永久凍土が溶けるころ

4巻の内容を一部含んでいます。


* * * * * *


 水留つづみけいは、冷蔵庫とともにやってきた。

 というには多少のタイムラグがあるものの、長い目で見れば誤った表現ではない。蛍がこの家に住むことになって、初めて一花に願ったのは新しい冷蔵庫を購入することだった。

 橘家の家電はどれも旧式で、黒電話が現役で働いているほど。冷蔵庫も使えないわけではなかったが、5人分の食材を保存するには小さく機能も不十分。

 なるべく一花の生活を変えることは避けたいと思っていたものの、新しく橘家の台所を預かる者として、健全かつ健康的な生活を送るために、最新式冷蔵庫は必要不可欠だった。

 冷蔵庫の中は彼の性格を物語るように、隅々まで管理、整理整頓されている。彼にとって小さな城のようなものだった。


 しかしその城を荒らす輩が、橘家には存在する。


「ビールが1本ない」


 無造作に破られたパック。ワインだけでは足りないだろうと昨日から買っておいたものが、1本だけ抜き取られている。次に冷凍庫を開けると、こちらにも異変があった。


「冷凍していた枝豆もない。漬けておいたピクルスも」


 怒りや悲しみといった感情はない、平坦な物言い。それが余計に恐ろしいと、側にいる一花は震える。ビールの行方は知っている。犯人は今もほろ酔いでガーデンチェアに腰掛けているだろう。

 不穏な空気を察して、一花はおずおずと声をかける。


「枝豆とピクルス、買ってきましょうか?」

「いや、他のもので代用できるから大丈夫だよ」


 蛍はにこりと笑う。しかしすぐさま無表情に戻る。


「最近、罠を張ってるんだ」

「わ、罠ですか?」

「夜中、作り置きや翌日の朝食のために仕込んだおかずを食べられることが本当に多くて。千晃、冬陽、葉介君、何度言っても聞かない。だから彼らが後悔するようなキツイ罠を……」


 一花以外には容赦のない彼が張った罠とは。一花は思わず震え上がる。


「ま、まさか毒――!?」

「じゃがいものチーズボール、厚切りベーコン、からあげ、砂糖やバターをバカみたいに使ったアメリカンクッキー。夜中食べれば確実に太る、超高カロリーの料理を毎晩さりげなく、彼らの目につく場所に置いているんだ」

