Ikaro(イカロ)  ~昔々、或る異世界に~

@co-may

第1話 死と再生と、妖怪と

人は、いつか死ぬ。


それは悠久の昔から不変の真理であり、未来永劫、変わるべきではない真実のはずだ。

だけど、多くの人は自分が今日この時、世界から消え去ってしまうなど考えはしないだろう。

いつものように今日が流れて、同じように少しだけ違う明日がくる。

そんな他愛もない日々が積み重なって、気が付いたら見知らぬ未来がやってきていた。

そして、そこには言わずもがな、自らの人生の主人公である、自分がいる。

何の保証も確証もない、しかし当たり前で当然であるはずの、そんな日常。

しかし、そんなものは誰も約束などしてくれない、吹けば飛ぶようなはかない幻想にしか過ぎない。


濃密な夕闇に包まれた、人気ひとけのない街角。

そこで俺は、そんな非情で冷たい現実を、自分が殺されることでまざまざと思い知らされた。


いつもより遅くなった帰り道に、そいつはいた。

上背うわぜいのある体を覆い尽くした、分厚そうな生地をした純白の衣。

フードに包まれた頭の前に嵌められた、老人の顔をした骨董品染みた木彫りの面。

右の袖の中から伸びる、これまた博物館にでも並んでいそうな、スラリと長い日本刀。

そんな、不審者感の上限突破を軽く果たしたその相手は、誰もいない暗い路地の中空へと、背中の長い黒髪を羽のように広げながら、俺の前へと静かに現れたのだった。


初め、俺は途方に暮れた。

自分の眼を疑い、次に頭を疑い、目頭を押さえながら頭を振った。

最近は、何かと用事が立て込んで寝不足気味だった。

だから、こんなあまりにも馬鹿らしい、意味不明な幻覚を見てしまったのだろう。

あくまでも理性的に、常識的な判断から、俺は目の前の現象を冷静にそう結論付けた。

そんな俺に、その白装束の能面は言葉もなく、手にしていた刀を突き刺した。

音も無く胸へと沈んだ銀の刃先は、すんなりと奥へ潜り込んでいく。

突然の出来事に驚いた俺は、驚きと怒りから声を上げる。

歯を剥き、大きく開いた口からは、今まで聞いた事の無い奇妙な自分の声と一緒に、赤黒い血が洪水のように吹き出した。


正面から刀を突き立てられた胸には、もはや痛みとも思えない激痛と、火傷しそうな程の熱が走る。

しかし、その後すぐに手足を冷たい痺れが襲い、感覚と自由を残らず奪い去っていく。

それから、俺が睨み付けていた能面野郎の姿は、突然小さく遠ざかっていき、暗闇の中へと消えた。

どこからか聞こえていた、オルゴール風の間延びした町のチャイムも、水に溶けるように潰れていく。

そこで、ようやく俺は、自分が殺されたのだと理解したのだった。


まさか、変質的な通り魔に襲われて、こんなにも短い人生を終えるなんて。

まだ、タバコも酒も経験していなければ、彼女も一人として作ってはいない。

そんな、清らかで透明感に溢れた、プロの禁欲者もかくやな体のまま、俺は死んでいくというのか。


どこぞの宗教の、熱心な信者や教徒だったら、そうした状況は最高の最期に思えるかもしれない。

だが、悲しいかな俺は、神様やあの世なんかを少しも信じていない、年相応の欲にまみれきった普通の男子に過ぎなかった。

まだ、やりたいことも、楽しみたいことも、それこそ掃き捨てるくらいにたくさんあった。

そして、俺はそんな夢の幾つかを、遠からず叶えられると信じて疑っていなかった。


なのに、それなのに、こんな事で。

誰かも何かも分からない相手に、意味も理由も全く分からないまま。

野望も希望もひとつとして叶えられずに、抗いようのない圧倒的な暗闇の中へと、恨み言のひとつも言えないまま消えていってしまうなんて ――――――――。


