拝啓、親愛なき異世界のきみへ

りっつ

第1話 少年の変な夢



 自分でも思う。つまらない人生だと。


 自殺を選ぶほど悲観はしておらず、夢いっぱいに奮起するほど希望に満ちあふれていない。そんな乾いた考えは顔にも表れるものなのか、きちんとすれば端正だと見られる顔はいつも眠そうな表情で覆われ、対面して話していても「ねえ話聞いてる?」と言われてしまう。体育の授業では「諦めるのは早いだろ!」と熱く肩を叩かれる。

 決して人嫌いというわけではなく、きちんと人並みに笑って話もするが、明るい性格かと聞かれれば答えに窮するような、とにかくそんな自分だった。


 自他ともに認めるだろう。これからもつまらない人生を歩んでいくんだろうな、と。





 意外なことに、そんな彼にも人と少しだけ違った部分が存在した。


 数年前から繰り返し見る夢である。


 連日であったり、ひと月ぶりであったり、頻度はまちまちにしろ、かならず弓月ゆづきは同じ世界を漂っていた。

 実に不思議な世界なのだ。一見どこか閉鎖的なヨーロッパの国かと見当を付けたが、それが間違いだと言うことはすぐにわかった。西洋どころか、弓月のいる元の世界、この地球上では存在し得ない場所なのだろう。何故なら、この夢の世界は有り得ないことが起こりすぎる。

 ふと上空を大きな影が横切り、弓月は目を見開いた。


(またこの夢か)


 認識した一拍後、凄まじい風が巻き起こり、黒髪が舞い上がった。轟くような吠え声の主を見上げ、思わず「おお」と小さく歓声を上げる。

竜だ。

 堂々たる体躯を見せつけるように悠々と空を泳ぐ空想生物の全長はクジラとでも並べればいい勝負になるだろう。一体どんな仕組みで羽ばたいているのかは謎だが、すでに何十回もこの世界を眺めている弓月からすれば微々たる問題だ。


「よっと!」


 高揚した気分そのままに軽い足取りで鋸壁に乗り上げ、外界の豆粒のような街を見下ろす。空に浮かぶ浮遊城の彼方、数十、いや、数百メートル下方にある王都はここからでもわかるほど活気づいていて賑やかだ。相変わらずいい国だな、と素直な気持ちで呟いたその時だった。

 カタリ、と後の扉が開いた。弓月が振り返ると、そこには思った通りの人物がいた。


「王さま」


 呟いた言葉が聞こえないと知りつつも、思わずそう声を掛ける。


「久しぶり」


 弓月の声は虚しく彼を通り抜けて行った。

 この世界において、弓月が一方的に知る唯一の人物。

 シリウス・サジタリウス。

 七年前から繰り返される夢に降り立つとき、弓月の側にはいつも何故か彼がいた。

かなり長い付き合いにはなるが、驚くべきことに未だ会話の一つも成立したことがない。

 案の定、シリウスと呼ばれた男は無視とも言えぬ無視をして弓月の横に静かに立った。彼は決して自分に気付かないと理解している弓月は、それ以上何か言うことはなく、そっとシリウスを盗み見るのみに留める。


(はー、いつ見ても隙の無い面だなぁ)


 男の顔など興味も無いが、彼は別だ。

 透き通るような白皙の肌に、恐ろしい程整った冷たい美貌。瞳と同色の腰まで届かんとする漆黒の長髪は無造作にうなじでひとつに括られて、風にさらさらと靡いている。均整のとれた体格は、重苦しい服の上からでも引き締まっているだろうことが見て取れた。

 だが何よりも驚くべき部分は、シリウスの耳だった。

 通常の人間より僅かに大きく、上部分がほんの少しだけ、だが確実に尖っている。

 竜と同じ空想上の生物。神秘的な美貌を持つ妖精の主、エルフ。

 本人に直接聞いた訳ではないが、そんなところだろうと弓月は勝手に当たりをつけていた。そもそも確かめようにも方法が無い。半透明の自分の手のひらを見つめては、面倒だ、と毎度思う。


(夢の中だってのに不便なもんだ)


 そう、実に不便なのだ。

 ここ夢世界では、弓月は幽霊のように扱われる。

 いくら話しかけても声は届かず、目の前にたっても視線すら合わず、手を伸ばすと弓月の指は相手の体をすり抜ける。もはや幽霊のように、ではなく、幽霊そのものだ。手が触れ合う距離に彼がいても、自分たちの体温は決して交わらない。

