エターニティ

風来 万

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 昔はこの惑星にも死刑があったらしい。もしその時代に生きていたなら、俺は間違いなく死刑だろう。

 だが、今はここサラス国を始め、どこの国にも死刑はない。人道上の理由だそうだが、こんな刑務所で一生を過ごさせる事のどこに人道があるというのだろう。

「FC628!」

 看守が呼んでいる。俺の事だ。

「アイ、サー」

 俺は進み出て、列に並ぶ。俺にも名前はある。だが、看守たちは胸に付けられたプレートの記号で囚人を呼ぶ。

 俺の名前はサスティン・レイ、二十八歳だ。俺の刑期は百二十年で、ようやく一年が過ぎたところだから、百四十七歳まで生きれば晴れて自由の身になれる計算だ。つまり、俺は死ぬまでここから出られない。ただ一つのケースを除いて。

 この刑務所は刑期が百年以上の重犯罪者専用だ。俺などはまだ良い方で、同室のディックは爆破テロで刑期は百八十年だし、大量殺人犯ビリーの刑期は二百十五年だ。

 俺は大学院で生物学を学んだ。それに化学もだ。卒業後、学生時代の研究テーマだった菌類の分析を続けるために、シティの裏社会を牛耳る、シンジケートに入った。丁度シンジケートでは新しいラボを立ち上げた所で、マジックマッシュルーム、つまり幻覚作用のある茸の研究員を捜していたからだ。俺は知人の紹介でそこの研究員になった。

 ラボに入ってから知ったのだが、シンジケートはマジックマッシュルームからの麻薬精製を目指していた。

 俺は三年間、研究に没頭した。待遇は良かったし、仕事も面白かった。そして、三年目にようやく会心の作品が出来上がった。それは二種類のマジックマッシュルームの成分を海草から抽出した成分で結合し、そこに化学合成したある物質を触媒として添加したものだった。『ヘヴンズメア』と名付けられたその麻薬の効果は抜群で、僅かな量で天国を味わえる代物だった。しかも、薬を切らさない限り、身体に悪影響を与えないという特徴を持ち、それまでの麻薬のイメージを一新した。ただ、常習性は強く、一度服用したら止める事は殆ど不可能だった。

 シンジケートの上層部はこの麻薬に大満足し、『健康的な麻薬』というキャッチフレーズで売り出した。キャッチフレーズは馬鹿げていたが、ヘヴンズメアは瞬く間に広まっていった。

 だが、麻薬は麻薬だ。薬を続けている間は健康を害さないが、常習性が強い。一度手を出したら止められないのだ。常習者たちはヘヴンズメアを買うために全財産を投げ出す事になる。金が無い者は借金を重ね、やがて金目当ての犯罪へと走る。

 シンジケートは笑いが止まらない。ヘヴンズメアは作れば作っただけ売れた。客が代金をどうやって工面しようが知った事ではない。

 やがて、シティの住民の三パーセントがヘヴンズメア常習者になった。

 常習者が一万人を超え、シティの犯罪発生率がうなぎ登りになる頃、突然の終焉が訪れた。警察の大々的な摘発が始まったのだ。極秘だったラボにも警察隊が乗り込んできた。俺は逃げる間もなく、逮捕された。

 俺はヘヴンズメアの生みの親として有罪になり、百二十年の刑期が言い渡された。多くの犯罪者や自殺者を生み出したヘヴンズメアだが、この刑期はちょっと長すぎると思う。不満はあるが、まあ俺の名前は若き天才化学者として長く歴史に刻まれるだろうし、諦める他はなかった。


 看守に誘導されて囚人の列が動き始めた。俺も列に並んで歩き出す。

 生きてここを出られる唯一の方法が、これから始まるオークションだ。四ヶ月に一度、刑務所内で開催されるこのオークションには、希望する囚人のうち三十人が無作為に選択され、出品される。つまり、俺たちはオークションの品物なのだ。もしオークションで誰かに競り落として貰えれば、そいつはここを出て行ける。ただし、自由になれる訳ではない。競り落とされた囚人は奴隷となり、国外追放になる。

「ここで大人しくしていろ」

 看守は俺たち三十人を通路に面した大部屋に入れた。通路側は鉄格子になっていて、まるで動物園の檻のようだ。オークション前に客が俺たちを下見するための場所だ。

 待つほどもなく、通路の先の鉄扉が開き、買い手たちがやって来た。

 オークション参加者は事前に身元審査をされていて、囚人の身内や個人の参加は許可されない。買い手の殆どは外国の政府関連機関か、大企業だ。買われていく囚人たちのその後の消息は判らないが、噂では、危険な労働に従事させられたり、人体実験に使われたりしているという話だ。だから、俺たちとしてもオークションへの出品希望は命がけという事だ。

 オークション参加者たちが鉄格子の向こう側に集まってきた。百人程もいるだろうか。みな手には俺たちのプロフィールが書かれた資料を持ち、それと俺たちの胸のプレートを突き合わせて確認している。

 俺たち囚人は自分をアピールしようと必死になる。強靱な肉体を披露しようとポーズを取る者、紳士的な態度で、さりげなく他の囚人を押しのけながら良く見える通路際へ寄ろうとする者、にこやかな笑みで少しでも自分の凶暴さを隠そうとする者。この機会を逃せば次にオークションに参加できるのは何年先になるか判らない。しかも通常、一回のオークションで落札されるのは十名程度だ。

 俺はみなから少し下がって部屋の中央に立っていた。俺は肉体派じゃない。外見でアピールできる部分はない。

 下見は三十分ほどで終了した。買い手たちが鉄扉の方へ戻っていく。いよいよ競りの開始だ。

「GN311! 出ろ!」

 看守が最初の一人を連れ出す。残った二十九人が一瞬ざわめく。彼はこれからホールのステージで競りに掛けられるのだ。

 落ち着かない時間が過ぎていき、やがて看守が二人目を呼び出す。次の呼び出しまでに時間が掛かっているのは競りが成立しているからだろうか。

 三人目が呼ばれる。俺は最後の方だ。

 残された囚人たちはみな静かだ。果たして自分には買い手が付くのだろうか、買われていった先で何をさせられるのだろうか、不安の種は尽きない。それでも塀の外へのあこがれは強い。

 呼び出しの間隔は時に長く、時に短く、その度に残された者たちは顔を見合わせ、微妙な連帯感で意味もなくにやつく。

 とうとう俺の番が来た。

「FC628!」

 隣に立っていた見知らぬ囚人が黙って俺の肩に手を置いた。俺はそいつに頷き、部屋を出る。通路の先の扉をくぐり、少し先のホール裏手に通じるドアの前で止まる。ホールには何度か入った事がある。ステージに向かって、階段状に客席が並んでいる大きな部屋だ。素人劇団が慰問に訪れたときなどに使われる。

