僕は自分を知らない

 僕たちは自分を知らな過ぎると、僕はつねづね思っている。


 もっと具体的に言えば、自分が住んでいる場所もよく知らないし、自分がどんなルーツがあって此処にいるのかも知らない。

 何故、自分たちの種が人間と呼ばれているのかも、その言葉がどこから来たのかも、そもそも言葉というのがどうやって今の形にまで分かたれてしまったのかも知らない。

 少なくとも、僕は知らない。知っている人がいるのかもしれないけど、僕はそのひとを知らない。


 見渡す限り砂漠しかないこの世界で、僕たち以外に人がいるのかどうか、ということがまず疑問だ。


 僕の隣にはひとりの少女がいる。

 僕よりも頭一つ分小さい彼女は、いつも黙ったまま、ぼう、っとして空を見ている。

 

 雨が降ることもまれだから、この世界はたいてい青空だ。

 いっそ悲しいほどに晴れ切った空は観ていても面白いことは何もなくて、僅かでも白い雲が混じれば「雨はまだかな」と灰色の空を期待してしまうほど、何もない。

 だから、何も言わない彼女が何を思って青空を見ているのかはわからない。


 わからないけれど、彼女が根っこが生えたようにそこから動かないし、何も言わないからお腹が空いたのかとか、欲しいものがあるのかとか、彼女が生きていくのに必要なものもわからないので、なにかと手探りで僕は僕以外では唯一の人間と思わしき少女とふたりきりで生きている。

 意思の疎通ができないので、一緒に生きている、と言えるのかどうかはわからないけれど。


 彼女はたまに、唐突に、倒れる。


 ぱたり、と音もなく、しばらくなんともないな、と思っていると唐突に、かと思えば、昨日も倒れてたよね、というタイミングで倒れることも。

 予兆も何もないので困ることもあるが、本人に苦痛の色は見られないので僕はそれを、ああ、お腹が空いたんだな、と解釈することにしている。


 彼女が倒れたら、僕は花を取りに行く。

 少し離れたところにくぼんだ場所があって、そこはまれに降る雨が溜まる。

 すぐに消えてしまう微かな水場だけど、そのあとに、ほんの少しだけ花が咲くのだ。

 大きな赤い花と、ちいさな白い花が。


 僕は名前も知らないそれをむしり取ると、あとに残る細い茎と頼りない葉を窪地の底へと埋める。


 種代わり、というわけでもないだろうけど、そうするとまた同じ場所に同じ花が咲くから、なんとなくそうするようにしている。以前は雨が降って花が咲くたびに別の花が咲いていたのだが、これをするようになってから同じ花しか咲かなくなった。

 たまにさぼると別の花が咲くから、そういうものなのかもしれない。


 僕は咲いていた花を持ち帰ると、横になっている少女の前にそれを置く。

 顔の前に置けば、瞳がそれを捉えてあとは勝手に食べるからだ。


 彼女は花を食べる。

 理由は知らない。


 ただ、昔、はじめて彼女が倒れたとき、なにかしなければ、と歩いた先に花があってそれを摘んで持って帰ったら、瞳に光が戻ってすごい勢いで奪い去られたこと。

 一心不乱にそれを口にしていたこと。

 そのあとなにごともなかったかのように起き上がって、いつものように空を見始めたこと。

 それらの経験から、彼女が花を食べることを知っていた。


 その一方で、あんな小さな花では物足りないだろう、と思うこともあった。

 だから少し遠出をして果物を取ってみたこともある。たまたま実っていた、美味しそうな甘い匂いのする果実を。


 だが、彼女はそれに見向きもしなかった。

 あくまでも花がいいらしい。


 仕方ないのでその果実は僕が食べたが、まぁまぁ美味しくはあったが、わざわざ遠くまで行って取って食べたいほどのものじゃないかな、と思っている。

 こんなものよりも、取りに行っている間に彼女が倒れることの方が心配だ。


 彼女はもぐもぐと、音もなく僕が取ってきた花びらを食べている。


 そして、全部食べ尽くすと、むくり、と起き上がってまた空を眺め始める。

 それはいつものこと。

 僕が彼女のために花を取ることをやめない限り、続くであろうこと。

 まぁ、本当にそうなのかは分からないけど、多分そうであろうこと。


 その確信は、彼女に聞いてもわからないこと。


 それでも、白い花よりは薄紅色をした花が好きだということ。

 薄紅よりも赤い花が好きだということ。

 同じ赤い花でも小さな花より大きな花の方が好きだということ。


 彼女へと様々な花を与え続けて、その過程でわかったこと。


 それに対して僕はというと、僕自身に関してわかっていることがろくにない。

 わかっているのは、なにも食べなくても死なないこと、それぐらいだ。


 僕は何が欠けたら死んでしまうのだろう。

 生きている以上、僕も彼女のように何かを欠けて倒れることはあるのかもしれない。

 だけど、彼女にとっての花が、僕にとっては何かわからない。


 わからないから、自分にとって必要なものが分かっている彼女が、僕はうらやましい。


 彼女は相変わらず空を眺めている。

 ただ、その手にはまだ赤い花の欠片をつかまえていて、少しずつちぎっては口へ運んでいる。


「おいしいかい?」


 問いかけても返事はない。

 ただ、赤い唇に浮かんだ薄い笑みがその答えを教えてくれる。


 言葉が無くても、わかる。


 僕も彼女と並んで地面に残された花をかじる。少女の赤い唇と同じ色をした、やわらかな花びらを。

 美味しくはない。飲み込んでも満たされるものはない。

 たぶん、これは僕にとってなんの意味もない行為だ。

 

 ただ、それでも、少しでもわかりたいと、そう思う。


 僕は自分を知らないまま、彼女を象って生きていく。

 その関係性の中で「僕」が生まれたことは、彼女がいなくなるそのときまで、知らない。

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