児童販売機

@0821

第1話

『児童販売機』            



「こんばんは。ニュース・クロスジャパンの時間がやってまいりました。今日、最初のニュースは、国会で法案が可決したクローン人間取扱基本法についてです。衆議院本会議で、クローン技術を使って作成した『クローン人間』について、社会における安全性が確保できるまでは基本的人権を認めないことなどを盛り込んだクローン人間取扱基本法が賛成多数で可決されました。来週、参議院でも審議が行われますが、今回の法案に反対する野党議員はほぼいないと見られているんですよね、黒川さん?」

「ええ。法案の作成段階から、すべての政党の人間が関わっているため、参院でも可決されるのは間違いないでしょう」

「そうなれば、早ければ今月中にも法案が成立しますが……。今回の件について黒川さんはどうお考えでしょうか」

「私は妥当な判断だと思いますよ。ご存知の通り、今年の3月に国際連合で、クローン人間に人権を認めないことを定めたフィッセンデ憲章が採択されました。これを受けて世界各国が同様の法案を次々と成立させています。イギリス、フランス、ドイツ、カナダ、イタリアなどの国で新しい制度がつくられ、アメリカでも一部の州を除き、法律が成立しました」

「先月にはロシアと韓国、今月に入ってからも中国が法律制定を決定したと発表しましたよね」

「ええ。先進主要国の中で態度を明らかにしていなかったのは日本だけです」

「日本はイギリスがクローン人間の作成に着手した段階で、研究には協力しない姿勢を表明していました。その後も、国内ではクローン人間の研究を一切行ってきませんでしたが……」

「それは確かにそうですが、これ以上意思表明を遅らせると、国際舞台で孤立する恐れがありました。桐山内閣は、賢明な判断を下したと言えるんじゃないでしょうか」

「ただ、一部の研究者や人権団体からは法律に反対する声があがり、ニューヨークやパリでは抗議活動が続いています」

「まあ、研究者と人権団体では、それぞれ反対の理由が大きく異なるので、一緒くたにはできないのですが。まずは、クローン人間誕生から現在までの経緯を整理する必要がありますね。こちらのフリップをご覧ください」

「クローン人間に関する出来事をまとめた年表ですね」

「はい、そうです。まず今から10年前の2019年に、イギリスのシューミット生物研究所が、世界で初めてクローン人間の作成に成功しました。このときは、20歳前後の白人男性の細胞を使ってつくられ、その4か月に白人女性のクローン作成にも成功しました。それぞれの固体は、『アダム』と『イブ』と名づけられ、現在もシューミット生物研究所で管理されています」

「その翌年には、2人の生殖活動に取り掛かったわけですね」

「はい。『アダム』『イブ』ともに、この時点では健康状態について不安な点は見つかっていなかったので、シューミット生物研究所はアメリカのハミルトン大学の研究チームと協力して、二人の子どもをつくる研究をスタートさせました。と同時に、オットルネ大学のホークス博士とともに、未成人型のクローン作成にも着手していきました」

「どちらの研究も始めた当初は順調に進んでいるように思えたのですが」

「ええ。『イブ』は2021年の秋に子どもを宿し、翌2022年には出産しました。しかし生まれた子どもは、当初から運動機能に問題があり、言葉の習得も一向に進みませんでした」

「ええ」

「そして、誕生からわずか3年半で亡くなりました」

「その原因は、まだ解明されていませんよね」

「はい。他国の研究チームも加わって調査を進めていますが、未だはっきりとした答えは得られていません。この後、『アダム』と『イブ』以外の成人型クローンが誕生し、彼らで実験を行ってみても、やはりうまくいきませんでした」

「となると、クローン人間全員に共通する、何かしらの問題があると考えるのが自然ではないでしょうか」

「まあ、そうですね……。この場で断言するのは、なかなか難しいですが。少なくとも彼らは、研究所の検査では体質異常などは見つかっておらず、健康そのものなんです。IQも90~100で安定していますし。ですから、イギリスやアメリカの研究機関は、クローン人間の社会性や行動を調査し、問題ないことが確認できたら、一般社会の中に少しずつ溶け込ませようとしました。それが2024年あたりからです」

「未成年型クローンの作成も順調に進んでいましたよね」

「ええ、15歳、10歳、5歳と少しずつ年齢を下げながら、男女ともに成功させていきました。そのどれもが身体能力、知能、性格テストともに結果は正常だったため、政府や研究機関も、彼らを一般社会の中で少しずつ生活させる方向に舵を切ったわけですが……」

「はい……」

「結果として、この段階での調査が不十分だったというか、もっと時間をかけるべきだったのでしょう」

「本当にそうですね。ここで、過去に起きた事件を改めて紹介します。こちらの写真を御覧ください。最初の事件が起きたのは2024年12月、アメリカ・イリノイ州南部にある、この教会でした。ハミルトン大学の研究所で生活していたクローン人間・男性・成人型・名称『カイン』は、社会行動調査の一環として、町の教会で行われる集会の見学に連れて行かれました。事件当時、教会では特に警官が警備を強化するなどということはなかったんですよね」

「ええ、そうだと思います。『カイン』は、『アダム』から数えて5人目の成人型クローンです。当時、男女合わせて10人近くいた成人型クローンの中でも最も温厚な性格で、心理テストや行動テストでも暴力的な兆候は全くと言っていいほど見られなかったわけですから、無理もないでしょう」

「しかし、そんな『カイン』が銃を乱射し、教会にいた市民87名全員を射殺。そして警察が駆けつけたところで、『カイン』は自ら銃を口でくわえて引き金をひき、命を断ちました」

「ですから、事件の動機などはまったく解明されていません。アメリカ政府は、『カイン』の遺体を解剖して原因を究明しようとしていますが、今日まで特に発表はありません。この事件は動機以外にも、不可解な点がいくつか残されています。たとえば、『カイン』が使用した銃です。彼はこの教会に入る段階では、持ち物は何も持っていなかった。それは、教会の入口付近に設置されていた監視カメラで確認されています。しかし、集会が始まってから30分ほど経ったところで、彼はトイレに行き、そこから礼拝堂に戻る様子が廊下の監視カメラに映っていたのですが、そのときには銃を手にしていました」

「この銃は、教会が保管しているものではないんですよね」

「ええ。彼が使用したのは最新型の散弾銃で、教会にそんなものを置いてませんし、教会関係者の持ち物でもないことが捜査で明らかになっています。『カイン』は一体どこから入手したのか? それに、弾の数も大きな謎です。彼は教会に来ていた人たちを殺害するために、100発近くの弾を使いました。それだけ大量の弾丸をいつ、どこで準備したのか。このあたりの謎については、FBIが捜査を続けていますが、未だ真相は闇の中です。とにもかくにも、このイリノイ州の事件で、クローン人間に対する世界の見方は大きく変わりました」

「この事件のすぐ後に、今度はイギリスの研究所で事件が起きましたよね」

「ええ。実験中に突然、女性の成人型クローンが職員に襲い掛かりました。幸い命に別状はなかったものの、腕や肋骨など数箇所を骨折するという事態になりました。そして、その1年後に起きたのが、シカゴの小学校が被害に遭った放火事件です」

「あれも本当に衝撃的というか……。私も最初にニュースの真相を聞いたときは、『まさか!』と思いましたからね」

「ええ、私も同じ気持ちでした。児童・教員を含め150人以上の死傷者を出した火事が発生して数時間後に、3人の子どもたちが警察署にやって来ました。『ぼくたちが火をつけました』と」

「それが、未成人型クローンたちだったんですよね」

「ええ」

「それについても、また疑問が出てきますよね。あの放火事件が起きる前の時点で、すでにクローン人間を研究所の外に出すことは禁止されていて、放火と考えられている未成人型クローンたちも、政府の管理下に置かれていたはず。どうやって、研究所を抜け出したんでしょうか」

「それも未だ不明です。しかし、彼らの証言や持っていたもの、周囲の目撃証言などを総合的に判断し、アメリカ政府は、彼らが校舎に火をつけたと発表しました」

「この事件を機に、クローン人間反対派が一気に増えましたよね。それまで目立った活動はなかった日本でも街頭活動が活発になり、一時は市民団体が国会周辺を取り囲むこともありました。東京大学や京都大学の科学者を中心とした有志連合は、研究停止を求める意見書を国連に提出しましたし」

「そうですね。やはり、多くの子どもが犠牲になったことで、趨勢が決まった観はありますよね」

「この事件を受けて、国連でもクローン人間管理委員会が発足されて、フィッセンデ憲章が採択されました。そして、ついに日本でも規制法案の成立が見えてきた。_________黒川さん、この問題は今後、どう展開していくというか、私たちはどう向き合っていけばいいのでしょうか」

「そうですね……。非常に難しいですが、まず大前提として、クローン人間たちの行動や精神面について安全が確保されるまでは、研究所の外に出すことは決してできないでしょう」

「今も、『アダム』と『イブ』はイギリスで、その他のクローン人間はアメリカのマサチューセッツ州にあるグリン・グロット国立研究所で一括管理されています。一部の市民団体や宗教団体は、『神の摂理に反する。今すぐ研究をやめて、クローン人間は全員処分すべきだ』と主張していますが、この意見に対して、黒川さんはどうお考えでしょうか」

「確かに、今日紹介した事件の中でも多くの方々が犠牲になっており、遺族の心情を考えると、そのような意見が出てくるのも無理はないと思います」

「ええ」

「ただ、このクローン技術自体は非常に高度なものであり、今後、医療分野などへのさらなる応用も期待されています。そのような面において、現在生存するクローン人間たちも、何らかの役に立つかもしれない。これまでは科学技術の進歩を焦るあまり、それを法律でどう制御し、社会の発展に結びつけるかという視点がいささか欠けていたように思います。今日の国会で、まずは基本的なルールの枠組みづくりに目処がついたわけです。今後さらにケースごとに細かい対処方法などを検討し、明文化していくことで、より良い形が少しずつ見えてくるのではないでしょうか」




『研究をやめろ! ただちにやめろ!』

『クローン人間を破棄せよ!』

『シカゴの悲劇を繰り返すな!』

 テレビ画面には、研究所の正門につめよる群集が映し出されている。年齢や人種はさまざま。10代と思しき若者もいれば白髪の老人も。白人や黒人、アジア系も確認できる。どの顔も憤怒に満ち溢れ、「STОP」「TABОО」などと書かれたプラカードを振りかざしている。

「……」

「何を見ているの?」

「アメリカのニュース。マサチューセッツにある研究所の前で抗議活動がまだ続いているみたいだよ。おれはいつも不思議なんだけど、抗議活動をしている連中は何の仕事をしているんだろ? 平日の昼間だっていうのに、よく時間があるよな」

