しがらみ
コペル氏は大金持ちで、欲しいものはなんでも手に入れられた。実際、思いつく限りならば、金で買えないものなど存在しない。本物の金持ちがその気になれば国だって買えるし、人間も企業も裏から糸を引いて支配できる。たいていの愛でさえ天秤にかけられる。砂金を一匙ずつ載せていけば、いつかは傾く。健康だってそうだ。
しかし、世界有数の大金持ちであるコペル氏にも、逃れられない憂鬱の種があった。よく言われる誰にも逃れられない二つのもの、つまり、死と税金に関しては諦めがついていた。それらは誰にでも平等にしつこいからだ。
それ以外のとあることについて、コペル氏は自分一人だけが、極めて不当な目にあっているのだと信じて疑わなかった。コペル氏の憂鬱の種とは、しがらみだった。
事実、コペル氏は一人心を休めて、のんびりできたという記憶がない。会社にいれば、常に重大な決断について意見を求められて頭を捻らねばならないし、家にいても、金の投資のこととか、仕事のこと、あるいは身の上相談まで背負い込まさせられた。
仕事を引退しても同じことだった。避暑地に逃げ込んでも、まるで誰かがコペル氏を監視しているかのように、痴話喧嘩の仲裁とか、サインとか、写真を一緒に撮ってくれとか、愚にもつかない要件が舞い込み、いつの間にかトロピカルジュースの氷は溶けている。
逆に真冬に雪山に隠れたこともあった。しかし物好きはどこにでもわくもので、エクストリーム登山者や、単純にコペル氏に同行しようというものも出てくる。
いくつかもっと強行的な手段を考えないでもなかった。その一つは、一切合切無視をすることだ。ヘルメット型のバーチャル・リアリティ装置を被って外界を遮断し、近づいてくる人たちはシークレット・サービスにつまみ出させることをやってみた。だが、そのシークレット・サービスたちが話しかけてくる場合もあったし、バーチャル・リアリティ装置に電波を照射してハッキングをしかけてくるものもいた。
コペル氏は強硬にこの方針を推し進めることもできた。そうすれば、しがらみから逃れる瞬間があったかもしれない。だが根本的な問題に行き当たる。コペル氏は優しすぎるのだ。そこまでして話しかけてこようとする人たちをどうしても無下にはできなかった。どうやら、この問題の核心はコペル氏の性格らしい。
たとえば、コペル氏がもっと近寄りがたい、怒りっぽい性格だったなら、金持ちでもこうまで頼りにはされなかっただろう。強い薬を使って、性格を変えるというのも手だったが、あいにくコペル氏は自分の性格自体は気に入っていた。
あるいは発想を転換して、さっさと死んでしまうことも考えた。いろいろな宗教家に会って、あの世のことを聞いて回った。そうしているうちに、天国や地獄にもおそらくはしがらみがあるようだとわかって諦めることになった。
ついに、コペル氏は莫大な予算を投じた。その額は世界の富の三分の一にも及んだ。自分の頭の中に浮かんだ、唯一の方法に乗り出した。世界中から優秀な科学者を集め、彼らと一緒に、しがらみから逃れるための装置をつくった。
このためにコペル氏は全財産を使ったが、問題ではなかった。この装置さえあれば、金などいくらでも増やすことができるからだ。その装置とは、ずばり、タイムマシンだった。
コペル氏はさっそく完成したばかりのタイムマシンに一人で乗り込み、過去に向かった。必要な数値を入力し、スイッチを入れると、音も立てず、辺りの景色ががらりと変わる。
それほど大昔ではない。ほんの数十年前、街並みは現代と比べると低く、電柱電線はあるが、空はひらけている。木造建築も多く残っていた。みんなまだ自分たちで車を運転している。土の匂いもする。
騒ぎにならないようにタイムマシンには透明化機能もつけてあった。コペル氏はリモコンでタイムマシンを上空に待機させる。着ているものも、街並みに溶け込めるようにアンティーク調の着物で、余念はなかった。
コペル氏は自分が生まれた家に向かった。なにか考えがあったからではなく、自分の素性に対する興味本位だった。
物心つく前には引き払われ、成人してから訊ねたときには更地になっていた場所だが、近づくほどに、どうしてか懐かしい。思い込みか、脳の深くに記憶が残っていたのか、どちらかだ。
知らんぷりで生家の正門を通り過ぎ、裏に回る。貧相な家ではないが、豪華な家でもない。植え込みの隙間から、中を覗く。小さな庭があり、縁側に座っている人を目に留める。柔肌に薄桃色の着物をまとい、黒々した髪を雑に結っている。
コペル氏は若い彼女こそが自分の母親であると直感する。間違いはなかった。写真はいつも持ち歩いていた。それならば、母の抱いている赤子こそ自分であるはずだ。
