第5話 Side―A 第四章 傷心

孝希に、捨て台詞を吐かれてから数日間、健吾は、悩んでいた。

 『僕は、麻衣のことが好きだ。麻衣を愛してる。』

 その数日間は、健吾は実際に、大学のレポートの提出やバイト等で忙しく、物思いに耽る時間は少なかったが、そのレポートやバイトの合間に、また夜寝る前等に、健吾は麻衣のことを、無意識に、また意識的にも考えさせられた。

 そして、そんな忙しい健吾を気遣ってか、麻衣の方から、(例の「バイトを辞める」という旨の電話以降は)連絡を取ろうとすることもなく、そして、健吾も、

「また次の予定は、メールか電話、するね!」

と言った後、麻衣と連絡をとらないでいた。

 『だから、僕は麻衣と、ずっと一緒にいたい。麻衣の喜ぶ顔が見たい。そしてその喜びは、2人で倍以上に、あと、麻衣が辛い時、苦しんでいる時は、その重みを2人で分かち合って、半分以下に…。』

健吾の頭の中は、麻衣のことでいっぱいであった。

 『そうだ。僕は、麻衣と付き合い始めてから、麻衣が辛い時でも、それを2人で半分以下にしよう、そう決めたんだ。

 だから、麻衣の家に借金があるなら、麻衣がそれで苦しんでいるなら、僕は麻衣の支えになりたい。

 借金の額は知らないけど、僕もバイトを頑張れば、何とかなるかもしれないし…。』

健吾は、そこまで考えた。またその間健吾は、孝希の「麻衣には借金がある」という嘘を、疑うことはなかった。(この辺り、何でも鵜呑みにしてしまう健吾らしさが、間違った方向で出てしまったのかもしれない。)

 『そうだ、僕が麻衣を、支えないといけない。相川…孝希さんになんて、任せてはおけない。

 人に対してあんな態度をとる相川さんは、きっと麻衣にも、高圧的な態度で、結婚を迫ったんだろう。それぐらい、僕にも想像できる。

 そんな奴に、麻衣を任せるわけにはいかない。

 麻衣の借金、僕が何とかしよう。』

健吾は、夜、自宅でそこまで考えた。と同時に、健吾の目に、数日前、無理矢理孝希に持たされた、「誓約書」なるものが、入って来た。

 健吾はその時、怒りで冷静にその誓約書を見ていなかったが、改めて、その誓約書の文面を覗いてみた。

 「誓約書

 俺、相川孝希は、鈴木麻衣さんの借金を、肩代わりすると約束する。

 また、その約束を果たした後も、鈴木麻衣さんには、一切近づかない。

 ただし、この約束が守られるのは、河村健吾が、鈴木麻衣さんと別れたら、である。

 河村健吾が鈴木麻衣さんと復縁した場合、この約束は、破棄することができる。

 相川孝希」

文面の最後には、「相川孝希」のサインが書かれ、印鑑が押されていた。この誓約書は、雨の中で書かれたこともあり、雨水で半分ぐちゃぐちゃになっていた。また、孝希の字は綺麗とは言えず、また殴り書きに近い書き方であったので、本当に、ただのメモと、見間違うような代物であった。

『でも、ここに書かれていることを、相川さんが守ったら…。』

健吾は、ある心の中の囁きを、無視することができなくなった。

 『麻衣の借金は、どれくらいなんだろう?僕がバイトで頑張って、返せるくらいの額なんだろうか?

 それにしても、この文面、相川さんが怒りに任せて書いた割には、内容はしっかりしている。本当にこの約束を、相川さんは守る気なんだろうか?