「学生とかNPО団体じゃないの? ああいうのに資金援助するセレブ連中が、アメリカにはいるみたいよ」

「余っているお金があるなら、こっちに回してほしい。クローンの研究は金がかかるんだぜ。それにしても、アメリカはどうするんだろうな。イギリスも。まさか、市民の抗議に屈して、貴重なクローンを処分するってことはないだろうけど。捨てるんなら、うちにくれよ。『カイン』はもうこの世にはいないけど、同時期に生成された『アベル』に興味があるな。徹底的に調べてみたい」

「無駄口叩いてる暇があるの? 来月には中間発表なのよ」

「わかっているよ。今、ラボに検査を頼んでいるんだ。その結果が出れば、次のステップに進める」

「ならいいけど」

「一応、文科省からの許可もほしいんだけど。後になって『許可は出していない』なんて言われたら困るから。そこんとこ、どうなの?」

「催促はしている。でも、当分は国会対策で忙しいでしょ」

「そう言えば、クローン人間の規正法案が決まったらしいね。まあ、おれたちからすれば、概要を聞いているだけで笑っちゃうけど」

「桐山首相は、目に見える成果がほしかったんでしょ」

「だろうね。支持率ダウンが止まらないらしいから」

「私たちとしても、今の政権が続いてくれたほうがいいじゃない。また民主党が与党になって、引っ掻き回されるよりは100倍マシ。あいつらのせいで、3年は遅れをとっちゃった」

「確かに。とりあえず、あっちはあっち。こっちはこっち。おれたちのするべきことを粛々と進めるだけさ」

「それがわかっているなら、1日も早くデータベースを完成させてね。ほかのところに遅れをとりたくないの」

「ОK、任せてよ。期待してて」




「_______との要望を受け、日本政府は、米に対する関税の一部撤廃を検討する見通しを明らかにしました。

 では、次のニュースです。

 警察庁は先月、今年度の警察白書を発表し、その中で未成年を狙う犯罪、特に15歳以下の少女を狙う犯罪が10年前に比べ、2.5倍以上増えていると発表しました。

 各地の警察署では自治体や教育機関と連携し、登下校での見守り、街中や商業施設での監視カメラの設置、GPS機能を搭載した高精度防犯ブザーの配布などの対策を数年前から実施していますが、効果はあまり上がらず、犯罪件数は年々上昇傾向にあります。

 この事態を重く見た警察庁は、アメリカの児童救護対策チーム・通称『NCC』と連携して、今後の犯罪防止策を考えることを発表しました」




 五月晴れ、午後2時30分。

 栗田武則は、会社から歩いて30分以上かかる公園で、少し遅い昼休みをとっていた。コンビニで買ったサンドイッチはとっくに平らげた。昔から少食で、そろそろ30代も後半に差しかかろうとしているのに、肥満の心配だけはしたことがない。

「ふぅ~」

 ベンチに座り、足を伸ばしながら、携帯電話をいじる。

いや、いじる振りをしているだけ。

栗田の視線は、携帯電話の画面に映し出されているニュースやネット広告ではなく、もっと先に向けられていた。

 この公園の近くには幼稚園や小学校があり、時間帯によっては子どもたちがブランコやジャングルジムで遊んでいる。今日は学校が早く終わったのか、4人の女の子たちがブランコで遊んでいる。全員、小学1、2年生くらいだろうか。

「ねえ、ゆきちゃん、次、わたし!」

「ちょっと待って。まだ途中なんだから」

「ランドセルに土がついているし。きたない!」

「あ~、本当だ」

 彼女たちが遊び始めたときから、栗田の視線はそちらに吸い寄せられていた。今日は今年最初の夏日。彼女たちは皆、薄着だ。

 半袖のポロシャツから伸びる、細くて白い腕。

 陽光を浴びて茶色に輝く髪。

 ブランコを仰ぐたびにTシャツが少しめくれ、おへその辺りが見え隠れする。

 その姿に目を奪われていると、不意にひとりが、こちらへ顔を向けた。

 _________ やばい!

 栗田は顔を伏せ、携帯電話をいじる振りをする。背中と脇の下に、いやな汗がフツフツと沸いてくる。

 少女はすぐに顔を戻した。どうやら、ベンチの後ろにある時計を確認しただけのようだ。

「ねえ、みーちゃん。ピアノの教室って何時から?」

「5時。なんで?」

「あのね、お母さんがね」

栗田はほっと胸をなでおろし、ベンチを立つ。

 午後の会議時間が近づいていた。




「___での船内業務を終えた一条宇宙飛行士は、来月末に地球に帰還する予定です。

 では、次のニュースです。

 アメリカのディフィレンチ研究センターが、小児性愛者には脳内物質の分泌に関して特殊な変化が見られることを科学雑誌『human』で発表しました。

同研究センターの生理学研究チームは、ニューメキシコ州のバーミロ第3刑務所で、未成年の女性を襲った罪で収監されている受刑者計145人に検査を行ったところ、97人に異常な脳内物質が検出されました。これは、『P・∂・コムチロン』という脳内物質で、普通の人間にはほとんど見られないものです。しかし97人の受刑者は、この脳内物質の数値が一般人の平均値よりも10倍以上高く、彼らの犯罪行為に何らかの影響を与えていると考えられます。

 その一方で、残りの48人の受刑者には、同じような特徴は見られず、研究チームは今後ほかの州の警察とも連携し、さらに調査を進めていく模様です」




 栗田はアパートで夕食を済ませると、缶ビールを持って、パソコンを置いてある部屋へ。パソコンのスイッチを入れ、すぐにあるフォルダをクリックする。

『顔を近づけてください』

 このフォルダを開くときだけ、顔認証システムを活用している。当初はパスワードを設定して中の情報を守っていたが、もはやそれだけでは安心できない。

 _________間違っても、この中を見られちゃだめだ。命をかけて守らなきゃいけない。

 栗田は汗でべとついた顔を画面に近づける。と、すぐに『本人確認が済みました』との表示が出され、フォルダが開く。その中には無数の写真ファイルが保存されている。写っているのは、すべて少女。自分より20歳以上若く、ランドセルを背負って写っている写真も多い。全部で何枚入っているのか。

 ________1000枚? 2000枚? いや、もっとか。

 それぞれの写真ファイルには、それを入手した日付がつけられている。最も古いものは10年以上も昔。大学生の頃から集め始めた。

 栗田はマウスを操り、写真ファイルを次々と開いていく。もう何百回も見た写真。それなのに、栗田の心を癒してくれる。会社にいるどの女性と話しても、同じようなやすらぎは得られない。どんなきれいな顔立ちをしていても、目元の皴が、肌の黒ずみが少しでも目につくと、途端に気持ちが醒める。

「グビッ」

 缶ビールで喉を潤している間も、視線はパソコンに釘付け。自分を見つめる少女たちの笑顔。そのあどけない表情が、数日前に会社近くの公園で遊んでいた少女たちと重なる。

 __________あのまま歳をとらなければいいのに。

 自分の願いは決して叶わないことを知りながらも、そう思わずにはいられなかった。




「先月、神奈川県相模原市に住む小学3年生・片桐愛羅ちゃんが殺害された事件で、神奈川県警は相模原市に住む大伴信次容疑者(32歳)を逮捕しました。大伴容疑者は、学校から下校帰りのルートで愛羅ちゃんを誘拐し、自宅アパートへ連れ込んだと見られています。大伴氏は、この学校周辺でたびたび目撃されていました。

 警察が大伴容疑者のアパートを家宅捜索したところ、大量のポルノ雑誌やアダルトゲームが見つかっています。さらに、小学校の生徒を撮影したと見られる写真も、大量に発見されました。

 今回の事件を受けて、相模原教育委員会は、登下校時の警備をさらに強化し、子どもたちが使う主なルートに設置する監視カメラを増やすことを自治体と検討すると発表しました」




「いらっしゃいませ~」

 金髪で長髪の店員は、店に入ってきた栗田をチラッと見ただけで、すぐにラベル貼りの作業を再開した。

 栗田はマスクをつまんで鼻の上に上げ、俯きながらに店の奥へと入っていく。店の広さはコンビニ程度。決して広いとは言えない店内に黒い本棚が所狭しと並べられている。

 山形書店。

 ダチョウブックス。

 KPP。

 もみじ社。

 ペコリン・ガールズ。

 モンブラン出版。

 この店のマンガは、出版社ごとに並べられている。

 栗田はお目当てのマンガを目指し、店の奥に進む。客が通るスペースは、せいぜい幅1メートル程度。立ち読みに没頭している客も多いため、なおのこと通りにくい。客は全員男。年齢層はさまざまだ。中学生らしき少年もいれば、髪のほとんどが白くなっている初老の男もいる。互いに顔を合わせようとはしない。それが暗黙のルールだ。

 栗田は、お目当てのマンガを見つけると、素早く本棚から取り出す。そのほかにも平積みされている作品の中から気に入ったものをいくつか選び出し、カゴの中に入れる。どれもかわいらしい少女たちが主人公。満面の笑顔で微笑みかけてくる子もいれば、涙目でジッと見つめてくる子もいる。そのどれもが愛おしい。

 顔を上げると、「自分」と目が合う。万引き対策として、天井に備え付けられている鏡。そこに自分が写っていた。顔の下半分がマスクが覆われているが、明らかに目が笑っている。

「合計で2、589円です。ポイントカードはございますか」

 レジの店員に尋ねられ、栗田は無言で首を横に振る。

 店員はマンガの内容が他の人にわからないよう、黒いビニール袋に入れてくれる。だが、栗田はそれでも安心できず、すぐに自分のバックの中に押し込む。

「ありがとうございました~」

 自動ドアを出ると、反射的に左右を見渡す。

 夕暮れの5時。店の前の通りに人影は少なかった。ホッとしながらも、足早に店を離れる。

 __________ ここにいるのを知り合いに見られたら……。

 そう思うと、グズグズしていられなかった。急いで駅に向かう。マンガも早く読みたかった。

 インターネットで購入すればいいのに。

 自分でもそう思うし、これまでは、所有しているDVDやマンガの8割以上はネットで注文していた。だが、最近はそれを控えるようにしている。同じような趣味を持つ者たちが集まるSNSで、去年の11月頃から何でも話題に上がっていることがある。

 ″購入履歴が警察に流れている。奴らが秘かに規定している成人向けマンガやアニメを多数購入した場合、警察の監視対象になる“

 _________ そんなことがあるもんか!

 しかし、最近の動向を見ていると、あながちデマだと思えない。街のあちこちに監視カメラが設置されている。学校の近くでは、警備員やPTA役員らしき母親たちがにらみを利かしている。栗田が、小学校の正門の前を通り過ぎただけでも、厳しい視線を向けてくる母親たちもいた。