「絶ッ対ぃいいいに、嫌だあああああああああああああああああああああっ!!」


湧き上がる絶望と衝動に駆られ、俺は有らん限りの声でそう叫びながら、寝ていた床から体を起こした。

腰を落とした姿勢のまま、俺は荒く小刻みな呼吸を繰り返す。

少ししてから、俺は慌てて視線を下へと向ける。

くたびれて皺の寄った制服は、特に何の変わりもない。

どうやら、先程のあれは、夢だったみたいだ。

そう思った瞬間、強張っていた俺の肩からは力が抜け、口からは大きな溜息が自然と零れた。


あんな意味不明な悪夢を見るとは、いよいよ本当に、疲労のレベルがヤバイのかもしれない。

こうなったら、過労で神経をやられる前に、無理にでも休みをもらうべきだろう。

そんな我が身の心配をしつつ、俺は暴れる心臓を左手で優しく押さえながら、伏せていた顔を上げる。

そこには、起床時にいつも目にする、ごみごみとした狭い部屋の光景はなかった。

代わりに俺の目の前には、冷たく湿った空気のよどむ、広々とした薄暗い洞穴が広がっていた。


粗削りな岩の壁には、所々にランタンのような照明が取り付けられている。

その頼りなくも確かな明かりのおかげで、俺が倒れている場所は結構広がりもあって天井も高い、ちょっとした広場のような所だということが見て取れた。

ゴツゴツとした足場の悪そうな地面には、壁沿いに何かの道具や木箱などが、雑然として並べられている。

遠目には、奥へと続く幾つもの洞窟へと伸びる、数本の小さなレールが敷かれているのが見える。

本物を見たことはないが、どことなく採掘場とか炭砿とか、そんな風な場所っぽい光景だなと、俺は何気なしにそう思った。


俺はすそに付いた土埃を落としながら、座り心地の悪い床から腰を上げる。

立ち上がった俺がぼんやりと辺りを眺めていると、不意に、どこからか地鳴りのような音が近付いてくるのが聞こえた。

やがて、それは洞穴全体に反響する程に大きくなり、合わせて激しい揺れが起こり始める。

そして、突然の地震に慌てる俺の目の前で、地面の一部が盛り上がった直後。

いびつに割れたその岩盤の下から、砕いた岩石を周りへと弾き飛ばしながら、轟音と共に巨大な石の壁が飛び出してきた。


妙に白っぽく、艶々つやつやとした質感をしていたそれには、真ん中からやや上の辺りに、血走った巨大な目玉がまっている。

縦に伸びた荒い輪郭の側面には、岩や石を無理に重ねてくっ付けたみたいな、大小様々な腕が何本も生えている。

突如として登場した壁の化け物は、ふと眼前に立つ俺の存在を目に留める。

相手に向けた赤い一つ目が、怒りの形へと細められる。

瞬間、向かって右上に付けられていた、特に大きな岩の手が振り上げられ、何の前置きもなく俺を目掛けて振り降ろされた。


まさか、一度も考えたことさえなかった風景とモンスターの姿を、ここまで細かく思い浮かべられるとは。

ひょっとしたら、俺には漫画家とかイラストレーターとか、そういった仕事が合っているのだろうか。


迫り来る巨岩の板を見上げながら、俺はその圧倒的な迫力に驚きつつ、自らの想像力の豊かさに感心する。

そうして独りえつひたっていた俺を、突然何かが、横から物凄い力で突き飛ばした。

岩の怪物の魔手から逃れた俺の体は、勢いのままに地面の上を転がっていく。

打ち付けた右肩へ走る鋭い痛みに、俺は思わず苦悶の声を上げる。

そんな俺に、いきなり横合いからタックルを決め、並んで地面の上を横転していた張本人は、四つん這いの姿勢で素早く近寄ってきた。


「ちょっと、しっかりして!! なんであなた、『ぬりかべ』の攻撃を避けないのよ!? また、こっちでも死にたいの!?」