 ひとりぼっち同士だった。

 それが悲しいわけじゃない。きっと、そんなことはない、はず。ただ、自分を知覚されないのが少々不快なだけなのだ。


(…………王さま)


 ここ夢世界でも、あっちの現実世界でも、こういうところは相変わらずらしい。

鋸壁の一角に腰を下ろした弓月は、立てた膝に顔を埋めた。ゆっくりと、隣の彼とおそろいの黒眼を閉じる。


「…………『片割れ』か。仕方ないが………」


 ふと彼が呟いた。続いて、面倒な宣託だ、と鬱々しくため息をつく。なにかあったのかと聞くのが現代社会に置いては社交辞令だが、生憎今の弓月には関係ない。

 うつむいたシリウスの表情は窺い知れない。おそらく、いつもどおりなのだろう。弓月は知っている。愛と神に裏切られた彼は、もう何も信じることはできないだろうと。


 ――――――父上、母上―――…………


 雪が冷たい夜だった。彼が絶望に打ちひしがれ全てを手放したあのときも、弓月は側にいた。なにも出来ない幽霊として、じっと彼を見つめていた。今でもあの光景はすぐ思い出せる。


「…………かわいそうに」


 弓月は、今度は声に出して呟いた。哀愁も滲まないただ静かな声だ。だが出したところでなんだと言うのだろう。

 囁きは誰にも拾われることは無く、風に攫われ、すぐ消えた。


 ああ、今日もいつもと変わりばえしない夢だったな。




     ◆     ◆     




 拝啓、シリウス・サジタリウス陛下。

 今日もいつもの場所で、貴方に会いました。

 もしよろしければ、俺とお話しませんか。





仕上げに、今日の日付と「星世 弓月ゆづき」と記し、丁寧に封筒に閉まった。宛先は書かない。送れるものなら送りたいが、何しろどう書いたらいいのか見当もつかないのだ。そして万が一住所がわかったところで、郵送方法で行き詰まることは明白である。


(これが何になるって訳でもないけど)


 強いて言うなら「なんとなく」だ。

現実世界での孤独感を夢世界で補おうとしているとか、奇怪な世界に憧れを抱くあまり現実にも持ち込み始めてしまったとか、そんな大層な理由ではない。正直、自分でもなんで手紙を書いているんだろうと首を傾げたくなることは何度もあった。だって面倒くさいし。

 でも日課………毎日じゃないけど、言うなればルーチンワークなのだ。

 まあいいか。夢日記について迷信は語るけれど夢手紙については特に言及されていないようだし。


(弊害……は、まあ、無いこともないか)


 強いて挙げるとすれば、意味不明な手紙が家族に偶然見つかってしまい、弓月も弓月で誤魔化すではなく馬鹿正直にすべて話したので、星世家内にてますます浮く羽目になったことくらいだろうか。

名誉第一のただでさえ距離を置かれ気味の母からは「気味が悪いわ」とますます嫌われるし、兄からは「悩み事があったら聞くから」と、自分を巻き込むなと目で語りつつ優しく告げてきた。至極真っ当な反応だなと妙に納得したのを覚えている。従順でも可愛げも無い上に頭がおかしいなんてあの星世家の赤っ恥だろう。

 まあもともと弓月は家族未満としか思われていないだろうし、出来損ないが珍獣にジョブチェンジしようがさしたる変化は無い。その辺りの事情は特に気にすることなく、封筒をぴらりと裏返し眺めた。住所の無い、宛先だけの「頭のおかしい」手紙。


「…………シリウス・サジタリウス陛下、ねぇ」


 小さな声で呟いてみた。


「おおいぬ座に射手座か」


 夢世界にある国の名前は知らないが王の名前は知っている。

 シリウス。おおいぬ座α星、視等級は−1.46等という、地球から見える恒星の中では太陽を除けば最も明るく輝く恒星だ。光り輝く真白の星が名前とは、あの麗しい美貌にぴったりなような、いやむしろ憂いを帯びた重苦しい雰囲気にはそぐわないような不思議な感じではあるが。


(まー王さまっぽい名前ではあるな)


