恋の葉

@taka1210

第1話


第一章「蜃気楼」



ある日、仕事の帰り道たまたま寄った公園で僕は彼女と出会う。今思えばそれは偶然ではなく、僕の目の前に太くて力強い線で描かれた道のようなものであった。


それは僕が今の会社に入社して4年目のことだった。毎日仕事に追われ、めまぐるしく時が過ぎるのを待っているような毎日だった。

それでもどこか充実していて、嫌いにはなれない日常がどことなく愛おしかった。

僕の名前はコウキ。性格は真面目でどこにでもいるような普通の男だ。特技というものも特になく自慢できることといえばここ数年、風邪を引いたことがないということぐらいだ。休みの日は大学時代にアルバイトで貯めて買った一眼レフカメラを持って山に行っては気に入った風景を撮ることだ。


「なにボーとしてるんだよコウキ!」

トイレの中に響き渡る声は同僚の久坂部のものだった。彼はいつも社内で僕を見かけては子供のような無邪気な瞳で、時にはなにか獲物を狙う猛獣のような目をし、ものすごいスピードで僕に近寄ってきては、くだらない話題をふっかけてくる。

今日はトイレで2、3分ほど鏡に向かいながら久坂部の話を聞いた。内容は朝の通勤途中の電車で見かける宇宙人の話だった。その宇宙人は新宿駅によく出没する彼の友のようなものなのだと僕は認識している。だけど、その宇宙人はどこに住んでいてなにをしているかは久坂部にもわからないらしい。そんな宇宙人は毎朝同じ時間の同じ車両に乗ってきてはニコニコとみんなに会釈をして回る愉快な人物だ。そして久坂部が宇宙人と呼んでいる理由を一度だけ聞いたことがあるが、実に理解に苦しむ内容だ。それはどんな時にでも男なのに日傘を持ち歩いていてカエルのプリントが入った長いシャツを着ているからだと言う。彼曰く「肌が弱くてカエル好きなんて宇宙人だけだ!」と言っていた。もちろん真面目に耳を貸さなければいけない話ではないが、そんなふざけたおとぎ話を僕は気に入っていた。

久坂部の性格はまるで瞬きをする間に、どこかに飛んで行ってしまいそうなほど軽やかな性格の持ち主で、さらに社交的で上司には心底気に入られていた。そんな彼をどこか羨ましく、憎いと思うこともあるのが正直なところだ。

まあそんな久坂部のおかげもあるが、僕は今いるこの会社がそれなりに好きだ。それは勤めている会社が大企業だったこともあり、同じ部署以外の人間関係は皆無であった。そんなあっさりとした環境も僕の肌にはよくあっていたのと親も僕がそんな会社に勤めていることを誇りに思っていてくれると僕が感じているからだ。


気がつくともう少しで昼休みだ。昼休みまでの5分間はいつもパソコンのスイッチを切り昼食をなににするか右脳を使って想像する。実際に幾つかある店の一つに入りテーブルまで歩きメニュー表を眺める。食べたいものがないとまた店を出て他の店へ入る。それを繰り返して食欲が進まなければ、会社の隣にある小さな蕎麦屋に行くことが決まっていた。

そうして今日も蕎麦屋に決まった。しばらくするとチャイムと同時に仕事を片付け昼食を食べにいく人々が機械的にエレベーターへと向かう。そんな代わり映えのしない光景をしばらく見つめながら、空きはじめたエレベーターで一階へと降りる。会社から出ると蒸し暑い嫌な熱がアスファルトから吹き出てくるのがわかる。そしてそれと同時に人やガスの匂いが入り混じって鼻の奥をじんわり攻撃してくる。この瞬間がたまらなく僕を憂鬱にする。

いつもの蕎麦屋の、のれんをくぐると待っていましたと言わんばかりの笑顔で久坂部が待っていた。

「よう!今日もそばか!飽きないねー。」と店主と顔を合わせながらニコニコと笑ってちゃかした。そして久坂部がかけそばを2人前店主に頼むとこっちこっちと手招きしてくる。

隣まで行くと、急に「今日仕事帰り一杯どう?」と誘ってきた。予定はなかったが今日はあまり乗り気になれなかったのと早く帰りたかったので、謝罪をして断った。

久坂部はどことなく寂しそうな表情を見せたが、いつもの彼に戻るのに時間はかからなかった。

そばを食べて店を出ると彼は用事があると告げて会社とは違う方面へと歩き始めた。

その後ろ姿はなぜか蜃気楼のように淡く消えてしまいそうなほどぼやけて見えた。




第2章「風の音」

仕事を終えた僕はいつも通り最寄りの地下鉄まで歩いて向かう。僕の家は新宿から数駅ほど電車で行ったところにある。見た目は古いが内装はとても綺麗で気に入っている。ただ最近引っ越してきた隣の部屋の若い夫婦がよく夜中に喧嘩をしているのが聞こえてきて悪夢を見ることがしばしある。そこを除けばかなり条件のいい家だと思っている。とボーッとホームで電車がくるのを待っていると、突然アナウンスが流れた。「ただいま新宿駅にて人身事故が発生しました。しばらくの間運行を見合わせていただきます。」とのアナウンスだった。その次の瞬間ホームに溜まっていた人達がざわざわとし始めた。何かを訴えるように電話をする人や困った顔で頭をかきむしる人。なぜかその場にいるのが少し怖くなり改札を出た。

もちろん駅を出るとタクシー乗り場には長い行列ができていた。

しょうがないと思い、しばらく新宿方面へと歩き始めることにした。一度会社から新宿駅まで歩いてみたことがあるが、あれは本当に苦痛でしかなかった。でもあの駅で電車を待つ方が今の僕にとってはさらなる苦痛を味わうと思った。日は沈み始め昼間の熱が冷めていくアスファルトを感じ、寂しさと心細さを感じながら歩いていると、タクシーが僕の前でピタッと止まった。

窓から手が出てきて、こっちこっちと手招きをしている。その手の方へと駆け寄っていくと久坂部が険しい顔をして乗っていた。「いやー大変だね。」と彼が言いながら運転手に合図を送ってドアを開けてもらい、僕に乗るように促した。

僕はその彼の優しさに安心したのか今まで知らずに入っていた肩の力がすっと抜けたような気がした。

そうしてしばらく走っているとふと彼の昼間の用事について気になり昼はどこに行っていたのかを聞いてみた。

すると彼は難しい顔をして指を折り始めた。

「あっ!今日の昼食おごったんだからタクシー代はよろしくな!」

彼のその無邪気で純粋な眼は僕の財布の入った少し膨らんだポケットを見ていた。

その後は彼はまるで何かに取り付かれたかのようにしゃべることをやめなかった。

先に久坂部を降ろし、そのあと家の近くにあるコンビニでタクシーから降り夕食を調達し帰ることにした。雑誌に目を通し弁当とビールを2本買い会計を済ませ外に出ると、昼間には想像できないほどの暗闇がもう街を包んでいた。

足早に家へと向かう途中近所の大きな公園を抜けることで近道になるが、そこは夜になると人気がないため男の僕でさえ通るのを拒むほど不気味な場所になる。いや、僕は男だがきっとその手の話は人一倍苦手である。ただ今日は一刻も早くこの汗ばんだ体を洗い流したいために公園を抜けることを決意した。

しばらく歩いているとその公園が見えてきた。心臓の鼓動が公園に近づくたびに大きく激しく打つのを感じた。

入り口には白い看板に黒い字で公園での利用注意について書かれているが、ところどころ文字の一部が剥がれて読めなくなっている。

一歩公園に踏み込むと少しひんやりした空気が流れた。そして木々がざわざわと揺れるのが月明かりの影となって見える。

公園の中央付近に着くとうっすら白い影が見えるのがわかった。僕はその瞬間に足を止めて引き返そうか考えたが大人がそのようなものを信じ、あと一歩で家へ帰れるチャンスを逃すことを左脳が許さなかった。

徐々に大きくなってくる影ははっきりと人の形をした華奢な女性のものだった。頭の中では必死に情報を処理しているがまったく処理できずにいた。

考えながら歩いていると、ついにその女性が自分の横まで近づいていた。とりあえず眼は合わせないように下を向いて歩くように神経を使って歩いてみてるが、僕の目は自分の意識とは別に動いているのがわかった。そして次の瞬間その女性を見てしまっていることに気づく。そんな僕は気づくと筋肉が硬直して身動きが取れずにいた。

その硬直した時間から間もなくして今まで吹いていた風が徐々に弱まりはじめ木々の葉の間から月明かりに照らされた女性の顔が浮かび出された。その女性は真っ白な肌にサラサラとした髪をなびかせていた。