うめく俺を覗き込み、信じられないといった表情と口調でそう叫んでいるのは、俺とさほど変わらない齢の頃の少女だった。


セミロングの髪を稲穂の飾りが付いた髪留めでまとめた彼女は、和風のダンスグループとかが身に付けていそうな、きらびやかで露出度が高めな振袖っぽい服を身に付けている。

冷汗を滲ませた眉の細い顔には、焦りと非難の表情が張り付いている。


美形といえば美形だが、俺の趣味とは少し違うな。


こちらを見下ろす相手を、俺が仰向けのまま品定めしていると、再び壁の怪物がこちらへと向けて、別の腕を振り上げる。

刹那せつな、どこからか飛んできたひとつの黒い影が、その石の塊を強烈な勢いで蹴り飛ばした。

化け物の攻撃を防いだその人影は、華麗な宙返りを決めて着地を決める。

俺達の手前へと降り立ち、片膝を突いた姿勢でこちらをかえりみたのは、これまた俺と同年代と思しき、黒づくめの恰好をした男だった。


長袖長裾の上下や、その上に羽織はおった上着は、どれも黒一色で統一されている。

しかしながら、それらは互いに濃淡の具合や色味の加減で、微妙な違いがあった。

それだけでも、彼が自分のファッションに異常なまでのこだわりをもっているのは、露骨なまでに明らかだった。

短いポニーテールを振って後ろを向いた彼は、揃って倒れる俺と少女を鋭く睨む。

どこか中性的にも見える、端正な細面の右目は、刀の鍔のような眼帯で隠されていた。


「トヨ、早くその腑抜けの目を覚ましてやれ。虎の子の創生者そうせいしゃが、足手まといの邪魔者だなんて、出来の悪い冗談だぞ。それとも、お前には難儀な仕事か?」

「わ、分かってるわよ! 玄月くろづきあんた、自分の主人の神様を信じられないって訳!?」

「出来るなら、それで良い。時間は俺が稼ぐ。だが、そうは長くもたないぞ」


端的な物言いで彼女へ釘を刺した眼帯男は、左の腰に帯びていた刀を抜き放つ。

抜刀した得物を手に、立ちはだかる生きた壁へと躍り掛かる彼に、相手は幾本もの腕を使って迎え撃った。


息つく暇もなく矛先を交える両者の間には、絶え間なく細かい石の欠片と、鮮やかな火花が舞い散る。

目の前で繰り広げられる激しい剣劇に、地面へと座り直していた俺は、息を呑んで成り行きを見守る。

まるで映画のようなワンシーンに見入っていた俺は、不意に横から伸びてきた両手に顎を挟まれ、強引に右回りへと首をひねられた。

強制的に相手の視線を自分へと向けた少女は、切羽詰まった険しい面持ちから、三白眼で俺を睨む。


「いい、聞いて! あなたは多分、ここがどこかも、何が起こっているかも分からないわよね。だけど、今はそれを説明している時間はないの。お願い、あの岩壁の妖怪を、あなたの手でやっつけて!」


余裕のない早口での懇願に、俺は呆気に取られて薄笑う。

確かに、これが俺の夢である以上、この世界での主人公は俺自身だ。

しかし、例えそうだとしても、何の特技も資格も持っていない典型的な一般人の俺が、いきなり見上げるような岩の化け物を倒すなど、予想外を通り越して突飛に過ぎる展開だった。


「あー、まあ、それも悪くないかもな……。でも、あいつが戦ってるのを観てるのも面白いし、このまま目が覚めるまでってのも良いかなぁ……」

「ちょっ、だからこれは本当に起こってる事なんだって! あなたにとっては現実には思えないかもだけど、夢とか幻とか、そんなのじゃないの! この神託しんたくを成功させなければ、あなたももう一回、死んじゃうことになるのよ!」

「そう言えば、前の夢でも死んでたな、俺……。夢中夢むちゅうむってのか? そこでもまた死ぬとか、どんだけ死にたがりなんだよ、まったく。もしかして俺、気づいてなかったがМ気質だったのか……?」

