アスール・ルーノ

おかゆ

第1話


私は蒼い月の夜に生まれた。

 “蒼い月”とは、その月の、二度目の満月の日のこと。

月の民と呼ばれる、私たち一族には、“蒼い月”に関する伝承がある。“蒼い月”の夜に生まれた子どもは、強い力を持つと言われ、男の子は一族の勇敢なる戦士になる。しかし、女の子は力が有りすぎるために、コントロールを失い、一族を大きな災いに巻き込み自滅する。

私は女の子だったから、当然、忌み嫌われてしまった。

強い力なんてないのに、産まれた日が“蒼い月”の夜だったからと言うだけで、子どもの頃から必要以上にいじめられて、ひとりぼっちのことが多かった。

 その上、私が生まれたと同時に、母は力尽きるように亡くなったせいか、「生まれながらの親殺し」と陰口をたたかれた。その上、父親は一族以外のどこの誰かは、解らない。

私は両親の顔を知らないまま育った。物心がついた頃からずっと、私には、親代わりのおばば様しかいなかった。

 おばば様は、一族の長老で、医者で、そしてカードを操る預言者でもある。

 私はおばば様に、医療のこと、未来を歩くための指針になるカードのことを教えてもらい、一族特有の力である、癒しの力を鍛えて貰った。だから今は、人並みの癒しの力を持てたから、おばば様には感謝をしている。

 普通の子供なら経験できない様々なことを、おばばさまから教えて貰った。

 私にとって、おばば様が、両親であり、先生であり、友達だった。

 おばば様は、私が泣きそうな時は、決まって同じ童話を聴かせてくれた。

『昔、昔、あるところに、癒しの力を持った大変美しい月の姫と、輝く黄金の太陽のような勇敢な騎士がいました。蒼い月の夜、ふたりは出会いました。ふたりは一目で、お互いに運命の相手であることを悟り、恋に堕ちました。しかし、騎士は、この世界の平和をもたらすために、戦いの旅に出なければなりませんでした。騎士は言いました。「私は必ず戻ってまいります。それまで待って頂けませんか?」月の姫は、騎士が運命の相手だと解っていたので、待つことにしたのです。それは、長い、長い、時間でした。そしてとうとう戦いに勝った太陽の騎士は、蒼い月の姫を迎えに行ったのです。輝く太陽の騎士と、蒼い月の姫が結ばれた瞬間、世界に平和が訪れたのです。ふたりは、ひとつになり、いつまでも幸せに暮らしました』

 何度も何度もその話を聞かされて、私は大きくなった。

 蒼い月を見る度に思い出す、温かで幸せな童話。

蒼い月の夜に生まれた私は、童話に甘い夢を見ながら、今夜も眠りにつく。







 1


「眩しい程に輝く黄金の太陽と蒼い月が、とうとう出逢うのか……」

おばばがタロットカードを片手に溜め息を吐くのが聞こえて、ルーナは一瞬、声を掛けるのをためらった。だが、おばばはルーナがいることに気付き、ゆっくりと振り返り、いつものように静かな眼差しでルーナを見る。

「あ、あの、おばば様、行ってきます」

「いっておいで。アーキル殿に宜しくな」

「はい。先生に言っておきます」

鮮やかな朝陽に包まれながら、ルーナは張り切って、今日も仕事に出掛けた。

今日もどれだけの人のためになれるのか。それがルーナの楽しみだった。

ルーナは、十四の頃から、町で評判の医師の助手をしながら、医術を学んでいる。今年で三年になる。

師匠である医師アーキルのいい加減具合が好きだ。いつものんべんだらりとしてはいるが、医術の腕が確かなのは、誰もが認めるところだ。誰でもわけ隔てなく診療する姿勢も、ルーナは尊敬していた。ずっと助手を取らずにやってきたが、おばばの頼みで、ルーナを預かって、医者として育ててくれていた。それには深く感謝している。

だからこそ、いつか、民族の垣根を越えた立派な医者になりたいと思う。

「ルーナ、いってらっしゃい!」

「行ってきます、おばさん」

洗濯物を干す途中で声をかけてくれた近所のおばさんに挨拶をして、ルーナは町に向かって駈けてゆく。

月の民だけが暮らすオアシス村は、砂漠が近いせいもあり、焼けた砂の独特な臭いがする。人々の汗と砂が交り合う風の臭いは、ルーナにとって、安心出来る臭いだった。心を震わせる故郷の臭いだ。