僕は時が止まるということをこの時初めて体感したのだった。

何秒だろうかほんの数秒沈黙が続いた後にその女性が口を開き僕に一言こういった。「こんばんは」

その時恐怖のあまりなぜか反射的に大きく深くお辞儀をしている自分にまた時が止まる感覚を覚えた。

しばらくしてクスクスと女性の方から笑い声が聞こえた。それは僕に恐怖や脅威を与えるような音ではなかった。小さく細く優しげな綺麗な声はしばらくの間、また少し吹き始めた風に乗って消えていった。




第3章「葉の名」

僕はゆっくりと顔を上げると小さな手で口を押さえながら目を細くして笑っている綺麗な女性がいた。

その時、持っていたコンビニ袋が手から離れていくことを一瞬遅れて気づく。

ガランガランとビールの缶が2本袋から飛び出した。また少し遅れて静かにその女性はしゃがみ込みビールを2本袋に入れ直し僕にそっと差し出す。その差し出された袋を受け取る瞬間にか細い小さな手に僕の震えた手が触れた。ほんのわずかではあったが暖かく柔らかい指先はどこか人懐こいそんな感覚が残った。

ありがとうと僕は一言いってまた少し沈黙が続いた。

しばらくして女性は肩まで伸びた髪をさっとかきあげ一礼して僕の前から去っていった。

しばらくその後ろ姿を見ていると正常に時が動き始めたことを確認し家へと向かう。

無事公園を抜け家に着き、さっそく汗ばんだ体をひとまずシャワーで洗い流し、その格好のまま冷蔵庫へと向かい、缶ビールを一気に飲み干す。

そして今日起こったことを振り返る。何てことない日常だったが少しいつもとは違う、なにかそんな感じがまだ僕の心臓が微かに覚えていた。


ピッピッピッピと朝6時にいつものように鳴り響く目覚まし時計。カーテンを開けると嫌気がさすぐらいのいい天気が僕を迎える。いつものように歯を磨き、朝食を軽く済ませて、また歯を磨き、身支度をする。家を出て昨日の夜の公園を抜けて駅へと向かう。日が出ている時のこの公園は幸せ一杯の空気が流れている。綺麗な細いウォーキングコースを歩いていると昨日、女性がいた場所に差し掛かる。そこはいつもと変わらない、ただの公園だった。

会社に着きコーヒーを飲みながら少し早めに仕事に取り掛かる。そう僕が仕事が嫌いではないもう一つの理由は仕事をしている時は無心になれるからだ。余計なものにとらわれず、与えられた仕事を黙々と片付けていく作業は僕には苦ではなかった。趣味である写真もその要素を含んでいるから好きなのだと思う。

また昼食5分前になると右脳がいつものように活動を始めて、蕎麦屋に行く、そして午後の仕事を終わらせて帰宅する。そんな毎日がまた戻ってきているのを感じた。

少し暗くなった頃に自宅の最寄駅に着く。気づくと昨日の帰り道と同じ公園の方へと歩いていた。公園の中央までくると僕は彼女がいないことを確認した。少し抱いていた期待は外れて、コンビニで買ってきたチューハイを近くのベンチに座り開けた。

徐々に暗くなる空は星がまるで今誕生したかのようにキラキラと木々の葉の間から見え隠れするように輝きだした。

少し心地よくなってきたところで携帯が鳴る。母からだった。心配性な母は週に一度は携帯に連絡が来て近況を探ってくる。そんな電話が僕は好きだった。

母との電話が終わりチューハイを潰し袋の中へ入れ家に向かって歩き始めた。

あの女性はこなかった。


それから二週間ほどが経った土曜日の夕方に近くの川へ写真を撮って帰える途中急な豪雨にみまわれた。

すぐ止むだろうと思い、本屋に入り本を二冊買って商店街を歩きながら一息休憩できそうな場所を探す。

商店街の裏道に入るとちょうど古びた喫茶店を見つけた。その店は地下に長く続く階段を降りたところにあった。

店内に入るとカランカランと来店ベルが鳴る。奥からは腰の曲がったおじいさんがゆっくりとこちらへ向かって歩いてきた。1人であることを察したのか、少し離れた位置から指をさし席を案内した。席に腰をかけるとオーダー票が置かれていて、僕はその意味を瞬時に理解した。こぢんまりとまとまった味のある、いいお店である。

僕は小さなメニュー表を手に取りブレンドコーヒーをオーダー票に記入しておじいさんがいるカウンターへと歩いて渡しに行った。

その時僕1人だと思っていた店内にはもう1人女性のお客さんがいた。ふとあちらが顔を上げ目があうと僕の心臓があの夜を思い出したかのように激しく打ち始めた。白い肌に肩まで伸びる綺麗な髪を僕の脳がしっかり記憶していた。

するとあちらがさっと立ってこちらへ歩いてきた。女性が僕の前に立ち目を丸くして僕の顔をまるで新種の動物でも発見したかのように下から上へ向かって見上げる。

すると急に「このまえの!」とビックリとしたトーンで僕を指差した。

彼女が僕を覚えていたことに少し嬉しくなりニコッと笑顔で会釈した。少しだけ立ち話をし、席へと向かう彼女の背中を見守った。僕も席へ戻り買ったばかりの本を手に取った時ドスンと前の席で何か重い鉄のようなものが席に投げられる、顔を上げると見知らぬカバンが置いてあった。さらに顔を上げると彼女がニコッとした様子で席へ向かって指をさしていた。僕は軽く縦に頭を振った。

しばらくして思い出したかのように僕はあの夜のことについて詳しく説明すると彼女はクスクスと笑っていた。

彼女があそこにいた理由を聞いてみると、しばらく悩んでこういった。「なんで星って人を惹きつけることができると思う?」僕は首を傾けた。彼女は残念という表情をして、ため息をついた。

コーヒーが冷めかけたその時思いついたというようなキラキラした目で彼女は僕に提案する。

「今からあそこに行こう」と彼女は僕にいった。

彼女は自分のコーヒーをさっと飲み、僕の買ったばかりのテーブルの上に置かれた本をカバンに投げ入れた。そして会計を当然のように僕に託して彼女は先に喫茶店を出て行った。

遅れて店を出るとそこにはもう彼女の姿はなくなっていた。

急いで公園へと向かう。空は先ほどまでの黒い雲が消え星が輝き始めていた。

公園に着くとベンチに座っている彼女を見つけた。足はぶらぶらと降り、落ち着きがなくどこか可愛らしくそしてあざとさも見受けられた。

すると彼女も僕を見つけこういった。

「みつけた。」先ほどの喫茶店での彼女の雰囲気とは変わり、初めて会った時の彼女を僕は思い出していた。そうして続けてこう言った。

「もうわかったよね?星を眺めたくなる理由。」

僕は夜空を見上げる。なんとなくその意味がわかった気がして頷いた。

すると今まで静寂に包まれていた公園が息をしたように風が吹き木々の枝は揺れ緑色の葉が地面に向かいゆっくり落ちていく。その葉のなかを彼女は楽しそうにくるくると回って踊った。

僕は聞く。君の名前は?





第4章「秘密の抜け道」


そう僕が彼女に名前を聞くと彼女は少し寂しそうにうつむいた。

「名前がわからないとあなたは不安?」そう呟く。

僕は少しだけ頷くとニコッと笑って彼女は「つばさ」と風の音に負けそうなほど小さな声でまた呟いた。その時の彼女は寂しそうな顔をしていたことをよく覚えている。なぜか僕はそんな彼女との間に果てしない距離を感じた。まるで今僕がいる場所と頭上に輝く星のような果てしない距離を。

僕は彼女の抱えている闇をほんの少し察することができた。なぜか僕の心は少しずつ今の公園の色に似てきている気がした。

つばさは大きなカバンから小さな手帳のようなものに何かを書いて僕にその紙を破って四つ折りにしてくれた。

するとつばさは「もう帰るね」と僕に伝え、また闇の中へと消えていった。彼女の後ろ姿はいつも色を変えながらなにかに溶け込もうとしているようにみえる。


その後ベンチに座りなぜか虚しさを暗い公園で息を潜めて殺した。

突然電話がなりだしたが今は誰とも話したくないそんな気分だった。

20秒ほど携帯が震えていた。


翌日朝起きると珍しく体調がそぐわない。しばらく様子を見たがよくならなかったので、会社に休むことを伝えた。部長は心配そうな声で僕を心配してくれた。

ただ熱があるとか気持ちが悪いとかではなく、身体がどんよりとした感じだった。日々のストレスもあったのかもしれないと思い今日一日ぐらい自分を甘やかそうと遠出をすることにした。カメラをケースに入れ財布と携帯を持って海の見える海岸へ向かうことにした。

その時昨日彼女からもらっていた手紙が床に落ちた。

僕はその紙を財布の中に入れて、朝食も食べず、歯も磨かず、身支度を適当に済ませ家を出た。

最近は忙しく遠出をすることがなかったため疲れた体とは裏腹に気分はよくなっていた。

いつもと違う街の風景は僕を違う世界へと連れて行ってくれるような気がした。

駅に着くととりあえず一番料金の高いボタンを押した。

会社を休んだ罪悪感のせいか、いつもの電車が少し緊張する。でも小さな秘密をもって旅に出る気分は悪くはなかった。1人のちっぽけな人生は生き方や見方を変えれば何色にも染まれることを実感できた気がした。