 突然ドアが開かれた。

「入れ!」

 俺は中に入る。看守に誘導され、カーテンの隙間からステージに進み出た。

「FC628! 刑期は百二十年、模範囚です!」

 司会役の看守が俺を紹介し、競りが始まった。

 俺は客席を見回す。最低落札価格で、客の手が上がった。良かった、競りは成立した。価格が徐々に上昇する。競り合っているのは二人だけだ。やがて一人が諦め、俺は競り落とされた。俺は奴隷になり、刑務所は収益を得た。


 俺は首にリモートコントロール式のプラズマ首輪をはめられ、買い手と対面した。

「FC628、お前のご主人様だ」

 買い手は若い白人女だった。女だという事はホールでも確認できたが、明るい所で見る女は若くて美人だ。小さめの顔に焦げ茶のショートヘアーがうまくマッチしている。ダークスーツのスカートは丈が短く、濃紺のストッキングをはいた足は長く、形が良い。女の後ろにはボディガードだろうか、黒いスーツの大男が二人、無表情で立っている。

 女は看守から首輪のコントローラーと鍵を受け取った。あのボタンを押されれば、俺はたちどころに意識を失う。鍵は首輪を外すための物だが、この首輪が外される事は恐らくないだろう。俺は正真正銘、この女の奴隷になった。


「では、行きましょう」

 女はとても美しい声をしていた。透明感のある透き通った声は、それでいて凄くセクシーだ。

 女が歩き出す。看守が慌てて先頭に立った。俺は両脇をボディガードに固められて女の後ろを付いていく。女の形の良い尻に先導されて、俺は長い廊下を歩く。幾つも扉を抜け、やがて外に出た。広いスペースに、何機もの飛行機が駐機している。オークションに集まった客達の所有するヘリコプターやVTOL(垂直離着陸機)だ。

「では、ここで」

 看守が立ち止まり、女に頭を下げる。女は軽く会釈し、そのまま歩いていく。

 やがて女は小綺麗なVTOL機の脇で立ち止まった。機体に所属を示すようなマークは見当たらない。

「乗りなさい」

 言われるままに、俺は飛行機に乗り込む。

 飛行機は小型の旅客機だった。俺は後ろの方に座らされ、ボディガードが前後を固める。女は前の方の席だ。

 飛行機はすぐに離陸体制に入った。女が何者なのか、どこへ行くのか、俺は知らされなかった。刑務所を後にしながらも、俺の頭を不安がよぎる。


 離陸してすぐに、女が俺の所へやって来た。

「あなたはドクター・レイと呼ばれていたわね」

 女が唐突に切り出す。確かに、シンジケートのラボで、俺はそう呼ばれていた。

「ああ」

「わたしはケイト・アバディン。あなたの直属の上司よ」

 女にはうち解けた表情は微塵もない。むしろ、嫌悪の色すら見て取れる。恐らく俺を買った事は本意ではないのだろう。

「『ドクター・レイ』として俺を買ったという事は、俺に肉体労働を期待している訳じゃなさそうだな」

 女の表情に嫌悪の色が濃くなる。

「そうよ。あなたにはまた麻薬の研究をして貰うわ。今度は禁断症状を緩和する薬を作るためにね。もし協力を拒んだり、サボタージュをしたら、わたしは躊躇無くあなたを殺します」

「で、あんたは何者なんだい、ボス?」

「わたしはウィグラン共和国健康省の麻薬取締局長よ」

 ウィグラン共和国は、ここサラス国とは海峡を隔てた隣国だ。平和な国だと聞いている。そんな国が俺のような悪人を買わなきゃならないなんて、何かが起こっているのだろう。女の嫌悪の表情がそれを裏付けている。

「それから――」女が話を続ける。「わたしの事をボスと呼ばないでちょうだい」

「じゃ、なんて呼ぼうか? アバディン局長? ミス・アバディン?」

「どっちでもいいわ」

 なるほど、独身か。まだ若いのに局長とは、この女、相当な切れ者なんだろう。

「で、ミス・アバディン、何が起こってるんだ?」

 俺の問いに、ミス・アバディンはうつむいている。が、やがて顔を上げる。

「新種の麻薬よ」

 彼女は呟くように言った。

「ムショの中じゃ聞いてないな。……で?」

「作用はあなたの作ったヘヴンズメアに似ているわ。ただ、副作用があるの。服用を続けると、恐らく三年以内に内臓をやられて死に至ると考えられているわ。かと云って、服用を止めれば激しい禁断症状で精神をやられてしまうのはヘヴンズメアと同じね」

「どの位出回ってるんだ?」

「初めて見つかったのは半年程前よ。首都ローラを中心に、徐々に広がりつつあるわ。ウチの調査チームが出所を探っているけれど、まだ掴めていないの」

 その麻薬は『エターニティ』と呼ばれているらしい。ミス・アバディンは、初期の中毒患者が死に至る前に処置薬を作り出したいようだ。猶予はせいぜい後二年位という事だ。

「後二年か。……無茶な話だ。そもそも今までに麻薬の処置薬が作られたなんて、聞いた事がないぜ」

「無茶でもあなたにはやって貰うわ。出来なければわたしがあなたを殺す」

 ミス・アバディンは冷たい目で俺を見る。彼女がまた口を開く。

「わたしを始め、麻薬取締局のメンバーはみんな麻薬を憎んでいるわ。勿論、麻薬を作った人間もね」

「だから躊躇無く俺を殺せる訳か。まあ、俺は奴隷だしな」

 別に俺は麻薬が好きでヘヴンズメアを作った訳じゃない。ただ、研究や新しい物を作り出す事に興味があっただけだ。だから、作り出す物は麻薬でも、処置薬でも構わない。新天地は四面楚歌かも知れないが、それなりに楽しめそうだ。


 やがて飛行機が高度を下げ始める。いよいよ目的地が近いようだ。雲海を抜け、眼下に町並みが見え始める。緑が多い。

 機は行き足を止め、垂直降下に移る。窓の外に背の低いビルとよく手入れされた林が見え始める。すぐに着地のショックを感じた。

 キャビンのドアが開けられ、俺はミス・アバディンに続いて地上に降り立った。特に出迎えはない。見回すと、そこはVTOLの発着場らしく、ヘリポートのような舗装された広場になっている。周りには背の低い、特徴のないビルが林の中に点在している。まるで大学のキャンパスのようだ。

