疑惑

翌日、相沢が宿舎のホテルを出てグラウンドに向かおうとすると、フロントの前に森国が立っているのが見えた。その前には栃谷が居たが、深刻そうな顔で森国の言葉を聞いている。


二人が余りにも真剣に話をしている様子から、相沢はあえて声を掛けずにそのまま宿舎を出た。


グラウンドは宿舎から徒歩で3分の所にある。相沢はその道を歩きながら、ふと考えていた。


昨夜の森国の部屋で見たパソコンの画面。それに、森国と栃谷の重い雰囲気の会話。何より、自分の抱いた鮫島の映像に対する違和感。何かがあるのは間違いないと確信していた。ただ、それが何なのかまでは、まだ分からない。少なくとも、明るい話題でないことだけは間違いないと、相沢は感じていた。


相沢がグラウンドに到着するとすぐに、森国がグラウンドに選手全員を集めた。森国の後ろにはコーチ陣も全員が揃っている。


「全員、揃ってるか?」


坂之上が並んでいる選手たちをざっと見渡し、確認をした。「あ、鮫島がいないですね。遅刻なんて珍しい」と告げると、森国は一つ息を吐く。何かしらの覚悟のようなものがあるらしく見えた。


「分かった。実は皆に言っておかなければならない事がある」


ここで森国は再び、ため息のように「はぁ」と呼吸し、口を開いた。


「今、鮫島が居ないのは遅刻じゃない。宿舎に残ってもらっている」


「どういう事ですか?」


相沢が疑問の声を上げると、森国は渋い表情でそれに答える。


「昨日、広島のうちのチームの事務所にある電話があった。その電話の主はうちのファンらしいが、名前は名乗らなかった」


「その電話が何か鮫島君に関係があるんですか?」


相沢がそう訊いたのは、ある種の胸のざわつきがあったからだ。森国は逸る相沢を諌める。


「まあ、慌てないでくれ。順番に話していくから。ただ、その電話が鮫島に関係しているのは間違いじゃない。その電話主は、『鮫島が八百長をしている』と言ってきたそうだ」


「はぁ?八百長ですか?」


素っ頓狂な声を上げたのは内野手の三反崎だ。入団7年目の中堅で、チームでは八番や二番の打順を打つ事が多い。二塁手としての守備は評価されているが、小柄な体格から打撃面でも力不足が否めない。それでもレギュラーとして名を連ねているのは、そのムードメーカー的な役割もかわれてのものかもしれない。


「ああ、八百長だ。内容についてはまだはっきりとは分からないが、うちのチームが不利になるように動いていたらしい。こんな事をこの時期に言うのは気が引けたんだが、宿舎に残っている鮫島からは今、事情を聴いている。もし、黙っていたとしても、鮫島がグラウンドに来なかったら、皆が怪しむだろうし、話もいずれ広がるだろう。そうなる前に皆には話しておいた方がいいと思ったんだ」


「でも、去年のシーズンの鮫島は結構、打率も高かったし、打点も付いてましたよね。エラーもうちのチーム内では一、二を争う少なさですよ。八百長って言っても、何をしたって言うんです」


食い下がる三反崎に森国は「すまない。それはまだ分からないんだ」とだけ答えた。


相沢の不安は、「鮫島の八百長疑惑」という形になって目の前に現れた。相沢は自分なりに考えをまとめようとした。


これまでの情報を集めると、相沢にはある程度の予想は出来た。森国は内容について分からないと言っているが、それなりの当たりは付いているはずだ。だが、それを皆の前で言っても動揺させるだけだ。誰かに内容を確認したい。


「とりあえず、皆はいつも通り練習してほしい。まだ鮫島が八百長をしていると決まったわけでもない。俺からの話は以上だ」


森国からミーティングの解散を告げられると、選手たちはそれぞれのノックや打撃の練習場所に散っていった。


そんな中、相沢だけはベンチ裏へと向かう。そして「内容を確かめるとするなら誰に訊くべきか」を悩んでいた。

そう考えた時、先ほどの宿舎での場面が思い出された。

「そうだ、栃谷だ。あの時二人がしていた会話はきっと鮫島に関する事に違いない」と予想した相沢は、グラウンドでティーバッティングをしていた栃谷を捕まえ、ベンチ裏へ連れて戻り、問いかけた。


「ねえ、栃谷君。グラウンドに来る前、森国監督と何かを話してたよね?」


栃谷はバツが悪そうに口をつぐむ。しかし、相沢は気にせず質問を続ける。


「あれってさ、鮫島君の八百長に関する事じゃないの?」


栃谷は相変わらず、下を俯いたまま、何も答えようとはしない。


「もしかして、鮫島君、レフトの守備位置から、うちのキャッチャーが出してる投球のサインを相手に伝えてたんじゃない?」


そこまで言ってようやく、栃谷がハッとして顔を上げる。


「何で?何で知ってるんですか?」


動揺する栃谷に向かって、相沢は申し訳なさそうに苦笑いする。


「あ、いや、知ってたわけじゃなくて、予想したのがたまたま当たっただけ。でも、栃谷君の言葉で確信が持てた」


「あっ、やっちゃった」と言って栃谷は悔しそうに唇を噛む。だが、もう隠しておく必要もないと悟ったのか、森国とのやりとりを相沢に伝えた。


「相沢さんが言う通り、鮫島君はこっちの球種のサインを相手に伝えてたかもしれないって監督は言ってました。そしてはこの内容については他言しないようにとも」


「やっぱり。あの時は鮫島君の事を話してたんだね」


「はい」


栃谷の表情はいつになく暗い。それだけ今回の鮫島に対する疑惑がショックだったのだろう。


「それで、栃谷君はどう思う?」


「どう思うって何をですか?」


「鮫島君が八百長を本当にしてたと思う?」


栃谷は首を激しく横に振って否定した。


「いえ、鮫島君に限って、そんな事は絶対にないと思います」


栃谷は、そう言い切った。相沢は、そこまで確信を持てる理由を知りたくなった。


「どうして、鮫島君が八百長をしていないって言い切れるの?」


栃谷はゆっくりと、だが力強く答える。


「彼ほど野球に対して真面目な人間は居ないからです。そして、彼ほど野球が好きな人間も」


そういう栃谷の目にはいつの間にか、今にも溢れそうなほどの涙が溜まっていた。

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