うとうとしている間に最終駅までたどり着く。そこはまだ僕の見たことのない世界だった。昨日の真っ黒な僕はいつしか目の前に広がる海の色のように鮮やかな青色に染まっている気がした。時間を忘れシャッターを切る僕はこのまま自分も写真と同じ動かない世界の住人になりたいとも思っていた。

適当に昼食を済ませて夕方になるのをただぼんやり待って帰った。定期的に心地よく揺れる電車の振動に眠気が襲ってきて気がつくと最寄り駅の近くだった。

今日は遠回りをして公園を通らず帰ることにした。そのとき携帯が鳴る。久坂部からだった。電話を取ると彼は「大丈夫か!」と僕に聞く。そういえば昨日から連絡を無視していたことに気がついた僕は元気であることを伝え謝罪をした。

家の前に着くと綺麗なクーラーボックスが玄関の前に置かれていた。そのクーラーボックスの中にはたくさんの食材と手紙がビニールに包まれて入っていた。

久坂部からだった。その手紙にはこう書かれていた。


「会社の人から体調不良で休んでいると聞き、少し心配になって様子を見に来ました。買い物に行くのが大変だろうと思い買い溜めしてきました。良かったら食べてください。」とそれだけだった。


僕にまた罪悪感が降り注ぎ、日常に戻る約束を自分と交わした。

翌日早めに職場に着くと社内の自動販売機でアイスコーヒーを買い、久坂部のデスクに「昨日はありがとう。」とメモ帳の切れ端に一筆記して買った缶コーヒーの下に置いた。

そして、その缶コーヒーの冷たさは僕を日常へとすんなり引き戻した。




第5章「休まる場所」

昼休みになると久坂部が現れご飯に誘ってくれた。今日は歩いて5分程にあるパン屋に行くことにした。

パン屋に着くとバターの香りが心地よく感じた。僕は二種類のパンとコーヒーを買いテラス席に移動して彼に最近起きた出来事について聞いてもらった。最初はニコニコと話を聞いていたが、話が進むと彼の顔から笑顔は消えていた。

全て話し終えると久坂部が一言「もうその女の人には会わないほうがいいと思う。何となくだけどそう思う。」と言ってきた。僕も薄々そんな気がしていた。きっと人を救えるほど僕は強くないし、なんせ臆病だ。

その後しばらく久坂部が今朝の電車で見た小人の話をしてくれた。やっぱり大切にしたいのはこんな日常なんだと確認をした。

パン屋を出て会社へと向かって歩いてる途中に彼は悲しげな顔でボソッと「人って難しいよな。」と呟いた。

その横顔は華やかな東京の街には似合わないものだった。

そして今日も一日中何事もなく過ぎる生活に満足し眠りについた。




第6章「壁の向こうに」

彼女に最後にあって一ヶ月が経とうとしていた。僕も彼女を忘れかけていた時、久坂部が昼食を誘ってきた。

少し外も涼しくなってきた季節のことである。

久坂部はいつもと違う様子で僕に話をした。彼には付き合って3年目の結婚を目前にした彼女がいた、その彼女が半年前に、余命を宣告されたと僕に打ち明けた。初めて聞いた事実に驚きとショックで言葉が出なかった。そしてなにしろ悔しかった。

僕は淡々と話す久坂部のことをじっと見つめることしかできなかった。

なぜ人の幸せを切実に願う人間がこんなにも残酷な仕打ちを受けなければいけないのかと。この半年間どんな思いでいたのか考えるだけで涙が次々と溢れた。

全てを話した後に彼は続けてこういった。

仕事辞めようかと思っているんだ。彼女の実家の近くにある病院へ一緒に行きたいんだ。彼女と最後までいたい。最後まで2人の幸せを築きたい。

その言葉は僕の小さな器には収まりきらない言葉だった。

しばらく沈黙が続くと久坂部は思い切った口調で「そろそろ戻るか」と僕の目を見てニコッと笑った。

この赤く腫れた目で見る彼は僕よりもはるかに大きい人間であることを思い知らされた。

仕事が終わり久坂部にメールを送った。

「今の君は見えない彼女との大きな壁を乗り越えようとしているのかもしれない、それなら僕も君との間にある高い壁を乗り越えてまたどこかで会いたい。そのときまで君たちを遠くから応援している」と精一杯の気持ちを乗せて送った。するとすぐに返事が来た。今週の日曜日良かったら買い物に付き合って欲しいという内容のメールであった。僕は快諾した。

当日彼はスーツを着て僕の前に現れた。行く場所は僕にはおのずとわかった。

目的の場所は大きな広い入り口で、周りにはいかにも高そうなアクセサリーが並んでいた。彼は堂々とその広い扉の向こうに入っていった。

僕もちょこんと彼の後に続いた。彼は大きなガラスケースに入ったいくつもの指輪の中から迷うことなく一つの指輪を選んで買った。その指輪は中央に大きなダイヤが組み込まれていてとても綺麗だったことを覚えている。

帰りに2人でハンバーガーを頬張りながら彼は自分の記憶をたどるように僕に今までの人生の失敗談を楽しくユーモアに溢れた言葉で僕に教えてくれた。

そして帰りの改札で彼は恥ずかしそうに「今日はありがとう。これからもよろしく」と頭を掻きながら照れ臭そうにいった。

人との間にはいくつもの高い壁があってそれをお互い同じ方向に同じ分だけ乗り越えるときっとそこには2人にしか見えない特別な景色が広がっているんだと思う。


そしてそれからしばらくして彼は静かに会社を辞めた。彼女のいる場所へと行ったのだ。あの指輪をどう渡したのかも知らないし、彼がこの先どう生活していくのかもわからない。そんなことは聞かなくても彼ならやっていけると僕は確信していた。




第7章「希望と失望」

街で買い物をしているとふと見覚えのある白い肌と綺麗な髪が目に入ってきた。その瞬間僕ははやくその場から立ち去りたかったが体がそうはさせてくれなかった。つばさっと声を出して呼んでみたが彼女は振り返らなかった。

そして彼女はどんどん僕から離れていく。まるで季節があっという間に過ぎていくように。

僕は少しだけ悲しくなったが、それと同時に解放されたのかと勝手に安心した。

買い物を済ませスーパーを出ると日が短くなったのを実感した。外は寒く街はクリスマス色に装飾されていた。帰り道公園を抜けて帰っていると奥から白い影がじっと空を見上げていた。その影が誰のものかはもうわかっていた。僕はその姿に見とれていた。その澄んだ瞳にはなにが写っているのだろうか。僕はおもわずカバンに入っていた一眼レフで彼女をとった。その瞬間フラッシュとともに彼女がこっちを見て歩いてくる。

「それって盗撮じゃないですか?」僕は慌てて誤解を解こうと自分の存在を彼女に説明した。

それを聞いても彼女は僕を忘れてしまっているようだった。僕はとっさに星が人を惹きつけるのはなんでだと思う?と聞いた。

彼女はクスクス笑って僕をまるで子供のように馬鹿にした。彼女は僕の知っている彼女でなくなっていた。

そして彼女はこう言った。「わかったわ。あなたは私のことを知っているのね。でも言っておくと私は記憶を持たないの。簡潔に言うとすぐ忘れてしまう脳なの」と言った。僕の頭は真っ白になった。

その時の僕と彼女との距離は前よりもずっと離れていくのを感じた。

記憶を持たないってどういうこと?と聞くと彼女は少し困った様子で話した。「私の脳は急に故障する時があるの。故障すると大部分の記憶が思い出せなくなるの親の顔も自分の名前も住んでる場所さえも。」その時、僕はバラバラな星のようなちりばめられた彼女との記憶が正座を表す線のように繋がり始めた。

しばらく口がふさがらない僕の姿を見ると彼女はごめんなさいと言って深々と頭を下げた。

僕は次に会う時にまた今日の記憶がなくなっていることを想像すると胸が痛かった。それは彼女が僕を忘れてしまう事への悲しさではないことだけは確かだった。

僕は少し考えて提案した。写真を撮ろう。

形に残っていればきっと思い出せることもあるかもしれないし、忘れないこともあるかもしれない。

それを聞いた彼女の目は少し嬉しそうだったが、迷っているようにも見えた。「あなたは前の私にとってどんな人だったのかな」

僕は続けて言った「僕は前の君にとって、きっと名前も知らない。通行人Aだったかもしれない。ただ君は僕の心の中を土足で侵入してきていろいろと困らせた人だ。僕は君を忘れることができない、もしかすると僕にとっては君は大切な人なのかもしれない」と言うと。