 いつも通り真っ白な封筒をブレザーの胸ポケットへ無造作に突っ込んだ。やることも無くなってしまい、弓月は頬杖をついて己の授業をぼんやり眺めた。

原子がどう結びつこうが分子がどう動こうが、精霊を行使する魔法より面白い現象はきっと生まれないだろうに。


(面白そうな世界だよなぁ)


 非科学と無秩序の世界なんてこのご時世、世界中のどこを巡っても味わえない。

 しばしあの世界を夢想していると、いつのまに7限が終わったのか教室はざわざわと喧騒に包まれ始めた。くあ、と欠伸を嚙み殺しとっとと立ち上がる。


「もう帰んの? じゃねー」

「え、HRは?」

「うるせー」

「減点されんぞ」

「じゃあな」


 17時20分前か。走ればギリギリ間に合う。

 だんだんと賑わい始める校内を急いで通り抜け、鞄片手に正門をくぐった。門に備え付けの機器にIDをスキャンさせると無機質な機械音が無情に告げた。


『ID000237認証。規定時間外の下校と確認。「学校生活を送る上での清く正しい心がけ」ランク下降を申請』

「容赦無ぇー……HRくらい多めにみてくれよ……」


 弓月とてサボりたくてサボったわけではないが機械に言葉で何を訴えても無駄である。あとで取り消申請出すか、いやでもあれ面倒なんだよなとため息をつきつつのろのろ学校外へ踏み出す。


(つーか父さんが最初っから申請しておいてくれればなんの問題もないわけで……いやでも)


 そういうことはすこぶる苦手、というか、すぐ忘れてしまう父に期待した自分が馬鹿だと乱暴に結論付ける。不意に、弓月の足元にさっと影が差した。


『みなさん今日が何の日かご存知ですか?』


 降ってきた声に顔を上げた。

空に浮かぶスクリーンの奥でキャスターがにっこり微笑む。全く、せっかく雲一つない真っ青な空なのに、巨大な飛行船が悠々と我が物顔で浮かんでいてもったいない。


「あ、本格的にやべぇ」


このままでは父に言われた時間に間に合いそうにないため目的地まで足早に歩を進めるが、軌道が同じなのか、まるで月のように後を追いかけてきてうんざりした。


『第四次産業革命が始まって早20年、もはや私たちの世界は科学に支配されていると言っても過言では無いですね』

『立体映像技術や人工知能の発達。ここまでくると科学か魔法か、見分けがつきませんよ』

『ええ、全くです』

「………魔法は魔法だろ」


勝手なことを抜かす飛行船に、なんとなく突如現れた火を吹く竜に撃墜される様を想像してみる。あの気性の荒そうな空想生物は自分以外に空を蹂躙されればさぞかしお怒りになることだろう。

 そんな陰湿な妄想など知る由もないキャスターは朗々と告げた。


『今日は2040年9月12日』


 浮遊船付属画面に重なるようにサブの小さな空中画面が開かれ、そこに現れた自分によく似た顔をなんとも言えない気持ちで見やる。


『今や日本を代表する星世研究所が開設されてから、今日で丁度15年。本日18時より、研究所併設星世氏の邸宅にて記念パーティが執り行われるそうです!』


 もう一つ、先ほどのものよりは大きい空中画面がまた開く。映し出されたのは弓月にとって実に見慣れた建物だ。

 真っ白の立方体や直方体、球体が積み木のように寄り集まった研究所。兼、邸宅。計算された美しいフォルムと無駄のない空間配置は、異物を一切許さない排他的な威容をかもしている。弓月は17年間あそこで育てられたが、それでも「自宅」というより「研究所」としての印象が強い。

 飛行船を振り返って時刻を確認するとタイムリミットまでもう後10分。弓月は己の「研究所」へと駆け出した。




 これが、星世弓月が最期に拝んだ空となった。




◆◆




『こんばんは。ええと、みなさん、本日はお集りいただきありがとうございます。楽しんでいただけているでしょうか』


 きらきら輝く賑やかなホールにやたら間延びした声が響いた。ちょいと小突かれ、そこでやっと『ああ、すいません。所長の星世です』と取ってつけたように名乗りを上げる。壇上にて父の横に立たされた弓月ゆづきは、ため息をついて「父さん」と囁いた。