「だぁあ~~~っ、もう、話を聞きなさいっての!! えむでも何でも良いから、とっと行って、さっさとあれをやっつけてきなさい、よおっ!!」


物思いにふけっていた俺を無理矢理に引き起こした少女は、怒鳴りにも似た掛け声に合わせ、勢いを付けて背中を押す。

有無を言わさず送り出された俺は、危なっかしくよろめきながら、戦いの場へと加わる。

眼帯男を吹き飛ばした石壁の怪物は、入れ違いに現れた敵へと注意を向ける。

再び攻撃範囲へと入ってきた相手を前に、そいつは一対の大きな腕を掲げ、あたかも蚊を叩き潰すみたいに、その広い掌で俺を左右から挟み込んだ。


めちゃくちゃ、痛かった。

唸りを上げて両肩へと激突してきた岩の壁は、そのまま力を緩めることなく、捕えた獲物を締め上げる。

全身へと掛かる凄まじいまでの圧力に、俺の骨は到る所で軋みを上げる。

肺から絞り出される空気に混じって、俺は声にならない濁った悲鳴を吐き出した。


今の俺は、二つの壁に挟み撃ちとされている今の状況に、快感も快楽も感じてはいない。

少なくとも、自分が隠れマゾヒストだという心配は、幸いにも杞憂きゆうのようだった。


身じろぎも許さない程、俺をきつく拘束した壁は、徐々に間隔を狭めていく。

このままだと、俺は間を置かずに薄く伸ばされ、呆気なく圧殺されるのは間違いなかった。


またしても俺は、夢の中とは言え、殺されるのか。

訳も理由も分からないまま、しかも白づくめの仮面野郎や、動く壁みたいな人でもない相手に。


そんな思いが脳裏をかすめた途端、俺は猛烈に腹が立ってきた。

これが俺の夢ならば、ここにいる奴らは全員、俺の空想が生んだもののはずだ。

なのに、そんな相手に良いように扱われて、おもちゃのようにもてあそばれて壊されるなんて、胸糞以外の何物でもなかった。


視界の両脇にそびえる、荒い肌をした壁の隙間からは、こちらを見下ろしている巨大な単眼が見える。

まるで、罠にかかった鼠を嘲笑うような、薄っすらと細められたその赤目に、俺は怒りに任せて相手の両手を押し返した。

ほとんど身動きの取れない姿勢だった俺は、少ししか勢いを付けられない。

それにも関わらず、俺の手は突いた箇所へとヒビを走らせ、左右の壁を力任せに弾き返した。


力負けした石壁の怪物は、突き返された腕を振り回してよろめく。

姿勢を崩した怪物に、遠くからそれを見守っていた少女が大声を上げる。


「今よ! そいつの足元にある色が変わった所を、叩き壊して!!」


視線を落とすと、怪物の胴体には地面から生えている辺りに、確かに周りより白み掛かった箇所があった。

そこを壊したらどうなるかは、知るはずもない。

だが、質問をする暇もない俺は、その場の流れと勢いに任せて怪物に駆け寄り、少女の指示通りにその部分を蹴り付けた。


渾身の力を込めて叩き付けた靴底は、あっさりと岩の肉壁の中へめり込んだ。

俺の足が陥没した所を中心に、耳障りな音を立てて、亀裂が左右へと伸びていく。

その細い割れ目が、怪物の体の両端へと届いた瞬間。

長く伸びた傷は大きく口を広げ、石壁の怪物はそのまま、俺の反対側へと倒壊した。


地響きを上げて転倒したそれは、さながらひっくり返った蜘蛛くものように、仰向けとなって数本の腕を振り回す。

姿勢を立て直すこともままならない相手に、どこからか舞い戻ってきた眼帯男は素早く跳び乗る。

そして、異常を察知した怪物に対応する暇も与えず、彼は手にしていた刀を、相手の瞳へと垂直に刺し込んだ。


急所を突かれた怪物は、どこから発しているかも分からない、身の毛もよだつ凄まじい絶叫を轟かせる。

やがて、洞窟へと木霊していた断末魔は、前触れもなくピタリと止む。

少し遅れて、天を指して激しく痙攣けいれんしていた複数の腕が、一斉に地面へと落ちる。

同時に、横倒しとなっていたその胴体は、上へと乗っていた眼帯男の足の下で、砂のようにもろくも崩れ落ちた。


土埃と共に積み上がった瓦礫の山からは、鮮やかな光の球が浮かび上がる。

怪物の死骸から生まれた、その野球ボール大の黄色い光体には、漢字にも似た文字らしき紋様が刻まれていた。

俺が茫然として眺める中、それは音も無く宙を横切り、少女が広げていた左の掌へと吸い込まれる。

謎の球体を取り込んだ彼女は、その左手を大事そうに握り締めると、満面の笑みを浮かべて小躍りした。


「よおおっしっ、やったあ!! 豊尾刈とよおげ組の記念すべき初めての神託、無事に達成っ!! 一時はどうなるかと思ったけど、幸先の良い駆け出しね!」

「だがしかし、こうも苦戦するとは思ってもみなかったがな。相手が岩や石を依代よりしろとした妖怪であるのは、お前も初めから分かっていたはずだ。にも関わらず、この俺にこんな鈍刀なまくらがたな一本で討伐させようなどと考えていたなど、あまりにも短慮たんりょ浅薄せんぱくではないのか?」

「ぐっ……だっ、だから、念のために手持ちの幻双紙げんそうしの断片を、全部持ってきてたんじゃない! そのお陰でほら、ここで拾った最後の一片で、こうして創生者も召喚できて、更に妖怪も討ち果たせて一石二鳥よ! やっぱり、私の目と発想には、全くもって狂いは無かったってことね!」