彼女はキョトンとした目で僕を見ていた。そして彼女は「もう少し前の私について聞かせて」

と言った。

彼女と近くのベンチに座り、初めて会った時のことや喫茶店での話を細かく説明した。その間彼女は目を輝かせながら僕の話を聞いてこう言った。「私ってあなたにそんなひどいことをしていたのね。ごめんなさい。」と少し冗談交じりに言うと、立ち上がって一礼して「ありがとうございます。私の記憶が続く限り毎晩この公園で星を見に来てもいいですか?きっとここにはなにかあると思うの。だから前の私も来ていたと思う。それがなにかをちょっと知りたいの。」と僕に言った。

僕は「もちろん。僕はここの公園の管理人でもないし君がここに来ることを拒否なんてできやしない、そして僕もここから見える星空が好きだ。それは君が教えてくれた。僕は君の今の記憶がなくなったとしてもここへき続けようと思っているよ。ここから見える空はきっと僕たちを大人にしてくれてるような気がするんだ。」と言った。

彼女は今にも降り積もりそうな少し湿気のある風に負けないようにと力一杯大きく深呼吸をしながら夜空を見上げた。その姿はとても美しく彼女のこの瞬間を収めたくなり、僕はカバンの中に入っているカメラを手に取ったが、その手は臆病な僕の気持ちを素直に表すかのように小刻みに震えていた。

希望は暗闇が作るもの。そして失望は光がつくるもの。そんな当たり前のような関係に僕は目をふさぎたくなる。



第8章「私へ」


ねぇ。

私の記憶はどこに行くの?

教えてお母さん。

私は「つばさ」と言う名前の人らしい。

私の頭は人よりもずっと特殊で忘れたいものも忘れたくないものも構わず消えていく設定になっているらしい。

それはある日、突然起きた事故がきっかけだった、まだその時私は16歳のだったと聞いている。

私は都内の私立高校に通う女子高生だった。勉強もそれなりにして、一つ年上の背の高いバスケ部の先輩と付き合っていた。毎日、授業が終われば、友達とお喋りをして時間を潰した。6時になると部活を終えて部室から出てくる先輩を待って一緒に帰った。

彼はとても仲間には慕われていていつも人の輪の中心にいるような人だった。それを少し離れたところから眺めているのが好きだった。私はこの生活がずっと続いて欲しいと心の底から願っていた。

彼と付き合って3ヶ月目の日のことだった。

いつものように彼と駅へ向かって歩いていた。いつもと違うのは彼を思って買った茶色いプレゼント袋に入った紺色のマフラーの柔らかく盛り上がったカバンだった。しばらくプレゼントをあげる機会を見計らっていると後ろから大きなエンジン音と共に凄まじい衝撃音がした。その時、自分の体が宙に浮かんでいるのがわかった。

地面に叩きつけられ薄れていく意識を堪えて前を見ると少し離れたところに彼が倒れていた。近くにはピンク色の包装紙で包まれた小さな箱が石ころのように転がっていた。

そのあとの記憶は病院のベッドで心配そうに私を見つめる人たちの顔だった。

その時にはもう親の顔すら覚えていない頭になっていたという。それからというもの私は誰とも話そうとはしなかった。今いる現実はきっと深く目を閉じていれば覚める悪夢だと思っていた。そんなある日、母がたくさん写真が詰まったアルバムを5冊ほど病院に持ってきてくれて私に見せた。そこには私が16年間母と父の間で幸せそうに成長していく姿が残されていた。自然と溢れる涙は私の0になった記憶にあったかい色が足されていた。そしてゆっくりと心が動き始めた。母はそんな私を見て「あなたはどうなってもお母さんにとって変わりはないの。また一つずつ家族のみんなと歩んでいきましょう」とまっすぐな声で語りかけた。

それから私は学校を休学してしばらくの間家事の手伝いをしながら、忘れた記憶を取り戻すように生活した。少しずつ元気を取り戻す私を見て母も父も喜んでいたようだった。

事故から半年が経とうとしていた頃、近所のスーパーへ買い物に向かう途中にひどいめまいと頭痛に見舞われた。気づくとそこはまた病院のベッドの上だった。目が覚めた私に白衣を着たおじさんが様々な質問をしてきたが、何一つ覚えていなかった。その様子を遠くから見ていた男の人と女の人が涙を流していた。そこからまた1からのスタートだった。というよりゼロに近い1だった。定期的に襲われる頭痛に気づくと消えている記憶は私をどこまでも深い深い海の底へと誘って行った。ただその度母と父が勇気をくれた。そのおかげで、泳いでも泳いでも海面には浮かび上がれないことを知りながら私はめげずにその手と足を休めることはなかった。

そんな症状ともうまく付き合っていくために私はいつも手帳を持ち歩いている。忘れたくないものをその手帳に書き込んで次の私にバトンを渡す作業をしながら生活している。

その手帳の1ページ目にはこう書かれている。

「たぶんどの私になっても今の私より次の私の方が魅力的であって欲しいって願うと思うの。だから強く生きて。その瞬間を。」




第9章「悲しみの果て」

冷えた体を温めるために僕は暖房をつけた。先ほどのことを思い出すことができないぐらい僕の脳は混乱していた。いくつもの複雑に絡まった紐をほどくように丁寧に一本一本解いていく。それが全て解けたのは朝方であった、ぼんやりと少し弱った日が出てくるのを横目で確認し眠りについた。


朝目覚めると外からしとしとと雨の音が聞こえてくる。それとほぼ同じくして携帯が鳴り響いた。久坂部からだった。急いで電話に出たが、その電話が意味する理由に僕は少し気づいていた。

「おう、久しぶりこうき。」力の抜けた声だった。

「久しぶり久坂部。」僕もそう言うとしばらく沈黙は続いた。

「仕事は順調か?」と久坂部が聞いてくる。僕は順調であることを彼に伝えた。

また少し沈黙が続く。

そして今日の早朝、彼女がなくなったことを彼は簡単に説明した。彼はボソッと「つらい。」とこぼした。本人が決めた運命であっても想像を超えて大切な人の死は彼を苦しめている。僕は何も言えないまま電話越からかすかに聞こえる久坂部の少し荒くなった息を静かに聞いた。

そう僕は彼のそんなに弱った姿を想像できなかった。そのとき僕は彼に会いに行くことを決めた。今日は日曜日で仕事もないければ外は雨でカメラを持って出かけることもできない。

彼に今住んでいる住所を聞いて飛ぶように彼の元へと向かうため家を出た。

いつもと同じ街は日曜日というのに人気は少なく僕の背中を押すように歩きやすく舗装してくれているような気がした。

彼のいる場所は新宿駅から大宮駅まで出てそこから新幹線で2時間ほど行った新潟県だ。

僕はすんなりと新宿まで出て大宮行きの切符を買い、電車に乗り込んだ。いつもとは違う電車の揺れと見慣れないシートの色に僕は不安な気持ちを上手に抑えることができずにいた。

大宮駅につくと弁当を買って新幹線の切符を窓口で購入し新幹線へと乗り込んだ。シートは心地よかったが、僕は落ち着きを取り戻すことができず新潟に着くまで眠りにつくことはなかった。

新潟駅につくと真っ白な雪が街に降り積もっていた。僕はタクシーを拾って彼の家へと向かった。街はすでに雪とともに人が活動をし始めた頃だった。

彼の住んでいるマンションにタクシーがつくと僕は料金を支払い、足早に彼の住んでいる部屋へと足を進めた。部屋の前まで着くとより一層不安な気持ちが襲ってきた。

僕が彼にしてあげられることなんてないことも知っていたし、うまい台詞なんか浮かんでもいなかった。ただ僕が上司からこっぴどく怒られた後や合コンの場で、お酒を飲みすぎてみんなを困らせた後には決まって彼は僕のそばで笑ってくれた。僕はそんな彼に幾度となく救われているのを知っている。震える指はインターホンを軽く押した。すぐに中から人がこちらに向かって歩いてきているのを感じ取った。ガチャッと鍵が開く音が廊下に響き渡り、扉から少しやつれた久坂部がニコッと笑ってこちらを見ていた。

「ようこそ」っといい持っていた僕のカバンを引き取り部屋へと入っていく。彼の部屋は物が少なくガランとした部屋だった。隅には彼女との写真が寂しげに飾ってあった。

久坂部が前に住んでいた東京の部屋はおしゃれなソファーにこげ茶色で統一されたテーブルと椅子があり、1人で見るには大きすぎるテレビを持っていて一言で言うとおしゃれな部屋だった。そんな彼の部屋とはまるで違ったこの部屋は、ここに来てからの彼の生活を物語っていた。

僕は小さな背の低いテーブルの前に腰を下ろすとしばらくして久坂部がインスタントコーヒーを作って持ってきてくれた。そのコーヒーは驚くほど濃く苦い味がし、思わず目をぎゅっとつむった。

