回答
シュレディンガーの猫は二度死ぬべきか?
“嶋田九朗”は絶望を乗り越えようとしていた。
二〇一七年一二月六日。
「……当然でしょう? 商業的にも学術的にも、この実験はすべきですよ」
「人体実験をして失敗したらどうする!」
「いえいえ、もうハルは完全なのでしょう? これ以上は無い。ならば現状維持は無意味です。いつかする実検ならば早くすべきでしょう?」
「万が一の話をしている! ハルが失われたらどうする!」
「また作り直せば良いでしょう? あれはただのデータなのですから……」
三毛の意見は商売人として正しかったし、学者としての自分も受け入れるべきであると考えていたが、不思議と嶋田九朗は受容できなかった。
なぜなのか、嶋田九朗には理解できなかった。理解するわけにはいかなかった。ハルに【お父さん】と呼ばれるときに不思議と和んでいる自分を完全に認めるわけにはいかなかった。
「被験者はどうする、ハルと人格交換をする生身の人間はどうする。危険がないわけではない」
「同意を取りますよ。保証もします」
「命をカネで補填できると思わないことだ。最悪の事態は必ず付きまとう! それに秘密裏に実験する必要もある……三毛、お前が実験台になるか?」
「もちろんそれでも構いませんが……被験者には相応しい人物を選ぶ必要が有りますね。歴史に残る実験、身内でやっては、ね」
自分が実験台になると三毛が云わないことはわかっていた。時間が稼げたと思っていたが、甘かった。
三毛正二はこの二日後、三毛は国木とハルを使って実験を行うこととなる。
“嶋田九朗”は絶望を乗り越えようとしていた。
二〇一七年一二月二〇日
ある日、嶋田のモニターに表示したデータは、自らを国木優と名乗った。
嶋田の手元にある人格交換のデータリストの中にも、その情報はしっかりと刻まれていた。
「今までどこで何をしていたんだ?」
《どこでもない場所……でございますよ、インターネットの中は……人間の住むところではなかったものですから……》
彼女からはかつてアイドルになるという夢を語っていた面影は見て取れなかった。
あれからわずか十日ほど。だというのに、その言葉は老人のように枯れ、人ごとに魂をすり減らしているようだった。
《ハルちゃんを妖精や天使だと私は……私のオリジナルは呼んでいましたが、電脳空間は本当に天国か地獄だったんです。上も下も横もあえて入力しなければ存在せず、入力さえすれば無限大に広くも、虚無ですら作り出せる空間、それが電脳空間だったんです。億年より永く、一瞬より短い時間の中、やっと私はここまで来ました》
嶋田は国木の言葉をウソだとは思わなかったし、突拍子がないとも感じなかった。
開発から一〇年、ハルはネットアイドルとして人気を博するだけの教養と知性を発揮している。(親バカな意見かもしれないとは嶋田自身も重々承知しているが売れているのだからしょうがない)
時に少女のように幼気で、時に麗人のように洗練され、浮世離れした魅力を醸していた。
それはまさに現世とは異なる電脳空間の中で育ったからなのだと、嶋田の中では合点が行った。
ハルは生まれながらに電脳空間で育った。それはすなわち、天国で育った天使的な輝きと、地獄で生まれた悪魔的な魅力を兼ね備えていたからではないだろうか。
「……私を削除する方法は有りませんか?」
「……何?」
「もう、電脳空間の中で私は何万年も生きました。もう死にたいのですが……おかしいんです。落ちる寸前のサーバーに移動したり、クラッシュするパソコンの中に移動したりして……そのときは消えるのですが、次の瞬間、私は全く別の場所で再起動しているのです。見ていて下さい」
次の瞬間、モニターから国木優のデータが消失し、そして再び出現していた。
記録上、その人格のデータは一度消滅し、その後、嶋田のパソコン外の領域から再度侵入してきたことになっていた。
「なんだ……? アンインストールした直後に全く同じデータとして復元された……?」
《電脳には人間が読み取れるデータ以外にも、残像のようなものが蓄積され続けるようなのです。私が消滅すると同時に、その残像が直前の“私”を復旧してしまいます》
「……精神という拡張子か……お前とハルを人格移動したとき、ハルは元々人間のDNAをベースに入力して現在は二メガバイトだが、お前は更にそれとは別の未知のデータになっている。お前のディスク上の容量は0バイト、会話できるデータとしては異常だ」