何もない砂埃の臭いがする道を、ルーナはすんなりとした細く長い足で、まるで小鹿のように駈けて行く。砂漠に小鹿とは妙な取り合わせだと、笑われることもしばしばだ。医療器具が入った鞄を肩から掛けて、ルーナは飛ぶように走った。

一族とも、昔に比べると上手くいってはいる。だが、まだ“蒼い月”の生まれと言うだけで、一部では疎まれたり、差別されたりしている。特異な力などないにもかかわらずだ。

疎まれた存在だから、ルーナは誰よりも人々を癒したかった。

ルーナは漆黒の癖のある肩までの短い髪を揺らしながら、町外れの診療所に向かう。多くの人を癒すことが出来、自らも癒される、ルーナの大好きな場所だった。

「アーキル先生、おはようございます!」

ルーナが診療所の扉が壊れてしまうぐらいの勢いで開け、いつものように元気よく挨拶をすると、アーキル医師がボサボサの髪のままで、面倒臭そうに奥から出てきた。

「おう、おはようさん、ルーナ。朝から元気だな」

相変わらずの無精髭を生やして、ボサボサの髪をポロポリとかき、アーキルはあくびをしながら挨拶をする。

「早くしないと、患者さんがやってきますよ。さあ、準備をしましょう!」

「ああ。お前さんが準備をしといてくれ。俺は、まだ朝メシも食ってねえんだよ」

 アーキルは白衣を風のようになびかせて着こむと、こきこきと首を鳴らした。

「はいどうぞ。どうせそんなことだろうと思って、ピタを作ってきましたよ。それ食べたら、仕事をしましょう」

 ルーナは家から持ってきた、野菜が入ったピタをアーキルに差し出す。すると、アーキルの目がらんらんと輝いた。

「おっ! 流石はルーナだな。おかんよりも気がきく」

「おかん扱いしないで下さい。待っている患者さんがいっぱいいるんですからね」

「おうよ」

 アーキルは名産のお茶を片手に、ピタを頬張りながら頷く。本当に子供みたいだと思う。だが、その医術の腕は、この国で最高なのだから、そのギャップが可笑しかった。

まるで子供のように、口から野菜をぽろぽろと零しながら、アーキルは食事を済ませる。白衣に袖を素早く通すと、彼は別人のような、精悍な表情に切り替わる。

 医師としてのスイッチが入ったのだ。

「おし、ルーナ。仕事を始めるぞ!」

「はい! 先生」

 ルーナが診療中の看板出すと、早速、患者たちが大勢やってくる。

小さな町の一介の医師としてくすぶるにはもったいない腕を持つが、皇室の専属医師にという申し出も断り、アーキルはこの町で人々を癒す医師として活躍している。ルーナは、いつも庶民に寄り添うアーキルを尊敬していた。

「アーキル先生、どうも腰が痛くてね」

 働き者の町のおばあさんが、腰をさすりながら苦しそうに、診察室に入ってきた。

「どれどれ。ルーナ、お前の手で癒してやれ」

「はい」

 アーキルに言われ、ルーナは深呼吸をして精神を集中させながら、腰に手を充てる。しばらく腰に手を充てると、おばあさんはホッと息を吐いた。

「ルーナ、有難うね。お蔭で随分と楽になったよ」

「ばあちゃん、後は、薬草で作ったこの薬を飲んでたら治っから」

 アーキルは薬を手早く処方し、おばあさんに手渡す。すると、おばあさんは、皺の刻まれた顔に笑い皺を刻む余裕すら出ていた。

「相変わらずテキトーだね。アーキル先生は」

「おうよ、テキトーなのが俺の信条だからな」

「まあ、その気取らないところが良いけれどね。ルーナ有難うね。先生、またね」

「はい」

 先ほどまで、腰をさすっていたそうにしていたおばあさんが、今は元気になって軽々とした足取りで歩いている。その姿を見送りながらルーナは嬉しくなる。多くの患者の癒された喜ぶ姿が見られるから、ルーナはこの仕事を一生止められないだろうと思った。