「雪すごいだろ?」と久坂部が窓から見える外を眺めながら言った。

僕は彼と同じ方へ視線を向け頭をこくっと下げた。

すると小さな声で「まだ実感が湧かないだ。この数カ月毎日彼女に会いに行った。この先もずっとそんな毎日が続くと思っていた。いや、都合の悪い現実から毎日逃げながら生きていた。」というとコーヒーの入ったコップをすする。

こうなることはわかっていたのに彼はこの洞穴でじっと恐怖と戦いながら身を潜めていたのだろう。

彼女がいなくなったここは久坂部にとっていったいどんな場所なのか想像もつかなかった。

僕はひどく苦いコーヒーを一気に飲み干すと彼にこういった。「僕は君がここで必死にもがきながら生きていた時を知ることはできない。でも今君が生きていることは素直に嬉しく思っている。ありがとう。」と言うと。そんなぎこちない僕の言葉はこの部屋に張り詰めていた空気をすっと凛と澄んだ空間にした。それは彼が今まで抑えていた悲しみが涙となって綺麗に頬を伝って流れ落ちたからだったのかもしれない。

しばらくポツポツと静かな部屋に響き渡る音はいつしか僕の頬も暖かな思いで溢れ、それはまるで頼りない小さな打楽器のようにリビングに優しく響き渡った。

その時、僕は愛する人の死が残していくものはきっと苦痛でもなくて、絶望でもない気がした。それは残された人に突きつけられる茫漠としたこれから続く果てしない未来なのかもしれないと。



第10章「幸福の便り」

久坂部と簡単に昼食を取りに近くのファミリーレストランへ向かった。

雪は弱まっていたが凍えるような体は雪を踏みつける足音のように震えていた。その時間は僕にとって先ほどの名一杯張らせた目を冷やすにはちょうどよかったのかもしれない。

久坂部は頼んだサンドウィッチを食べ終えると彼は僕にこう伝えた。

「俺仕事辞めるときにお前に言う前に上司に理由を話したんだ。そうしたら何も言わず話を聞いてくれて肩をポンと叩いて「困ったらいつでも戻ってきなさい、私がなんとかしてあげる」って言ってくれたんだ。カッコ悪いけど色々片付いたら東京に戻ろうと思う。そしてまたこうきと何気ない日常を過ごしたいと思っている」と僕に打ち明けた。僕は嬉しさをこらえきれずに口元が緩んだ顔を引き締められず彼の目をじっと見つめて頷いた。

そうすると続けて彼は「きっとこのままここで止まっていたらあいつはきっと化けて俺の部屋に出てくると思う。それに俺もここへ長くいてはいけない気がしている。」と冗談交じりに言う。そう彼の強さはそのどこまでも飛んで行きそうなその軽やかな性格だったことを思い出した。必死に生きる彼女を見てだろうか彼はまた一回り大きくなっていた。またそれを僕は見せられ大きくなれそうな気がした。大きく果てしなく続く高い壁を超え彼の目の前に広がる景色はどんな風景が見えているのだろう。今の彼はきっとどこの漫画の主人公よりも屈強で頼りになるそんな人物に見えてしょうがなかった。

そこからは時間があっという間に過ぎて外は暗くなろうとしていた。帰ることを彼に伝えると僕に茶色い封筒を渡し、「今日はありがとう。おかげで自分を取り戻すことができたよ」といい駅へと向かって送ってくれた。

彼と別れるとその茶色い封筒に入っていた中身を確認した。そこにはいくつか重なり合う一万円札が入っていて、中には交通費と書かれた白い紙が入っていた。

僕はホームから見えるこの街の景色を思わず写真に収めた。そこは朝の景色とはまったく違った夜のくれる優しくて心休まる世界が広がっていた。

僕はホームの屋根が半分に切った空を眺めて、「がんばるよ」と一言つぶやいた。吐く息は白く雪が降っている夜空へと消えていった。その頃久坂部もきっとタクシーの窓から見える白く曇った空を眺めていたかもしれない。そんな気がしていた。



第11章「拝啓通行人Aさんへ」

夜が深くなった東京へと戻ってきた。朝降っていた雨は止んでいたが、星の輝きを遮るようにどこまでも続く厚い雲が東京の空を包んでいた。

僕には今日まだ、やらなければいけないことがあることを思い出し、公園へと走っていった。

公園に着くといつもと同じ場所に彼女はいた。彼女の周辺の時間は止まって、いつまでも時が動くことを許しはしない、そんな風に見えた。

ゆっくりと彼女のもとへと近づいてくいくと、彼女は「もう行かないで」とつぶやいた。それはきっと誰かに向かって発した言葉ではなかったと思う。

僕は彼女にこんばんはというと彼女が振り向いて笑った。その時、今まで静かだった空から冷たい雨がまるで僕らを目がけるかのように降ってきた。僕はとっさに彼女の手を握り屋根のあるベンチへと走って移動した。その時の彼女の手はひんやりと冷たく彼女がこの場にいた時間を肌で感じさせた。

屋根のあるベンチは僕らをそっと隠すように包んでくれた。

僕と彼女の手がまだ触れ合っていること、彼女が僕をじっと見つめていること、その両方を感じ、慌てて手を離した。

僕は恥ずかしくなり下を向いた。ひしひしと彼女の手の温度が僕の体へと巡っていくことはだいぶ後になって気づいた。

「ねぇまた昨日のように私に話を聞かせて」と彼女が言ってきたので、僕は思いつくだけの話を彼女にした。

どのぐらい時間が経っただろうか、東京の冬はこの時の僕の体温を下げることはできなかった。でもずっと彼女の唇が微かに震えるのを知っていた、が彼女は話をやめさせてくれなかった。

降り続く雨が僕たちの間にあった距離を少しずつ縮めてくれた。

しばらくして僕は傘を取りに帰ると言って彼女を置いて家へと向かおうと立ち上がった瞬間、小さな手が僕の裾をつかんで「まだいかないで」と言った。僕は立ち止まってすぐ戻ることを伝えて震える彼女をおいて公園を出た。

降り止むことを知らない雨は僕を濡らしてゆく。部屋に着くとダウンコートを一枚取り出し、2人分の傘を持って公園へと戻った。

彼女は身を丸くして僕の帰りを待っていた。傘とダウンコートを彼女に渡すと僕は彼女にもう帰るように伝えた。寂しそうに頷くと彼女はカバンから手紙を取り出し僕にくれた。

そして「ダウンコートは預かれないわ」というとコートを僕に突き返した。「もしかするともうここへは来れないかもしれない、そうなったらあなたは困るでしょう?」と言ったので、僕はもう着なくなったコートであることを彼女に告げると少し迷って彼女は肩へと大きめなコートをさっとかけて僕の方を見て嬉しそうに「どう似合うかな?」と言ってきた。僕はその瞬間幸せを心いっぱい感じた。

暗闇の中消えていく彼女の後ろ姿を見守り僕は家へと向かった。

彼女との別れは寂しさと不安で息を吸うことすら忘れてしまうほど辛いものに変わっていた。きっと僕は彼女に恋をしているのかもしれない。

そう思いを巡らせていると先ほど彼女からもらった手紙のことを思い出し、急いでポケットから手紙を出して読んだ。

その手紙はいかにも女の子が好きそうなキャラクターが印刷されている紙が3枚あった。

字はその紙の持ち主とは思えないほど綺麗な大人の字でこう書かれていた。


通行人Aさんへ

お元気ですか?もしかするとあなたに会えるのはこれで最後になってしまうかもしれません。

だからあなたに感謝の手紙を書きました。

一方的であなたを苦しめてしまうかもしれませんが、でも私はあなたの記憶からなくなりたくないと昨日の夜勝手に思いました。

それはきっと前の私があなたに大切にされていていたのを感じたからだと思います。いつまでも続くことのないこの生活は私を心細くさせますが、今の私にはあなたがいるので安心して眠りにつくことができます。

この公園から見える私が大好きな小さな星はまるであなたのようで、夜になると現れて「大丈夫だよ」って私を励ましてくれてるような顔をするの。

その星は次の日もまたその次の日も同じ顔で私に語りかけてきては、私に夢を見せてくれるように輝くの。

でもね、記憶がなくなった時、私はまたその星を探し当てられる自信がないのです。だからせめて次の私になった時に私もあなたも悲しまないように約束を取り付けてもいいですか?

