ライブロック

「どうして」とか「なんで」はくだらない。理由なんてなくたっていい。あなたはいつだって、人生を変えられる。ほんのちょっとの冒険心があれば、奇跡というのはどこにでも転がっている。


 アクアリウムショップの前で立ち止まる。縁遠い店であったので、戸惑いもあったが、見るだけならと、入ってみることにした。汚れたノレンと安っぽいガラス戸をくぐる。その先にはキラキラ輝く宇宙があった。

 水槽をひとつひとつ見てまわる。鮮やかで美しい熱帯魚、大きく見応えがあるアロワナ、奇妙な姿をした深海魚、静寂をたたえる巻き貝、せわしなく働くちいさなエビ。動物はなにもいない水槽もあった。海藻の庭園だ。どれも光り輝いている。

 俺はとある水槽の前で釘付けになった。

「お目が高い!」

 いつの間にか店員が横にぴったりついていた。

「これはなんなんだ?」

 俺は水槽をつついた。

「なんに見えます?」

 店員の不敵な笑みが水槽に反射していた。

「溶岩に見えるが、わざわざ水槽に入れて世話までしている意味がわかない」

「その通りです。これ自体はただの岩です」

「ははあ、これから魚を入れるのか」

「いえ……」

 店員は否定だけしてニヤニヤ顔で黙っている。

 俺は焦れて催促する。

「しっかり説明したらどうだ、店員だろ?」

「失礼しました。これはライブロックというものです」

「ライブロック? 生きているのか?」

「ええ。と言っても岩が生きているのではございません。岩の中に生き物がいるのです。こうして適切な水と光とを与えていれば、そのうち出てきますよ」

「へえ、なにが出てくるんだ?」

「それをお楽しみにするのが、ライブロックの醍醐味なのです」

「なるほど、そういう趣向か」

「このライブロックは今朝、展示用に水を入れたばかりで、まだなにが出てくるかわかりません」

「出てこないという場合もあるのだろう?」

「その場合はもちろん返金いたします」

「良心的だな」

「ただ一週間以内にご連絡ください」

「ああ、わかっている。期限がなければ商売にならないだろう。永久に負債を抱えるようなものだ」

「よくご存知でいらっしゃる。あなたさまのようなお客さまばかりだとありがたい」

「近頃は、ものを知らないやつが多すぎる」

「おっしゃる通りでございます。それで、どうですか? ライブロック」

「ふむ」

「まあ、初心者は小エビか海藻から始めるのが、定跡ですが」

 店員の言い方はいやに挑戦的で俺を腹立たせた。

「なにか新しいことを始めようと思っていたのだが、どれもいまいち珍しさがなかったのでね。運を天に任せるのもいいかもしれない。今日ここに立ち寄ったのも、ほんの気まぐれで」

「それはきっと、なにかの縁でございますね。いかがです。このライブロックなら、お値段も勉強させていただきます。正直に申しますと、あまり売れていないのです。お客さまがお持ちのような冒険心の大切さを、近頃の方々は忘れてしまったようで」

「だろうな」

「ご自宅に配達させていただきますし、設置もお任せください」

「そりゃいい。至れり尽くせりだ」

「ただひとつ……」

「なんだ?」

「魚類とは言っても生き物です」

「わかっている。ちゃんと責任を持って世話するよ」

「なにかございましたら、すぐにご連絡をください。アフターサービスの充実も我が社のもっとうです」

「ああ、わかった。じゃあ、これをもらおうか」


 狭い1DKにでかでかしい水槽が設置され、俺はいきなり後悔した。

 当たり前だが、ただの溶岩は寝転がっているだけでつまらないし、ここに水生生物が一匹二匹増えたところで面白くなるとも思えない。水槽一式の値段は思ったよりもずっと高く、ローンを組むことにもなった。光熱費もばかにならないだろう。

 自分の部屋という現実に引き戻され、ライブロックは部屋の専有面積も、家計もぱんぱんに圧迫する不良債権にしか思えなくなった。今後の生活を思うと、それは水槽の奴隷だ。

 望むのはライブロックからなにも出てこないことだ。そうなれば、契約通り返品できる。しばらく眺めていたが、今のところ変化はない。ポンプはぶくぶくと酸素を送り込み、照明も愚直に自分の役目を果たしている。

 牛丼でも食べに行こうと、立ち上がったときだった。ちらりとなにかが映った。俺は見逃さず水槽の前に戻る。一分ほど睨んでいると、ついに観念したのか、恥ずかしがり屋の魚が姿を現した。

 俺は仰天した。

「マーメイドだ!」

 水槽の中に出現したのは、上半身は人間、下半身は魚の姿をしたマーメイドだった。

 彼女は水面に顔だけ出すと言った。

「恥ずかしいわ。ジロジロ見ないでよ」

「や、これはすまない」

 俺はとっさに平謝りして目を背けた。

「なにか着るものはないの?」

「ええと……」

 俺は放ってあったプラスチック容器の中にシジミの殻を見つける。

「ああ、ちょっと持ってくれ」

 俺はシジミの殻から柄が良いのを選ぶと、台所で洗ってから水槽にぽちゃんと落とした。

「これでいいか?」

「あっち向いてて」

 マーメイドは高慢ちきに言う。

 俺は思わず正座になって背中を向けた。

 ふと気づく。オフになったテレビの鏡面に水槽が映り込んでいた。

 俺は密かに着替えの様子をうかがった。マーメイドは腰の継ぎ目まで伸びた亜麻色の髪を一本抜き取る。それで殻を縫ってビキニを作り、二つの丸い乳房を隠した。

「いいわよ」

 許可が出たので、俺は水槽に向き直る。

「あんたがわたしのご主人さまってわけ? 冴えない男ねぇ」

「悪かったな!」

 と俺は怒鳴ったが、そんなに悪い気分ではなかった。自分で言うのもなんだが、寂しい男は美人と会話できるだけで嬉しいのだ。マーメイドは金魚くらいちっこいことと、ウロコとヒレに目をつぶれば、完璧な美人だった。これだけの美人なら、高慢なのはむしろいい。