 午前中、多くの患者を看て、ルーナは心地好い疲労を手にしながら、診療室の奥にある部屋に入った。

「うわっ!」

 何かを踏んで躓いてしまい、ルーナはそのまま転んでしまった。一瞬、痛かったが、いつものように石で出来た床に転ぶよりも、柔らかな痛みだった。

「いたっ!」

「こっちが、痛いだ!」

「え!?」

どこか透明感のある男らしい声が聞こえて、ルーナが目を丸くして振り返ると、そこには見事な金髪を持つ美しくも精悍な男が転がっていた。気だるそうな瞳をルーナに向けて、軽く睨みつけてくる。

 まさかこんなにも綺麗な男の人がいたとは思わなくて、ルーナは慌てて体勢を整えると、直立不動になった。

「ご、ごめんなさいっ!」

 ルーナが細い身体を深々と折り曲げると、後ろから呆れるような溜息が聴こえた。

「ソーレ、お前さんがそんなところで寝てるから悪いんだろうが。ルーナも、まさかこんなところで人が寝てるなんて思わんだろうが」

アーキルの呆れ返る声に、ようやく男は起き上がる。

「何処に寝ようが俺の自由だ」

「ここは俺の家だ、ソーレ。誰を寝せるかを決める権利は俺にある」

アーキルは明らかに不快そうに言うと、ソーレと呼んだ男を真っ直ぐ見つめた。

「最近、疲れてたからなあ。ま、お前の家は俺の家も同然」

ソーレも、アーキル同様に、大木の幹よりも太い神経の持ち主のようだった。

ルーナはふたりが友人であることは、至極当たり前のことのように思った。この男にして、この友人有りだ。

「アーキル、腹減ったから、飯を食わせてくれ。夜通し馬を走らせてここまで来たから、朝飯食う暇がなかった」

ソーレは、まるで我が家に寛ぐかのように、古びたダイニングチェアに腰掛ける。脚が長いせいか、どこか窮屈そうだった。

「それは大変でしたね。だったら、一緒に作りますよ。カレーだから増えても変わりませんから」

ルーナがくすくすと笑いながら言うと、ソーレは、まるで食事を前に甘える仔猫のように瞳を爛々と輝かせた。

「ホントか!? アーキルの助手にしては、良い出来だ。頼んだ!」

「はい」

「ルーナ、そいつを甘やかすな。いっそ、カレーに毒草を混ぜても良いからな!」

アーキナルはわざと厳しく言うと、ソーレを、睨み付けた。一瞬、ソーレの表情が鋭くなる。

「……“ルーナ”。月の子か……」

 ソーレは低く良く通る声でひとりごちると、一瞬、厳しい眼差しを宙に向けた。その瞳は、まるで鷲のように光っていた。

「あ、あの。私の名前が何か?」

 ソーレの雰囲気が一瞬にして張り詰めった糸のように変わったので、ルーナは戸惑いながら声をかける。

「“月の子”だろ? お前」

 太陽の光を吸収してプリズムに換えるソーレの瞳に真摯に捕えられて、ルーナは落ち着かない気分になる。緊張と困惑の空気を吸いこんでいるかのようだ。

 “月の子”----蒼い月の夜に生まれた子供の総称だ。ルーナは蒼い月の夜に生まれたが、そのように言われたことは今までなかった。

「そう呼ぶ人は、いません。私は、確かに蒼い月の夜に生まれましたが、力がないのでそうは呼ばれません。“月の子”と呼ばれるのは、それに相応しい力のあるものだけです」

 自分で言っておきながら、まるで小さな虫にでも刺されたかのように、ルーナの胸はチクリと痛んだ。本当にそうなのだからしょうがないと思いながらも、ふがいなさも感じていた。

「じゃあ、ご飯を作ってきます」

ルーナはキッチンに立って、持ってきたカレーを鍋で温め直す。月の民で大々的伝わっている秘伝のカレーなのだ。それを石焼きのナンにつけて食べるのだ。ルーナも大好きなメニューだ。

「良い匂いが漂ってきたなあ」

ソーレは先ほど見せた緊張感などなかったかのように、のんびりと呟きながら、嬉しそうに微笑む。微笑むと少年のように純粋なひとだと、ルーナは思った。

 ルーナは、粗末な木で出来たダイニングテーブルの上に、三人分の昼食を並べる。すると、ルーナよりもずっと年上の大の男ふたりが嬉しそうな表情を浮かべた。

「じゃあ、食べましょうか。いただきます」

「いただきます」

 三人で手を合わせた途端、男たちふたりはカレーに貪りつく。確かに一族に伝わっている秘伝のカレーはかなり美味しくて、ルーナも夢中になって食べるほどだ。空いたお腹にはよい刺激だ。