約束はまたどこかの街で偶然私を見つけても私が知らんぷりした時はあなたは私を呼び止めないでください。

あなたは未来へ向かって歩いてください。もし約束が破られたら私はあなたを嫌いになります。

それができないので約束は守ってください。

でもどうか今の私を今後ともよろしくお願いします。


この手紙の内容はせめてもの僕へ向けた心遣いだったのだろう。だけど僕はその心遣いを素直に喜ぶことができなかった。むしろいっそ僕を寂しくさせた。

いつか来るであろう未来はどちらに転んでも僕を幸せにはさせないことを知り今日二度目の涙をこぼして眠った。




第12章「恋心」

朝目が覚めると昨日のどんよりとした空は元気を取り戻したかのように雲ひとつない天気に変わっていた。

寝癖のついたリンゴの絵のようにとんがった髪を水で流し、いつものように身支度を済ませ会社へと向かった。仕事はいつものように僕を無心にさせた。そして夜になると彼女と公園で時間を忘れるまで話して家へ帰り眠りにつく。そんな生活が一ヶ月ほど続いた日のことだった。僕はいつものように仕事が始まる前に男子トイレの鏡で身なりのチェックをしていると見覚えのある細身のスーツ姿の男性が視界に入る。いきなりの出来事にハッと息を吸い込む。その彼の瞳はまっすぐ僕を見ていた。そして僕は言う「おかえり」

また何か大切なものを取り戻したかのように僕の毎日に色がついた。

それからまた3ヶ月が過ぎようとしていた日のこと、僕はいつもと同じように仕事帰りに公園に通う。少しずつ暖かくなってゆく春の気温はつばさの服を色鮮やかにしていく。まるで桜の蕾が開花していくように日々色を変えて本来の自分の色を探し始めるように。

今日もたわいもない話を済ませいつものようにお互いが次の話を探す沈黙が続いた時だった。彼女が顔を赤く染めて思い切った表情でこういった。「もし今週末時間があるならデートに行きたい、あなたと。」

僕は素直に嬉しくて嬉しくてたまらなかった。

そしてそれからお互いの行きたい場所を提案して時が流れていった。彼女がボソッと海へ行きたいと言ったのを妙に僕の脳は覚えていた。

しかしふと考えるとデートなんかしばらくしていなかった頼りない僕が現実にいた。困って彼に電話をかける。「よう、こうき、お前から電話なんて珍しいな」といつものトーンで電話を出た彼に遠回しに時間があるかどうかを聞いて明日の仕事帰りに相談に乗ってもらうことした。僕はこれまでのつばさとの関係を久坂部に話していなかった。彼はきっと反対するだろうと思って少し不安になった。

翌日、2人でよく通った居酒屋に入ると彼がニコニコして「どうした?」と聞いてきたので、素直につばさとの今までの出来事を話した。彼は冷えたビールをゴクゴクと勢いよく飲むと一呼吸置いて「お前本気か?」と聞いてきた。僕は力強く「本気だ」と言うと困ったように僕を見つめて「わかったよ。協力してやる!」と声を張っていった。そうすると彼はケータイを取り出し誰かに電話をかけている。電話を切ると「オッケー!」といい紙へ何かを書き始めた。それは彼の知り合いの大手自動車メーカーで働く友人の電話番号だった。「こいつのところなら好きな車抑えてくれるってよ」といって紙を渡してくれた。僕はありがとうと頭を下げお礼をした。そして「いくか」と久坂部が言言うと入って間もない居酒屋のお勘定を済ませ近くの駅ビルへと入っていった。彼の後についていくと綺麗な内装の服屋の前で立ち止まった。ほらっと言うと彼は僕の背中をそっと押した。そういえばここ数年スーツ以外の服は買ったことがなかったことに気づいた。久しぶりに入る服屋はどことなくいい香りがした。そして店員さんのお勧めでコーディネートしてもらった服を一式買って店を出た。

小坂部は出てきた僕に「今日も待ってるんだろ?その子。早く行ってやれ」と僕に言う。

僕は彼にもう一度お礼をして最寄駅を目指した。服の入った袋を先に部屋に入れるために一度遠回りをして家へ帰った。

そしていつもの場所へ行くと彼女はす僕を待っていた。しばらく明後日に迫ったデートの話で盛り上がっていた、その時僕の手を何か暖かく柔らかなものが包んだ。右手を見ると彼女の小さな手が僕の手を握っていた。彼女は顔を真っ赤にして下を向いていた。僕はそんな彼女の手をしっかり握り返した。

恋心は人を純粋な生き物へと浄化し、火のついた心はいつしか自分の手では消せないことに気づくことに、このころの僕は知らないでいた。




第13章「親愛なるあなた」

デート当日僕は買ったばかりの服を身につけ綺麗な車に乗って待ち合わせの場所へと向かった。するとしばらくして携帯が鳴り響いた。父からだった。ここ数年父から電話が来たことなんてなかった、何か嫌な予感がした。

車を路肩に止め電話に出るとその悪い予感は的中した。父が「母さんが倒れた。意識が戻らない」と僕に告げた。僕の頭は走馬灯のように母との記憶を鮮明に蘇らせた。父にすぐに病院へと向かうと伝えて電話を切り、とりあえずつばさの待つ場所へ車を再び走らせた。

道が混んでいたので待ち合わせの時間を10分ほど過ぎて到着した。そこには彼女の姿はなかった。それから5分、10分と時間が過ぎてゆくのを車の時計を見つめながら待っていた。僕の心が恐ろしいほど震えているのを車のエンジンの揺れと同時に感じた。

そして待ち合わせ時間から30分が過ぎようとしていた時、僕は痺れかけた感情を抑えきれずアクセルを踏み母の元へと向かった。

僕の実家は東京からさほど離れていない静岡県にある。しかしこの時の東京から静岡の道のりは気が狂いそうなほど遠く感じた。

母のことはもちろん不安だったが、待ち合わせの場所に来なかったつばさのことも気になっていた。もしかするともう彼女は。と考えるとぎゅっと握りしめたハンドルが汗で濡れているのを知った。

途中渋滞にはまり病院に着いたのは電話を受けた3時間半後のことだった。

急いで受付で母のいる場所を聞いた瞬間に背中が凍った。ブルブル震える体は母のいる手術室野、前へ向かっていった。エレベーターを降りると突き当たりの椅子に座る男性が下をうつむきながら肩を震わせていた。それが父なのはすぐにわかったが、なぜそこにいるのか理解することができなかったのは、僕の脳がきっと壊れそうな僕に制御をかけているから、としか思えなかった。

父のそばに行くと父は僕を見て「母さん」と小さく呟いた。

父も僕と同じ壊れそうな心を一生懸命整理しているのかと思うと、なにも父に聞くことができなかった。

赤く光る手術中のランプがやけに僕を不安にさせた。

赤いランプが消えたのを確認したのはもう僕が疲弊しきって体の水分がなくなりかけていた6時間後のことであった。

運び出されてくる母の体には見たことのないチューブが数本体へと垂れ流されていた。

少しして医者が出てくると僕と父に向かい「ご家族の方ですか?なんとか命には別状のないところまで持ってきましたが、暫くの入院が必要です」とだけ伝え足早に母の向かっていった場所へ向かって歩いて去っていった。

また少しすると白衣を着た看護師が手術室から出てきて母のいる部屋へ案内してくれた。

母は病室で静かに眠りについていた。その姿を見て僕はパンパンになった胸の空気が少しずつ抜けていくのを感じた。

母は脳梗塞であったことを医者は僕たちにわかりやすく説明し、振り向きまた足早に去っていく先生の後ろ姿に父と僕は頭を下げて感謝をした。しばらくすると父が僕に「もう大丈夫だ。お前今日何か用事があったんじゃないか?」と僕に聞いてきた。そう今の僕は誰が見てもわかるぐらいのおしゃれな服を着ている。普段家に帰る時にこんなに着飾って帰ったことのない僕の姿は、鈍感な父でも何か僕が東京に置いてここへ来たことを感じ取っていた。

ぼくは「いいんだ。」とつぶやく。東京に置いてきたものは儚く僕の前から去っていったことを僕は知っていた。

今までのようにあの公園に彼女がもう現れることはないことも。


その日は母の隣で夜が来るまで父と2人で病室にいた。眠っている母に別れを告げて病室を出ると父が「母さんのことは俺に任せろ。今日は悪かったな。」と僕に心細そうに言った。

僕は横に顔を振るとそんな弱っている姿を見て「仕事頑張れよ」と告げて車へ向かっていった。僕にはその父の後ろ姿がなんとなく小さく見えた。

借りた車に乗り込むと僕は東京へと向かって車を出した。外は暗く静岡の空はなんとなく僕を懐かしくさせた。

そしてあの日の記憶が蘇る。



第14章「記憶の中の人」

僕は高校時代、実家から離れ都内にある私立学校に通っていた。

その頃はたまに母が手料理を持って下宿していた学校寮に来てくれた。

そのおかげで1人で暮す寂しさは少し紛らわすことができ、日々の生活を一生懸命過ごすことができた。

僕は勉強をするためにこの高校を選んだが、中学校からやっていたバスケットへの未練を抱え高校一年生の春強豪バスケット部の門を叩いた。毎年後輩に抜かされてレギュラーとして試合には出場することはなかったが、仲間たちといることが、そんな劣等感を拭っていた。そんな前向きな僕は副キャプテンとして任命され、みんなのことをまとめ上げる仕事に務めた。そして、その時のキャプテンは黒崎という名の背が高く、バスケの腕もピカイチ、勉強をさせても学年の常に上位にいるような秀才だった。彼は口下手な方で言葉ではなくプレーでみんなを鼓舞するような選手だったためにいつも最後のまとめ役として僕が力を発揮した。