「お前はライブロックの中にいたんだよな」

「そうよ」

「そのわりには訳知りっぽいな」

「なによ。田舎もんだってバカにしたいの?」

「そういうわけじゃないが」

「海の底でだってね、地上で人間たちがなにをしてるかくらい、わかるのよ」

「へえ、テレビでもあるのかい」

「あるわよ」

 俺は面食らった。あるはずがないと思いこんでいた。

「でも海の底には電波が届かないだろう」

「バカね。あんたの家もアンテナで電波を受信したら、どうしてるの?」

「ケーブルか」

「考えれば、わかることよ」

 マーメイドは知的に肩をすくめて見せた。


 マーメイドとの生活は面白かった。

 俺の欠点を散々こけにしたときはシメてやろうかと思ったが、それに飽きるとテレビに映る人間の悪口を散々言い出して、それがなかなか痛快だった。

 子守唄を歌ってくれた日もあった。母さんを思い出して、懐かしい気持ちになった。

 一週間ほど経ったある日、マーメイドは憂鬱そうだった。

 俺は聞いた。

「どうかしたのか」

「別に」

 マーメイドはそう答えたが、しばらくすると語りだした。

「わたしって見ての通り、高貴な存在じゃない」

「そうだな」

 俺は苦笑した。

「本当は海の女王の娘なのよ。でもいろいろさあ、やんなって、家出してきたってわけ」

「へえ」

 嘘とも本当とも判断のしようがない話だった。

「お母さま、心配してるんじゃないかって思ってね」

「心配してるだろうよ」

 俺がそう言うと、マーメイドはかぶりを振った。

「やめやめ! 家出してきたんだから、今はあんたのマーメイドですもんね」

 それでその話はおしまいになったが、俺の胸になにかもやもやとしたものが残った。

 それは二日後に爆発した。

「やっぱり帰るべきだと思う」

「なによ、藪から棒に」

「お母さんが心配しているぜ」

 マーメイドは少し考える素振りを見せてから答えた。

「わたしはどっちでもいいのよ。あんたといるのも悪くないって思うわけ」

「そう言ってくれるのは、ありがたいけど」

「なにか不満なの?」

「俺の母さんはもういないんだ」

 俺は話を続ける。

「もっと一緒にいてやれば良かった。いや、一緒にいたかった。あとになってから思うんだ。お前にはそんな思いをしてほしくない。それだけだ」

「そう」

 俺はじっとマーメイドを見つめた。彼女の目尻に涙が伝った気がした。それは水の中でのことであるし、思い込みだったかもしれない。だが、たまらない気持ちになった。

 俺はマーメイドを引っ掴んで、ビンの中に押し込んだ。

 車を飛ばし、港につくと、ビンを開けた。

「お前は帰るべきだ」

「こんなところで放されても、帰れないわよ」

「そうか、ならどこへ行けばいい?」

マーメイドは諦めたふうにため息を吐いた。

「……嘘よ。海の中に入れば、みんなわたしの家来なの。多分、カメがお家まで連れて行ってくれるわ」

「カメとは、まるで浦島太郎だな」

「浦島太郎はあなたよ。わたしは乙姫」

「それが名前なのか?」

「ええ」

「最後に名前が聞けて良かったよ」

 乙姫は物悲しげな笑みを浮かべた。

「ありがとう、さようなら」

 瓶から飛び出し、海にぽちゃんと落ちた。


 海に落ちたマーメイドは深く潜ってから陸側に引き返し、川をさかのぼった。途中で下水道に入り、ドブ川を泳ぎついで、売られていたアクアリウムショップに帰った。

「や、ちょうど帰ってきましたよ」

 アクアリウムショップの店長は言った。

 マーメイドは管を通って、巨大な水槽に入った。そこにはうじゃうじゃとマーメイドがいた。

「どうです、なかなかの性能でしょう」

 アクチ氏は言った。浦島太郎にライブロックを売った店員だ。

「このリトルマーメイドロボットを使えば、お客に何度でもただの岩をライブロックだと言って、売りつけることができるんです」

「たしかに、しかしバレませんかね」

「心配はいりません。バレそうになったら、泡のように消える仕組みになっているのです。それに自分から手放すように仕向けるプログラムをしているので、お客に不満もないでしょう」

「しかし噂が広まって、訴訟ということには」

「なぜです? 我々が売ったのは岩じゃないですか。誰もマーメイドなんて売っていない。しらばっくれればいいんです。そうなったときには全部、泡に消えるようになっています。証拠はないし、いよいよとなったら利益を手に、高飛びすればいい」

「それもそうか。どちらにせよ倒産しかけだったんだ」

 店長は納得して、リトルマーメイドロボットの仕入れ賃をアクチ氏に支払った。

「そうそう。もう一つ、いい商売があるんですよ。ライブウッドと言うんですけど、フェアリーロボットをですね」

「だいたいわかります。それもいただこうかな」

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