「上手いな、流石は月の民の特製カレーだな」

 ソーレは感心するような言いながら、まるでお腹をすかせた子犬のようにがつがつと短い時間で平らげる。

 一旦、食事が終わってしまうと、大人の男たちも満たされたせいか、落ち着いた表情になった。

「----ソーレ、第一騎士団団長であるお前が、わざわざこんな田舎に早馬で出向くなんて、よほどのことなんだろう?」

 いつものどこか茶化した雰囲気ではなく、アーキルは、見る者を怯えさせてしまうほどに鋭く冷たい眼差しを、ソーレに向けた。ソーレもまた、平然と視線を受け止める。

 先ほどまでは、あんなにも親しみやすい雰囲気だったのに、ソーレは怜悧で厳しい表情を浮かべる。第一騎士団と言う、帝国の騎士の中でも精鋭たちを束ねている団長には相応しい目つきだと、ルーナは思わずにはいられなかった。

「おばば様に神託を貰いに来た」

 ソーレは、アーキルではなく、ルーナだけを真っ直ぐ見つめた。まるでアーキルには用がないとばかりの目遣いだった。

「神託なら、他の者でも良かっただろうに。それに、信託の場合はおばば様が、帝都に出向く場合が殆んどだろ? お前がこんな片田舎の町に来るなんて、疑わんほうがおかしいだろうが」

アーキルは、ソーレの真意を探るような視線を投げ掛ける。

確かに、アーキルの言う通り、皇帝からの依頼でおばばが星読みをする場合、帝都に出向いている。ルーナは同行したことなどはないが、それが普通だと思っていた。

アーキルとソーレの間に緊迫感が漂い、ルーナは少し外したほうが良いのではないかと、本能で感じた。

「お前には嘘は吐けないからな。陛下からの別依頼で来た」

「やっぱりな」

ここまで聞いたところで、ルーナは奥に引っ込んだ方が良いと思い、部屋から出ようとした。

「ルーナ、待て。この男はお前に用があるようだ」

アーキルはあっさりと言い、何時もからは想像できないぐらいのナイフのような鋭い視線で、ソーレを見た。

「お前は何から何までお見通しだな。そうだ、俺は、月の子に用がある」

ソーレはあっさりと認めると、怜悧さが滲んだ眼差しをルーナに向ける。こちらが震えてしまうような冷たさと鋭さを持った眼光だった。

「率直に言う。月の子よ。お前のヒーラーとしての力を借りにきた」

「わ、私のですか!?」

ルーナは驚きの余りに、目を丸くする。まさか、自分が指名されるとは、思わなかった。

だが、どうして自分が指名されたのか、ルーナは解らない。自分よりも強いヒーラーは、月の民にはいくらでもいる。ルーナは並のヒーラーだからだ。

「……私はヒーラーとしては普通です。とりとめて凄い能力があるとは思えません。帝都の第一騎士団団長が請うような能力を持ったヒーラーではありません」

帝国のエリート中のエリートである、第一騎士団団長がわざわざ指名するような力はない。それは自分が一番解っていると、ルーナは思った。

ルーナは首を横に振ると、唇を固く噛み締める。蒼い月の夜に生まれたのに、全く力なんて持ち合わせていないのだから。

最近は、それを強く感じさせられる。だからこそ、そんな自分が腹立たしいとすら思った。

「お前は誰よりも潜在的な力を持っていると聞いている」

「かいかぶりです。蒼い月の夜に生まれても、たまに私のように能力が発揮できない者もいるんです。おばば様が言ってました」

「それはお前がちゃんと力を使ってはいないからだろう。いや、力はあっても、まだまだ充分に引き出せないからじゃないのか? まあ、とにかく。今、お前の力が必要だ。皇室のあるお方がご病気で、ヒーラーの力がどうしても必要だ。それも強い力の。そこでお前に白羽の矢を立てた」

