約束 1

「あの、一つだけ約束して欲しいんっすけど」


鮫島にいつもの勢いはない。寧ろ、ここまで神妙な顔の鮫島は初めて見たぐらいだ。


「約束?何を?」


「栃谷もいるし、これは良い機会だと思ってるんですが、今から話す事はチームの皆には言わないで欲しいんっす」


相沢は「分かった」とだけ言って栃谷の方を伺う。栃谷もゆっくりと頷き、鮫島からの要望を了承したようだった。


「それじゃ、話しますね。あれは入団したシーズンの六月ぐらいだったかなあ。ファームの試合が終わった後、球場から出てバスに乗り込もうとしたら、一人の男の子が近寄ってきたんすよ。俺、こんな性格だし、まだ二軍だった俺のファンなんていないと思ってましたし、身内でもない。そのまま横を通り過ぎようとしたんす。そしたらね、その子がユニフォームの袖を引っ張って言うんすよ、サインくださいって。『俺のこと知ってるの?』って訊いたら、『知ってる』って言うんす。サインした時、その子の名前を知ったんですわ。その子は泰祐君って言って、俺の事を憧れの選手だと言ってくれたんです。俺にとって初めて出来たファンでした」


「その子と栃谷君が、何か関係あるっていうの?」

相沢の指摘を受けて、鮫島は栃谷と相沢を見やりながら話を進める。


「泰祐君が何故、俺のファンになったかと言うと、元々レッドスターズのファンで、あの前年に入団した俺や栃谷の入団会見をたまたま見ていたらしいんっす。病院のベッドで。お母さんが言うには、闘病生活の中で、唯一の楽しみはレッドスターズの試合を見ることだと。そしてあの時入団した俺や栃谷たちの姿がかっこ良く見えたんだって、本人は言ってました。」


「病院って、何かの病気なの?」


栃谷は不安げに気遣う。鮫島は落ち着いた様子で淡々と質問に答えた。


「ああ、泰祐君は生まれつき、身体が弱くてな。幼い頃から何度も手術して、だから、希望を持ちたかったんだと思う。でもな、開幕後にレギュラーになったお前はその思いを踏みにじった」


「踏みにじったってどういう事?」


相沢が質問を挟む。


「泰祐君はある日、レッドスターズの一軍の試合へ応援に来たらしいんです。それは俺と初めて会った少し前だったんすけどね。泰祐君が会いたかったのは栃谷だった。試合が終わってから、栃谷が球場から出てくるのを待ってたんです。でも、栃谷はサインをお願いした泰祐君に『疲れてるから』とだけ言って、バスに乗った。泰祐君は悲しかったそうっす。栃谷、お前は覚えてるか?」


栃谷は少し青ざめて、ゆっくりと首を横に振る。


「そりゃ、覚えてないよな。あの時、お前は人気が出始めてたし、ファンも増え始めてた。その中のたった一人だからな」


栃谷は「ごめん」とだけ言って頭を下げる。


「謝る相手が違うだろうが!泰祐君に謝れよ!」


栃谷は鮫島の怒号にオロオロとして、鮫島の元に駆け寄ろうとした。

「僕って、ひどい事をしてたんだね。自分でも気づかないうちに。多分、泰祐君だけじゃない。他の子供達も同じように傷つけてたと思う。だから、泰祐君に謝りたいよ、僕は。泰祐君は今どこに?」


「もう、居ねーんだよ!何処にも!」


「どういう…こと?」


「だから、さっき言っただろうが!泰祐君は元々身体が弱かったんだ!死んじまったんだよ!去年の夏に!」


栃谷は放心状態だった。


「そんな、なんで…」


「手術が…失敗したんだ」


相沢は二人にかける言葉が見つからなかった。

きっと栃谷も悪気があったわけではないのだろう。鮫島もきっと、栃谷を責めているわけではないのだと思う。

二人ともやるせない思いを、何処に投げて良いのかが分からないだけなのだ。


その時、相沢にはある種の閃きがあった。


「もしかして、あの試合のサインは…」


鮫島はいつの間にか泣いていた。


そして涙を腕で拭いながらコクリと首を縦に振った。

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