そんなキャプテンの黒崎とは特に仲がよく昼休みになればよく中庭でご飯を食べてはくだらない話をしていた。

しかし黒崎は僕以外にもたくさんの友人がいていつも彼は多くの人といた。そんな周りの人間が少し邪魔だったことを覚えている。

そして僕たちにとって最後のシーズンが迫った頃だった。黒崎は1つ年下の女の子と付き合い始め、僕をまた寂しくさせた。その彼女はいつも部活が終わると部室の近くで隠れるように黒崎が出てくるのを待っていた。そんな日がしばらく続いたある日、僕の目の前で信じられない出来事が起こる。いつものように部活が終わり寮へ向かい帰っていると前には黒崎とその彼女が楽しそうに歩いていた。

それは幸せを人に見せつけるような子供じみた恋愛ではなかった。2人でなにか秘密を共有するように静かな時間を楽しんでいるように見えた。

僕はその時の2人の恋愛の成就を静かに見守ろうと、少し進んだ先にある脇道にそれようと思った。また僕と同じように夕焼けに染まった町も同じことを思ってか、僕らの周りには人の姿がなかった。

ちょうどその時、黒崎がカバンからゴソゴソと何かを取り出すのがわかった。その瞬間、凄まじいエンジン音とともに僕の横を車が走り抜けた。そして前にいた2人をまるでボーリングの球がピンを弾くように勢いよく弾き飛ばした。

それは映画のワンシーンのように激しくそして簡単に命を奪う音と人が宙を無気力に飛んでいる姿が目に飛び込んだ。

車が当たる時、黒崎が彼女をかばうように車と彼女の間に体を少し入れたのを僕は見逃さなかった。そのせいもあり、黒崎は彼女よりもはるか遠くに飛ばされ、頭からは血を流していた。

僕は手前にいた彼女に駆け寄ったが意識はなくぐったりとしていた。黒崎の方を見るとピンク色の包装紙で包まれた小さな箱が目に入った。急いで救急車を呼んだが、救急車が到着した時には彼の息はなかったという。

タンカーで運ばれる彼と彼女を前に僕は呆然と立っていることしかできなかった。

そして僕はその事故の直後ショックで食事が喉を通らず精神的にも限界を知って学校をしばらく休み、家へ帰った。

久しぶりに帰る家は僕を安心させた。母は詳しいことは聞かず、僕の好物を毎日作ってくれた。夕食を食べると僕は夜の外へと散歩に出かけるのが日課になっていた。その夜空は僕の心をしっかりと理解しているように静かに僕を見守ってくれているような気がした。

ゆっくり休めたおかげで無事残りの高校生活を送ることができた。

その後、黒崎といた彼女の命は助かったことを知ったが、学校には戻ってこなかったことをしばらくして後輩から聞いた。


あの頃救ってくれたこの変わらない優しい夜空は強く握ったハンドルを持つ僕の手を少し緩めてくれた。




第15章「春風のある場所」

僕が東京に着いたのは夜10時を過ぎた頃だった。高速を降りると僕は家へは帰らず、いつもの公園へと向かっていた。

公園の駐車場はがらんとしていて、モノ寂しそうに僕を迎え入れ、空に輝く星は寂しそうに僕を見つめていた。

今のこの場所は彼女と毎日会っていた頃とは全く別の姿をしていた。僕は長く続いた道を一歩一歩進んでは、彼女との思い出を思い出して1つずつ丁寧に記憶の奥へしまう作業をした。

公園の中央まで行くと目の前に映った光景に心は大きく揺れた。

そこにはつばさが桜の木の下でいつものように大好きな星を探すように夜空を見上げていた。いつものようにその綺麗な髪をなびかせ、白いワンピースの服は彼女をいっそ綺麗に見せた。

僕はしばらくその姿を見つめることしかできなかった。少しして彼女はふっと視線を下ろすと、僕の姿を見つけ、静かに涙をこぼした。

僕の体が先ほどまで膠着していた時を取り戻すように駆け足で彼女の元へと走って向かっていた。

そして僕は彼女を強く抱きしめた。彼女の涙は僕の服を通して暖かく伝わってくるのを感じ、少しだけ僕を安心させた。

彼女は小さく震えた声で「もうそろそろなの」と言う。僕はそんな彼女に「大丈夫、僕がついてる」とさらに力強く彼女を抱きしめた。

辛いとか苦しいとかという言葉では言い表すことのできない感情を僕は彼女の体を強く抱き締めて吐き出すことしかできなかった。

しばらくして「もう大丈夫」とつばさが言うと、力の入った僕の体をそっと押し、離れていった。そのあと僕たちは今日お互いにあったことを報告しあった。

彼女はデート直前に急な頭痛に襲われ恐怖のあまり外に出れなかったという。ただこれが頻繁に起きるようになると脳の故障が間近という合図らしい。悲しそうな顔でうつむいた姿を見て僕は提案した「今から海へ行こう。」

彼女はハッと僕の方を見つめ嬉しそうに頷いた。その彼女の目は僕の胸を優しくくすぐった。

僕は彼女の手を握ると車のある方へと向かって歩いた。

春の夜風は少しひんやりしてるが心地よさも持っていて、そんな心地よく儚げな風は今の僕たちに少し似ていた。そして過ぎてゆく季節をどうすることもできない僕たちは必死にその風を追いかけるように車を走らせた。

一時間ほど車を走らせたその時、山の間から暗闇に染まった海が顔をのぞかせた。つばさは少女のような目をしてその海を見ていたことを僕は横目で確認した。そしてずっとこの時が続くことを僕は強く願った。

砂浜のある海岸へと着くと僕たちは近くのコインパーキングに車を止め砂浜へと彼女を連れて歩いた。確実に近づく朝へと向かって。

彼女は急に僕を置いて駆け足で真っ暗な海へ向かって消えてゆく。その姿はもう彼女が僕の元へと戻ってこないような気がして不安になり、僕も彼女を追って走った。

砂浜は海の音と僕たちの足音だけを残していた。彼女は空を見上げて「星が綺麗」というといつもの星を指差す。「前はね、自分がまた記憶をなくした時にこの星を見つけられないって思っていたの。でも今はきっとどこへ行ってもあの星を探し当てられる気がする。あなたが私の前からいなくならない限り。」そう言うとつばさは「ねえ通行人Aさんあなたの名前を教えて」といってきた。僕は波音に後押しされるように名前を告げた。今までできるだけ彼女の記憶の中に存在しないようにしていた思いが、すっと消えていくのがわかった。

僕の人生にはきっと君が必要であることがわかったから、あの時の僕は君と写真を撮ることにしたんだと思う。

その写真は星に囲まれたシルエットだけを残した2人の幸せな瞬間をしっかりと収めていた。

今の僕らにはこれからも果てしなく続く壁が乗り越えられそうな気がしていた。



第16章「また会える日まで」

その砂浜で僕たちは朝が来るまで時を一緒にした。その日の、日の出は少しもやのかかった水平線上から新しい僕らの出発を祝うようにゆっくりと顔を出した。

日の出を見て僕たちはまた東京へ向かい車を走らせた。つばさを家の近くの交差点まで送り、僕は途中にあるコンビニで眠気を覚ますため、コーヒーを買った。

そして教えてもらったつばさのメールアドレスにメールを送った。


今日はありがとう。

無理をさせてしまったかな?

今日はゆっくり休んでください。

ではまた月曜日の夜にいつもの場所で会えることを楽しみにしています。



僕の人生は豊かになり始めようとしていた。


そして時が過ぎ、あれから彼女に目立った異変もないまま半年が経とうとしていた。

僕らはその半年の間に様々な場所へと出かけた。もちろん久坂部と3人で食事にも行った。

そして僕は彼女との記憶を色濃く残すため会うたびに数枚写真を撮って大きなアルバムへ納めた。だがそんな幸せな時間がこの先続くはずがなかった。アルバムが二冊目に入る頃のことだった。

会社帰り公園へと歩いて向かった。

しかし、いつもいるはずの木下には今日、つばさはいなかった。心配になりすぐに電話をするが繋がらない。僕は、彼女が来るのを信じ、どうしようもない不安と格闘しながら公園のベンチで待っていると、電話が鳴り響いた。それはつばさの電話番号からだった。急いで電話を取ると聞いたことのない男の人の声だった。その人が「私はつばさの父ですが、つばさのお友達ですか?」と尋ねてきたので、「はい」と答えるとその男の人が「申し上げございません。つばさは今電話に出られる状態ではないんです」と答える。

僕は訂正して、つばさの彼氏であることを正直に伝えると。つばさのお父さんが「そうだったんだね。君にはいろいろ感謝してるよ」といい。長い沈黙が続いた。しばらくすると沈黙を振り払うように、「もうつばさのことは忘れてほしい」と僕に言ってきた。