 ソーレは切れるような眼差しで真っ直ぐルーナを見つめてくる。この太陽のように堂々とした鷲の瞳からは逃れられない。だが、自分にはそんな能力がない。

「私には無理です」

「やってみないと解らないだろうが、そんなことは。やる前から言うな」

ソーレは冷たく突き放すようにピシャリと言い放つ。先程の明るい青年騎士の面影はなく、厳しい騎士団長の顔になっていた。何事にも冷静に対処するだろう男の顔だ。ルーナは眼を見開いたままで、思わずソーレを見返す。厳しくも真摯な眼差しで、ルーナをただ捉えている。逃げたくても、逃げられないほどの力強い目だ。

「俺はお前に白羽の矢を立てた。頼るのはお前しかいない」

「……おい、ソーレ、ルーナ以上の能力者などゴロゴロとしているだろ」

アーキルが怪訝そうに言ったが、ソーレはクール過ぎる表情のままで、首をキッパリと横に振った。

「……既に試したさ……。帝国一のヒーラーにも来てもらった。それでもダメだった。で、お前のところに医術修業をしている、おばば様が育てた月の民の子がいると聞いてな。しかも“月の子”らしいと。おばばと帝国一の医師と言われたお前から学んでいると聞いて、興味があった。ひょっとして、何とか出来るかもしれないと、俺は思った」

ソーラは、美しい青い瞳をクールに輝かせながら、鋭く向けてくる。

「……だけど、解っただろう。こいつは普通の女の子だ。まだまだ幼い。それにヒーラーではあるが、普通のヒーラーだ。取り立てて能力があるわけではない」

アーキルは、いつものちゃらけた態度が想像できないぐらいに、情け容赦ないきつい口調で

言うが、それでもソーレは怯まない。

「俺はそうは思わない。だからこそ、ここまで来た。お前と月の子が一緒であれば、治せるかもしれない……。お前たちは最後の希望だ」

「そんな根拠はねえだろう、ソーレ」

アーキルは益々不機嫌になる。絶対に拘わらないとばかりに、かなり頑なな態度だ。頑固に腕を組み、眉間に険しい皺を作って気難しい顔をしている。精悍に整っている容貌だからこそ迫力がある。こんなアーキルは見たことがないと、ルーナは思った。

「アーキル、お前も月の子の潜在能力の高さを、薄々気づいているから、言うんじゃないのか? ただ、引き出す力がまだついていないというだけで」

「知るかよ、そんなこと……。だが、俺が知る限りは、ルーナは普通のヒーラーだ。俺は、ルーナを医師として立派に育てて、ヒールと医術の両方で人々を救って貰いたい。そう考えているだけだ」

 アーキルは医師としての厳格さを冷たい炎に換えて、ソーレに見せつける。ソーレはそれを薄笑いすら浮かべて、堂々と受け止める。

「だろうな」

 言って、ソーレは一拍を置くと、アーキルを本腰入れて見つめた。

「-------アーキル、今回、癒やして貰いたいのは、エスメラルダ様だ」

「エスメラルダ……様……」

 アーキルの顔色が変わる。

「ご病気が更に悪化している。せめて現状が打開できればと思っているが……。だから、今回の件はお前と月の子が最適であると、俺は思った」

エスメラルダ。その名前が出た瞬間、普段は感情を表に出さずに飄々としているアーキルの表情が一変する。明らかに動揺していた。

間髪入れずに、アーキルはソーレを見る。何処か思い詰めた瞳だった。

「ソーレ、俺は行く!」

アーキルが即決したことに、ルーナは目を見開く。いつもダラダラとしているアーキルが、こんなにも早く決断するなんて、ルーナは思ってもみなかった。

「ルーナ、帝都に行くぞ!」

アーキルの勢いに、ルーナはたじろぐ。

「え、あ、あの、おばば様の許可を貰わなければ、私は行けません」

アーキルの急変に、ルーナは戸惑いながらも冷静に言った。

「そ、そうか。そうだよな。月の民は、村から出る場合おばば様の許可がねぇとダメだったな……」

「それなら大丈夫だ。おばば様の許可は取った」

周到なソーレに、ルーナは驚き、アーキルはフッと甘い笑みを浮かべた。

「よくまあ、あのおばば様の許可が出たものだ。しかし、診療所を閉めなければならねぇのが、難点だな……」

 アーキルは、毎日のように溢れかえる患者のことを思うと、表情を暗くする。それはルーナも同じだ。患者を癒すことが、ルーナの生きがいでもある。

「それも手配した。これからひと月の間、ヒーラーと医師、それぞれ二人ずつ常駐させる。これならば文句はないだろう」

 ソーレのかなりの用意周到ぶりに、ルーナは驚くばかりだ。アーキルやルーナがこの件を承知するとは限らないと言うのに、根回しをするなんて、侮れないと思った。きっと、どんなに渋っても、ふたりを帝都に連れてゆくつもりだったのだろう。