「ふっ……まあ、今回は終わり良ければ全て善しであったと、そうしておくとしよう……」


肩をすくめて刀を収める眼帯男を、少女は最後に苛立しそうに一瞥いちべつしてから、その視線を俺の方へと返す。

戸惑いから立ち尽くす俺へと小走りで駆け寄った彼女は、目を細めて嬉しそうに微笑みかけてきた。


「さてと、あなたもお疲れ様! それから、どうも初めまして! さっきは無理に急き立てるような真似をして、ごめんなさいね。でも、ああでもしないとあなた、あのぬりかべと戦ってくれそうになかったから、不本意ではあったけど仕方なかったのよ。どうか、許してね」


先の暴挙をびた少女は、片目を閉じて合掌してみせる。

そんなあざとい身振りを無言で見つめる俺に、彼女は答えを待つ素振りもなく話を振った。


「私の名前は、豊尾刈比売トヨオゲヒメ。それで、あっちの真っ黒くろ助は、玄月くろづきよ。ちなみに、彼は戦国武将からの転生者てんせいしゃで、以前にあなたのいた日本での名前は―――― 」

「おい、藪から棒にそんな事を言ったところで、その男が十全に理解するのは無理ではないか? まずは、そいつの心がしずまるのを待ってから、詳しい経緯は街に戻ってからけば良いだろう」

「うーん、それもそうね。彼も思ったより落ち着いてくれてるみたいだし、もう戻るとしましょうか。こんな辛気臭しんきくさい場所にいつまでも居る必要なんかないし、今回はこれでお終い! 撤収よ!」

「えっ……これで、終わりなのか……? 本当に?」

「ええ、そうよ。じゃあ、もうじき暮れの刻限になっちゃうし、急いで線路を辿たどって炭砿の外に出ましょ――――」


あっさりと終了を告げる少女に、俺はそれなら折角だからと、正面に立つ彼女の胸を鷲掴みにする。

掌に収まった双丘は、予想に反して肉厚で、とても柔らかな感触をしていた。

どうやら彼女は、着痩せをするタイプの女性のようだった。


「…………え、はぇ……? あなた、何……してるの…………?」


断りもなく、自然な手つきで胸を揉んでくる俺を、少女は点とした目で凝視する。

呆けた表情となって問いかける彼女に、俺は相手の胸部をまさぐる手を止めることなく、にこやかに微笑んでみせた。


「ああ、この馬鹿みたいな悪夢も、やっと終わりなんだろ? だったら、目が覚める前に少しでも、嫌な目に遭った分は取り返しておきたいからな。正直、俺としてはお前みたいのはあんま好みじゃないんだが、こうなりゃ文句はいってられないしな」

「あの、いや、ちょ……だから、これはそんなのじゃ――――」

「しっかし、やっぱ女の胸ってのは柔らけぇな。俺は大きければ大きいほど良いって方だったんだが、意外とこんな小振りなのもイケるもんだな。いやはや、やっぱ外見だけで判断なんかすべきじゃねぇな」

「だ、っから…………あなたや、私が居るっ、此処はッ――――」

「あ、どうせだし服越しじゃないのも試しておくか。でも、時間的に間に合うか……? なあ、あとどれくらいで俺は目が覚め――――」


残り時間が気になった俺は、それを把握しているらしい少女へと改めて尋ねる。

揉みしだく胸から上へと移した視線の先には、唇を真一文字に引き結び、頬を真っ赤に染めながら目尻へと涙を溜めた、彼女の顔。

そして、その斜め上へと振り上げられた、小刻みに震える右の握り拳があった。


「夢とか、そんなんじゃないって、さっきから言ってるでしょうがっ、このっ、バカああああッ!!」


直前に聞いた、怪物の断末魔にも負けない絶叫と共に、彼女は振り被っていた右拳を繰り出す。

顎の左側面を的確に捉えた一撃に、俺は錐揉きりもみとなりながら軽く宙を舞い、そのまま受け身を取る余裕もなく倒れ伏した。


床に激しく擦り付けた額と、少女から殴り付けられた左頬には、熱く染みるような痛みが広がっていく。

骨の髄へと響くその激痛に、俺はこのどうしようもなく現実味の無い世界と、そこに居る自分が、紛れもなく現実のものだと今更ながらに思い知らされたのだった。

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