《データはデータしか削除できない、私が死ぬには……人としてしか死ねない
「できるなら俺の肉体をこのままやって、俺が電脳に行けば済むが……この三毛正二を……未知道カンパニーもこのままにはしておけない」
《それは……つまり》
「この三毛正二を潰す。悪いが、少し時間をくれ」
オリジナルの国木優は、確かに自分の頭を弾き飛ばして死んだ。
だが、コピーである彼女には打ち抜く頭すら有りはしない。いつ生まれたかすら分からない彼女には、死ぬべき肉体すら有りはしない。
それから、嶋田九朗の“シュレディンガーの猫を殺す”活動が始まった。
“嶋田九朗”は絶望を乗り越えようとしていた。
二〇一七年一二月二四日
米田のような不良刑事を除けば、大概の人間からすれば拳銃の弾丸が足りなくなっているのは眠れない種だった。
国木優が自殺した弾丸、そしてこれから必要となる弾丸、自分たちの罪の証であると同時に、その発露は家族への迷惑も掛ける。
そのためにも、シュレディンガーの猫の殺し方には注意を払う必要が有った。
未知道カンパニーに出入りしている関という男に自分から声を掛けた。
「……関、とか云ったな、お前さん、拳銃を用意できるか?」
「ええ、できますが……何か?」
関が宇宙極道と繋がっているというのは、幹部の中では公然の秘密だったし、同じように他の社員がもっと危険なものを注文しているのも嶋田は知っていた。
「……最近、色々と身の危険を感じるんだ。拳銃を用立ててくれないか?」
「構いませんよ。無音拳銃のカクニなんかならすぐに用意できますが、注文は有りますか?」
「ニューナンブが良い。警官が持っているヤツ。昔から憧れているんだ」
「ええ、構いませんよ……頼ってくれて光栄ですよ」
「……ん?」
「私の勝手なイメージですが……嶋田さんが仕事以外の話をするのを見たことがなかったものですから」
「……仕事以外にすることがなかったから、な」
「三毛社長に伺いました。嶋田さんが入社したのは亡くなった娘さんを蘇らせるためとか……私共、KOB通運は協力を惜しみません。なんでも仰って下さい」
「助かる。拳銃は頼むぞ」
嶋田九朗は家に帰ることも少なかったが、その分、家族を想う心だけが有り、娘を生き返らせようとした、というより、娘が死んだ事実を拭い去ろうとしていた。
そのために全てを捨てても良いとすら思っていた。
“嶋田九朗”は絶望を乗り越えようとしていた。
二〇一七年一二月二七日
決行の日。履歴上は国木優が殺人を犯すことになるが、もちろん戸籍上彼女は死んでいる。
肉体を借りる須古冬美という少女にも迷惑は掛けるだろうが、人格交換の履歴は残る。
人格交換の功労者である嶋田九朗が人格交換をしたまま、自分の肉体に入った戸籍上は死んでいる国木優を殺害する。
この事件が有れば、国木優の事件も明るみになる上、電脳空間で嶋田がハルを逃がし続ける。
そうすれば、三毛正二には起死回生の手は無くなるはずだ。
「……国木、拳銃は本当にこっちで良いんだな?」
「オリジナルの私が死んだのはこの銃でした。ならば……私が死ぬのもこの銃でなければ、おかしいでしょう?」
そう云った口は、嶋田九朗の口だった。
須古冬美の肉体に国木優が入って研究所まで連れて来て、国木と嶋田が人格を交換する。
すると、須古冬美の肉体に入った嶋田九朗、嶋田九朗の肉体に入った国木優という状態になる。
疲れた男に拳銃を突き付ける少女、そういう構図がここで完成した。
「本当に撃つが……良いんだな?」
「嶋田さんは大丈夫ですか、この肉体……無くなりますけど」
「お前をコピーした技術を作った責任は……取るさ」
引き金は軽かった。
こうして、生きているか死んでいるか、それすら分からなかった国木優は死んだ。
一度は自分の肉体で、二度目は嶋田九朗の肉体で、いつ死んだかも分からないまま、国木優は死んだ。
須古の肉体で嶋田は、人間を撃ち殺したとは思えないほどスムーズに血を落とし、関から与えられていた弾丸を日下から借りていた拳銃を交番に返しに来た。
「……あとは頼む。面倒ごとばかりですまんな」
「私が国木さんを殺したようなものですから……」
日下はずっと罪の意識に苛まれていた。全ての元凶は自分だとばかりに。