「こっちよ」

 ミス・アバディンが歩き出す。ボディガードは付いてこない。ここからは二人だけのようだ。林の中の小道を抜け、建物の一つに入っていく。

「なかなか良い所じゃないか」

 後ろから声を掛けるが、彼女は返事もしない。

 俺たちはエレベーターで地下に下りた。着いた所は、こぢんまりとした研究室だった。室内に人影はない。

「大した設備だな」

 俺は辺りを見回して言う。最新式の分子アナライザー、コンピュータ端末、その他、値段の張りそうな機械が並んでいる。

「ここがあなたの仕事場よ。宿泊設備もこのフロアにあるわ」

 つまり、俺はこのフロアから出して貰えないという事だろうか。運動場に出られただけ、待遇は刑務所の方が良かったかも知れない。

 ドアの開く音に、俺は振り返った。白衣を着た娘が二人、立っている。

「紹介するわ。あなたの助手、王林(おうりん)と紅玉(こうぎょく)よ」

 二人は良く似ている。黒い瞳に黒い髪、ほっそりとした体つきをしている。姉妹だろう。

 髪をポニーテールにしている王林が姉、二つに分けて結んでいる紅玉が妹だった。

「よろしくな」

 俺が言っても、二人とも硬い表情を崩さない。まさに、懲役百二十年の犯罪者を見る目つきだ。

「彼女たちに危害を加えようなんて考えない事ね。この部屋にはカメラが設置されていて、わたしのオフィスでいつでもモニターできるから」

「俺は性犯罪者じゃないんだぜ」

 それにプラズマ首輪がある以上、悪さなんて出来やしない。まあ、彼女だってそんな事は承知しているはずだ。でなければ、女を助手になど付けはしないだろう。

「じゃあ、プライベートスペースに案内するわ」

 ミス・アバディンが先にたって研究室を出て行く。

 廊下の先のドアを開けると、まるで高級ホテルのスイートルームのような場所が広がっていた。

「ここがあなたの生活空間よ」

 ミス・アバディンが事務的に言う。

 調度品の揃った居間、ベッドルーム、バスルーム、書斎にはコンピュータまで用意されている。申し分ない。キッチンスペースもある。

「二階に食堂があるから、自炊の必要はないわ」

「このフロアから出ても良いのか?」

 俺の質問にミス・アバディンは少し面食らったようだ。

「考えていなかったわ」

 どうやら、俺の行動をどこまで制限するのかはまだ決めていなかったらしい。

「たまには外で日光浴もしたいしな」

 彼女はしばらく黙っていたが、やがて考えが纏まったのか、口を開く。

「ここは健康省の研究施設なの。麻薬取締局以外にも、色々な施設があるわ。あなたにはここの敷地内を歩く事を許可します。ただし、この棟以外の建物への侵入は禁止です」

「と、いう事は、この棟の中は自由に歩けるのか?」

「立ち入り禁止区域以外はね。後で案内するけど、わたしのオフィスは三階よ。研究の成果は随時報告に来て下さい」

「あんたが女神様に見えるよ」

 ミス・アバディンが僅かに微笑んだ。


 翌日から、俺の研究生活が始まった。まずはエターニティの分子構造の解析からだ。

「王林、分子アナライザーの用意をして」

「はい、レイ」

「紅玉、試薬の準備を」

「はい、レイ」

 助手たちはまだ大学を卒業したての様だったが、てきぱきと仕事をこなしていく。優秀な娘たちだ。

 調べてみると、エターニティは予想以上に不純物が多いようだ。そんな中から目的の分子構造を割り出していく。

 調査の合間に、俺は二階の食堂へ行ってみる。食堂は小綺麗で気に入った。棟内にどれ程の人数がいるのかは知らなかったが、食堂は空いていた。

 窓際の席で軽食を取る。時々白衣の研究員が出入りするが、みな俺には近付かない。どうやら俺の事は知れ渡っているようだ。

 ミス・アバディンが入ってきた。彼女はセルフサービスのカウンターから軽食の載ったトレイを受け取ると、真っ直ぐに俺の所にやってきた。

「おはよう、ドクター・レイ」

 相変わらず硬い表情で挨拶をし、向かいの椅子に座る。

「おはよう、ミス・アバディン」

 その場に居合わせた研究員たちがこちらに注目しているのが感じられる。

「ここは気に入って貰えたかしら?」

「ああ、気に入ったよ。まるで天国みたいだ。その上、女神様と差し向かいで食事が出来るなんてね。一年ぶりに会う女があんたで良かった。まるでヤクでもやってるみたいにハイな気分だ」

 ミス・アバディンが露骨にイヤな顔をした。『麻薬』に対する骨髄反射だろう。無論、俺自身は麻薬を試した事はない。その恐ろしさをよく知っているからだ。ミス・アバディンだって俺が麻薬に手を出していない事は知っているはずだ。だが、彼女はこういう冗談は嫌いらしい。

「一段落したらわたしのオフィスに来て頂戴」

 彼女はそう言うとプイと横を向き、黙って食事を始めた。席を立ってしまわなかったのは彼女の理性の賜物だろう。

 俺は早々に食事を終わらせ、食堂を後にした。

 俺のラボでは娘たちが分子アナライザーとコンピュータの間を忙しそうに行き来していた。分子アナライザーは膨大な量の分子構造を次々に示してくれる。だが、その殆どは不純物だ。それらの分子構造をコンピュータで既知の分子と比較し、同定していく。

 夕方になって、俺はラボを後にした。エレベーターで三階に上がる。

 ミス・アバディンはオフィスでデスクに積まれた書類の山と格闘していた。今どき、電子化されていない書類がこんなに積まれた光景も珍しい。

 俺の怪訝な表情を感じ取ったのだろうか、彼女が言い訳をする。

「お役所はね、紙が好きなのよ」

「にしても、多いな」

 彼女が書類の山を押しやり、俺に向かいの椅子を勧める。

「早速だけど、あなたの計画を話して頂戴」

 素っ気ない女だ。ニコリともしない。

「まずは分析だ。エターニティが何物なのかが判らなければ対処のしようがない」

「そうね。別のチームにも分析をさせているけれど、単なる化学合成麻薬でもないみたいだし」

「らしいな」

 その話はすでに聞いていた。分光解析でも、クロマトグラフィーでも、エターニティの本質は判らなかったらしい。

「あなたは出来そう?」

「娘たちが優秀だからな」

 実際、分析を行っているのは王林と紅玉の姉妹だ。

「あの二人の麻薬に対する嫌悪はわたし以上だから。……兄を麻薬で亡くしているの」

 なるほど。俺に対する嫌悪の念も強そうだ。だが、それをバネに仕事を頑張れるなら、文句はない。

「それで――」彼女が続ける。「エターニティの正体が判ったとして、それからは?」

 そう、それが問題だ。副作用を軽減する薬はすでに医療チームが研究中だ。俺に期待されているのは、もっと根本的な対策だろう。

「……今のところ、アイディアは無いな」

 ミス・アバディンの表情が暗くなる。

「わたしはあなたを殺したくはないわ、ドクター・レイ」

 これはそのままの意味ではあるまい。俺に何としてでも特効薬を作らせたいという事だ。


 それから数日は分子構造モデルとのにらめっこの日々が続いた。合間に食事をしたり、外の林を散歩する事も出来た。一度など、雨の降る林の小道を傘も差さずに歩いたりもした。刑務所では許されない事だ。

 プライベートスペースは快適だった。柔らかいベッドで、しかも個室だ。狭い独房以外には個室の無かった刑務所では到底味わえない、独り寝を堪能できた。

 だが、俺にはゆっくり寝ている暇など無かった。やらなければならない事は山程ある。

 その日の午後、俺は目の前のディスプレイに分子モデルの一つを表示させて眺めていた。それは、ここ何日かで解析された分子の一つで、かなり複雑な構造になっている。だが、俺はその分子の中心近くの構造に見覚えがあった。それはあの懐かしいヘヴンズメアの分子構造に良く似ていた。これは偶然だろうか?