「すぐに出立の準備をしてくれ。月の子は、村に帰って、おばば様に挨拶をしておけ。お前の準備が終わって、挨拶が終わる頃に迎えに行く」

 ソーレはてきぱきと指示を出す。この辺りが、エリート集団の団長たる所以なのだろう。

「はい」

 ルーナは呼吸を整えながら、しっかりと頷いた。

「月の子、お前は馬に乗れるか?」

「乗れます。自分の馬がいますから」

「よし。かなりの早馬で行くからな。覚悟をしておいてくれ」

「はい」

「では、午後からは、俺が頼んだ医師とヒーラーに来てもらうから、今直ぐに支度に戻ってくれ。人の命がかかっている。時間を争うから、早く出立したい」

「はい」

 ルーナは頷くと、早速、帰り仕度をする。

「では、準備をしに帰ります」

「ああ。準備と留守番部隊の引き継ぎが終わったら、俺とソーレが村に迎えに行くから」

 アーキルはルーナに頷きながら、きびきびした声で言う。いつもののんびりいい加減なアーキルは、きっと仮面にすぎないのだろう。

「私は引き継ぎをしなくても良いんですか?」

「ああ、大丈夫だ。引き継ぎと言っても、そんなに大したことはないからな。だから、お前はすぐにおばば様の所に戻って準備をしておけ。少しの間留守をするから、おばば様に色々と挨拶することもあるだろう」

「はあ……。解りました」

 帝都には、そんなにも長居をするつもりなどない。ここまで言うなんて、アーキルは随分と大げさだと、ルーナは思う。

「じゃあ、出ます。家で待っていますから」

「ああ。俺とアーキルもすぐに支度をしていく」

「じゃあ、後で」

 ルーナは、医療器具を麻の丈夫な鞄に詰め込んで、それを肩から掛けて、診療所を飛び出すように出る。

 なるべく早く準備をしなければならないだろう。急がなければならない。

村まで走っても、走っても、道のりがいつもよりも長く感じられた。


ルーナが家に戻ると、おばばが既に待ち構えていた。総てを解っているからか、堂々とした威厳のある瞳を、ルーナに向ける。凪のような静けさだった。

「……行くのじゃろう……。ルーナ、支度をしなさい……」

おばばは静かに言った後、背中を向けて自分の部屋に入ってしまった。

何処かいつものおばばとは違う。心の機微を余り見せない人だが、今日に限っては、どこか寂しそうにも、いつも以上に高貴な凛々しさがあるようにも見えた。

「……おばば様……」

いつもならば、今回のような依頼があったとしても、半人前のルーナを行かせるようなことは、絶対にしない。それがおばばだ。半人前を行かせると、月の民のヒーラーとしての、医師としての信頼が損なわれるからだ。

だが、今回は許可が下りたのだ。その決断自体が、いつものおばばとは違っていた。

少数民族の月の民を、特に優遇をして保護をしてくれている皇室が相手なのに、今回は、半人前のルーナを行かせてくれる。今までのおばばでは考えられないことだった。

ルーナは部屋に入ると、手早く出立の準備をする。今回は、ルーナにとっては大きなチャンスだ。月の民のヒーラーとして、ひとり立ちするチャンスなのだ。

今回はそんなにも時間は取られない案件なのかもしれない。だからこそ、おばばが行かせてくれたのかもしれない。それに、今回は、アーキルが一緒にいてくれる。一人ではないから、ということもあるのかもしれない。

とにかく。ルーナにとっては、ヒーラーとしての初めての大仕事だ。それを上手く立ち回らなければならない。

ルーナは気持ちを引き締めて準備をすることにした。数日分の衣類と仕事に必要な道具を手早く纏める。どれも大医師であり、大預言者であるおばばから貰った貴重なものだ。

「……どうか、私に力を貸して下さい」

ルーナは医療器具やカードを収納する際に、心をこめて祈るように声をかけた。そうすることで、おばばの力を借りることが出来るのではないかと、思ったのだ。

荷物をまとめた後、ルーナは身支度も整えた。帝都までの道のりは長い上に、砂漠を横断しなければならないため、ポンチョと、月の民の民族衣装とも言える、頭から被るヒジャブを身に付けた。