 子ども、特に幼い女の子を狙った犯罪が年々増えていることは、栗田もニュースを見て知っていた。しかし……、

 _________ おれはちがう。そんなことをするもんか。小学生の女の子を家に連れ込むなんて。

 駅に向かう途中、交番があった。若い制服警官が背筋を伸ばして立っている。栗田は思わず目を逸らす。歩くスピードが速まる。

 _________ もし、今ここで「バックの中身を見せろ」と言われたら……。

 交番から目を逸らし続けて、駅のほうに急ぐ。

交番との距離が10メートル以上離れたところで、肩越しに後ろを見る。若い警官は老婦と話している。道でも聞かれているのだろう。

 栗田はそれ以降、一度も後ろを振り向かずに駅へ向かった。カバンの中身が妙に重く感じられた。




「東京GXテレビ、9時のニュースをお伝えします。

 東京都は文科省と協議し、現在の児童ポルノ禁止法をさらに強化した特別法を、条例として制定することを決めました。

 具体的には、2025年に定められた出版物や映像作品に対する規制条項に、さらに10個の条項を追加することになりました。これにより、現在、一部のコンビニや書店に置かれている成人向けマンガ雑誌などは、ほぼすべて撤去されることになります。今後、児童ポルノ禁止法に抵触するマンガやアニメ、雑誌の制作及び販売、流通に関わった出版社や書店、卸業者などには業務停止や禁固刑が科せられる見通しです。

 今回の法改正に対して、一部のマンガ家や出版社は反対を訴え、『女性や児童を狙った犯罪の原因を出版物やアニメ作品に求めるのはあまりにも短絡的だ』と主張しています。映画監督の呉屋六郎氏が代表理事を務める『芸術表現を守る会』は抗議文書を作成し、文科省と都庁に提出すると発表しています。

 では、次のニュースです。東京都東村山市にある下水処理場が今日、100年の歴史に幕を閉じ……」




「こんばんは。ニュース・ワールドタイムの時間がやってまいりました。今日最初にお伝えするのは、アメリカの一部の州が、ポルノ関連情報サイトへのアクセスを全面禁止したニュースについてです。解説員としては、アメリカの犯罪史を専門とする龍銘館大学の相沢俊樹先生にお来しいただきました。相沢先生、今日はよろしくお願いします」

「こちらこそ、よろしくお願いします」

「早速ですが、アメリカの一部の州、具体的にはイリノイ州やオレゴン州、カリフォルニア州などが、児童ポルノに関連するサイトに一切アクセスできないようにしました。これは、それぞれの州に暮らすすべての人が対象ということですよね」

「はい、そうです。これまで、こういうサイトに関しては、年齢制限を設けるのが一般的でした。学校や図書館にあるパソコン、児童に配布しているタブレット端末などでは、そもそも有害サイトにアクセスできないようプログラムされています。しかし、これらはあくまでも未成年者が対象であり、成人の男性には適用されませんでした」

「それが今後は、すべての人に適用される?」

「そうです。背景には、これらの州で児童を狙った犯罪が多発しているという現状があります。アメリカは、ある意味、児童を狙った犯罪の対策に関しては世界で最も進んだ国であり、先進的な取り組みを次々と実施しています。その最も代表的な方法が、刑務所から出所した元受刑者にGPS機能を搭載した装置の装着を義務付けたことです。もし彼らが子どもがたくさんいる学校や公園、プール、ショッピングモールなどに近づけは、それだけで付近の警察署のブザーが鳴り、警官がただちに現場へ向かうシステムが確立されています」

「日本の警察庁も、アメリカの警察と会議を行い、早ければ来年にもこのシステムを導入するそうですね」

「ええ。犯罪を抑止するために、一日も早く導入すべきでしょう。このシステムは年々精度が高まっていて、今ではブザーが鳴って5分足らずで、警察官が現場に到着できるようになっているらしいです。それに、最近、アメリカの10代の子どもたちは外出時にHBバッジというものを付けているんです」

「それはどういうものなんでしょうか」

「簡単に言えば、日本の防犯ブザーがさらに進化したものですね。子どもたちの位置情報が確認できるのはもちろん、利用者が危険ブザーを押せば、すぐに警察署に連絡が行きます。さらに、元受刑者が身に付けている装置にも反応するんですよ。もし彼らがHBバッジを持つ子どもの半径10メートル以内に近付いた場合、自動的に危険ブザーが作動します。さらに催涙スプレーを出たり、電気ショックを与えることができるなどの機能が搭載されているタイプもあります」

「それはすごいですね」

「はい。これらの対策により、性犯罪者の再犯率は減少傾向にあります。それにもかかわらず、犯罪件数が上昇しているのは、初犯の人間が多くなっていることが原因にあります。つまり、新しい犯罪者が次々と生まれているわけです」

「その犯罪を助長している存在として、インターネットの情報サイトが危険視され、アクセスを全面禁止にしたというわけですね」

「はい。あくまでもサイトの存在は犯罪が起きる要因の一つであり、アクセスを禁止したところで犯罪件数が減らないと指摘する専門家もいます。しかしながら、昨年からポルノサイトへのアクセスを州全体で禁止したオレゴン州では、未成年者を狙った事件が8年ぶりに減少しました。ほかの州もこれに注目して、システム導入を決定したのでしょう。一部の州では反対意見も上がりましたが、結局、住民投票の結果、実施されることになりました」

「しかし、情報を提供して利益を得てきたサイト管理者やIT企業にとっては、大きな打撃ですよね」

「その通りです。すでにこの政策に反対を表明したり、損害賠償を求める企業も出てきているんです。また、犯罪対策が強化される一方で、アダルトサイトを運営している個人や企業を攻撃するような動きも見られているんです」

「それはネット上でということでしょうか」

「いえ、それだけではありません。当初は、顔写真や携帯番号などの個人情報をネット上で公表するなどといった攻撃が目立ちました。それで火が点いたのか、ここ2、3年はより直接的な攻撃を加えるようなケースも増えてきているんです。今年の2月、過去に児童ポルノのサイトを運営していた男性の自宅が、全焼するという事件が起きました。地元警察の調べによると、放火の疑いが強く、男性と一緒に暮らしていた家族が犠牲となっています。この男性は、インターネット上に携帯番号と現在の住所が公開され、脅迫電話に悩まされていたようです。犯罪対策を進める一方で、こういう人たちの生活を守るというのも大きな課題に挙げられるのではないでしょうか。また、アメリカでは、児童を狙った犯罪者に対して、新たなアプローチを試みています」

「それはどういった内容でしょうか」

「小児性愛の兆候を持つ人たちの脳の動きを調べ、彼らの特徴を把握する方法です。彼らの脳内の動きを正確に把握した上で、それを抑制する薬物を投与すれば、犯罪行為を未然に防ぐことができるかもしれません。すでに受刑者を対象にした調査は始まっていますが、まだまだ統計データが少なく、有効な治療方法を考え出すレベルには至っていません。そのため一部の州では、児童ポルノなどを愛好している人たちに治療を条件に、調査への協力をメールなどで呼びかけています」

「それはうまくいっているんでしょうか」

「少しずつ協力者は集まっているようですが、やはり周囲にばれることを恐れ、呼びかけを無視する人が多いようです」




 栗田が資料を持って会議室に入ると、数人の男性社員が集まって何やら話している。

「おれはこの子がいいな」

「おれはこれ、東欧系」

「その子、笑顔が変じゃないですか。元の写真を相当いじってる感じがする」

 栗田がいぶかしげに見ていると、

「あっ、栗田さん、おつかれさまです。これ見ます?」

「何、それ?」

「この前仕事した近畿国際空港の人がくれたんですよ。カレンダー。世界各国の美人スチュワーデスが載ってますよ」

「へ~」

 興味は沸かなかったが、

「栗田はどれがタイプなんだよ」

 同期の一人がからかうように尋ねる。

「え~、どれだろうな」

 テーブルの上に広げられているカレンダーをめくっていく。正直、どれもピンとこない。全員きれいな顔立ちで、妖艶な雰囲気をかもし出している。だが、自分にとってはマネキンと同じ。心を揺り動かす要素が何一つない。

「これかな」

 しばらく考える振りをしてから、6月のページに載っている女性を指差した。銀に近い金髪で、肌は雪のように白い。ロシア系だろうか。

「へえ~、こういうのが好きなんだ」

「まあ、好きっていうか」

「美人系より、かわいい系が好きなんですね」

「もしかして、栗田さん、ロリコンっすか」

 後輩の一人がふざけ半分に言う。

「……」

冗談だと頭ではわかっているのに、片方の頬が引きつる。それをごまかそうと、

「ばか、何言ってんだよ。お前はどれが好きなの?」

「おれはですね~」

 適当に相槌を打ちながら、後輩や同僚と話を続ける。胸の奥がキリキリと痛んだ




 _________自分が好きな「女性」は、ほかの同級生たちと違うのか。

 そのことに気づき始めたのは、いつ頃からだろうか。

 中学生に上がった頃から、友だちはアイドルに夢中になり、学校にグラビア雑誌を持ってくる者もいた。

「やばい、この子!」

「え~、それより竹下里香だろ。超かわいいじゃん」

「俺はもうちょっと肉がついててもいいな。確かにかわいいけど。_______なあ、栗田はどれ? どの子がタイプなんだよ」

「そうだよ。教えろよ」

「このページにいる子だとどれが一番?」

 そう言ってグラビアページを見せられても、ピンと来ない。仕方なく、ほかの友だちが熱中しているアイドルを選んで答えるも、どこがいいのかさっぱりわからない。水着からこぼれそうな胸をジッと見つめていても、気持ちは高揚しない

 クラスの女子生徒に対しても同じ。

 彼女たちの体が少しずつ丸みを帯びていき、夏服のシャツの下からブラジャーのラインが薄っすらと見える。教室や部室に化粧の匂いが漂う。男の先生や先輩に話しかけるとき、目が妖しく光り、甘ったるい声を出す。

 __________気持ち悪い。

 嫌悪感を覚え、目を背けていた。だが、そんな女子が教室の中で多数派となり、

「栗田くん、あのね」

自分にも猫なで声を使ってくる子が出て来た。わけもなくイライラし、ぶっきらぼうな答え方しかできなかった。

 小学生の頃、好きな子がいた。

夢中になって胸がしめつけられる。そこまで強い感情は抱いていなかったものの、単純に「あの子、いいな」と思っていた。髪が短く、運動神経抜群。男子にちょっかい出されても無視し、相手がしつこくからかってくると、ほうきを振り上げて対抗していた。

 女性らしさなど微塵も感じさせない中性的な女の子。

 今振り返れば、そんなところに栗たは惹かれたのだろう。自分のことも「栗田」と呼び捨てにしていた。だが、中学2年生で同じクラスになると、

「ねえ、栗田くん。ここ、教えて」

 ほかの女子と同じように甘ったるい声で話しかけてきた。彼女はきれいになっていた。男の子のように短かった髪は肩まで伸び、小麦色の肌は白くなり、胸は膨らみ始めていた。女性としての魅力は明らかに増している。それでも栗田は思わずにはいられなかった。