 俺はヘヴンズメアの設計書をシンジケートの上層部に提出してあった。だから、あのラボが閉鎖され技術者がいなくなっても、また新たにラボを立ち上げる事は不可能ではない。いや、シンジケートは必ずそうするだろう。シンジケートは壊滅した訳ではない。麻薬商売の大部分は失ったにしても、きっとまた立ち上げる。ヘヴンズメアは儲かる商品だ。

 だが、俺の提出した設計書だけではヘヴンズメアは作れない。肝心の部分は巧妙に隠してある。恐らく、シンジケートの研究員はヘヴンズメアを作ろうとしたがうまく行かず、不純物が多く副作用も強い別物の麻薬を作ってしまったのだろう。それがエターニティだ。シンジケートとしても、不純物が多い麻薬より純度の高い麻薬の方を喜ぶ。その方が高値で売れるからだ。それに、常習者が副作用で死ぬのは客を失うという事で、シンジケートにとっては大打撃だ。シンジケートは、不本意ながらも出来の悪いエターニティを売り捌いているのではないだろうか。

 エターニティの原料はヘヴンズメアと同じ二種類のマジックマッシュルームだろう。海草成分もヘヴンズメアと同じだ。それは設計書にも書いておいた。だが、触媒成分として使う化合物と、全体の精製方法は設計書からは読み解けないはずだ。

「王林、紅玉」俺は二人をディスプレイの前に呼ぶ。「コイツの解析をしてくれ」

 俺は表示された分子モデルから中心部の構造を分離して二人に示す。残った部分が何から出来ているのか、知りたかった。


 ミス・アバディンのオフィスに電話をする。彼女は部屋にいた。

 オフィスに入ると、今日は書類の山が大分低い。頑張って処理したのだろう。

「何か判ったの?」

 彼女が身を乗り出すようにして訊いてきた。

「ああ。全部じゃないけどね」俺は椅子に腰を下ろす。「エターニティには俺のいたシンジケートが絡んでいる」

 彼女が息を呑んだ。俺は構わず続ける。

「あれはヘヴンズメアの粗悪品なんだ」

 俺は分子構造の中にヘヴンズメアの成分を見付けた事、シンジケートにヘヴンズメアの設計書を渡してあった事などを説明した。

「でも――」彼女はにわかには信じがたいようだ。「なぜサラス国のシンジケートが?」

 なぜわざわざ海を越えてウィグラン共和国で活動をしているのかは俺にも判らない。が、想像は付く。当局の一斉摘発で壊滅的な打撃を被ったシンジケートは、比較的取り締まりが緩やかなこの国を新たな拠点に選んだのだろう。

「理由はともかく、シンジケートがこの国に入っている事は間違いない」

 ミス・アバディンがため息をつく。

「そうね。……相手が判れば、少しは取り締まりの効果が上がると思うわ」

 シンジケートのやり方についてはサラス国当局に問い合わせれば情報が得られるだろう。だが、シンジケートも一年前の失敗を教訓に、知恵を付けているはずだ。簡単にはシッポを掴ませないだろう。

 俺はラボに戻り、解析の続きに取りかかった。


 俺は突然誰かに揺り起こされた。昨夜は遅くまでラボに籠もっていたから、寝たのは明け方近くだった。もう少し寝かせておいて欲しい。

「起きろ!」

 男の声だった。俺はいやいや目を開ける。

「サスティン・レイだな?」

 ダークスーツ姿の、寝起きには特に見たくない暑苦しい体型の男だ。俺は渋々身体を起こす。

「あんたは?」

 男はそれには答えず、黙って紙片を差し出した。

 それを受け取り、紙面に目を走らせる。どうやらeメールをプリントした物のようだ。宛名は『健康大臣殿』となっている。差し出し人の名前はない。

 文面はいきなり『麻薬取締局長は預かっている』と始まっていた。俺は完全に目が覚めた。ミス・アバディンの事だ。メールは、実質的には俺宛だった。俺を指名している。『ドクター・レイにヘヴンズメアの製造工程解説書を用意させろ』そう書いてきていた。俺がここに奴隷として買われてきた事を知っているようだ。

 男が黙って俺の手から紙片を受け取る。

 俺は男の顔を見る。

「私は共和国警察特殊工作班のロペス捜査官だ」男が俺の顔の前に身分証を突き付ける。「……麻薬取締局長の所在は昨夜から確認されていない」

 つまり、メールの内容は真実だという事だ。

「で?」

 俺は意地悪く訊いてみる。勿論、ロペス捜査官は俺にヘヴンズメアの製造工程解説書を用意させるために来たのだ。

「私は誘拐についてはプロだ。が、麻薬取締局の仕事は知らない。その……解説書がどれ程の価値があるのか、お前になら判るんだろう?」

 つまり、指示通り解説書を相手の手に渡して良いものかどうか、彼には判断できないという意味だ。

「俺たちにとっても、好都合だ。ヤツらの指示に従おう」

 勿論犯人はシンジケートだ。ヤツらはエターニティの代わりに、より精度の高いヘヴンズメアを売り捌く事で、得意客を確保できる。

「『俺たち』とは?」

「ああ、俺は麻薬取締局のメンバーだ」

 無論、『俺たち』とは麻薬取締局、とりわけ俺のチームとミス・アバディンの事を意味している。シンジケートに味方するつもりはなかった。

「判った。お前を信じよう」

「昼までには解説書を用意しておくよ」

 俺はベッドから起き出し、服を着る。

 捜査官は、犯人から連絡があり次第、俺に伝えると約束して部屋を出て行った。

 ヘヴンズメアの製造工程は全て俺の頭の中にあった。俺は書斎のコンピュータに向かい、書類を書き始める。寝不足のはずだが、不思議と頭は冴えていた。


 時々、紅玉が軽食や飲み物を差し入れに来てくれた。他には誰も来ない。俺は昼少し前に解説書を書き上げ、メモリーデバイスに保存した。

 ゆっくり休む間もなく、ロペス捜査官が顔を出した。

「用意できたか?」

 ぶっきらぼうに訊いてくる。

「出来ている」

 俺が答えると、また紙片を差し出す。次の指示だ。

 また俺を名指しだ。俺に解説書を持って指定の場所に出向くように書いてある。

「はっきり言って、お前をここから出しても大丈夫なものかどうか、私には判断が付かない」

 ロペス捜査官の脂ぎった顔には逡巡の色が浮かんでいる。もし俺を行かせて、そのまま帰ってこなかったら? そう考えているのだろう。プラズマ首輪のリモートコントローラーの有効範囲はせいぜい五十キロ程度だ。それ以上離れてしまえば俺は自由になれる。