「寝癖なにそれ」

「ああ、寝癖あるかい?」

「もはや天パだが寝癖だがわかんねーわ」

「不自然じゃないならいいよ」

「ああそう……」


 不自然すぎるわ。ぼさぼさ頭の野暮ったい眼鏡顔なのに首からは下はきっちりしたスーツって雑コラみたいになってるぞ。せめて無精髭くらい剃れ。

 人のことは時間ピッタリに呼んであれこれ飾り立てるくせに自分のことになるとほとほと無頓着な男である。

 脇に立っていた司会の男がやり辛そうに父の先を促した。


『えー、ほ、星世所長?』

『あのですね、宴もたけなわ……たけなわ? になってきましたので、そろそろ我が研究所からの発表をさせていただきたくてですね』

『なんと! それはまた驚きのサプライズですねぇ』

『今年冬に発表させていただく予定でしたが、まあせっかくなので……』


 日本を、いや、世界を引っ張っていると言っても過言ではない星世研究所からの新技術発表に、会場は一気にどよめく。幾つもの視線を集めながらも父は気負った風も無く、ぶあつい眼鏡を子供みたいに平手で掴み直した。

 第4次産業革命以降様々な研究所が乱立し競い合って来た歴史背景を思えば、設立僅か15年の星世研究所などまだまだだ。であるのに、なぜここまで知名度が高く世界中から認められているのかと問われれば、ひとえに、横に立つこの冴えない男のおかげである。

 星世創一郎。


『頑張って作ったので、たくさん見ていただけたら嬉しいです』


 自由研究を発表する小学生のごとくたどたどしく最先端技術を発表する、馬鹿と天才は紙一重を体現する科学者である。

実績以外のことはほとんど公表されていない謎の天才科学者として騒がれることもままあるので、よく記者に父の生活について質問されたりもするが、子供である弓月ですら公開されている情報が父のほとんどだった。なにが好物とか、どんな音楽を聞くかとか、実生活での意外な一面なんて、きっと兄や母ですら知り得ないだろう。

 ぐだぐだと進める父の横に突っ立っていると、幾対かの目が興味深そうに自分を見ていることにすぐ気がついた。


「ね、あの横の子って、生徒会長なさってるっていう……」

「違うわよ。あっちはお母様譲りのお顔立ちだから」

「こっちはあれよ、例の………」

「ああ、あの」


 あれだのこっちだの、人にこそあど使うなよ、とややげんなりする。

 今回のパーティはお偉いさん大集合なやつではなく、どちらかというと研究所繫がりなので母としては興味無しらしく、兄を連れて海外のどこかに急遽旅行へ飛んだとは聞いた。おおよそ「新技術の試用なんてあっちの方にでもやらせて」とでも父に言ったに違いない。まあ大事な跡取りに傷でもついたら大変だし。


(その点スペアならどうなってもいいしな)


 理解はできるので、弓月としては母の愛情の有り様については言及するつもりは無かった。

 横ではまだ技術発表のスピーチが続いている。研究のこととなると父は饒舌だ。

 おもわず欠伸を漏らしてしまった。


『今回は、以前発表した人工知能をさらに発達させた結果となりました―――……』


 父が壇上のスクリーンを指し示したその時だった。

 パァン、と最上部の一枚が弾け飛んだのを皮切りに、会場を覆っていた全てのガラスが割れ、降り注いだ。


「いやあああああああ!!!」

「なっ………な、なななんだこれはっ!!」


 次々にわき上がる悲鳴と怒号。それに呆然とする暇もなく、突如会場に突風が吹き荒れる。台風の予報は無かったはずだ。竜巻か何かか? だが、防弾ガラスが割れるほどの威力で?


「父さん、ステージの袖に下がってて」


 ミリ単位で眉を寄せている父にそれだけ告げて会場を振り仰ぐ。警報を、と呼びかけた弓月の口は、間抜けな半開きで固まった。

 ありえない人物がそこにいた。


「は……………?」


 風に揺れる長い黒髪。

 ひしめく人々がみなパニックに陥る中、その人は冷静に、異様なオーラを漂わせゆっくりと歩みを進めていた。風が彼を中心に吹き荒れているようだが、それは気のせいではないように思えた。