 __________あの頃のほうが良かった。今よりもずっと素敵だった。

 どうして、成長を遂げてしまうのだろう。そのままでいてほしいのに。あの状態で何ら問題ないのに。

 今も親戚や知人の子どもに会うと、心の中でさけび続けている。

 そのままでいい。大きくならないでほしい。そこで時間が止まってくれ。今が一番美しいのだから。



 

「こんばんは、ニュース・ワールドタイムの時間がやってまいりました。今日、最初のニュースは、アメリカ・マサチューセッツ州の研究所で起きた事件についてです。

 マサチューセッツ州の北西部にあるクリン・グロット国立研究所で現在管理されているクローン人間数名が職員に暴力を振るい、男性職員1名が腕を骨折。全治3か月の重傷とのことです。

 同研究所の広報機関は当初、この事件を隠していましたが、職員の内部告発により明らかになりました。これを受けて広報機関は記者発表の場を設け、『研究スタッフとクローン人間の意思疎通の問題であり、今回の事件を起こしたクローン人間はすでに興奮状態を脱している』とのことです。現在、同研究所で管理している成人型クローン18人のうち誰が暴力行為を起こしたのかについては、最後まで明らかにせず、『調査中』と答えるにとどめました。

 一方マサチューセッツ州では、以前からクローン人間の危険性を訴える抗議活動が繰り広げられており、今回の事件を受けて、参加者はさらに増えています。研究所の正門には今日も多くの人が集まり、研究の即時停止を求める声が鳴り止みません。

 さらにアメリカ・カトリック協会は、『クローン技術による生命誕生は神への背徳行為。即刻中止すべき』との声明を改めて発表。カトリック教徒が多い州で賛同の輪が広がっています」




 あれは栗田が高校生の頃。夏休みに母の実家に来ていた。盆地にある田舎町。過去に日本の最高気温を出したこともある。

「あちぃ~」

「武則。律子ちゃん、お風呂に入れてあげて」

「え~」

「文句言うんじゃない。わたしとおばあちゃんは、夕飯の準備しなきゃいけないの。早くやっといてよ」

「んだよ、くそばばあ」

 母には聞こえないように文句を言いつつ、チラっと横を見る。いとこの律子は栗田のズボンをつかみながら、ニコニコ笑っている。今日一日、外で遊びまわったせいで真っ黒に日焼けしている。

「おふろ、おふろ」

「……」

「はやく、おふろ」

「わかったよ。ほら、行くよ。_________そこ、気をつけて。転ぶぞ」

 二人で手をつないでお風呂場へ。律子は服をポンポン脱いで浴室に入る。

「カゴに入れろって」

 栗田は文句を言いながら、床に脱ぎ散らかした服を洗濯カゴに入れる。栗田がズボンの裾を捲った状態で浴室に入ると、

「頭、洗って」

律子がぬれた頭を突き出してくる。

「いいよ。シャンプーつけるから、目をつぶってな」

「は~い」

 少女の柔らかい髪が指に絡みつき、白い泡の中で踊る。体のほとんどが小麦色に染まっているが、服で隠されていたところだけはモチのように白い。

「お湯で流すよ。まだ目をつぶってて」

「うん」

 お湯が頭の天辺から肩、背中、腰、お尻を伝って、タイルの床に落ちる。律子の体は光り輝いている。まだ小学生にもなっていない。当然、胸の辺りは隆起していない。

 __________ずっと、このままでいればいいのに。なんで変わってしまうんだ。

「ねえ、もう目を開けていい?」

 律子の問いかけに何も答えず、その裸体をジッと見つめる。そして小さく息を吸い込みながら、少女の胸に手を伸ばそうとしたが、

「武則」 

 浴室の外から母の声が聞こえ、すぐに手を引っ込める。

「なっ、何?」

「律子ちゃんのお風呂、終わった? それが済んだら、お醤油を買ってきてほしいのよ」

「わかった。もうすぐ終わるから、待ってて」

 そう答えてから、息を吐く。

「ねえ、まだ? もう目を開けていいでしょ」

「だめだよ。まだシャンプーが頭に残ってる。今流すから、そのままジッとしてるんだ。動かないで」

 栗田は律子の前で正座し、その裸体を見つめる。

 目に焼きつけておかないと。もう二度と見れないかもしれない。この子も、次に会ったときは、もう少女ではないかもしれない。




「どう? 実験の様子は?」

「順調だよ。これで15歳から12歳までの未成人型クローンについては、白人、黒人、ヒスパニック、アジア系の作成に成功した。もちろん、男女ともね」

「画像で見せてよ」

「いいよ、ほら」

「お~、いいわね。12歳から下はどんな感じ?」

「アジア系の男女については、すでに1歳単位でクローン作成に成功している。最低年齢はなんと4歳!」

「すばらしい」

「乳幼児の作成も時間の問題じゃないかな」

「ええ、本当にそう思えてきたわ。あとは、彼らの運動能力や知能に異常がないといいんだけど」

「でも、クローン人間の知能指数が高すぎると、またギャーギャー騒ぐ連中がいるからな。だからアメリカもイギリスも、知能指数は全員90~100の間だなんて発表しているんだろ。あんなの嘘に決まっている。だって、うちでつくった連中は、どれも知能指数は120を超えているっていうのに」

「そうね。全員、健康状態に問題はなさそう?」

「ああ。もともと未成人型のほうが、心理テストとかの結果も安定しているんだよ。結局、奴らが起こした事件ってのは、シカゴの放火事件だけだろ」

「ええ」

「反対に、成人型のトラブルなんてしょっちゅうだよ。この前もやらかしたじゃないか。あいつらは危ない。鎖でつないでおかないと」

「そんなの必要ないわよ、動物園じゃないんだから。注射一本で十分」

「はははっ! 確かに」

「でも、良かった。この調子なら、12歳未満の各人種のクローン作成も順調に進みそうね。上にいい報告ができるわ」

「任せてくれよ。最終的には身長・体重、肌・髪・目の色までオーダーメイドで自由に調整できるようにしたほうがいいんだろ?」

「ええ。バリーエーションは多いほうが利用者は喜ぶはずだから」




「ただいま~」

 栗田は久しぶりに実家に帰って来ていた。

「おかえり。律子ちゃんたちはもう来ているわよ」

 台所で食事の準備をしている母が声をかけてくる。

 居間に行くと、

「あっ、久しぶり。元気?」

 いとこの律子が笑顔で迎える。栗田はまだ独身だが、律子はもう母親。昔はほっそりした体格だったが、大分貫禄が出てきた。

 _________まさか、19歳で結婚するとは思わなかったな。

「ほら、美佐。武則おじちゃんにあいさつしなさい」

「こんにちは」

 律子の隣に座っていた色白の女の子が、すっと立って挨拶する。

「大きくなったね~。今、いくつ?」

 栗田が目を丸くしながら尋ねると、恥ずかしそうに指を2本立てる。

「2年生か」

「こら、ちゃんと口で言いなさい」

「この前は、おれの腰くらいしか身長がなかった気がするけど」

「そうなのよ。小学校に入ってから、急にニョキニョキ伸びてきて。もう成長期かしら?」

「さあ、よくわかんないけど。でも、小さい頃の律ちゃんにそっくりだよ」

 そう笑顔で話す。妙に明るい口調で、夏休みの到来をはしゃぐ子どものように。

 栗田はうそをついた。

 __________そっくり? いやいや! この子のほうがずっときれいだ。

 母が出してくれた麦茶を飲みながら、横目で理佐のほうを見る。水色のワンピースから覗く二の腕、そして正座を軽く崩している両足。どちらにも一つの汚れも見当たらず、肌は陶器のように滑らかだ。

「仕事のほうはどう? ちょっとやせたんじゃない」

「そうかな」

 律子の話に相槌を打ちながらも、栗田は自分の斜め横に座る少女から目を離すことができなかった。

 彼女は家から持ってきたらしい文庫を開いて呼んでいる。テーブルに両肘をつき、前かがみになって。顔と本の距離は10センチも離れていない。ワンピースの隙間から薄い胸板が見える。それに見とれていると次第に、過去の場面が蘇ってくる。

 お風呂場、ぬれた髪、小麦色の肌……。

「律ちゃんこそ、ちょっとやせたんじゃない」

「ええ、本当?」

 律子は驚きながらも、どこか嬉しそうだ。

 ___________お世辞に決まってるだろ。やせてなんかいない。あの頃は、あんなに細くて、小さくて、かわいらしかったのに。

 律子が話すたびに、笑顔を浮かべるたびに、顔の衰えが露になり、栗田は不快感を募らせる。ずっと娘のほうを見ていたい。

 ___________この子はすばらしい。本当に。人形のようで。おれが持っている写真の女の子とも肩を並べるほどだ。

 でも、この子もすぐに変貌する。次に会ったときは、もう今の姿ではないかもしれない。もしかしたら、自分とは口も利いてくれなくなるかもしれない。

 ___________そして大人になって、子どもを生んで、母親のように衰えていって……。だったら、その前に一度でも触れさせてほしい。

 栗田は息苦しくなり、グラスの麦茶を飲み干す。だが喉の渇きは消えず、

「ごめん。ちょっとトイレ」

 律子にそう伝えると、廊下の奥に駆け込む。トイレに入るとすぐに鍵を閉め、便座に腰を下ろす。

「はぁ~、はぁ~、はぁ~」

 うまく呼吸ができない。膝がカクカクと笑っている。

 ___________何を考えている? 何を考えているんだ、おれは。馬鹿なことを考えるんじゃない。

 自分にそう言い聞かせ、足の震えを押さえようと膝の上に拳を置く。そして便器の前に置かれたマットをジッと見つめる。乱れた呼吸はなかなか落ち着きを取り戻さず、10分以上、トイレから出ることができなかった。




「_________ くそっ!」

 寝苦しい夜だった。

 エアコンが嫌いな栗田は、余程の熱帯夜でない限り、睡眠中はクーラーをつけない。それでも今日はさすがに我慢ができなかった。アパートの部屋の電気を点け、エアコンのスイッチを入れる。

 冷蔵庫から缶ビールを取り出し、栓を開ける。一気に飲み干しても、なぜか胸の奥がモヤモヤとする。

 栗田は寝室ではなく、パソコンが置いてある部屋に行く。そして、パソコンのスイッチを入れる。額には脂汗が浮かんでいた。

 インターネットを起動させ、検索ワードを入力する。パソコンを使用した後は、毎回、検索ワードと履歴をすべて削除している。もし誰かに見つかったら、自分の人生は終わりだ。

 いつも利用しているサイトをクリックするも、

「えっ、ここも?」

 画面には何の写真も動画もアップされておらず、ただ一言、

『長らくご利用いただき、ありがとうございました。このサイトは閉鎖しました』

 急いでほかのサイトもチェックするが、同様の文言が載せられている。

 __________ うそだろ……。

 栗田も異変には気づいていた。

 アメリカの一部の州で実施されている児童ポルノ関連サイトへのアクセス禁止。それが近々日本でも実施されるのではないか。ネット上では、そんな噂がまことしやかにささやかれている。