「悩む事はないさ。あんたには他に選択肢がないんだから」

 そう、彼には俺を行かせる他に手はない。

「大丈夫です。レイならきっと局長を助けて下さいます!」

 入り口のドアの所に紅玉が立っていた。事情は理解しているようだ。

 ロペス捜査官が紅玉を振り返る。目に涙を浮かべて心配げな彼女を黙って見やる。

「……そうだな。やって貰うしかないな」

 余り時間はなかった。指定場所は郊外の草原だった。ハイウェイがカーブしているのが目印だ。そこまではロペス捜査官に送ってもらう事にする。

「必ず連れて帰ってくるよ」

 俺は紅玉に声を掛けて部屋を出る。王林は姿を見せなかった。


 車中、ハンドルを握るロペス捜査官は終始落ち着きがなかった。やはり俺を野放しにする事に抵抗があるんだろう。誘拐犯は俺の昔の仲間だ。俺が向こう側に付いたとしても不思議ではない。俺自身、迷いがない訳ではない。麻薬取締局のお陰で刑務所を出られたとはいえ、俺は別にそれを恩には感じていなかった。かと云って、シンジケートに義理もない。正直な所、ミス・アバディンは死なせてしまうには惜しい女だと思う。いつも冷たい目で俺を見る彼女だが、刑務所の廊下で彼女の尻を眺めて以来、俺は彼女をいい女だと思っている。だから、彼女を無事に連れて帰りたいと思う。それだけだ。

「もうすぐ指定の場所だ」

 ロペス捜査官が言った。日が西に傾いている。じきに辺りは暗くなるだろう。

 乾燥した草原のただ中で、車は停止した。道がカーブしている、丁度その頂点付近だ。

「じゃあな」

 俺は車を降りる。ポケットにはメモリーデバイス、後は手ぶらだ。

 ロペス捜査官は何も言わずに車を発進させた。Uターンして戻っていく車を眺めながら、俺は紅玉の悲しげな顔を思い出していた。

 シンジケートは空からやって来た。小型のヘリコプターだ。爆音と砂埃の中、ヘリコプターは道路に着陸した。

 男が一人降りてきた。電波探知機を手にしている。他に武器らしき物は持っていない。男は黙って俺の身体を調べ始めた。発信器が隠されていないか確認しているのだ。

「乗って下さい、ドクター・レイ」

 男に促され、俺はヘリに乗る。男の丁寧な口調は俺を仲間だと思っているからだろうか。

「どこへ行くんだ?」

「ボスの所へご案内します」

 シンジケートにはボスと呼ばれる人間はたくさん居る。各支部のボス、その下部組織のボス、そのまた下部組織のボスといった具合だ。だから、これから連れて行かれる先で待っているボスが誰なのか、皆目見当が付かない。

 ヘリは二十分程で俺を町外れの倉庫街に降ろした。建ち並んだ倉庫の前には荷繰り用のスペースが広く取ってある。ヘリはそこに着陸し、俺と男を降ろすと何処かへ飛び去って行った。

