二〇一八年一月七日
二〇一八年一月七日
火星に人類が行っていても、人格交換ができても、人造生物兵器で戦争が出来ても、当然のように続いている風営業、それがパチンコ屋だ。
冷静に考えれば、いや冷静でなくとも少し考えれば見ず知らずの風営店経営者様たちへの献金以外の何物でもないのだが、それでも砂鉄が磁石によって選り集められるようにパチンコ屋の喧騒は、そうでないものには理解できない安寧と興奮と相反する感情を掻き立てる。
しかし、である。平凡な一介の巡査である日下長一(くさかちょういち)には大きな課題も有る。
一日中戦うのはそれこそ熱狂的な集中力が必要ではあるが、更に重要になるのが資金力である。
日下巡査は刑事らしい肉付きの良い体格をしていたが、上背が無く脱力した糸目のせいでダルマのような柔和で温厚な評価を受けることが多い。
そんな彼の久々の休日、開店から並び、それなりの予算を持って来ていたが、昼過ぎにはカツカレーを頼むことを躊躇し、ただのカレーライスを注文するほどに財布が軽くなっていた。
「あ、おっちゃん、久しぶりだよね」
日下巡査の財布と同じくらい軽い口調。日下とはこの店で何度か会話したことの有る女だった。
ネットアイドルハルの曲が流れるイヤホンを外し、日下はニコリと笑って見せた。パチンコ屋に来る若い女というのも色々と居るが、彼女はその中でも異彩を放っている。
膨らみの目立つ体格に、ウェーブのかかった茶髪の隙間から垂れ目がちな目が覗く柔和な雰囲気の美人……が、気だるいジャージにサンダルとこの場所に馴染み過ぎる服装と、小脇に抱えた競馬新聞とみそラーメンがコメディのように似合いすぎている。
「ヨーちゃん、新聞読んでないの?」
「読んでるって。ただちょっとハズレがちだけどさ」
ヨーちゃんと呼ばれた女性は日下の隣に座り、ラーメンにコショーを振りながら一息吐いた。
そうじゃないよと云いつつ、日下は女が水を持ってきていない事に気が付き、セルフサービスの給水器まで行き、ふたつ持ってきた。
「サンキュ」
「いいよ、俺もまだだったし……でさ、ホントに今、忙しかったって判んない?」
「? 最近、来てなかったよね、私の方が毎日来てたもの」
「競馬新聞にも載ってたと思うけどなぁ……ほら、一週間くらい前、年末に鈴鳴町の方で、拳銃の事件が有っただろ? 研究者が撃ち殺される、っていう事件」
その事件ならば女も強く覚えていた。
年末の忙しい時期、いつもよりさらに多い報道人が随分と動き回っていたこと、そしてパチンコ内でも何度となく話題になっていた。
被害者はある企業の研究員で、犯人と目されるのは近所の女子高生であり、しかも犯行に使用された拳銃は見付かっていないと、かなり奇妙で謎の多い事件だった。
「……ああ、それで忙しかったんだ?」
「その最初に犯人の子が出頭してきたのがうちの交番でさ、色々と大変で」
「え、お手柄じゃないの? それって」
「まあ、ね、そりゃあそうなんだけどさぁ……なーんか……変っていうかさー……あの娘……犯人じゃない……と思うんだよねー……」
言葉を吐き出した反動とばかりにカレーを掻き込む日下、忘れていたラーメンをすする女。
事件というのはテレビで観るのが一番だよ、と日下は言葉を続けた。俺は交番のしがないお廻りさんで良いんだ、あんな事件は身に余る、と。
「あの場にあの刑事さんが居なければ、俺はあの子を捕まえたり追いかけなかったかもねぇ……なんか一緒に居た刑事さんがさぁ……こう、正義感大爆発って人で……」
「正義感大爆発?」
「ああ、俺より年下なんだろうけど……後で聞いたけど、徹夜明けだったらしいのに、すごく元気な人でさ」
凄く元気な正義感大爆発、そんな言葉に何か思い当たることがあったように女は眉をひそめたが、会話を遮らずに聞いていく。
自分が女子高生の一生を台無しにしてしまったのではないか、そんな焦燥が見て取れた。日下は誰かに聞いてほしいようだった。
「そもそも、おかしいんだ……拳銃は出てこなかったし、彼女が犯人なら交番なんてくるわけない……返り血を落とす時間が有って拳銃も処分する時間が有って……どうしてそんなことになったのか……」
「……苦しい事件、ね」
「それに……いや、これは、そうだな、ああ、云えない、よな」
日下はカレーを一気に食べきり、言葉を飲み込んだ。
女子高生は人格交換を仕事にしており、犯行時も全く別人の……国木優という女と人格を入れ替えていたという記録が残っていたということは、捜査本部も発表していない情報。自分が軽々しく口にできることではないのだ。
吐き出せない感情は心の中に淵となり、淀みは人格にまで影響を与える毒になり膿んでいく。日下は膿みを出したがっているということに女は気が付いていた。
「そういえば……私、名乗ってたっけ?」
「……? いや、そういえば……なんだっけ、ヨーちゃんの名前」
彼女は店内で誰ともなく気さくに声を掛けることがあり、日下は彼女が他の客からヨーちゃんと呼ばれていることを見聞きして知っていたが、お互いに自己紹介をしていない。
女はジャージの中から薄い財布を取り出し、そこから端の折れた一枚の名刺を渡した。
中聖子陽子(なかのせいしようこ)……一色探偵事務所・所長。今時珍しいような簡素さで、あとは電話番号とメールアドレス、住所が入っているだけだった。
探偵、という言葉に日下の表情に陰りが出た。緊張だった。警察という仕事をしていればマスコミや政治家と同じく、油断してはならない職種のひとつとして認知している。
そんな警戒をよそに、女は……陽子は、言葉を続ける。
「探偵、っていうか、何でも屋みたいなもんだから、何か困ったら連絡して。力になれると思うよ」
心の澱を吐き出したくなったら頼ってよ、そんな調子で陽子は話す。
警戒しつつも、心が軽くなっていることに日下は驚いていた。単純に何かに頼れるということが心の淀みの中に光を差すということが実感として分かった。
「……ああ、ありがとう、何かあったら連絡するよ」
「ご依頼、お待ちしています」
敬礼ポーズをする陽子に背を向け、日下はパチンコ屋へ続く出口ではなく、大通りへ行く出口から出て行った。
陽子はラーメンを一気にすすり、一球も打たずに歩きながらスマートフォンをいじりながら真っ直ぐに自宅へと帰って来た。
二階建てのテナントの一階には『借主募集中』の文字、二階の剥がれかけた看板には『一色探偵事務所』の文字。階段を上って今日も今日とて自宅兼事務所へと、この物語の探偵、中聖子陽子は戻って来た。
「んんんー、休日終わりってことにしようかな!」
彼女はこの物語の主人公ではない。
多くの物語においてそうであるように、この物語の主人公は“事件そのもの”である。
事件とは複数の事情と感情が重なり合い、結果として発生するものである。
彼女は、その中の人の思いをほどき、幸せへの道を探す。それが空想科学探偵:中聖子陽子の流儀だった。
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