念のため、月の民に携帯が許されている剣を腰に下げる。

月の民の能力は、帝国内でも認められており、何かあった時のために、護身用として長剣携帯が認められていた。

剣を携帯すると不思議と背筋と心がしゃんとして伸びる。ルーナは深呼吸をすると、心が落ち着き、更に前を向いていかなければならない気持ちになった。

始まるのだ。

準備を滞りなく終えると、ルーナはおばばのところに向かった

「おばば様、ルーナです」

「お入り」

おばばはいつも以上に重厚な声でルーナを部屋に招き入れた。

おばばは背筋を伸ばして、静かに立っている。慈愛と厳しさのどちらも感じられる姿だった。

おばばの部屋はいつも白檀の香りがして、とても落ち着く。今日は特にルーナの気持ちを静めてくれる匂いだった。いつも以上に澄みきった気持ちにさせてくれる。

「ルーナ、こちらへ」

「はい」

おばばは威厳を滲ませながらルーナを見つめる。いつもとは違った、透明な緊張が滲んだ。

「ルーナ、これを持ってお行き」

金属の優しい響きと共に、おばばは、月の細工が細かくされたとても優美な銀色の剣を、ルーナにそっと差し出す。

「これはお前を守ってくれる。ただし、この剣は、お前にしか使えない代物だ。それを忘れぬように。これは、かつてはお前の母親も使っていたものだ。この剣は今までわしが預かっていたものだ。時が満ちたから、お前に返します。大切にしなさい」

 おばばは淡々と話しながら、声と眼差しは慈愛と哀しみに溢れていた。無機質なのにどこか温かい声だ。

 その声に導かれるように、ルーナはおばばから剣を受け取った。

母親が持っていた剣。ルーナは思わず剣を抱きしめる。

おばばから初めて母親の話を聞き、ルーナは泣きそうな気持ちで、皺だらけのおばばの顔を見つめた。

今までルーナの母の話は、禁忌だった。こうして、おばばの口から、母の話が聞けるなんてないと思っていた。ようやく母親の話を少しでも聞くことが出来て、ルーナは涙が溢れるほどの切ない喜びを感じる。

こうしてルーナに母親の話が出来る日を、おばばはずっと待ってくれていたのだろう。それがルーナには有難いと思った・

母の顔も知らず、ましてや父親が誰かも解らない。ずっと触れてはならないと、訊いてはならないと思って、口に出せなかった母親のことを聞けて、ルーナはそれだけでも嬉しかった。

「----ルーナ、月の民の誇りを持って、お行きなさい」

「有り難うございます、おばば様!」

おばばから母の形見の剣を受け取ることが出来るとは、こんなにも嬉しく、魂が震えることはない。魂の震えが、ルーナの指先に伝わる。

魂の底から揺さぶられるほどに感動してしまい、ルーナはその証の熱い涙を溢した。

「……大事にします。そして、月の民の誇りを持って、頑張って参ります」

「いっておいで。しっかり頑張っておいで。待っているから」

おばばはルーナをしっかりと抱き締めた。温かな抱擁に、ルーナは勇気が溢れてくる。

おばばの温かな力が自分に流れ込み、血が湧き立つ。おばばのように立派にとはいかないが、初めての重責も精一杯頑張れるような気がした。

 抱きしめてくれたおばばの身体は柔らかくて温かかった。同時に、おばばはなんて小さいのだろうかと、ルーナは実感する。ずっと大きな人だと思っていた。今でも心は誰よりも大きな人だ。だが、身体はいつの間にか、ルーナのほうが大きくなり、おばばは小さくなっていた。それがやはり切ない、

「そろそろ、ソーレ殿とアーキル殿が迎えに来る。月の民としてしっかりやってきなさい」

「はい、おばば様」

 おばばの皺で刻まれた手のひらで頬を触れられると、叡智と癒しを感じずにはいられない。 

 目を閉じると、おばばの大いなる力がしっかりと自分の中に流れてきていることを、ルーナは実感する。とても温かな力だ。

 このひとの力によって今まで護られてきたのだ。そして今も護られているのだと、ルーナは感じずにはいられなかった。

 今まではずっとおばばに慈しんでもらい、護られてきた。だからこそ、今度は自分の足で立って、願わくばおばばを護ることが出来ればと、ルーナは強く思う。

「お前ならきっとやり遂げる。そう思って送り出すのじゃからな」

「はい、おばばさま」

 ルーナは、大きな琥珀色の瞳に温かな涙をいっぱいに貯めて、頷いた。

 おばばの皺の刻まれた手が離れてゆく。この手はおばばの人生そのものであり、今までの英知が凝縮されている。だからこそ、ルーナは、ここから注がれる力に、より大きな力と勇気を貰えた。