「こちらです」

 男が先にたって歩き出す。倉庫はどれも扉が閉じられており、辺りに人影もない。男が倉庫の一つに歩み寄り、脇の通用口をノックする。と、扉が中から開かれた。

「どうぞ」

 脇に寄った男の横を抜けて、俺は中に入る。

 薄暗い倉庫の中は殆ど空だった。ただ、寒々としたスペースの中央辺りに、机やソファ、ベッドなどが乱雑に置かれている。シンジケートが裏取引を行うための場所だろう。

 中央に置かれた応接セットの脇に、男が立っていた。

「ようこそ、ドクター・レイ」

 何処かで見た顔だ。そう、以前シンジケートのパーティーで会った事がある。あの蛇を思わせる陰湿な笑み、確かバイパーと呼ばれていた、幹部の一人だ。

「あんたか、バイパー」

 バイパーがあのお馴染みの笑みを浮かべる。

「また会えて嬉しいよ、ドクター」

 俺はポケットからヘヴンズメアの製造工程解説書が入ったメモリーデバイスを取り出す。

「製造工程解説書はこの中だ。で、ミス・アバディンは?」

 バイパーが後ろを振り向く。

「おい、連れてこい!」

 奥の暗がりから、見知らぬ男が彼女を連れて現れた。彼女は下を向き、俺の方を見ようとはしない。

「大丈夫だ、ドクター。首輪の鍵とコントローラーは私が取り上げたよ」

 一瞬、俺はバイパーが何を言っているのか判らなかった。ヤツは、俺がミス・アバディンがコントローラーのスイッチを押す事を恐れていると思っているのだ。

 バイパーが俺に近付く。手にはそのコントローラーと鍵を持っている。

「今、外す」

 バイパーは何の躊躇もなく、俺の首輪を外してくれた。

「ありがとう」

「なに、昔のよしみだ」

 バイパーの顔にあの笑みが浮かぶ。それから部下に命令する。

「局長さんをここに連れてこい」

 ミス・アバディンは両手を手錠で繋がれたまま俺の目の前に連れてこられた。見たところ、服に乱れはなく、外傷も見当たらない。

「ドクター・レイ。あんたのご主人様はなかなかの上玉だな。私としてはじわじわといたぶりたかった所だが、見ての通り無傷のままだ。どうしてだか判るか?」

「いや」

 確かに、陰湿なバイパーが麻薬取締局長に何もしないのは不思議だ。

「あんたのためだよ、ドクター。この女はあんたへのプレゼントだ。まあ、一年間のムショ暮らしに対する私からの見舞いの品だと思って欲しい」

 そう言うと、バイパーは俺から外したプラズマ首輪をミス・アバディンの首にはめ、代わりに手錠を外した。

「今から、この女はあんたの奴隷だ」

 バイパーがコントローラーと鍵を俺に差し出す。

「ありがたく受け取っておくよ」

 俺は引き替えにメモリーデバイスをヤツに渡す。

 ミス・アバディンは一言も発せず、下を向いている。

「さて――」バイパーがおもむろに切り出す。「あんたに頼みが有るんだが」

 そう来ると思った。

「ヘヴンズメアの事か?」

「少なくとも、製造が軌道に乗るまで、あんたに工場を指揮して貰いたい。勿論、それから先も私と一緒に働いて貰えるとありがたいんだが」

 俺はちょっと考える素振りをする。

「そうだな……先の事は判らないが、取り敢えず工場の面倒は見させてくれ」

 バイパーの顔に安堵の色が浮かぶ。

「そうか。助かるよ」

「いや、こちらこそ」

 実際、あの粗悪なエターニティよりはヘヴンズメアの方が麻薬取締局にとってもずっとマシのはずだ。両者の利害は一致している。

「では、早速だが、これから工場へ行ってくれ」

「プレゼントも持って行っていいか?」

 俺はミス・アバディンに視線を送る。

「勿論だ。その女はもうあんたの奴隷だからな」

 バイパーはミス・アバディンを俺の方に押しやると、倉庫の奥の方へ歩いていった。俺たちを運ぶヘリの手配をしているようだ。

「ミス・アバディン?」

 彼女は俺の胸に顔をうずめ、何も答えない。

「ヘリを手配した」バイパーが戻ってきた。「あんたたちのためにコテージも用意させてもらった」

 ヘリが到着するまでの間、俺はミス・アバディンを抱いて倉庫の入り口近くに立っていた。彼女は僅かに震えている。

「乱暴されなかったか?」

 彼女の耳元に囁く。彼女が僅かに顔を上げた。

「大丈夫」

 それだけ言って、また下を向く。あの、冷たく高慢な面影はない。

 外にヘリの音が聞こえてきた。

 バイパーが寄って来る。

「私はここで失礼するが、欲しい物があれば何でも部下に言ってくれ」

 俺は一応バイパーに礼を言い、外へ出る。すでに陽は落ちていた。ヘリの巻き起こす風にミス・アバディンが一瞬たじろぐ。

 彼女を庇いながらヘリに乗り、後席に座る。前席の男が振り返り、俺たちに目隠しをする。

「済みません、工場の場所は極秘ですので」

 まあ、当然だろう。俺は隣に座ったミス・アバディンの肩を抱き寄せる。

 ローターの回転が速くなり、すぐにヘリは上昇を開始した。ミス・アバディンが身体を硬くする。

 ヘリは何度か旋回を繰り返し、やがて一直線に飛び始めた。飛行中、ミス・アバディンは身じろぎもせず俺に肩を抱かれたまま黙っていた。

 目隠しをされ、方位の判らぬままヘリは小一時間程飛行を続け、やがて速度を落とし始めた。どうやら目的地に着いたようだ。ヘリが降下していき、軽いショックと共に着地する。

「目隠しは取って頂いて結構です」

 男に言われ、俺は目隠しを取る。相変わらずしょんぼりとうなだれたミス・アバディンの目隠しも俺が外してやる。

「どうぞ」

 男が先にヘリを降り、俺たちを待つ。俺は彼女の手を取り、ヘリを降りた。

 辺りは暗く、様子は判らないが、微かに潮の香りがする。小さなヘリポートの先は林になっているようだ。男がその林に向かって歩き出した。俺はミス・アバディンの手を引いて男に続く。

 林の中の暗い小径を抜けた所に、小さなホテルのような建物があった。入り口に見張りが立っている。

「工場はホテルの地下にあります」

 男は玄関ホールの脇にある階段を先にたって下りていく。下り切った所のドアにもマシンガンを手にした男が立っている。

 ドアの先は、あの懐かしい茸の匂いで溢れていた。数名の男女が立ち働いている。見知った顔はない。

 俺たちを案内してきた男が俺をみんなに紹介する。

「明日からここの指揮を執って貰う、ドクター・レイだ」

 彼らの間に驚きが広がる。俺の名前は知っているようだ。男が俺に挨拶を促す。

「サスティン・レイ、通称ドクター・レイだ。明日から、ここをヘヴンズメアの生産工場に仕立てていく。よろしく頼む」

 挨拶を終えると、男は俺たちを建物の外へ連れ出した。

「コテージを用意してあります」

 男は来た時とは別の小径を辿っていく。所々に街路灯があるが、林の中の道は暗く、辺りの様子は判らない。前方から波の音が聞こえてきた。程なく、別荘風のコテージが建ち並ぶ一角に出た。男がその内の一軒の前で立ち止まる。

「こちらです」男がポケットから鍵を出し、俺に手渡した。「自由に使って頂いて構いません。では、私はこれで失礼します。明日から、よろしくお願いします」

 男は工場の方へ戻っていった。

「入ってみようぜ」

 俺はドアを開け、照明を付ける。

 そこはまさに別荘だった。ラウンジには家具が揃っている。突き当たりはテラスになっていて、その向こうには海が広がっているようだ。キッチンの冷蔵庫には、食料も入っている。待遇は悪くない。ラウンジ左手のベッドルームにはダブルベッドが置かれている。

 ベッドルームのサイドテーブルに、注射器と共にエターニティが置かれていた。予想していなかった訳ではない。

「ミス・アバディン」

 ラウンジにしょんぼりと立っている彼女をベッドルームに呼ぶ。

 彼女がベッドルームに来て、俺と並んで立つ。

「射たれたのか?」

 彼女は顔を上げ、サイドテーブルのエターニティを注視している。

 ミス・アバディンは声を立てずに泣いていた。

「大丈夫、俺が直してやる」

 彼女が真っ直ぐに俺を見た。

「あなたはシンジケートに戻ったんでしょう?」

 ようやく口を利いて貰えた。

「シンジケートも悪くはないが、麻薬取締局にやりかけの仕事がある。それを終わらせないと気分が悪いからな」

 彼女が俺の胸に飛び込んできた。

「わたし、わたし……」

 人一倍麻薬を憎み、誰よりもその恐ろしさを知っているミス・アバディン。自分が麻薬中毒になってしまった事が、悔しくて、腹立たしいに違いない。だが、自分ではどうしようもない事なのだ。

「判っている。でも、今は自分の置かれた立場を受け入れてくれ。君はそれが出来る人だ、ミス・アバディン」

 自暴自棄になってしまう事が一番怖い。

「……難しいわ。奴隷のわたし。麻薬依存症のわたし……」

 簡単には受け入れられないだろう。だから彼女はこんなに沈んでいるのだ。

「奴隷の方は忘れてくれて良い。ヤツらの前では奴隷扱いするかも知れないけど、それは我慢して」

 俺は性犯罪者じゃない。彼女を奴隷として扱うつもりはない。

 俺はしばらくここに留まり、ヘヴンズメアの生産を軌道に乗せるつもりだ。その後、ここを離れて彼女と麻薬取締局に戻る。市場に出回っているエターニティがヘヴンズメアに切り替われば、副作用による死者は出なくなるはずだ。それはシンジケートに膨大な利益をもたらす事を意味するが、死者を増やすよりは幾分マシだろう。勿論、シティがそうなったように、麻薬欲しさの犯罪が増加するかも知れない。だが、それにも対策はある。