 そうだ、実際に、麻衣に借金のことについて訊いてみたらいい。そうすれば、はっきりした答えが出るかもしれない…。』

健吾はそこまで考え、麻衣に電話しようとした。そして、机に無造作に置いてあった携帯をとろうとした瞬間、孝希のある言葉が、頭の中にこだました。

 『あと、絶対に、俺から話があったってこと、いやそれだけじゃない、俺と会ったことも、麻衣には伏せて話をするんだ。その約束が守れねえなら、この話はなかったことにする。いいな?』

 『ダメだ。麻衣に確認したことがばれたら、相川さんとの約束を、破ることになる。あんな奴の約束なんて、はっきり言ってどうでもいいが、約束をこっちから破ると、何をしでかすか分からない…。』

健吾は思いを巡らし、携帯を、元の机に置いた。

 『一応、ここに書いてあることは、相川さんのサインと印鑑もあるし、向こうも守らなければいけないものだ。

 だったら…。

 ああ、もうどうしたらいいか分かんないな…!』

健吾は、完全に1人の世界で、混乱していた。 そして、とりあえず健吾は、ヒートアップ  

した自分の頭の中を整理することも兼ねて、

お風呂に入ることにした。

 健吾の下宿先のお風呂は、実家のそれに比

べて、決して大きい物であるとは言えなかっ

た。健吾はそのため、お風呂につかる時、足

を全部伸ばすことができず、アパートに住み

始めた直後は、そのことを少し気にしていた。

 しかし、近頃はそれにも慣れ、健吾は入浴

剤を買うなどして、狭い浴槽でも、お風呂に

入る時間を楽しめるように、工夫していた。

 しかし、この日は、とてもお風呂を楽しむ

気分には、なれなかった。健吾はお風呂に浸

かりながら、それでも、麻衣のことが頭から

離れない。しかし、

『このままでは良くないな。』

と思った健吾は、せめて自分の心の外側だけ

でも変えようと、とりあえず、いつもの入浴

剤を入れ、一旦自分の考えていることから、

離れようとした。


 そして、お風呂からあがった健吾は、ある

決断を、下した。


 「麻衣、夜遅くにごめんね。今、大丈夫?」

「久しぶり、健吾。うん、大丈夫だよ。」

「実はね麻衣、今から麻衣に、大事な話があ

るんだ。」

「えっ、何!?」

「よく聴いてね、麻衣。

 僕たち、今日で別れない?」

麻衣は、突然の健吾の電話越しの言葉に、び

っくりした。

 「…急にどうしたの?別れるって何?」

「ごめん、僕からはそれだけだから。

 じゃあ電話切るね。

 さよなら。」

健吾は、電話を切った。


 「相川…孝希さんですか?」

麻衣との電話を終えた後、健吾は、孝希の携

帯に、電話をかけていた。

「ああ、俺だよ孝希だよ。

 お前は確か…河村健吾だな?

 それで、決心は固まったのかよ?」

「はい、今麻衣に、

 『別れよう。』

って、電話をかけた所です。」

「おおそうか。やるじゃん。男だね~あんたも。」

「それで、誓約書の件は、本当に守ってくれ

るんですか?」

「当たり前だろ、俺も男だ。約束は守るよ。」

「分かりました。じゃあ借金の件は…、」

「これでチャラだ。それに、俺は二度と、麻

衣には近づかない。

 誓約書通りだよ。」

「分かりました。では失礼します。」

「ったく、ありがとうの1つも言えねえのか

よ。

 まあいいや。これで二度と会うこともねえ

な。

 あばよ!」

こうして、健吾は孝希との電話を終えた。


 『あいつ、俺の嘘、真に受けてやがる。本

当にバカだな!』

孝希は、健吾との電話を終える前から、笑い

を噛み殺すのに必死だった。そして、電話を

切った瞬間、笑いが止まらなくなった。

 『確かに麻衣を失うことは痛手だが、ここ

までうまくいくとは思わなかった。

 今夜はいい気分だぜ!』

そう思った孝希は、ウィスキーを取り出し、

1人で乾杯をした。

『マジでこのウィスキー、うめえなあ!こん

なうまい酒、久々だぜ!