罰則を恐れてか、管理人自らがサイトを閉鎖するケースが相次いでいる。その数は10や20ではすまない。

 栗田は血なまこになって画面をスクロールし続け、

「あっ! やった!」

 思わず声を上げてしまった。まだ通常通り開設しているサイトが見つかった。急いでページを開く。自然と表情がほころぶ。

 時間を忘れて、新たにアップされた画像をチェックしていく。

 _________ おれはどうなるんだろう。この気持ちにどう折り合いをつけばいいのだろう。

 パソコンを操作する手をなかなか止められなかった。




「________との方針を述べ、インド北部で起きた地震の被災地に医療部隊を増援することを決定しました。早ければ、来月9日にも首都デリーに到着する見通しです。

 では、次のニュースです。

 論争が続くクローン人間の問題について、新たな進展がありました。

 マサチューセッツ州のクリン・グロット国立研究所は、同研究所で管理している成人型クローンを新薬の臨床実験に使うことを発表しました。成人型クローンは身体的特徴については通常の人間と変わりなく、これまでマウスで行われていたよりも遥かに精度の高い実験が行うことができます。

 アメリカ政府が採択したシェッテンデ憲章では、クローン人間に人権を認めないことが明記されていますが、安全性が確保されていない薬の実験対象にしていいとは書かれていません。この点についてベンダー大統領は、『憲章の理念を尊重した上で現実的に対処したい』と述べ、野党とも協力して現法案の改正に動き出す模様です。

 今回の発表に対して、科学者の間では意見が分かれています。

賛成派は、『莫大な費用と労力を費やして生み出したクローン人間を、いつまでも研究所の一室に閉じ込めておくのは無駄以外の何物でもない。積極的に活用すべきだ』『クローン人間で新薬の臨床実験を行う計画は、『アダム』や『イブ』がつくられる以前から予定されていた。特に問題はない』と述べています。

 一方、反対派からは、『仮にも私たち人間と同じ姿・形、さらには知能や感情を持つ生き物を、安全性が保障されていない実験に使っていいのか。人体実験と同じではないか』『一部のクローン人間が見せた異常行動については、その謎が未だ解明されていない。彼らが異常体質を持っている可能性も高く、そもそも新薬の被験者として相応しいのか』という声が挙がっています。

 一方、宗教団体からは引き続き、研究自体の即時停止を求める意見が強く、カトリック教徒が多い州を中心に、1万人規模の抗議集会が連日開かれています。

さらにローマ法王・ポッペウス14世も、『クローン技術は人類が持つに相応しい力だと言えるのだろうか』と、研究の意義を否定するコメントを発表。未だ終結の糸口が見えてきません。

 では、次のニュースです。

 昨年、ポルトガルの首都リスボンで行われた夏季オリンピックにおいて、女子100m、200m走で世界新記録を達成したべレア・シンプソン選手がドーピングを行っていた可能性が浮上してきました。これはEU陸上連盟がオリンピック開催前から独自に行っていた調査が元になっており……」




 その日、栗田は就寝時間が遅かったにも関わらず、目覚まし時計が鳴る前に目を覚ました。朝食をとり、洗顔・髭剃り・歯磨きを済ませても。まだ6時半。7時15分に家を出れば、会社には十分間に合う。

 自然とパソコンのほうに向かった。

 栗田は心配だったのだ。昨晩、2時間以上も楽しんだあのサイトが閉鎖されているのではないかと。あういうのは何の前触れもなく起きるから恐ろしい。

「あ~、よかった」

 そのサイトは、昨日と同じように見ることにできた。さらに喜ばしいことに新しい画像がアップされている。写真に写っている少女年齢は7、8歳くらいだろうか。奥二重で肌が白い。雪のように白い肌とは対照的に髪は黒く、後ろで一本に束ねている。友だちと話している様子を隠し撮りしたのだろうか。満面の笑みを浮かべている。

彼女の笑顔が眠気眼をすっきりと目覚めさせてくれた。結局、7時15分ぎりぎりまで楽しんでから家を出た。

 空はカラッと晴れて、陽の光がまぶしい。それがなおのこと、栗田の気分を爽快にさせる。足取りも軽く駅に向かうと、何やら声が聞こえてくる。だれかがマイクでしゃべっているようだ。

 __________なんだ? 選挙でもあったっけ。

 駅に近づくと、

「一昨日の夜、小学3年生の江藤胡桃ちゃんが自宅に戻りませんでした! 今も行方がわかっていません。胡桃ちゃんの姿を目撃した方は、どんな情報でも結構ですので、情報をご提供ください!」

「よろしくお願いします!」

「よろしくお願いします!」

「よろしくお願いします!」

「よろしくお願いします!」

 5人ほどの男女がビラを配っている。行方不明になっている子どもの両親ではないだろう。歳が若すぎる。ボランティアか何かだろうか。

「よろしくお願いします!」

 栗田も一人の女性からビラを渡される。その上辺には「探しています」と赤くて太い文字で書かれ、中央には行方不明になったと思われる女の子の写真が貼られている。運動会のときにでも撮影したのだろう。体操着を来て、黄色いハチマキを巻いている。その下には、

●江藤胡桃 小学3年生

●身長130cm弱、ピンク色のフレームのメガネをかけている

●髪は肩くらいの長さで、家を出たときは二つに結んでいた

●右目の下にホクロがあるのが特徴

●2日前に家を出たときは、オレンジのTシャツに緑のハーフパンツを着ていた

●靴はナイキのスポーツシューズ。色は白。

●どんな情報でも構いませんので、目撃情報をお待ちしています

 末尾には電話番号が書いてあった。

 __________早く見つかるといいな。

 栗田はそう思いながら、階段を上っていった。嘘ではなく、心からそう思った。




 その日、アパートに戻ったは夜8時過ぎ。

 ネクタイを緩めながらドアの鍵を開けると、

「ん?」

 ドアの新聞受けに封筒が入っていた。何の変哲もない白い封筒。しかし、送り主が書かれていない。

 栗田は首をかしげながら部屋の中に入り、ネクタイをハンガーにかけてから封筒にハサミを入れる。中に入っていたのは1枚の書類。その文字を目で追っていくが……。

『要治療者認定のお知らせ


平素はたいへんお世話になっております。

 この度、警察庁児童犯罪対策特別チーム(通称NPL)が企業や病院などと協力し、秘密裏で進めていた調査により、あなたは幼児性愛者の可能性が極めて高いとして、国が指定する要治療者に認定されました。つきましては、精密検査を実施し、その度合いを調べ、今後の治療プランを検討させていただきます。

 この書類の内容を確認されましたら、8月21日の17時までに下記の電話番号、またはメールアドレスまでご連絡ください。なお、期日までに連絡がなかった場合は、こちらから携帯電話に連絡を差し上げますので、あらかじめご了承ください。何卒よろしくお願い致します。


警察庁児童救護対策特別チーム 治療支援班 

電話番号 03―5261―××××、

メールアドレス zidotaisaku@×××co.jp

*電話は平日、土日・祝日ともに24時間受け付けています』

「……」

 しばらく身動きがとれなかった。

 窓の外から猫の鳴き声が聞こえてくる。

「えっ……、えっ……」

 手が震え、書類が床に落ちる。それを拾おうとしても、体がいうことをきかない。足元から震えが襲ってくる

「ちょっ、ちょっと待って。いいから、待って。待てよ」

 誰に話しかけているのか、自分でもわからない。全身の毛穴が開き、体温が急激に下がっていくような錯覚に襲われる。

やっとの思いで床にひざをつき、書類を手に取る。震えはまだ収まらないが、何とか左手で書類を持ち、右手の指で文字をなぞっていく。ゆっくりと、一文字一文字を確認するように。

 その間、頭の中ではずっと同じ言葉がグルグルと回っていた。

 _________うそだろ。

 文字をなぞる手が止まった。目も釘付けとなる。

『あなたは幼児性愛者の可能性が極めて高い』

 そのまま何時間も同じ姿勢で、書類に穴が開きそうなほど読み返した。




 翌朝、栗田はブラックコーヒーを2杯飲んでからアパートを出た。そうでもしないと、駅に着く前に倒れてしまいそうだった。

 結局、ほとんど眠れなかった。12時を過ぎた頃、布団に入ったものの目が冴えて1分ごとに寝返りを打つ始末。1時間経っても一向に眠気はやって来ず、缶ビールを2本開けて一気に飲み干した。それでも動揺は抑えきれず、近所のコンビニへ駆けて行く。そこで、滅多に飲まないウイスキーを買って、ビンのまま口へ注ぎ込む。

「ぶほっ、ぼっ、あはっ!」

 濃度の高いあるコースに体がビックリし、むせ返す。それでも無理矢理流し込む。だが瞼は重くならないまま、朝を迎えた。

 フラフラしながら駅に向かうと、

「江藤胡桃ちゃんの情報を求めています。何かお心辺りがある方は、どんな情報でもいいのでご連絡ください!」

「お願いします!」

「お願いします!」

「お願いします!」

 昨日と同じように数人の男女がビラを配っている。

「お願いします」

 若い男が栗田にもビラを渡そうとする。その中央に写っている女の子の写真を見て、栗田は心臓が口から飛び出そうになった。女の子が涙を流している。

 _______ そんなはずない、やめろ!

 栗田は若い男の声を無視し、地下鉄の入口へと駆けていく。その場から一刻も早く離れたかった。




 その日、家路に着いたのは夜の8時半。会社にいる間は眠くて眠くて仕方なかった。昼休みに公園のベンチで横になり、30分ほど昼寝をして何とか持ちこたえたものの、体全体がだるくて重い。まるで鎧を着せられているようだ。

 _________寝たい。早く横になりたい。

 アパートのドアを開け、郵便受けを確認すると、

「うっ!」

 白い封筒が入っている。大きさは前回と同じで、また送り主の名前は書かれていない。ただひとつだけ違う点があった。

『重要』

 赤い判子で印字してある。それが無言のプレッシャーを与えてくる。

結局、書類に書かれていた番号に電話することができていない。震える手で携帯電話のボタンを押そうとしたものの、その後の展開がまったく読めず、どうしても決心がつかなかった。

 栗田は、『重要』と印字された封筒を手にとると、中身も確認せず、ゴミ用の箱の中に。それも一番奥に押し込んだ。そして洗面所に向かい、何度も何度も顔を洗う。

下腹から吐き気が襲ってくる。朝からコーヒーしかお腹に入れていないのに。




「では、次のニュースです。

 東京都板橋区で行方不明になっていた江藤胡桃ちゃん・小学3年生が今日午後6時、中野区のアパートで見つかりました。胡桃ちゃんは発見当初衰弱しており、すぐに救急車で病院に運ばれましたが、命に別状はないとのことです。