 俺はミス・アバディンにこれからの予定を説明する。

「麻薬取締局に戻ったら、あっちでもヘヴンズメアを生産するんだ。それを依存症患者に投与する。そうすれば少しは犯罪を防げるはずだ」

 それがヘヴンズメアを広げる手助けになってしまう可能性もある。だが、凶悪犯罪の増加は防がねばならない。

「ありがとう」

 ミス・アバディンがぽつりと言った。

 別に俺は正義の味方を気取るつもりじゃない。重犯罪者こそが俺の真の姿だ。

「くよくよしていても仕方がない。シャワーでも浴びてきたら?」

 シンジケートは手回し良く、女物の衣服も用意してくれている。汗と汚れを洗い流して、服を着替えれば少しは気分も晴れるだろう。俺は彼女をシャワールームへ押しやった。


 シンジケートの用意した服はミス・アバディンにピッタリだった。極端に丈の短い、セクシーなワンピースは彼女の綺麗な脚を余す所無く見せていたし、胸の膨らみや、俺が気に入っている尻の形をはっきりと描き出している。その上、濡れた焦げ茶の髪が彼女を一層セクシーに見せる。

「そんなに見ないでよ」

 一段とセクシーな声色で、彼女がはにかんだように言った。そんな表情を見るのも初めてだった。俺は彼女から視線を外せない。

 彼女がキッチンへ立っていく。

「あなたも汗を流してきて。その間に食事の用意をしておくから」

「そうだな」

 そう返事はしたが、俺は彼女の後ろ姿を眺め続けていた。

「ちょっと! ドクター・レイ!」

 彼女に怒られた。どうやら少し以前のペースを取り戻したようだ。俺は渋々シャワールームへ向かう。彼女を愛でる時間は幾らでもあるさ。

 シャワーを浴びてラウンジに戻ると、丁度食事の支度が出来るところだった。

「レトルト物ばっかりだけど」

 彼女が恥ずかしそうに言う。ラウンジに続くダイニングルームはキッチンと一体になっている。今、テーブルの上には賑やかに皿が並べられ、ちょっと新婚家庭の雰囲気だ。

「ワインまで用意してあったわ」

 彼女はボトルとコルク抜きを俺に手渡し、グラスを並べる。俺は昔ながらの螺旋状のコルク抜きをボトルの口に突き立てる。

「失敗しないでね」

 彼女がちらりと俺を見る。

「そうそう。これを失敗するのって、ダサイんだよな」

 俺はおどけて言う。

「あーら、レイは大丈夫かしら。いつも安物のビールしか飲んでない人には難しいのよ」

「俺の事を『レイ』って呼んだのは初めてだな」

「あら、そんな事はないわよ」

 彼女はしらばっくれる。

「じゃあ、俺も君の事をケイトって呼んでもいいか?」

「どうぞ、お好きに。ご・主・人・様」

 奴隷の身分を気に病んでいる訳じゃない。彼女の目は笑っている。

「ほら、栓、抜けたよ」

 グラスにワインを注ぐ。上等なベルデニカ・ワインの赤だ。と、云っても、俺はワインには詳しくない。彼女のお見立て通り、安物のビール派のうえ、それすらもムショ暮らしで遠のいている。

 俺たちは小さなダイニングテーブルに差し向かいで座る。

「乾杯」

「乾杯」

 グラスを上げる。ケイトの無事を祝って乾杯、だ。

「こんなロマンチックな食事をよりによってあなたとはねぇ」

 彼女は上機嫌だ。エターニティのせいかも知れない。

「ムショを出て以来、一緒に食事をしたのはキミとだけだ、ケイト」

 麻薬取締局の研究棟の食堂では、誰も俺には近付かない。王林や紅玉もだ。ただ一人、ケイトだけが時々俺と食事をした。それが所長の義務だと考えていたのだろう。

「あら、それは残念だったわねぇ」

 ブロッコリーを口に運びながら、彼女が言う。

「まったくだ。あそこには可愛い娘たちがたくさんいるっていうのに。みんな懲役百二十年の重犯罪者と食事を共にする絶好の機会を袖にするんだからな」

「そうね。重犯罪者との食事って、こんなに楽しいのにね」

 ケイトが声を立てて笑った。酒は麻薬の効果を増してくれる。程良いワインが彼女をひときわ美しく、可愛くしてくれる。

 食事は楽しかった。こんな生活も悪くない、そう思った。

 だが、食事を終える頃から、彼女の口数が減り始めた。頻繁にミネラルウォーターを飲んでいる。禁断症状だ。

「おいで」

 俺はケイトの手を取り、ベッドルームに向かう。彼女をベッドに寝かせる。

 サイドテーブルからエターニティのアンプルを手に取る。

「いや!」

 彼女は泣いていた。だが、エターニティやヘヴンズメアを拒む事には何の意味もない。我慢しても、それで依存症が治る事など無いのだ。

「幻覚が出ないように少なめに射つから」

「いやよ、射たないで」

「大丈夫だ。俺を信じろ」

 彼女が大人しくなった。むせび泣いている彼女の腕に、俺は針を刺す。

 部屋の明かりを消し、俺はベッドルームを後にした。今夜はラウンジのソファで寝るとしよう。


 翌朝、俺はコテージを出て林の小径を一人で辿った。昨夜は判らなかったが、明るくなってみると、付近の別荘の半分くらいは人が住んでいる様だ。おそらくシンジケートのメンバーだろう。この辺り一帯はあのホテルも含めてシンジケートが掌握しているのだろう。

 工場には、ヘヴンズメアを製造するための設備は殆ど揃っていた。幾つか足りない原料や器具は手配を済ませた。

 俺は工場の技術員たちに製造方法を伝授していく。マジックマッシュルームからの幻覚成分抽出の方法、触媒成分の製造方法などだ。恐らく二週間もすればヘヴンズメアの生産が開始できるだろう。

 俺は昼間は工場で仕事を続け、夜になるとコテージに戻ってケイトと過ごす生活を続けていた。毎晩、ケイトにエターニティの注射をするのも俺の日課になっていたが、彼女はその度に泣いた。

 昼間、ケイトはコテージで読書をしたり、目の前の浜辺で泳いだりして時を過ごしているようだ。お陰で彼女の肌は小麦色になっている。彼女に監視が付けられていない事からして、恐らくここは島だろうと思う。ここを出るには、ヘリか船しかないのだろう。


 俺がここに来てちょうど二週間目の午前中に、最初のヘヴンズメアが完成した。

 その日の午後、バイパーがやって来た。バイパーは工場に顔を出すと、俺からヘヴンズメアを受け取り、出て行った。どこかで純度でも確認するつもりだろうか。午後からはエターニティの生産を全て中止し、工場の技術員全員をヘヴンズメアの生産に回した。生産に手間が掛かる分、ヘヴンズメアの生産量はエターニティより少ないが、高純度で副作用がないため、ヘヴンズメアの方が高値で売れる。シンジケートにしてみれば早く生産を切り替えた方が得という事だ。