 そういえば明日は、病院だな。』

孝希は、そこで明日、自分が病院に行くこと

を思い出したが、今夜はとりあえず、1人

で祝杯を楽しもう、そう思いながら、その夜

を過ごした。 


 『これで良かったんだ。麻衣は、これで借

金がなくなって、幸せになれる…。』

健吾は、麻衣、孝希に電話をかけた後、涙が

止まらなくなった。

『僕の決断は、間違っていない…。』

健吾は、そう自分に、言い聞かせていた。


 電話を一方的に切られた麻衣は、戸惑って

いた。

『さっきの健吾、何かおかしい。急に、

『別れよう。』

だなんて…。

 それに、何かを思いつめたような、声色だ

ったような…。』

健吾と長い間付き合い、健吾のことをよく知

っている麻衣は、声色だけで、健吾の様子を、

判断できるようになっていた。

 『とりあえず、健吾にもう1度、電話して

みよう…。』

麻衣はそう思い、健吾の携帯に着信を入れた。

 「…留守番サービスに接続します…。」

しかし、健吾は電話に出る気配はない。仕方

ないので麻衣は、留守電を入れることにした。

 「もしもし、麻衣です。

 健吾、急にどうしたの?別れるって、どう

いうこと?

 何かあった?

とりあえず、この留守電聞いたら、電話かメ

ール、ください。

 じゃあ、おやすみ。」

そうして麻衣は、とりあえず、健吾からの連

絡を待つことにした。

 しかし、健吾からの連絡は、一向に来ない。

気づけば、夜も更け、深夜になっていた。明

日、大学の講義だけでなく、新しいバイトの

面接も受ける予定の麻衣は、明日に備えて、

早く寝なければならない…、麻衣は健吾の電

話があるまで、そう考えていた。

 しかし、健吾の、

「別れよう。」

という電話があった後、麻衣は、健吾の着信

を待っているのと、ショックとで、寝られな

くなっていた。

 『健吾、一体どういうことなの…?』

孝希の健吾に対する嘘の件を全く知らず、状

況を知らされていない麻衣は、ただただ、戸

惑うばかりであった。

 そして、麻衣は鳴らない携帯電話を握りし

め、「新着メッセージ検索」の画面の更新ボ

タンを、何度も押し続けた。しかし、

「新着メッセージは、ありません。」

の文字が表示されるだけで、事態に何も、進

展はなかった。(たまに、新着の広告メッセ

ージが表示されることはあったが、それを見

る度に、麻衣の一瞬の期待は流れ去り、その

ことが麻衣を、イライラさせた。)

 そして、一睡もできないまま、麻衣は朝を

迎えた。麻衣は、このままだと本当に(翌日

が)マズイので、ベッドに潜り込んで寝よう

と試みたが、結局寝ることはできなかった。

 そして、早朝、新聞配達の人の、ガシャガ

シャという、新聞をポストに入れる音と同時

に、麻衣は朝になったことに気づき、大学へ

行く支度をしようとした。

 その日、寝られなかったこともあり、麻衣

の肌は、少し荒れていた。そしてとりあえず

麻衣は、その荒れた肌を隠す、という意味合

いも込めて、化粧をすることにした。

 『とりあえず、こういう時は保湿しなきゃ

…。

 でも、こんな肌、他の人、特に健吾に見ら

れたら、どうしよう…。』

麻衣はそこまで考え、はたと、我に返った。

 『私たちって、本当に別れたの?健吾とは、

もう会えない、ってこと?』

麻衣は、そう心の中で思い、涙が止まらなく

なった。

 麻衣の頬をつたい落ちる涙は、自然に大粒

になっていき、いつの間にか、麻衣は声をあ

げて、泣くようになっていた。朝から声を出

して泣かれては、もしかしたら同じアパート

の住人や、近所の人に、迷惑になるかもしれ

ない。麻衣はそれほど、大きな声を出してい

た。さらに、その時の麻衣には、近所迷惑な

ど、気にする余裕はなかった。

 『とりあえず、今日は大学にはサングラス

かけて行こう…。』

そう思った麻衣は、麻衣の大好物の、グラノ

ーラを朝食にとろうとした。しかし、いや案

の定、麻衣に食欲はなく、とりあえず麻衣は、

グラノーラに牛乳をかけ、お腹の中に流し込

んだ。

 そして、出発の時間となった頃、麻衣は自

分の郵便受けに、新聞と共に、差出人不明の

手紙が入っているのを、発見した。


 ―親愛なる舞へ

 今日はこのタイミングで失礼するよ。

 最近、嫌な気持ちにさせてばっかりだね…

ごめんね。

 とりあえず、また楽しい話も、しようね!

 あと、また新しい詩を、考えたんだ。タイ

トルは、

 『天に届く想い』

だよ!