 このアパートの2階で暮らす住民から『女の子の泣き声がする』との情報が中野警察署に寄せられ、警察官が部屋を調べたところ、押し入れの中にいた胡桃ちゃんを発見。救助に至りました。

胡桃ちゃんが監禁されていた部屋の住人は、杉山博也(35歳)と判明。中野警察署はただちに捜査網を敷き、中野区一体を緊急捜査。午後7時にコンビニで買い物をしていた杉山容疑者を逮捕しました。杉山容疑者は、容疑を概ね認めているとのことです」




 その日は一日中、雨だった。豪雨と呼ぶほどではなかったが、夜になってもシトシトと降り続いていた。

 栗田は背中を丸めながらアパートに向かい、重い足取りで階段を上がる。が、2階の通路で足が止まる。

 自分の部屋の前に誰かいる。

 傘に隠れて顔は見えないが、背格好からして男だろう。夏だというのにスーツを着込んでいる。その男が階段付近で立ち尽くす栗田のほうへ顔を向けた。

 メガネをかけたやせた男、切れ長の目で、一重瞼。歳は30代半ばくらいだろうか。いずれにしろ、見覚えのない顔だ。

 男は無言でこちらに近づいてくる。そして……、

「栗田武則さんですか」

 低く抑揚のない声で尋ねてくる。得体の知れないこの男に、どう答えればいいのか。考えが全くまとまらない。雨の音が妙に大きく聞こえる。

「いや、あの……」

「はじめまして。私は、警察庁児童救護対策特別チームの安積と申します」

 メガネの男のほうが先に名乗る。その名前よりも、相手の肩書きにビクッと反応してしまう。自分が無視し続けていた書類の文面が脳裏に蘇る。

“あなたは幼児性愛者可能性が極めて高いとして、国が指定する要治療者に認定されました”

「204号室の栗田さんで間違いないですよね」

 安積と名乗った男の口調に迷いは感じられなかった。もしかしたら、自分の顔をすでに写真か何かで確認しているのかもしれない。

「治療参加の通知書は届いてますよね。どうして、期日までに連絡をいただけなかったんでしょうか」

 相手の目には感情らしきものが何も浮かんでいない。微動だにしない二つの眼球が、ただただ真っ直ぐに栗田を射る。

「あっ、あれは!」

 気を抜くと膝から崩れそうだった。何とか声を張り上げ、

「あれは一体なんなんだ! 突然、送りつけてきて!」

「厳正なる調査の結果です」

「調査だとっ!」

 声を荒げる栗田に対し、安積は微塵も表情を変えない。

「申し訳ありませんが、できれば、あなたの部屋の中でお話できませんか。こんなところで立ち話をして、ほかの住人に聞かれたら困るでしょ」

「……」

 悔しいが、相手の言う通りだった。今、自分が上げた大声だって、だれかに聞かれたかもしれない。

 栗田は男への警戒を緩めず、ドアの鍵を開ける。乱暴にクツを脱いで部屋に上がったが、安積はドアを閉めた後、部屋に上がろうとはしなかった。

「ここで結構です。長話をするつもりはないので」

 そう言って、傘の水を切る。

「先ほどの確認ですが、通知書は届いてますよね。しかし、あなたはその内容を無視して、期日までに連絡を寄越さなかった」

「あれは一体なんなんだ。あんなの聞いたことがないぞ。おれが子どもに変な感情を持ってるだと。ふざけるな!」

「証拠は揃っています。あなたは先月、秋葉原にある書店で成人向けマンガを購入しましたね。2か月前にも、同じ店に行っている」

 突然突きつけられた事実に絶句する。

 _________ どうして、そんなことを知っているんだ。

「それに、10歳前後の女の子の写真や動画が大量にアップされているサイトに繰り返しアクセスしている。1回の閲覧時間は、平均で2時間13分」

「……」

 体内の水分が失われ、視界がぼやける。

「検索履歴をいくら削除しても意味ないですよ。我々はネット会社に頼めば、必要な情報をいつでも閲覧できますから」

 男は淀みなく話を続ける。

「あなたの行動を数か月前から監視していましたが、お昼休憩ではいつも、会社から30分以上離れた公園に行きますよね。それも子どもたちが遊んでいる時間にピタリと合わせて」

「そっ、そんなわけないだろ」

 カラカラの喉から必死で声を絞り出す。でも、相手の目を直視することはできない。

「実は1か月前から、あなたは要治療候補者に選定されていたんです。これに選ばれた人には、我々のほうで血液検査を行っているんです。これはまだ公表されていないので詳しくは話せませんが、幼児性愛の特徴を持つ男性の血液は、ある検査薬に特殊な反応が見られるんです。あなたはその検査で陽性反応が出ました」

「血液なんて、おれは提供した憶えはないぞ。でたらめだ、そんなの」

「毎年、会社の健康診断で血液を採取しているでしょ? それを使ったんです」

 安積はこともなげに言う。

 栗田はその事実に驚愕するとともに、恐ろしい考えが頭に浮かんだ。

「かっ、会社に……、会社の人間に言ったんじゃないだろうな!」

 安積はドアにもたれかかり、しばらく黙っていたが、

「ご安心ください。会社の方には言ってません。健康診断の実務を行ってるのは保健所です。そこの人間に頼んで、あなたの血液を送ってもらったんです」

「……」

「栗田さん、あなたは病気なんです。それがどの程度のものなのか、詳しく検査しないといけない。もしこれを拒んだら、あなたは自らの手で人生をメチャクチャにしてしまいますよ」

「……」

「自分でも薄々感じているんじゃないですか」

 安積の言葉が耳に届いた瞬間、ある少女の顔が浮かんだ。いとこの律子の娘・理佐。あの子の成長を目の当たりにしたとき、自分はどんな感情を抱いた?

 白くて細い肢体が脳裏に蘇る。

 あの場所に、母や律子がいなかったら、理佐に手を伸ばしていた。肩を抱いて、髪に触れて。

 __________ おれは……。おれは……。

「どうすればいいんだ」

 床を見つめたまま、うめくようにそう尋ねた。

「私と一緒に来てください。まずは精密検査を行って、状態を把握することが先決です」

「今から?」

「そうです。車は用意してあります。行きましょう」

 そう言って、ドアを開ける。

 いつの間にか雨は止んでいた。




「ここで少々お待ちください」

 40代前半くらいの看護婦はそう告げると、ドアのほうに向かった。そして、首から提げていたカードをドアに当てると、

 ウィーン。

ドアがスライドし、看護婦は出て行った。

 8畳半ほどの部屋に、栗田は一人残された。

 __________この部屋は何なんだ。診察室なのだろうか。

部屋に置かれた棚や机の上には、治療器具らしきものがいくつか置いてある。学校の保健室に似てなくもない。ただ、床も、天井も、壁も漂白剤につけたかのように真白で、汚れ一つない。それが逆に気味悪い。

 壁には「春の献血キャンペーン」と書かれたポスターが貼られ、20歳くらいのアイドルが笑顔で写っている。テレビで見覚えがあるが、名前が浮かんでこない。

 ________ おれはどうして、普通の女性に興味が持てないんだ。

 この病院らしき建物に連れられてきて、どれくらい時間が経っただろうか。

検査は一通り終わった。身長・体重測定、採尿、血圧測定、血液検査、脳波検査、綿棒を口の中に入れて唾液も採取された。

_________何に使われるんだ。

その後は、心理テストのようなものをたくさん受けさせられた。これで自分の運命が決まるのかと思うと、簡単に答えを決めることなどできなかった。だが、正しい答えがどれなのか、見当がつかない。

「あなたは幼い子どもを見ると、性的興奮を覚えますか」

 そんな直接的な質問ではなく、

「あなたは大木です。今、道路工事が進められており、このままだと伐採されてしまいます。工事の担当者を説得する言葉を考えてください」

「あなたがもし生まれ変わるとしたら、次のうち、どの動物を選びますか」

「次のイラストを見て、少年の感情を表現するのに最も適した色を選択肢の中から選びなさい」

 検査の内容が変わるたびに別の部屋に移された。そのどこにも時計はなかった。心理テストが課されたときも、

「制限時間が来たら、私が声をかけます」

 安積がそう言って、テストの様子をすぐそばで見張っていた。そして、この部屋に連れて来られた。

 今が一体何時なのか、ここがどこなのかもわからない。この部屋には窓がないため、外の様子も確認できない。背中を丸め、床の一点を見つめていると、

 ウィーン。

 自動ドアが開き、安積が姿を現した。

「お待たせして申し訳ありません」

そう言いながら、栗田と向き合うようにして椅子に腰掛ける。

「検査の結果が出たのでお伝えします」

「えっ、もう出たんですか」

 驚く栗田に安積は何も反応せず、クリアファイルから数枚の書類を取り出し、

「栗田さん、あなたはC判定だとわかりました」

「……C判定?」

 そう言われても、どんな状態なのか、さっぱりわからない。

「簡単に言えば、要観察。治療のために今すぐ専門の医療機関に入院するレベルには達していませんが、監視を緩めることはできない状態です。この上にDとEがあり、Dは即入院。Eが最も危険度が高く、専門医が許可するまで外出は制限され、外に出た場合も子どもの多い学校や公園などに10メートル以上近づくことは許されません。もしこのルールを破れば、生涯、治療施設から出ることができなくなります」

「そんな……」

「実は今話したD判定、E判定の人間は、私たちが書類を送っている要治療者の中にほとんどいません。なぜだかわかりますか」

 突然の質問に、栗田は首を横に振るしかなかった。

「彼らの大半はすでに犯罪に手を染め、刑務所の中にいるからです」

 「犯罪」「刑務所」。これまでの人生で縁のなかった言葉が投げつけられ、グサリ、グサリと突き刺さる。

「要治療者の中で、一番多いのはあなたと同じC判定の人間です。ここが分岐点と言えるでしょう。犯罪者として身を落とすか、それとも全うな人生を取り戻すか。あなたはどちらを望みますか」

 そう言って、安積がメガネのフレームを指先で上げる。

「……」

「栗田さん」

「……犯罪者なんかになりたくない。今の仕事や生活を失いたくない」

「そうですよね」

「どうすればいいんですか」

 震える声でそう尋ねる。今はこの男しか頼れない。

「先ほども話したように、D判定、E判定が出た人は治療施設に入ってもらいます。拒否する場合は、強制入院させます。その後は薬物治療とカウンセリングの両方を行っていくのですが、残念なことに、どちらも今のところ効果は限定的なんです。症状が改善されても、せいぜいC判定までしか下がらず、監視を緩めることはできません」

「じゃあ、どうすれば……」

「この問題点を我々は以前から重く見て、別の省庁とも協力しながら全く新しいアプローチを模索していたんです。それがやっと実現に至りました」

 安積はそこで一端話を区切り、顔を少し近づけてくる。

なぜか、すぐには続きを話そうとしない。

「えっ……、教えてくださいよ。それは一体何なんですか」

「____________子どもに触れてみたいと思ったことはありませんか」

「えっ?」

「あなたがマンガやインターネットから入手している情報の内容、または日頃の行動及び先ほどの検査結果を踏まえて、あなたが性的興奮を覚える女性の年齢を割り出しました。それは6歳~12歳まで。この年齢の女性たちと普段の生活で触れ合うことは、まずできない。もし強引に距離を縮めようとした場合、残りの人生は刑務所の中だ」