「…………」


 きっとどれも美味しいのだろう。内心一花は羨ましくなる。

 当の蛍は、悔しそうに唇を噛みしめる。


「なのに、全くうまくいかない。葉介君が全て食べてしまう上、彼は太らない」

「葉介さん、毎日ヴァフの散歩でたくさん走ってるから」

「はぁ……。丸々と太った千晃を、鎌倉の山のてっぺんから転がすのが夢だったんだけどな」


 悪辣な夢だった。そんなことが実現したら、由良千晃ファンが悲しむに違いない。


「あー、お腹すいたー」


 と、蛍のけなげな努力(?)をぶち壊す犯人がノンキな顔をしてやってきた。ふわふわの髪の毛、澄んだ瞳。おろしたてのはずのワイシャツは、もうヨレヨレになっている。


「ご飯まだ?」

「あともうちょっとで出来ますよ」

「そっかぁ。じゃあ何か味見するものない?」

「ない」


 蛍はキッパリと拒絶する。味見と称して料理を食い荒らされてはたまらない。


「庭の準備はどこまで進んでる? 飾り付けは終わったのか?」

「テーブルやチェア、パラソルは設置しました」

「…………」

「葉介君? ランプを取りつけるのは君の仕事だろう?」

「あともうちょっとで終わる。でも今朝の散歩、ヴァフが元気いっぱいで、かなり長い距離走らされたから……」


 ぐぅぅと腹の虫が鳴る。葉介はその場にへたり込んだ。


「大丈夫ですか? 葉介さん」

「ううー……」

「蛍さん」


 たまりかねて蛍に慈悲を求めたが、彼は無言で首を振る。彼の気持ちは分かるが、葉介のことを放ってはおけない。一花も床に膝をつけて、葉介を励ます。


「ご飯まで、あと少しです。いっぱい美味しいもの食べられますから、頑張ってください」

「……分かった。ガマンするからその代わり、」


 葉介の腕が、一花の背中に回る。


「一花成分、補充させて?」

「!」


 急に抱きしめられ、葉介の胸に倒れる。そのまま葉介は一花を抱きかかえたまま、床に転がった。


「よ、葉介さん! 台所は寝る場所じゃないですよ!」

「大丈夫。俺の上に乗っかってたら、一花は汚れない」

「そういう問題じゃ――」

「一花、良いにおいがする」


 葉介は一花の首に顔を埋める。


「一緒に暮らしてて、同じシャンプー使ってるのに、一花のにおいは特別甘いね。不思議だな、どうしてかな?」

「……っ」


 答えようにもくすぐったくて、声が出ない。

 葉介という男は無害で優しい。しかし、鈍感な傲慢さも彼の一面だった。相手がどう思うか、どう感じるかを一切考えず、己のやりたいようにやる。

 しかし。それが許されるのは、彼女と2人きりの時だけで。


 ――ゴンッ


 台所に鈍い音が響く。


「いっ……!」

「葉介君。それ以上やると、何も食べさせないよ?」

「ご、ごめんなさい」

「一花。ここはもういいから、冬陽たちと一緒に待ってて。千晃がワインを呑まないように見張っててほしいんだ」

「は、はい!」


 一花は慌てて台所を後にした。

 残された葉介は、蹴られた腰をさする。すると蛍から、牛肉のソテーが乗った小皿を差し出された。


「食べて良いの?」

「いらないなら俺が食べる」

「いる!」


 葉介は急いで受け取り、箸を使うことなく口に放り込んだ。


「んー! 美味しい! さすが蛍、天才だね」

「もうあげないよ。あと10分もすれば出来るから、君も向こうで待ってて」


 けれど葉介は動かなかった。味見をさせてもらったのがよほど嬉しかったのか、上機嫌で蛍のそばから離れない。


「蛍ってさ、俺の好きな人にちょっと似てるんだよね」


 何気ない口調で葉介は言った。


「料理が得意、何でもできる。笑顔が綺麗。穏やかで、優しいところが似てる」


 誰のことを言っているのか。見当はついたけれど、蛍はあえてその名を口にしなかった。


「料理とか綺麗とか、そういうのは分からないけど」


 蛍は手を動かしながら、慎重に言葉を選ぶ。


「穏やかで優しいのは、君の方だろう。俺は一花に対してだけそう見せているだけの偽物。本当の俺は、そんなものじゃない」


 陰鬱な言葉を口にして、激しく後悔した。

 この家に来てから、失言が多くなった。こんなこと言うべきではなかったと、何度思ったことか。


「ごめん、変なことを言った。忘れてくれ」


 葉介は空いた小皿をもてあそぶ。蛍の呟きは、何でもないことだというように。


「俺は、偽物だなんて思わないけどな。だって、一花が証明してる」

「…………」

「一花は蛍が穏やかなところに安心してるし、優しいところが好きだよ。偽物だったら、そうはならないんじゃないかなぁ」

「……本当に変わってるな、君は」


 蛍は呆れて言った。


「最初の頃からずっと思ってたよ。どうして俺にまでそんな言葉がかけられるのか。一花の周りにいる男を、排除したくならないのか」

「うーん……」


 葉介は少し考え込む。


「俺は多分、皆より、一花と近いと思うんだ。欲しいものとか、許せるものとか、似てる気がする。だから一花のことはあんまり考えなくても分かるし、一花が何を望んでも叶えてあげたいと思う。一花が皆を受け入れてるから、俺もって感じ」

「危険な考え方だ」


 蛍は厳しい口調で言った。


「相手のことが何でも分かるとか、何でも受け入れられるというのはあり得ない。同じ人間なんて1人として存在しないんだから。いつかどこかで限界が来る」

「確かに。その通りだね」


 容易たやすく同意する。己の考えを否定されたのに、葉介の表情は晴れやかだった。


「じゃあいつか俺に限界が来たら、その時はよろしくね」

「一花をよろしくってことなら、君に言われるまでもない」

「俺のこともだよ。えーっと、励ましたりお説教とか、お願いね」

「……君と話していると、調子が狂う」


 理解が出来ない。混じりけのない信頼、純粋な好意。一花1人に注がれるのなら分かる。しかしなぜ、自分のような人間にまで向けるのか。

 ただ一つはっきりしているのは、彼の包み込むような優しさこそ、一花に必要だということ。どんな努力を重ねても、手に入れられない。彼のようには、なれない。


 背後から軽い足音がしてきた。一花だ。


「葉介さん。ヴァフにもおやつあげたいなと思うんですけど、どこにありますか?」

「えーっと」

「ヴァフの分も準備してるよ。犬用の料理」

「ほんと? 蛍、ありがとう」

「ありがとうございます。……あ」


 ボールの中に、イチゴが1粒残っていた。すでにイチゴを使ったデザートは完成している。


「蛍さん、このイチゴって余りですか?」

「うん。頑張って使い切ろうとしたんだけどね」

「じゃあ、葉介さんにあげてもいいでしょうか」


 先ほど彼が味見したところを見ていない一花は、まだ彼が腹を空かせていると思っているらしい。


「まぁ、もう使いどころがないから」

「やった! 一花、食べさせて」

「え!? ……しょうがないなぁ」


 一花はイチゴをつかみ、葉介の前に差し出した。葉介は嬉しそうに口を開く。


「ぱくん」


 しかし、イチゴがたどり着いたのは蛍の口だった。寸前で葉介の前に割り込んだのだ。


「!!」


 絶句する葉介。蛍はにやりと笑う。


「一花に食べさせてもらうと格段に美味しいな。ありがとう、一花」

「い、いえ……」

「蛍……酷い」

「ははっ、ごめんごめん」


 どんなに努力しても、手に入れられないものはある。

 どんなに望んでも、自分以外の人間になれない。

 嫉妬。憤り。無力感。この家で、嫌というほど思い知った。


 しかし。

 それでもよいのだと思えたのもまた、この家だった。

 どんな自分でも肯定してくれる人間が、ここにはいる。


「料理、全部出来たよ。運ぶの手伝って。葉介君、ランプの飾り付けがまだ済んでないんだろう?」

「…………」

「機嫌直して。デザート、2つ食べていいから」

「…………」

「一花が食べさせてくれるって」

「え!?」

「……一花、本当?」

「まぁ、そのくらい別にいいですけど。でも私が食べさせたからって味は変わりませんよ?」

「変わるよ」

「変わる変わる。一花成分が加わるから」

「そんな成分はありません」

「あるよー。ねぇ、蛍?」

「あるある」


 ……たわいもない話をしながら、3人は向かう。

 ガーデンパーティーの会場へと。


* * * * * *


15話扉絵

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