 馬鹿みたいに突っ立ていた弓月だが、彼の真上にあるシャンデリアが嫌な音を立てた瞬間、思わず叫んでいた。


「危ない、」


 頭で状況を認識するより先に体が動いていた。

持っていたマイクを放り出し、壇上から情けないモーションで飛び降りる。もつれる足を必死で動かして、めいっぱい手を伸ばした。

くそ、こんなの全く自分らしくない。

 シャラシャラと鳴るきれいな音とともに落下してくるシャンデリア。その真下に佇む、一人の男。

 最後の一歩を全力で跳躍し、その彼を思いっきり突き飛ばした。



「―――――王さま!」



 ほんの少し見開かれた彼と自分の黒眼がかち合う。彼の瞳に自分が映っている。

 17年間の人生が終わるまであと数秒か、と冷静に確信した。


(せっかく会えたってのに………)


まあ悪くは無い最期だ、と、倒れこんだ体はそのままに豪奢にきらめく凶器が降り注ぐのを待った。

 しかし。


「おい」

「は?」


 あまりにも平然と声を掛けられたので思わず普通に顔を上げてしまう。直後、弓月は驚愕に固まった。

 死んでいない。それにもまず驚きだが、それ以上に、信じられない出来事が起こっていた。

 弓月の頭上数メートルの位置でシャンデリアが不自然に傾いた状態で固まっている。周りの女は悲鳴直前の形で口を半開きにし、いくつものグラスが床に落ちかけていて、不可思議な形での静止を強要されたシャンパンは無重力下のそれを連想させた。


「え………?」


 膝立ちの状態で間抜けに見回す弓月に、男はしごく冷静に聞いた。


「お前が『片割れ』か」

「や、え、これ………」

「これか? 時間を止めた」


 ありえない。

 きっと研究バカの父の新技術に決まっている。でなければおかしい。人庇って、死にかけて、それで時間が止まった? 数十秒間に受けた非日常からの殴打は現代っ子には効きすぎる。


「なあ、あんた、」

「悪いが、急いでいる」


 唯一事情が説明できそうな人物を問いただそうとしたその時だった。

 視界が一瞬黒く染まる。一拍後、ずどんと鈍い衝撃があった。殴られたかと思ったが、それは大きな間違いだった。

 腹に手が突き入れられている。

 文字通り、男の手首が埋もれるほど、弓月の腹部にがっつり突き刺さっていた。内臓を直接撫ぜられ………弓月はそのまま男の胸に倒れこんだ。余計に腕が深く差し込まれ、呻く。本当になんだこれは。

 さっき助けたやつに、殺されるだと? 慣れないことをしたその報いか?

 馬鹿げたシチュエーションに半笑いで男を見上げた、が、当の彼は腕の中で死にゆく少年に対し、モルモットでも見るかのような冷ややかなまなざしを向ける。てめぇ冗談だろと余計笑いがこみあげてきた。


(おーい………せっかく、会えた、のに)


 なんて仕打ちだ。

――――――もしよろしければ、俺とお話しませんか。

 お話もできないうちに、死、か。


(しょうがねーなぁ……)


「残念だが、この世界での生は捨ててもらう」


 彼に恋人同士のように鼻先が近づくほど顔を寄せられて、ひそやかに「歓迎しよう」と囁かれた。人を殺しかけているとは思えないほど平然とした声音だった。歓迎って、どこに? なんで?

文字通り世界に取り残された、氷のような殺人犯と、馬鹿を見た被害者は、ぞわぞわとせり上がってきた影に吞み込まれ始めた。

 ああ、本当に死ぬ。今度こそ。せっかく助かった命なのに。

 見事な恩仇返しを敢行した男は、なんてことないような顔で弓月に命じた。


「せいぜい、私と、私の世界のために――――」


 ―――死んでくれ。


 シリウスはそれだけ端的に告げた。中に突き入れられた手が横に一閃、振り切られる。



 影の名残が霧散した直後、無残なシャンデリアと女の悲鳴が会場に響き渡った。




◆    ◆




『えー、こちら現場です。周りにはとても多くの人が集まっていますね。―――――午後8時20分頃、星世研究所所長主催、研究所設立三十周年記念のパーティにて事故が発生しました。所長の スピーチ中、突如シャンデリアが落下し、その場にいた少年(17)が下敷きとなった現場を多数の招待客が目撃しています。ただ奇妙なことに、少年の遺体―――失礼しました、少年は現在行方不明となっているそうです。シャンデリアの落下地点には大量の血痕が残されていますが、被害者の少年だけ忽然と消えてしまった、とのことです。繰り返します。今日の午後8時20分頃―――――』


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