猫町の珈琲屋さん

櫻井彰斗

珈琲が飲めませんっ

 

 見られている……。


 紗凪さなは、カウンター席で水を飲みながら、横目に、窓辺に立つ店員を窺っていた。


 ウエイターの黒いエプロンをつけた有森先輩がこっちを見ている。


 睨まれている。

 そして、思われている、絶対――。


 何故、珈琲を頼まないのかと。


 この珈琲専門店でっ!


 森の中――


 のように見える、猫がそこ此処に居る港町の素敵なお店。


 大きく開け放たれた窓からは、店を囲む木々のその新緑の隙間を通り抜けてきた風が涼やかに吹いている。


 この高い木々のせいで、店の中に居ると、まるで、森の中に居るように感じられるのだ。


「はい、お待たせ」

とマスターが、自分の前に、カリカリのトーストとホットミルクを出してくれる。


 分厚く斬られたトーストの表面はわずかに焦げてカリカリで、中は真っ白く柔らかい。


 そのカリカリの部分に、たっぷりのバターが溶けて染み込んでいる。


「朝、私はこのお店で、一枚のトーストを齧ってから仕事に行くのが日課なんです」


 カウンターで紗凪が語ると、

「そこは、一杯の珈琲だろうがっ。

 此処は珈琲専門店だと何度言ったらわかるんだ」

と側まで来た有森哲太てつたが言ってくる。


 紗凪は、哲太を振り向き、

「それに、此処に来ると、学生時代は、金網越しにしか見つめることができなかった先輩とこうして対等に口がきけるので、嬉しいです」

と言った。


「……日々、怒鳴られてるだけだよな?」

と哲太は確認するように言ってくる。


 まあまあまあ、と何処でこの凶悪な先輩と血がつながっているのか知りたい温厚なマスターが言ってくる。


 友人に連れられ来たこの店で、紗凪は高校時代、憧れていた先輩に出会った。


「あの頃は、テニス部の先輩を金網越しに眺めるだけの帰宅部の私だったのに」


「……居たな、なんか網に張り付いてたのが」


「覚えててくださったんですか?」

と言うと、


「あんまりいい記憶じゃないけどな」

と客が帰ったあとのテーブルを拭きながら、哲太は言ってくる。


 プレーに集中できなかっただろ、と言われた。


「いや、一段とカッコよくなられてて。

 大人の色気と言うんですか?


 そういうのがあったから、一瞬、別人かなあ、と思ったんですが。

 相変わらず、凶悪な目つきだったので、本人かなと」


「お前……思ってるままを口にするのはやめろ」


「紗凪ちゃん、声かけてみればよかったのに、哲太、女の子の友達少なかったから、喜んだよー」


 あっ、なにを言うっ、という顔で哲太は叔父を振り返っていた。


「そうでしょうねー」

「でしょうねってなんだ……」


「格好いいけど、目つきが怖いって有名でしたからー。

 それに、あの頃はテニスも強くて、なんだか近寄りがたい存在だったんですよー」


「それ、今は近寄りがたくないって話か……?」


「行ってきます、マスター」

と紗凪は返事をせずに、立ち上がる。


「はい、いってらっしゃい」


 この『いってらっしゃい』もなんか嬉しいんだよな、一人暮らしだから、と思いながら、紗凪はレジでお金を払って外に出た。


「都合が悪くなったからって、逃げんなっ。

 次来たら、飲めよっ、珈琲」

と哲太の声が追いかけてくる。


 森のような庭を抜けると、突然、海の見える道に出る。


 防波堤の上や、家の前、ポリバケツの上など、そこ此処でゆったりと猫がくつろいでいる。


 一人暮らしは寂しいかな、と心配していたけれど。


 引越しの日、アパートの近くをうろついている猫たちを見たとき、やっていけるかな、と思った。


 足許に来た、人慣れした、ヒゲの長い猫の顎をくすぐりながら、

「先輩にも会えたし、いい町ですねー、此処」

と猫に話しかける。


 あと、これで珈琲飲めたら、先輩にも叱られずにすむのになー、と思いながら顔を上げる。


 海の香りがしていた。

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