眠れぬエトランゼ
おイモ
眠れぬエトランゼ
さよならは最期にとっておくものよ。
リタはグラスの中のタラモアデューが溶け始めた氷と馴染んでいくのを眺めて言った。
私が初めてさよならした相手は5cmちょっとくらいの子宮だったわ。
僕は黙ってマッカランの水割りを啜っていた。
リタは琥珀色のタラモアデューに向かって語り始めた。
さよならしたと言ってもね、彼女の姿は見ていないのよ。麻酔が切れた時にはもうおそらく彼女は死んでいたし、多分子宮を摘出する女の人は自分の体内から引きずり出された子宮を見たいなんて言わないと思うしね。それでも私は見てみたかったのよ。生物として確実に経験する交尾も知らずに、ただ月に一度血をバカみたいに流して、そして死んでいった哀れな私の一番大切だった器官をこの目で見たかったのよ。彼女に面と向かって「惨めだね。哀れだね。可哀想」って言ってあげたかった。わたしはただハッキリさせたかったのよ。わたしはあなたに支配されてなんていないしこれからも支配されるつもりなんてない。わたしはあなたをずっと殺したかった。わたしの中でわたしの人生を弄りまわす器官であるあなたをずっと殺したかった。あなたの存在を感じるようになってからわたしはあなたのことがずっと嫌いだったわ。だからハッキリさせたかったの。わたしは決してあなたに屈することはないって。彼女はわたしに負けたのよ。そしてわたしは女として一番大切なものを失ったの。何も得ていないのよ。
僕のグラスはもう空っぽで、彼女はグラスに一切口をつけていなかった。
ねえ、わたしを女だと思う?
「君はそれを失って後悔しているわけじゃないだろう?僕を試しているのか?」
違うの。ただ怖いのよ。あなたはもうただの他人じゃないの。だからさよならする必要があるかもしれないじゃない。さよならはもう当分したくないの。自分から去るより去られる方がずっと楽なのよ。自分を責める意味ができるから。
「君は本当に自分のことしか考えてないんだね」
僕はリタから薄まったタラモアデューを取り上げてゴクゴクと喉を鳴らして飲み干した。
ごめんなさい。考えても考えてもこうなっちゃうのよ。あなたはわたしをどう思っているか気になるの。あなたがどう思うかなんてあなたの口からじゃないとわからないわよね。多分わたしは自分の中のあなたという虚像に怯えて、甘えているんだと思うわ。この消えかかる虚像と共にする気持ちがあなたにわかる?いえ、ごめんなさい。あなたはわかるはずよね。あなたの瞳がそう言っている気がするわ。わたしの中の虚像のあなたと今目の前にいるあなたが混ざり合っているわ。もうわからないの。ごめんなさい。何一つあなたを納得させられる理由も言えない。わからない。わからないの。本当はね、ただあなたの空ろな優しさに甘えたいの。あなたの底知れぬ闇に怯えたいの。やっと言えたわ。でもこんなんじゃあなたはわたしを何一つ理解できない。理解されたいと思いたくない。思いたくないの。でも理解されたいと抉られたはずの下腹部の奥が叫ぶの。ねえ、もうバカみたい。ねえ、そう思わない?助けて欲しいの。息ができない。ねえ、深い夜に落ちていくわ。あなたにこの手を掴んで欲しいの。ねえ、お願い、助けて。
僕はこれを恋と呼ばないと思う。僕は彼女にたまたま欲望と絶望の臓器がないだけで彼女はそこらへんにいる思春期を拗らせた少女と変わらないと思う。僕にもっと欲望と勇気があったらこの拗れた少女と触れ合って気持ち良く溶け合いたいと思うが、残念ながら僕にはそれが欠落しているのと、悲しいことに彼女には子宮がない。彼女が感じている感覚はどんな世界のものなのだろうか。彼女の身体のどの部分から発されたものなのだろうか。これが恋なのだとしたら本当に馬鹿げたシステムだと思う。恋はもっとドロドロと生暖かくて、盲になるほど激しく燃えているはずのだ。
ただ僕がリタに対して素直になれないのは僕の中のリタの虚像がとてつもなく素敵だったからかもしれない。愚かなことに僕は彼女の告白を聞いても彼女の中に子宮があると信じて止まなかった。そんな僕が存在していた。常識とか良心とかそういう世界とは、そういうカテゴリとはまったく違う層に彼は存在していた。そんな愚かな僕はこれが恋だと深淵の見えない果ての片隅で信じていた。
「とにかく今日はゆっくり寝ようよ。今日だけじゃない。ゆっくり寝なくちゃダメなんだよ僕らは」
いろんなものを失った人間が皆そうであるように、僕らは常に相手を恐れていて、また一方で新たな世界が切り開かれるのを待っていた。
だからお互い苦労して握った手の温もりが、それ以上何もないと語るのいやでも聞かされた。お前ら堕落した人間はその先へ進めない。さあ、さよならだ。
さよならが待っている。
眠れぬエトランゼ おイモ @hot_oimo
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