「……何故に?」


 竹内君ばかりでなく、他女子三名もまた同様、さらに当人までもが疑問の声を。なんでそうなるんだよ、言いたげな表情を隠すのに必死だ。伊達に今日この日まで、一度として会話の場を持ったことがない間柄でない。


 同じクラスとは言えども、話そうと思わなければ話さずに済んでしまうのが、昨今の高等教育の現場だった。体育の授業などはその限りでもないが、性別が異なれば、その可能性はグッと上がる。


「嫌なのかしら?」


「いや、別に嫌という訳では」


「なら行きましょう? それとも忙しいのかしら」


「……分かった。誘ってくれてありがとう」


 小さく頭を下げて応じる西野。


 特定の相手にはぶっきらぼうを貫きつつも、状況に応じては態度を改めるだけの分別も備えている。下手に振る舞って苛められても面倒だという思いは、日本人にありがちな集団主義の賜だ。


「なんか楽しくなってきたな。ちょっと本気で企画するわ」


 ローズの承諾を受けて、竹内君が猛る。


 西野の存在は既にアウトオブ眼中。


「だねっ! 私もたのしみー!」「あーん、鞄とか買わないと!」「あ、そうだねっ! それに服だって向こうの気候に合わせないとっ!」「どうせならリゾートしたいよね、地中海とか行って見たいし」「あー! それ分かる。マジ地中海したーい!」


 女子二名もまた同様。


 フッと沸いて出た旅行談義はそれから半刻ばかり続けられた。


 やがて昼食を終えて以後、店を出たところで場はお開きとなる。西野とローズは元より、女子一同も素直に竹内君とお別れである。当初の目的を思えば、呆気ないほどの解散だ。また学校でね、言いながら笑顔で手を振り合う。


 うち三名に関しては、この後に打倒ローズの会を開く為である。


 今の状況は非常に危険だと、三者一致で判断した様子だった。

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