 またね!

 孝介より―


 『また、いつもの手紙か…。』

麻衣は、その差出人の手紙をその場で開けて

読んだ後、いつものように、今日は部屋に戻

り、いつもの引き出しの中に、大事にしまっ

た。

 『それにしても、住所なしで、どうやって

手紙が届くんだろう?わざわざ私の郵便受け

の中に、直接入れている?

 …まさかね。

 あと、舞さんって、もしかして、このアパ

ートのこの部屋に、前に住んでいた人?』

 麻衣は連日の手紙について、いろいろ考え

たが、その考えも一瞬で、まるで麻衣の涙に

流されるように、麻衣の心の中から消えてし

まった。


 麻衣は、予定通りサングラスをかけて、そ

してその下はほぼすっぴんで、大学に出かけ

た。

 『何か、今日は集中できないな…。』

いつもなら大学の講義も、わりと前列でしっ

かり聞く麻衣であったが、今日はそういう気

分になれないせいか、後列に座り、漫然と講

義を聞いていた。そしてその間も、麻衣は自

分の携帯をチェックし、着信やメールが来な

いか、頻繁に確認していた。(幸い、最初の

講義は大講義室で行われていたため、麻衣の

その行動は目立たず、麻衣は注意を受けるこ

とはなかった。)

 しかし、と言ったらいいのかやはり、と言

ったらいいのか、健吾からの連絡は、なかっ

た。麻衣は傷心のまま、その日の最初の講義

を終えた。


 昨夜、麻衣に電話で

「別れよう。」

と伝えた健吾は、翌日になっても、気分は優

れなかった。

 昨日の夜、健吾が電話を切った直後に、麻

衣から、留守番電話があった。健吾はその声

を聞き、

『今なら、まだやり直せるかもしれない。や

っぱり僕は、麻衣のことが好きだ…。』

という感情に、支配された。そして、その夜、

健吾は何度も麻衣に、そのこと、そして借金

のことを、伝えようとした。

 しかし…。

『ここで麻衣に連絡をとってしまったら、麻衣の借金を、肩代わりする人がいなくなる。そうなると。麻衣は結局、不幸になる…。』

健吾はそう思い直し、

『もう麻衣とは、連絡をとらない。』

と、自分の中で強く決心した。

 そして、健吾の方も一睡もせず、次の日の朝を迎えた。しかし健吾は、その日講義があるにも関わらず、講義を受ける気がしないのと、ばったり会ってしまうかもしれない麻衣に会わせる顔がないのとで、大学を休もう、そう決めた。そして、手持ち無沙汰になった健吾は、とりあえず、テレビをつけることにした。

 テレビでは、朝の情報番組をやっていた。しかし、とりあえずテレビをつけてみたはいいものの、やはり健吾は、テレビの内容に、集中できない。

『これじゃあ、つける意味ないな…。』

健吾はそう思い直し、テレビを消して、CDプレーヤーを起動させ、音楽を聴くことにした。

 そこにかかったのは、健吾お気に入りの失恋の曲…。

 健吾はその歌詞を噛みしめるように聴き、そして、涙が止まらなくなった。

『大好きだよ、麻衣。

 でも、これが麻衣の幸せにつながると思うから…。

 さよなら、麻衣。』

健吾は、その歌詞が、まるで自分たちのことを歌っているような、そんな気持ちにとらわれた。


※※ ※ ※

 「そ、そんな…ことって、あるのかよ?」

孝希は、自分の診断結果に、驚きを隠せない。

「はい、間違いないでしょう。」

孝希は、医師にそう、はっきり言われた。


 11月、孝希は、机に向かっていた。そして、無我夢中で、手紙を書いていた。それは、自分の意思か、はたまた別の意思なのか―。孝希はそんなことも構わず、ただひたすら、手紙を書き続けた。


 また、11月、孝希は、麻衣の携帯に電話をかけた。

 「もしもし、鈴木麻衣さんですね。今日は麻衣さんに、折り入って話があります。ですから、この留守電を聞いたら、折り返しご連絡、お願いします。」

わざと留守電設定にして、無視していた麻衣の携帯に、一本の留守電が、入った。

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