「……」

「でも抑え切れない。その欲望のはけ口を、ネットやマンガの情報に求める。それで一時は心が充たされても、またそのうちに欲望が沸き起こり、視覚情報だけでは飽き足らなくなる」

「……」

 ________なんだ、一体? この男は何を言おうとしているんだ。

「私たちはより効果的な治療方法をずっと考えてきたんです。どうすれば、あなたたちの欲望を静めることができるのか。______栗田さん」

「はい」

「あなたが希望する、理想とする少女。それをあなたに提供します」

「はっ?」

 すぐには意味が飲み込めなかった。

 _________こいつは何を言っているんだ。

 安積は淡々とした口調で、話を続ける。

「驚くのも無理はありません。順を追って説明しましょう。性欲以外にも、人間にはさまざまな欲求があります。食欲、睡眠欲、金銭欲、承認欲求という言葉もすっかり定着しましたね。そして、いずれの欲求にも共通点はあります。それは、欲求が充たされた瞬間、欲求は弱まるということ。お腹一杯になれば、食欲は一時的に薄れる。10時間以上寝れば、それ以上寝たいと思う人はまずいない。周りの人から注目されれば承認欲求は充たされ、余計なストレスを抱え込まない」

「なんの話をしているんですか、おれのことと何の関係が」

栗田は我慢できなくなり、思わず詰め寄る。だが安積は右手を前に出し、動きを制す。

「最後まで聞いてください。大切な話なんです」

 能面のような顔は変わらない。

「欲求を適度に充たすことにより、欲求の暴走を抑えられる。それをせずに、無理矢理押さえ込もうとするから、歪んだ形で表れるんです。ダイエットのリバウンドなどがいい例です」

「……」

「これは性的欲求にも当てはまります。異性に対する気持ちを無理に押さえ込む、もしくはその気持ちを充たす場所がないから歪んだ形で表出する。自分に振り向いてくれる女性がいなかったとしても、成人が相手であれば、性産業がある。彼らは性犯罪の抑止力して一役買っている。今では公式に発表していませんが、戦前は、戦地に赴く軍の後ろを娼婦たちが追いかけるのは当たり前だった。軍の上層部も、彼女たちを積極的に活用した。兵士たちが戦闘のストレスに心をすり減らし、戦場の近くで暮らす地元の女性たちを襲うよりはずっとマシだ。そう考えたのでしょう」

「……」

「でも、あなたたちは違う。本当の意味で、自分の欲求を充たすことはできない。マンガやネットの情報が救いになるときもあるでしょう。だから、私たちも一時期は見逃していました。その存在が犯罪の抑止力につながるかと思って。しかし、情報はどこまでいっても情報。あなたの心を刺激することはあっても充たすことはない。次第に我慢が利かなくなる。だめだとわかっていても、手を伸ばしたくなる。知らず知らずのうちに、一線を踏み越える。そして今、死ぬほど後悔している人間がたくさんいます」

「どうすればいい? どうすれば抑えることができるんですか。どんなに自分に言い聞かせてもだめなんです!」

「あなたたちがどうして自分と同年齢の女性ではなく、10歳も20歳も若い女の子に性的欲求を憶えるのか、それがいつ頃から始まり、いつ終わるのか、ほかの人と何が違うのか、その嗜好を変えることはできるのか。これらについては今も研究が続けられていますが、まだ不明点が多すぎる。さらに多くの幼児性愛者を調べていかなくては、真実にたどり着けないでしょう。しかし、その謎を解明するのは私の仕事ではない。私は研究者ではなく、警察官ですだから。今、この場で犯罪を防いでいかなきゃならない。そのために有効な一手が、やっと現実のものとなったんです」

「教えてください。何ですか、それは何なんですか」

「だから、さっきも言ったじゃないですか。あなたが希望する年齢、容姿の子どもを提供すると」

「えっ……」

「ほしいですよね。ずっと、ずっと、手に入れたかったはずだ。公園で少女たちを観察しているときも、そればかり考えていたんですよね」

 安積の言う通りだ。10代の頃から、それだけがほしかった。街で、通学路で、ネット上で彼女たちに出会うたびに神に祈った。

「だって……、そんなの無理に決まっているじゃないですか。どこから連れて来るっていうんですか」

「連れて来るんじゃない。つくるんです」

「つくる?」

「そうです。____________10年ほど前に、イギリスの研究機関が世界で初めてクローン人間の作成に成功したのはご存知ですか」

「ええ、まあ……。テレビでも騒がれてましたから」

「当時の日本政府は、国内の科学者たちの意見を聴いた上で、クローン人間の作成には関与しないことを発表しました。それが公式発表。でも、本当は違う」

「えっ」

「秘密裏で研究は進めていたんです。もともと、その道のエキスパートたちは十分過ぎるほど揃っていましたから。研究資金がアメリカより少ないとよく言われますが、一度やると決めたら政府は集中的に予算を分配します。もちろん、名目は適当に変えていますが」

「どうして、そんなことを?」

「将来、役に立つと思ったんでしょう。先行投資です。当時はまだ具体的な活用方法を決めていたわけではないと思いますが、とにかく、他国に遅れをとられまいと研究に力を入れたわけです」

「じゃあ、日本にもクローン人間がいるんですか」

「もちろん。成人型は男女ともに成功。アジア系だけではなく、白人、黒人、ヒスパニックの作成にも成功し、未成人型も続々とつくられています。アメリカの研究機関ではまだ年齢と人種しか調整できないようですが、日本の研究機関ではすでに身長・体重、容姿、髪や目の色までコントロールできます。将来的には、知能指数も操作できるようになるでしょう」

「……」

 うまく言葉が出てこないが、話の全貌がぼんやりと見えてきた。しかし……、

「でも、待ってください。アメリカやイギリスでは、クローン人間が銃を乱射したり、研究所のスタッフに襲いかかったっていうじゃないですか。そんなの安全とは言えないんじゃないですか」

「あれに関しては、正直、日本政府のお偉方も、科学者たちも首をかしげているでしょうね。というのも、日本の研究所では、そんなこと一切ないんですよ。まあ、社会生活の中に出していないので単純比較はできませんが、少なくとも研究所のスタッフに危害を加えたというのは聞いたことがありません」

「あなたは、見たことがあるんですか。その……、クローン人間を実際にその目で?」

「ええ、ガラス越しですけど。男性型も女性型もいたって普通です。街中に紛れ込んだら、研究者でも見つけるのは無理でしょうね。未成人型クローンも、学校にいる子どもたちと何ら変わりません。絵を描いたり、ボールで遊んだり。かわいいものですよ」

 安積はニコリともしないで、そう答える。

「でも、仮にも人間だろ」

「いいえ、彼らは人間ではありません。形質的には私たちと同じでも、人権などは認められていない。その法律が正式に成立しました」

 そのニュースは栗田も知っていたが、

「でも……」

「位置付けとしては、実験用のマウスと同じです。今後、それが変わる可能性はありますが、少なくとも今は人間ではない。人間の子どもに手を出せば犯罪だが、未成人型クローンは違う。それでも、あなたの欲求を充たすには十分だと思いますよ」

 安積はそう言うと、一枚のカードを差し出した。そこには、

『児童販売機利用カード』

と書かれている。

いつの間に撮ったのか、栗田の顔写真が載っている。氏名や生年月日も。

「これを持って指定の場所に行けば、児童販売機利用カードが利用できます。場所も追って連絡するので」

「いや……」

 _________ そんなことを言われても。

 汗でぐっしょりとなっている手でカードを受け取るも、どんなシステムになっているのか、まったくイメージがつかない。

 そんな栗田の心中を見透かしたように、

「そうは言っても、今ひとつイメージがつかめないでしょう。このUSBの中に情報が入っているので、どうぞご覧になってください」




 栗田が自分がアパートに戻ったのは早朝5時。一晩中起きていたのに、まったく眠くならない。先ほど安積から聞かされた話が、あまりにもショッキングだったからだ。

 階段を駆け上がり自分の部屋に入ると、すぐにパソコンのスイッチを入れ、USBを差し込む。その中には、「NPL」というファイル名がついたデータが入っていた。どうやら動画のようだ。それを再生すると、

『希望の年齢を選んでください』

という表示が表れた。その下には19、18、17などの数字が並んでおり、どうやら年齢を表しているようだ。一番下には「4」と記載されている。

 栗田は悩んだ末、「7」を選んだ。すると次の画面に切り替わり、

『希望の人種を選んでください』

 アジア系、白人、黒人、ヒスパニック、その他。それぞれ文字の横には、顔写真がついている。どの子も笑顔で愛らしい。栗田は迷わずアジア系を選ぶ。するとまた画面が切り替わり、

『身長と体重を選んでください』

 数字が表示されるも、具体的なイメージが湧かなかったので、携帯電話で7歳の女の子の平均身長と平均体重を調べて、それに一番近い数値を選択する。また画面が切り替わり、

『希望の顔を選んでください』

 画面いっぱいに無数の少女の顔が写し出される。20人、30人、40人……。、

 ほっそりしたきつね顔。

 あんぱんのような丸顔。

 目は細く、えくぼが印象的な子。

 卵型でおでこを出している子。

 栗色の髪を三つ編みにしている子。

 天然パーマの子。

 画面をスクロールしていくと、まだまだいくつも出てくる。

 無数の少女の視線が、すべて自分に向けられている。

 ごくっ。

 思わずつばを飲み込む。栗田は、これまでに味わったことのない興奮を感じていた。




 会社の昼休み。

 栗田はいつもの公園のベンチにいた。今日は小学生の女の子たちは遊んでおらず、代わりに4、5歳くらいの男の子たちがジャングルジムで遊んでいる。そのすぐそばで母親たちはおしゃべりに興じている。

 その様子を見るともなく見ていたが、不意に、

「まだ利用されてないらしいですね」

 その声にビクッとし、右の方を見ると、安積が立っていた。この前と同じ黒のスーツ。ネクタイはしていない。

「なんで、ここに」

 その質問には答えず、ベンチに座る栗田を見下ろしながら、

「てっきり翌日にでも足を運ぶかと思っていたので少々驚きました」

「いや……。そうは言っても、なかなか決心がつかなくて」

「どうして?」

 安積から冷たい眼差しが向けられる。

「あなたはこのままだと、そう遠くない日に必ず一線を越えますよ。それまで悠長に待っているんですか。解決の手段はあるというのに」

「……」

 安積の視線から逃れるように、栗田は足元に視線を落とす。アリがエサを巣に運んでいる。

「板橋区で起きた幼女誘拐事件を知っていますか」

「この前、犯人が捕まった? ええ、テレビで見ましたけど」

「犯人は死刑になるかもしれない」

「えっ、うそでしょ?」

「どうして、うそをつく必要があります? 別の部署の人間に聞きましたが、可能性は十分あります」

「それはいくらなんでも……」

「なんですか?」

 栗田は恐る恐る安積のほうを見ながら、

「だって、女の子は助かったはずでしょ」

「ええ、幸運にもね。でも、同じアパートに住む人が女の子の声に気づかなかったら、どうなっていたか。過去に起きた事件と同じように、最悪の結末を辿っていたでしょう。そのことを裁判の関係者も、重々承知していると思いますよ」