コペル氏はなんともいえない感動を覚えた。母に抱かれた記憶などなかったはずだ。それが今、親子の風景を見てふいに蘇ったのだった。母の優しい笑顔、手の中で揺られて、それがどれほどの安らぎであったか。
やっとコペル氏はしがらみから逃れられたという実感を覚えた。ずっと張り詰めていた気がほどけ、涙を流す。不思議なことに赤子のコペル氏の方も泣き出し、母は困っているようだった。
(今、会いに行ったら、母は私を私と信じてくれるだろうか)
そんなことをコペル氏は考えていた。
その時、トントンと、コペル氏の肩をつつくものがあった。コペル氏はぎょっとして振り返る。お巡りに見つかったのだとまず思ったのは、タイムトラベルになんとなく後ろめたさがあったせいだろう。
想像とは違い、コペル氏をつついて呼んだのは、見たこともない奇抜な格好をした少女だった。いや少年かもしれない。
「偉業の最中、たいへん失礼しました」
少女は奇妙なことを言い、銀色のフードの触覚を揺らしながら、頭を下げた。
「誰だい君は?」
コペル氏はいぶかしがったが、それよりも先に年甲斐なく流した涙を恥じて拭った。気分はまた張り詰めていた。
「これは重ね重ね失礼を、わたしは名乗るほどのものではありません。まあ、あなたの遠い親戚のものです」
そう言って、金をせびってくるもののどんなに多いことか。根負けして貸してやったこともあるが、返ってきたためしがない。コペル氏の灰色の脳細胞は素早く回転する。
「そうか、おそらく、君はずっと未来から来たらしいね」
「その通りです。コペル氏がタイムマシンを発明したので、それより未来の世界から、わたしは来たのです」
「はるばる、それで、なんのようだい?」
「ぜひとも入会していただきたい会がありまして」
そう言われて、コペル氏はがっくりとした。そんなふうにして、どれだけくだらないしがらみに巻き込まれたことか。税金は我慢できたが、会費は我慢ならない。遠い未来から過去にまで追いかけてくるとは。そう思っても、コペル氏は口にも顔にも出さず、話に乗ってやる。
「それは、どんな会なんだ?」
「時間遡行者委員会です。過去改変など行われないように、タイムトラベラーには免許が必要なんです。もちろん、タイムマシンの発明者のコペル氏に試験を受けてもらおうなどとは思っていません。ここにサインをいただければ」
「サインか、会員番号一番……」
「一番はコペル氏のためにあけてあったのです」
「ふむ」
たいした感慨はなかった。これくらのおべっかなら日常茶飯事だった。コペル氏は慣れた手つきでスマートペーパーにサインをした。小さな機械からカードが発行される。
「これが時間遡行免許証にもなります。会員番号一番です!」
「ああ」
コペル氏はカードを受け取り、懐にしまった。
「これでようは済んだかな」
「はい! あ、いえ……」
「まだなにかあるのか?」
少女はバツが悪そうに身を縮めた。
「申し訳ありません。コペル氏がしがらみをお嫌いなのは存じています。ですから、たいへん恐縮なのですが、講習を受けてもらいたいのです」
「講習? 試験はないと言ったじゃないか」
「試験はありませんが、講習は……」
少女はもごもご言う。
「いい、わかったよ」
コペル氏は急に吹っ切れたようで、朗らかに言った。
「講習は受けない。私はもうタイムマシンを使わない。だから私を、私の時代に送ってもらえるかな」
少女は意外そうな顔をした。
「しかし、しがらみを逃れて、過去に来たのですよね? 講習さえ受ければ、好きな時代でのんびりできるのですよ? ほんの短い講習です」
「いいんだ」
コペル氏は母の腕の中で泣き止んだ自分自身を見た。赤子と同じように安らかな気持ちだった。これからはどこにいても、あの母の揺り籠を思い出せる。コペル氏はこれから、いつでもどこでも安らかで、のんびりした気持ちになれるのだ。
「もうしがらみを恐れることもない」
コペル氏が独りごちると、少女は唐突に切り出した。
「あの、コペル氏、一緒に記念撮影をしていただけませんか」
「ああ、いいとも」
「私用のサインなのですが、テルルへと書いていただけませんか?」
「もちろん」
「きゃあ! 嬉しい! です! みんな! コペル氏がサインくれたよ!」
どこからともなく、ぞろぞろ似た格好の連中が触覚を揺らして出てくる。いつの時代も変わらない。もっともっと未来ならどうだろう。いや、どうでもいいか。
「わたしも!」
「わたしも!」
「わたしも!」
「ああ、いいよ」
コペル氏の心はここにあらず、安らかな母の揺り籠にあった。ここにたどり着くまでに、とんだ回り道をしたものだ。
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