それ以上聞かなくてもその意味を僕は知っていた。何も言えずに電話が切れるのをただ待つしかなかった。

少し早く僕の心には冬がやってきて大切な人をいともたやすく連れ去っていった。

いや、僕は追いかけることもしなかった。

それは、つばさの周りには僕よりもつばさを愛おしく思っている人がいたかもしれないと感じてしまったからだ。

とても悲しかったが涙が出なかったのを何故か覚えている。しかし心はひび割れたガラスのように強い風が吹けば粉々になってしまいそうなことだけは確かだった。

僕は家へ帰った。

それからというもの僕の生活は荒れ果てていった。仕事から帰れば浴びるように酒を飲み今まで吸ったことのなかったタバコへも手を出した。職場では何もなかったかのように振舞っていた。そのストレスはそんなことでしか解消されなかった。いやそうして現実から逃げ回っていた。

そんな僕は久坂部との食事の約束も断り続け疎遠になりかけていた。

ある日いつものように家で酒を飲んでいるとインターホンがなる。玄関の前にいたのは久坂部だった。

僕は急いで荒れた部屋を簡単に片付けて、彼を部屋に入れた。

彼は何も言わず僕をじっと見つめていた。その目はそらしたくなるような怖い目で、いつもの久坂部とは違うことを感じた。

僕は恐ろしくなり「酒でも飲むか?」と彼に聞くと「お前には失望した」と久坂部が呟く。

そして続けて「お前はつばさちゃんも俺も裏切って自分の殻に閉じこもっているだけじゃないか、そんなに自分が可愛いか?」と聞くと、紙袋を僕に押し当てて「お前にとって一番大切にしたいものをもう一度考えろ」というと机の上にあったタバコの箱を手で潰し、ゴミ箱へ捨て、去っていった。

僕には彼が言った言葉を理解することは容易ではなかった。今の僕はまるで人間の皮膚をつけた、ただの人形にすぎなかったからだ。

僕はその色をなくした心を癒すために自動販売機へコーヒーを買いに外へ出た。自動販売機の光は僕を優しく照らしてくれた。しかしその光でさえ僕には眩しくてたまらなかった。

小銭を取り出そうと財布を取り出したその時、財布から紙が落ちた。なんとなく拾い上げると、それはつばさと出会って2回目の夜に渡された紙だった。ずっとその存在を忘れていたことに気づく。その紙はシワシワになっていて色は変色し化石のようだった。

僕はその紙を恐る恐る広げてみる、そこにはこう書かれていた。


あなたに出会えたこと

それはまるで夕方から夜へ変わるときキラキラ輝く一番星を見つけるぐらい。

風が吹く公園の木がたくさんの葉を地面へ向かって緑色の宝石を落とすぐらい。

夏になる前の風がワクワクする香りを乗っけてきてくれるぐらい。素敵なものでした。

私が私である限りきっとどんな私もまたあなたを求めてここへ来るでしょう。

またここで出会える日を願っています。


と書かれた紙だった。



最終章「恋の葉」

僕はその足で公園へと走って向かった。

この公園に来るのはあの時が最後だった。少し肌寒くなっていた公園は色を変えた葉を寂しそうに手放していた。

そして久坂部が言った言葉を思い返す、僕にとって大切なものは。

その時この公園で夜空を見上げ風に吹かれるつばさの姿が目に浮かんだ。僕にはとって大切なものは紛れもなく、つばさだったことを思い出した。

僕は公園に着くと、彼女を探した。いつもの木下、雨の日に僕らをそっと包んだベンチ、広く吹き抜けた広場、夜空を見上げ疲れた体を休むためによく座ったベンチ。

しかしどこを探しても彼女はいなかった。

僕は急いで家に帰ると、いつか彼女が来ることを願い、手紙を書いて彼女の残像を残した木の元へと行き、ひびが入った木の間に隠すように入れた。

そして僕は久坂部からもらった紙袋の中を見た。見覚えのある紙が数枚入っていた。

それは、つばさからだった。

その手紙は雨にさらされて文字が滲んでくすんでいるものや、風に強く吹かれて癖のついているものなどが無造作に袋の中に入っていた。

手紙に目を通すとそこには僕との出会いを感謝している内容で溢れていた、ただ彼女の記憶がなくなっていることもわかる文だった。

前の彼女のバトンがここへ来るように言ったのだろう。

日付が昨日のものがあった。その手紙だけいつものキャラクターがいない紙だった。



秋空高く、さわやかな毎日がつづきますがいかがお過ごしでしょうか?

私は毎晩ここへきてはあなたのことを待っていました。それは前の私が唯一今の私に残そうとした記憶だったからです。

でもあなたはここへはやってきませんでしたね。携帯の記憶も私と同じように気づくとまっさらな状態になっていたので、連絡がつきませんでした。

毎日隠すように手紙を置いて帰り、次の日になるとその手紙はなくなっていたので、あなたはここへきてるものだと思って毎日手紙を書き続けました。もしかするとあなたに嫌われてしまったのかと不安にもなりましたが、きっと新しい未来に向かって歩き出したことだろうと思っています。それならばいいのですが。

あなたのことを知れなかったのは少し残念です。でもこの公園はすこし怖いけど、なんだか居心地のいい場所で、何故か少し懐かしさも感じました。

そして急ですが、言わなければならないことがあります。私は明後日この東京から出て行くことが決まっています。私が暮らしやすいところを父と母が探してきてくれました。そこは東京とは違って人は少なく自然が豊かな場所です。

これが最後の手紙になると思います。

だから前の私があなたに残した言葉を書きます。


今の私は幸せ。

それはあなたがいるから。

いっぱいわがまま言ってごめんね。

毎日、公園に来てくれてありがとう。

大好きです。


前の私に幸せをくれたあなたに感謝しています。

私は前の私のためにも、こうきさんの幸せを遠くから願っています。どうかお元気で。



震える心を抱えて僕はそっと手紙をたたみ、窓から見える星空を眺めた。僕もきっと先の見えない道を歩き続けなくてはならないことをその手紙から感じ取って呟く。

「がんばるよ。」

そして僕は眠りについた。


つばさ編

私は今日もあなたがいそうな気がして公園へ向かった。

暗い公園は少し怖いけど、もしかするとあなたに会えるかもしれないという期待で怖さを吹き飛ばして歩く。

いつもの大きな木の隙間に隠した手紙は今日もなくなっていた。

しばらく木が揺れる音を聞いていると、どこか懐かしい香りがした。香りが漂っている先へと歩いていると、公園を誰かを探すように走っている男の人の影が目に入る。

私は慌ててその人の走って行く方へと追いかけたが、追いつくことができずに彼を見失った。それでもしばらく広い公園をさまよっていると月明かりが途絶えた木々の下へついた。夜空はなかなか顔を出さないし冷たい風が肌を刺すように吹く。

私はすぐその場から去ろうとしたが何故か懐かしい記憶が少し蘇る。「もしかすると前の私はここで彼を待ってたのね」と呟くと。近くに立っていた木に背中を優しく当てた。すると背中をちくっと何かが刺した気がして私は振り返った。そこには木のひび割れた隙間に白い手紙のような物が挟まっていることがわかった。そっと取り出すとそれはまだ新しいものだと気付き、その場で手紙を読んだ。

しばらくすると私は泣いていることに気づいた。もしかすると少しの間、前の私が戻ってきていたのかもしれない。

手紙を読み終えると私は家へ向かって歩いて帰える。

そう私の心のモヤモヤは手紙を読んでどこかに消えていた。


こうき編

それから冬を越えて気がつくと春になっていた。僕の部屋はがらんと物が何1つなくなっている。そう今日をもってこの部屋から出て行くことになっていた。日が沈みかけた寂しそうな部屋に頭を下げ、公園を抜け駅へと向かう。

この公園も新しく生まれ変わるために改装されることを入り口の看板が知らせていた。



あれから日常を取り戻すのに苦労したことをよく覚えている。

酒を絶ち毎日ジムへ通っては体を鍛え休日になれば公園を走った。

そんな少したくましくなった僕の体は1年前のひ弱な僕を思い返し、少し恥ずかしくさせた。

もちろんあれから、この公園には彼女がまた姿を表せることもなく、確かにゆっくり進む時間が少しずつ、僕の記憶からつばさの顔や声が消えていくことを知っていた。

公園の中央に差し掛かるといつもの木々の下で足を止めた。すると冷たい風に乗るように「星が人を惹きつける理由ってなんだと思う?」と聞こえ僕はハッとしたが、後ろを振り返らず、しばらく夜空を見上げ、また来る長く続く未来へ向かい歩み始めた。

この夜空の無数に輝く星は僕らを大人へと確かに成長させ、今日も僕のことを変わらず優しく見下ろしている。





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恋の葉 @taka1210

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