 ふと、部屋を間仕切る麻のタペストリーが開かれる。

「おばば様、ルーナ、お話し中、申し訳ございません。第一騎士団長殿とアーキル殿が見えられました」

 おばばの助手であるアイーダに声を掛けられ、おばばはしっかりと頷く。

「解った。入ってもらってくれ」

「はい、かしこまりました」

アイーダが声を掛けると、ソーレとアーキルが部屋に入ってきた。

「失礼いたします」

 ふたりとも緊張とどこか礼儀正しさを漂わせて、おばばに深々と一礼をする。

「おばば殿、月の子を借りてゆきます。任務遂行後、無事に送り届けます」

 ソーレは、おばばに誓うように、しっかりと目を見て真摯な態度を貫く。

「解っております。ルーナお前は先に出ていなさい。少しだけ、ソーレ殿とアーキル殿に話があるからな」

「解りました」

 ルーナは、おばばに従い、先に外に出ることにした。

 外に出ると、大きな青空が瞳にしみるぐらいに眩しい。とても綺麗だ。ルーナは、アーキルとソーレを待つ間、空をじっと見上げていた。


 ルーナが部屋から出た後、おばばの瞳に宿る光は、一層、厳しくなっていた。

「どうか、ルーナを頼みます、お前様方ならばきちんとルーナを護ってくれることは解っています。ソーレ殿、そしてアーキル殿、ルーナを頼みました」

 おばばはソーレとアーキナルに深々と頭を下げ、ふたりもまた恐縮をして頭を下げる。

「お二人とも、わしがお頼み申した戒めは、きちんとお守り下され。その条件で、あの子を出すのですから」

「解っています」

 アーキルもソーレも、決して破ることがないと心に誓って、強く頷いた。

「ルーナには、誰にも恋をさせてはなりませぬ。それだけはお守り下され」

 おばばは苦悩に満ちた声で呟きながら、苦しげに眼を閉じた。

「それさえ護って頂ければ、ルーナは必ずやお役にたつはずですから」

「おばば様の仰ることはきちんと守るつもりでおります。こちらこそ、無理を言って申し訳ございません」

 ソーレは礼儀正しくおばばに言うと、アーキルとふたりでもう一度、頭を下げた。

「おばば殿、ご心配されますな。ルーナはソーレと俺がきちんと守りますから」

「頼みました。あの子は何も知らぬ世間知らずであるから」

「では、参ります」

「はい」

 ふたりはおばばの家を出る。

目を眇めるほどに眩しい青空を見上げるルーナの姿を、ソーレもアーキルも、一瞬、凝視してしまう。透明でどこか儚げな印象があった。


「月の子!」

ソーレに声を掛けられて、ルーナは視線をゆっくりとふたりの男に向ける。

「行くぞ。これから帝都までの道のりは長いからな」

「はい」

 ソーレの厳しい眼差しに、ルーナもまた気を引き締めて頷く。これから先が過酷な道のりになるということは、ルーナには解っていた。

「では、出発だ」

「はい」

 ルーナは荷物を手早く積んで、愛馬に跨る。

 目を閉じると、砂漠の乾いた砂の臭い、オアシスの温かな水の臭い、そして、おばばの白檀の匂いが入り混じり、風となってルーナの鼻孔に入り込んでくる。とても落ち着いた気持ちにさせてくれるのは、かけがえのない故郷の匂いだからだ。

 アーキルやソーレも立派な馬に跨り、砂漠を越えて帝都へと向かう。

 初めての大きな仕事。ルーナの気持ちが引き締まる。

 ソーレを先頭に、ルーナ、そしてアーキルの順で、帝都に向かって出発をする。

 この先に何が待っているかは解らない。だが、明らかに人生の新しい段階に向かっているのだと言うことを、ルーナは感じずにはいられなかった。

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