その唇を待っている
小谷杏子
Chapter1
例えるなら、そう、バニラだ。
ふんわりとした髪の毛と声、匂いがピタリと一致する。最初から甘いけど、段々もっと甘くなる。
それが
それがまさか、教室で石野と二人きりでいるとは思わなくて。そんな場面にうっかり遭遇してしまい、僕は呆然と立ち尽くしていた。
こちらに背を向けた石野の肩から、ふわふわの髪の毛が見え隠れしている。木ノ下は白い花の装飾がついたピンを光らせて、そっと僕に気づいた。
「しずかに」と、こっそり人差し指をこちらへ向けてくる。そして、その目が石野の頭に隠れて——
息をひそめ、二人からは見えない場所まで忍び足で行く。ああいうシーンはドラマや深夜アニメでしか見たことがないので当然、心臓は跳ね上がるようだったし、どうして僕が緊張しているのか分からなかった。
左へ行けば階段はすぐだが、それにはこの教室を横切らないといけない。窓は閉まっているのに、ドアは両方解放されている。僕はすぐさま右を選んだ。
まだまだ僕らはお年頃。クラスの大半が恋愛だ、彼氏彼女だと浮かれている。そんな中で、恋愛に興味がないと
そう、もう過去形だ。あいつは大人の階段を上ったんだ。
「う……」
靴箱に寄りかかって呻く。
「羨ましい……」
鼻の辺りが熱くて堪らない。僕は短い前髪を触った。
木ノ下は、ああいうサラサラな黒髪が好きなのか。メガネ男子って奴がいいのか。
花のピンと悪戯がばれた子供のような笑顔が、頭に焼き付いて離れない。
「あーっ、くっそ〜……石野くたばれぇぇぇ」
「――
靴箱の陰から、ふわりとバニラの香りがした。肩を揺らして僕を見ている。
「さっきの……本当はなんでもないの。だから、誰にも言わないで。ね?」
髪の毛をなびかせ、こちらへ来る。あの甘い顔を思い出してしまい、僕は目を逸らした。
「あー……うん。分かった」
「なんか心配だなぁ。上原くんって男子みんなと仲いいじゃない?」
「そんなこと、ないよ」
あぁ、もう。どうして木ノ下は背が低いんだろう。まんまるな目で僕を見上げないで欲しい。
「木ノ下」
「はい」
「石野と……」
——付き合うの? てか付き合ってる? とか、訊けるわけない。
黙り込んだ僕に、木ノ下はクスクス笑った。悪戯っ子の顔だ。
「気になる?」
「え……あー、うーん……」
心を読まれたようでどきりとする。
「付き合わないよ」
「え?」
焦らすことなくあっさりと吐かれる。
「ふられたの。なんか、違うみたい」
よく意味が分からない。しかし、こんなにも可憐な女の子を振るとは石野の奴、頭がおかしいのか。身の程を知れ。
でも……これはチャンスでは。と、邪な思いがフッと湧いてくる。
「それじゃあ今、誰とも付き合って……」
「うん。ないよ」
少し焦れたような返事をしながら木ノ下は、靴箱から艶やかなローファーを出した。
「——上原くんって、ヘタレなの?」
少し眉を寄せて、こちらを見る木ノ下。非難する表情を向けられ、雷に打たれたような衝撃が走る。
「ヘタレじゃない!」
「そうなの?」
「うん!」
それでもまだ探るようにじっと見ている。
仮に僕が告白したら、木ノ下はOKするのだろうか。そんな風に聞こえてしまう。僕は空気に流されるように、ごくりと喉を鳴らした。
「木ノ下……僕と」
付き合ってください? くれませんか? いや、もうこの際どっちでもいい。
「付き合って……」
全身に力が入りすぎて、声が掠れた。
昇降口に誰もいなくて本当に良かったと思う。でないと、明日が悲惨だから。身の程知らずの上原が女子に告白して玉砕した、とか。噂になるだろうから。
「——いいよ」
目を瞑った真っ赤な世界に、言葉が綴られる。恐る恐る瞼を上げた。まんまるの目が近い。
「でも、条件があるの」
心臓はもう破裂寸前。頭も熱くて仕方ない。
そんな僕に、木ノ下は唇に人差し指を押し当てて、静かに言った。
「一週間以内に私にキスしてください。出来なければ、さよならです」
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