掌編集
有里 馨
ローダンテの追憶
彼女と、約束した場所へ向かう。
片手に白い花束。片手に三本の赤い薔薇。
坂道に咲く彼岸花。秋めいた冷たい風が汗ばんだ頬をなでる。まだまだ続く上り坂に、ほんのすこし、気が滅入った。
ひとつため息をついて、また歩みを始める。
上で待つ、最愛の女の子のために。
坂を上りながら思い出すのは、夏のあの日、白いワンピース姿で僕へと微笑んだ彼女の姿。
海を見渡せるオープンカフェ。アイスコーヒーのストローをくるりと回して、何気ない口調で涼やかに語る彼女のまなざしは、此処ではない何処かを見ていたことをよく覚えている。
「薔薇ってね、本数で意味が変わるのよ」
「へぇ、たとえば?」
そう問えば、得意げに彼女は答える。
「一本で『一目惚れ』、三本で『愛しています』、九十九本で『ずっと一緒にいよう』……だったかしら? 他にもいろいろあったんだけど、流石に全部は覚えてないわね」
「九十九本なんて、数える方も、持っていく方も、受け取る方も大変だね」
思わずそう口に出すと、彼女は、夢がないわねぇ、といって呆れたように笑った。
「でも、まぁ、わたしも人のこと言えないか。わたしなんか、いくらかかるのかなぁ、なんて考えちゃったもの」
きみらしい、と返せば、そのあと少し意地悪な口調で言うのだ。
「それに、手に余るほどいっぱいの薔薇の花束より、一言『ずっと一緒にいよう』って言われた方が嬉しいかなぁ……ねぇ?」
……それはつまり、そういうこと。意気地無しの僕に向けた、ほんの少しの希望と意地悪。
申し訳なくて、でも気恥ずかしくて、何も返せない僕は海へと目を向ける。熱い頬に海風が心地良い。
くすり、と笑う吐息。おそるおそる目を向ければ、僕を見ていない彼女の姿。
海を、その向こうを見つめる姿。
融けて消えてしまいそうなその横顔に、それでも僕は言葉を持たなくて、ぽつりと呟くその言葉をただ聞いていた。
「でも、九九九本の薔薇は欲しいかも……なんてね」
九十九本でもうまく想像が出来ないというのに、千本近い花束はどれだけの質量を持つのだろう。どれだけの想いを伝えるのだろう。
その意味を、知りたくなった。
「それは、どういう意味なの?」
「自分で調べてみてよ」
「九九九本、ねぇ。うーん……分割でも良い?」
「……そういうところ、すごく貴方らしいと思うわ」
それはお互い様だよ、それもそうね、とお互いに笑って、またね、と、そう言ってその日は別れたのだ。
そして、彼女に言われた通り、家に帰って調べた。
九九九本の薔薇の意味は『何度生まれ変わっても貴方を愛す』。
でも、今の僕の片手にあるのはたった三本の薔薇の花。今の僕にはこれが精一杯。それでも、ただ懸命に君を『愛している』と伝えるための、三本だ。
辿り着いた坂の上。
海が見渡せる、彼女が好きなこの高台。あのオープンカフェも、この近くにあるのだ。
此処は僕らのお決まりの待ち合わせ場所だった。
それでも、今日の目的地はいつものカフェではないのだけれど。
いつもの場所を横目に過ぎる。
後ろを振り返れば、いつも息を切らして登っていた坂道が、僕を飲み込むように口を開いている。
九九九本まで、あと何度この坂を登ることになるのだろう。
毎月三本ずつ持っていくことが出来れば、二十七年と九ヶ月。それだけ「愛している」と伝えれば、彼女に想いは届くのだろうか。
言葉にならない、想いが。
届くと、いいな。
そう祈りながら、僕はあの夏に海の中へと散ってしまった、彼女の墓標へと花を手向けた。
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