 そう言いながら、ベンチに歩み寄る。

「栗田さん。あなたにとって、貴重な情報を一つ教えてあげます」

風が吹き、安積の前髪を揺らす。

「今回つかまった犯人の男、名前を杉山博也と言いますが、我々は彼にも治療の通知書を出していたんですよ」

「えっ」

「でも、あの男は無視した。私たちが奴のアパートに行ったときは、もう引っ越した後。それからも秘密裏に捜索を続けていましたが、結局、こんなことになってしまった。治療が必要だとわかった瞬間に、通知も報告もせず、治療施設へ強制的に入院させればよかったんだ。そうすれば、今回のような悲劇も防げたはずです」

 そう言って口元を歪め、眉間に深い皴を寄せる。それは安積が初めて見せる人間らしい表情だった。だが、それもすぐに消え、また静かな目が栗田に向けられる。

「栗田さん、私はね、犯罪の被害者を減らすとともに、犯罪者そのものも減らしたいと考えているんです。でないと、この戦いに終わりは見えない。あなたは今、崖っぷちに立っていて、そこから抜け出すために適切な方法をとらなくてはいけない。それが、あのカードを使うことなんですよ。その意味をよく考えてください」

 そう言い残すと、安積は去って行った。



「どうぞ、こちらへ」

 案内された場所は思いのほか広かった。小学校の教室3つ分くらいはありそうなスペースだ。部屋の壁を覆い尽くすように薄型液晶パネルが設置され、その大画面に無数の少女たちの顔が映し出されている。

 栗田は、その様子にしばし目を奪われていたが、

「こちらが操作画面です」

と言う職員の声に気を取り戻し、大画面の右側に移る。

「まず最初に画面の横にあるこの機械にカードを入れてください。すると年齢、人種、身長、体重、容姿の順番で質問が表示され、画面には少女の顔や全身も映し出されます、それらも参考にしながら、選んでください」

 栗田は無言でうなずく。無意識のうちに唇をなめていた。

「すべての情報が揃いましたら、1、2分ほどであちらから出てきます」

 職員はそう言って、大画面の左側を指差す。そこには回転扉のような入口が設置されている。グレーのガラスで覆われているため、中の様子はわからない。

「あっ、あの、出てくるっていうのは、その……、どういう風に出てくるのでしょうか」

「はっ?」

「あっ、いや、だから」

「普通に歩いて来ますよ」

 短くそう伝えると、職員は部屋を出て行った。

一人残された栗田は、小さく深呼吸を繰り返してから児童販売機利用カードを挿入する。数秒足らずで画面に質問が表示された。

家で何度もシミュレーションを行ったので、5分もかからずに決まった。

『こちらでよろしいですね』

という表示とともに、画面に少女の全身像が映し出される。

 7歳、身長120cm弱、体重23kg、髪は黒で肩くらいの長さ。二つ結び。黒目が大きく、笑うと涙袋と八重歯が目立つ

 まさに理想の女性だ。頭の中で何度も何度もイメージした。今回だけじゃない。ずっと前から。でも、それに話しかけることも、触れることもできないと諦めていた。その夢がついにかなう。

 栗田は迷わず、ОKボタンを押す。すると、画面から少女の映像は消え、

「しばらくお待ちください、しばらくお待ちください」

 その文字が表示される。10秒、20秒、30秒……。

 時間が経つに連れて、呼吸が早くなる。足が震え、わきの下から出る汗が止まらない。

 _______まだか、まだか。

 焦りがピークを迎えたとき、回転扉が開いた。

 最初に見えたのは白い足、次に水色のワンピース、そして、すべてが現れた。

 少女はそこに立っていた。かかとを揃えて、手を後ろに回して。どこか恥ずかしそうな表情を浮かべている。

栗田はあまりの衝撃に足がすくんでしまい、少女に歩み寄ることができない。両足に力を込めようとするも、根を生やしたかのようにピクリとも動いてくれない。顔を真っ赤にして力をこめると、なぜか涙が出てくる。

 そのとき、彼女と目があった。汚れを知らない瞳を揺らしながら微笑む。自分のほうを見て笑ってくれている。そして、彼女のほうから近付いてきてくれる。一歩一歩、ゆっくりと。だが確実に。

「はっ、はっ、はっ」

 栗田は体中が震え、呼吸すらまともにできない。両足だけでなく、指も、肩も、首も硬直していく。

二人の距離が1メートルに縮まったところで少女は立ち止まり、

「こんにちは」

 そう言って、ニッコリと笑う。

「こっ、こっ……」

 緊張なのか、うれしさなのか。声がうまく言葉にならない。

 少女は、そんな栗田に対しても、やさしい表情を崩さない。そして細い腕を伸ばし、ソッと栗田の右手に触れる。彼女の手からはたしかに人間のぬくもりが伝わってきた。

 ドクンッ!

 栗田はもう何も考えることができず、少女を両手で抱きしめた。絹糸のように滑らかな黒髪が、栗田の腕をなでる。

「あああぁ」

 思わず嗚咽がもれる。彼女の髪からは花の蜜のような香りが漂ってくる。

「ふふふ」

 自分の腕の中で、小さな笑い声がこぼれる。どんな顔をして笑っているのか。それを確かめようとしたとき、栗田の記憶は途切れた。




「麻酔薬の準備は大丈夫?」

「はい、できてます」

「チューブは3ミリから6ミリまで用意しておいて」

「わかりました」

 ___________ んっ、んっ、なんだ……。まぶしい。

 栗田はベットの上で横になっており、真上から強い光が当てられていた。とても直視できず、右手で光を遮ろうとしたが、

「えっ?」

ロープでベットに縛りつけられている。左手も。

「えっ、えっ」

 事態がまったく飲み込めない。自分はさっきまで黒髪の少女と一緒にいたはず。彼女は一体どこに消えたのだ。

「先生、患者さんが意識を回復されました」

「あ、どうも、栗田武則さんですね。今日、あなたの治療を担当する森川です。どうぞ、よろしく」

 男はマスクをして、頭にも滅菌フードをかぶっている。表情を確認できるのは目元のあたりだけ。ぎょろ目がこちらを向いている。

「えっ、あの子は? どこに行ったんだ」

 辺りを見回すも、視界に入るのは白い服を着た者だけ。

 __________看護師?

 ベットの脇にはモニター画面。注射器やメス、薬ビンなどもおいてある。だがいくら見回して、少女の姿はどこにもない。

「おい、あの子はどうした! 水色のワンピースを着た女の子。おれと一緒にいただろ。どこへやったんだ!」

 栗田がつばを飛ばして怒鳴っても、誰も何も答えてくれない。 

 森川と名乗った医師が栗田の顔を覗きこみ、

「あなたは、この前の精密検査でC判定と出ました。でも、厳密に言うと、Cマイナス。C判定にも2つあって、CプラスはB寄り、CマイナスはD寄り。そして、Cマイナスと出た人には追加検査があって、それがこの児童販売機利用カードなわけです。これを積極的に利用した人はより重度の小児性愛者の可能性が高いので、C判定を改めてD判定になります。つまり、栗田さんは入院が必要となり、早速今から治療を行います。じゃあ、注射器を持ってきてくれ」

「は~い」

「ちょっ、ちょっ、ちょっと待ってくれ。なんだ、これは。どういうことだ!」

 あの子はどこに行ったんだ。どこへ消えたんだ。

返してくれ。返せ! あれは、おれのものだ。

おれがずっと追い求めていたものなんだ。彼女さへ手に入るなら、ほかに何もいらない。仕事も、お金も。

だから返してくれ。どこに隠したんだ。

もしかして……、児童販売機になんて最初からないのか。おれはだまされて。

いや、そんなはずない。あの子はおれの手を握って、おれは彼女を抱きしめた。あのとき、確かに体温を感じたんだ。肌に触れることができたんだ。あの感触はうそじゃない。たしかに、俺の目の前にいたたんだ。笑いかけてくれたんだ。

それに、それに……。

積極的に利用ってどういうことだ。おれは最初、拒んだんだぞ。利用する気なんてなかったんだ。それをあの男が、あいつがおれがそそのかして。

「おい、あいつを呼んでくれ。安積とかいうメガネをかけた男。おれはあいつにはめられたんだ」

 叫び声をあげるも、それに反応するものは、この部屋に一人もいない。そして数人の看護師がベットに近づいてきたかと思うと、栗田の首、さらにはおでこを押さえつけ、ベルトのようなもので拘束する。いつの間に両足も動かせなくなっている。

「おいっ! やめろ、やめろって!」

「はい、動かないで。もう始めますからね」

「何をする気だ! やめろっ!」

「まずは眼球に注射を刺します。は~い、危ないから動かないで」

 医師が右手に持っている注射器の先端が、自分の視界に入り、その距離がどんどん縮まっていく。顔を左右に動かそうとしても、看護師たちが抑えつけるので、身動きが取れない。

「は~い、そのまま、そのまま。ちょっとチクッとしますよ」

 針が右目の視界のすべてを支配し、栗田から光を奪った。

 ブスッ!

「がぁ~~!」




 安積は、人気のない廊下を歩いていた。

 天井の照明はところどころ光が弱くなっており、そんなところに限って峨がたくさん寄ってきている。

 ________栗田の治療はもう始まってるかな。奴も決して安心できない。治療が完了するまで、社会に出すものか。

 安積はズボンのポケットから携帯電話を取り出し、ボタンを押す。20秒ほどして相手が出た。

「もしもし、義兄さん。俺です。涼太です。すいません。連絡が遅くなってしまって。__________ いやいや、そんな。迷惑だなんて。いつでも連絡くださいよ。___________ええ、ええ。そうですね。__________でも、本当に助かってよかった。俺も最初にニュースを見たとき、本当に心臓が止まりそうになって。___________ええ、そうですね。たぶん、そうしたほうがいいと思います。__________ それで、その……、胡桃ちゃんの様子はどうですか。今は姉貴が一緒についていると思いますけど。______ ええ、まあ、そうですよね。体に心配はなくても、心のほうがね。あの男と何日も一緒に生活していたんだから。___________もしよかったら、子ども専門の精神科医を何人か紹介しますよ。ツテがあるんで。俺も少しでも力になりたいんです」


 

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