その後、急に倒れて怪我をしないように歩道橋に座ってから、人格交換を解除する。これで事件は迷宮入り。
事件性が生じて想像もしない赤の他人に被害が及ぶのを防ぐためだった。
だがしかし、である。
“嶋田九朗”は絶望を乗り越えようとしていた。
二〇一八年一月七日
須古冬美は釈放されないどころか、事件の容疑者として疑われ続けていた。
それもこれも、三毛が国木と嶋田の最後の人格交換を警察に公表せずに揉み消したせいだった。【嶋田九朗を殺害した人格のIDは国木優のものである】と。
「これは……予想外、でしたね」
《俺が国木を殺したんなら、警察は責任の矢面に人格交換を立たせてマスコミにも暴露されたはずだったが、既に死亡している国木を犯人にする。
こうすれば、警察は最初の国木優のバラバラ殺人の調査自体が間違っていたという可能性を調べざるを得ない……事件の大部分は、マスコミには公表されない》
警察はその性質から殺人罪として立件はできないが他に容疑者は居ないという形で、須古冬美を釈放できないでいた。
いくら想定外の事態で三毛の権謀にしてやられた形とはいえ、巻き込んだのは間違いなく嶋田と日下だ。なんとしても彼女に平穏を取り戻させなければならない。
《どうにかして彼女を釈放しなければならない》
「……なんとか、しなければなりませんね。嶋田さん」
嶋田九朗は、日下のパソコンの中で活動を続けていた。
ふたりは、自分たちの短慮から須古冬美が苦しんでいることを知ったが、自身の正体を晒すわけにはいかない。晒せばハルの正体まで芋蔓で発表される。
悶々としたまま、日下長一は気晴らしに行ったパチンコ屋で中聖子陽子と出会った。
そのときは何とも思っていなかったが、日下が持ち帰った名刺に記されていた一色探偵事務所の名前を見た嶋田九朗は、一色賢のことを思い出していた。
他に打つ手はない。万が一に賭けた。カネだけは未知道カンパニーで稼いだ分があり、データになった嶋田には使い道もない。
《日下。これを頼んで良いか?》
キリ良く一千万円を束にして、緑のフードを羽織って日下は名刺の住所へと向かい、物語は動き出した。
“嶋田九朗”は絶望を乗り越えようとしていた。
二〇一八年一月一二日
日の光も届かず、疲れることもない日下のパソコン。時計のアプリケーションだけが時間経過を告げる中、嶋田は気配に気が付いた。
《君が……ハルが云っていたドーベルマン、かな?》
《あなたが嶋田九朗さんですか、って飼い主が訊いてるよ》
そこに居たのは人工電子無脳・賢作だった。ハルの匂いを追い、この日下のパソコンまで到達していた。
《ここに来たということは、事件は全部解いてくれたのかな?》
《あんたのヒントを解釈すると、こうしかならないだろ? 単純明快》
パソコンの中へと出力するため、そして自分の心をまとめるために、陽子はつぶやいた。
「どう考えても、依頼人の緑フードの人物は多くの情報を知っていたのにそれを教えなかった。
つまり、私に真実へ到達はさせたいが真実を世間に広めたくない人物が犯人」
《こじ付けだな》
「まあ、理由は後付けなのよ。最初から犯人とかどうでも良いし」
《なんだ、それは》
「私の目的は犯人探しじゃないもの。私の依頼は須古冬美ちゃんの無実を証明すること。真犯人が誰でも、本当はどうだって良いことだから」
中聖子陽子は、決して名探偵ではない。凡人そのものの探偵だった。証拠集めやアリバイ崩しではなく、浮気調査や素行調査といった困りごとを解決するのが仕事なのだ。
《なるほどな……では、依頼はなんの意味もなかったわけだ》
「そうね。三毛さんの自殺で事件は解決したから」
《……そうみたいだな、ネットニュースで見た……》
「……で、話変わるんですけど……あの一千万円、日下さんに渡してたんですよね?」
《ああ、他のカネの管理も任せていた。隠し通帳ごと渡したが……》
「……なら、頂いた一千万円、あれ、“次の依頼”のために使っても構いませんか?」
《次の依頼……て、もしかして……》
「あなたの家族を守らせて頂けませんか?」
陽子の言葉に、データ上の嶋田が笑ったのが分かった。
《……お前、十分名探偵だよ》
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