 夕方、バイパーが工場に戻って来た。

「ドクター・レイ、ご苦労だったね」

 あの不気味な笑みも、本人にしてみれば精一杯の愛想なんだろう。

「生産は順調だ。もう俺抜きでも行けるよ」

 バイパーは満足げだ。

「ヘヴンズメアの効力を実際に試してみたいんだが」

 なぜそんな事を相談されるのか判らずにいる俺に、バイパーが言う。

「局長さんを使わせてくれないか?」

 ああ、そう云う事か。バイパーはエターニティ依存症患者にヘヴンズメアが売れるかどうかを確認したい訳だ。そして、それには俺も関心がある。

「彼女のエターニティが切れるのは夜だから、俺が射っておこうか?」

 俺の提案にバイパーも同意する。

「そうしてくれ。私は朝までここに留まる事にしよう」

 もしヘヴンズメアがエターニティの代替にならないと、彼女は二種類の麻薬中毒になってしまう。が、その可能性は低いだろう。いずれにしろ、朝までには結論が出る。

 その夜、俺はヘヴンズメアを持ってコテージに戻った。

「お帰りなさい、レイ」

 彼女が出迎えてくれる。とても街中は歩けないような、露出度の高いワンピース姿だ。

「ケイト」ラウンジのソファに座り、俺は切り出す。「ヘヴンズメアが完成した」

 彼女は黙っている。

「コイツがエターニティの代わりになるか、君で試したい」

 ケイトは何も答えず、俺の隣に座り、頭を俺の肩に預けてきた。俺を信用しているのだろうか、それとも諦めか。

 そして今夜も食事を終える頃になって、禁断症状が出始めた。俺は彼女をベッドルームに誘う。

 彼女は泣かなかった。黙って注射を受けている。

 すぐに彼女の呼吸が落ち着いてきた。ヘヴンズメアが禁断症状を抑え始める。

「しばらく一緒にいよう」

 俺はベッドに横たわった彼女の足元に腰を下ろす。

「ちょっといい気持ち」

 ケイトが微笑んだ。量を減らしているから、幻覚症状は軽いはずだ。それでも、きっと気分はハイになっていくだろう。

「ここでの仕事も終わりだ」俺は彼女に話し掛ける。「バイパーが俺たちを無事に帰してくれるかは判らないけど、明日、彼に話してみるよ」

「もし帰してくれなければ?」

「ここで死ぬ事になる」

 その可能性も高いが、目隠しをされて連れて来られたという事は、帰してくれるつもりがあったという事だ。

 俺は子守歌代わりに、上機嫌の彼女に刑務所内の他愛もない話を聞かせてやる。彼女は理解しているのかいないのか、時々声を立てて笑った。あの時一緒に落札された奴隷たちは今頃どうしているだろうか。俺ほど幸福な時を過ごしているヤツは他にはいまい、ケイトの笑顔を眺めながら、そう思った。


 バイパーはホテルの一階ロビーで俺を待ち受けていた。

「禁断症状はヘヴンズメアで治まったよ」

 俺はバイパーに会うなり報告する。

「そうか」バイパーが頷く。「良くやってくれた、ドクター」

 工場では夜勤の技術員たちが昨夜からヘヴンズメアの生産を続けている。万事、順調に運んでいるようだ。

「で、バイパー」俺は話を切り出す。「一度ここを離れたいんだが」

 勿論、麻薬取締局に戻るとは言わない。バカだと思われてしまう。

「何処か行きたい所があるのか?」

「まあ、そういう事だ」

 俺は曖昧に答える。

「用事が済んだら戻って来るか?」

「いや、先の事はまだ考えていない。ここは俺がいなくてもやっていける。取り敢えず、俺はやり残した事をしようかと思っている」

 やり残した仕事が麻薬対策薬の開発とは、想像もつくまい。

「そうだな。今朝、技術員にも確認したが、あんたがいなくてもヘヴンズメアの生産に問題は無さそうだ。……いいだろう。ヘリに送らせよう」

「ありがとう」

 バイパーは俺を味方だと思っているようだ。まあ、今のところ敵ではないが。

「ドクター、二週間分の給料はどうする? キャッシュで受け取りたいか?」

 驚いた。給料を払うつもりとは!

「いや、金は要らない。あんたには十分世話になった。……その代わり、ヘヴンズメアを少し分けてくれないか?」

 ケイトにはヘヴンズメアが必要だ。当座の分を確保しておく必要がある。

「ああ、奴隷の分か。必要なだけ持って行けばいい」

 俺はバイパーに礼を言い、地下の工場へ下りていった。

 技術員からヘヴンズメアを受け取り、俺は一度コテージへ戻る。

 寝起きのケイトに、着替えをさせる。拉致された時に元々彼女が着ていたダークスーツだ。シンジケートが用意した服に比べれば露出度は格段に低いが、俺はスーツ姿のケイトも好きだ。

「帰れるの?」

 着替えながら、彼女が訊ねる。

「ああ。たぶん」

 だが、安全な場所に辿り着くまで、安心は出来ない。

 ケイトは急ぐ風でもなく、念入りに化粧を始めた。

「いいわ」

 かなり待たされたが、化粧を終えた彼女を見た途端、俺は文句も言えなくなった。俺たちはコテージを後にする。居心地の良い場所だった。俺にとって『安全な場所』は、健康省の研究施設より、むしろここの方かも知れない。向こうに戻れば、俺はまた奴隷だ。少しだけ、後悔の念が湧く。

 ヘリポートにはすでにヘリの用意が出来ていた。俺たちは後席に乗り込む。また目隠しをされた。

「どちらへお送りしましょうか?」

 パイロットが訊ねてくる。

「俺たちがいた町の外れに降ろしてくれ」

「ローラですね」

 そうか、あそこは首都ローラの近郊だったのか。俺は研究施設の場所を初めて知った。

 ヘリが飛び立った。空の旅は、見えない事を除けば快適だ。ピタリと寄り添ったケイトの温もりが心地良かった。

 小一時間で、ヘリは地上に降りた。

「ローラの南の外れです」

 パイロットが俺に告げる。俺は礼を言ってヘリを降りた。どうやら、道路沿いの牧草地のようだ。

「さて、電話も無いし、歩こうか」

 飛び立つヘリを見上げながら、ケイトに言う。

「ここ、研究施設の近くよ。南に向かって二、三時間も歩けば着けるわよ」

 ケイトにとっては二、三時間の距離は『近く』らしいが、塀の中で身体がなまってしまった俺にはかなりの距離だ。やれやれ。陽射しも強いというのに、遠足だ。途中にドライブインでもあれば良いんだが。俺はさっさと歩き出したケイトに続く。

「あれから二週間、きっともう君の葬式は済んでいるな」

「そうね。で、あなたは指名手配されている」

 ロペス捜査官が汗を拭いながら駆けずり回っている様が目に浮かぶ。

「ちょっと止まって」

 俺はケイトを立ち止まらせる。

「もうバテちゃったの?」

 彼女が振り返る。

 俺はポケットから鍵を出し、彼女の首に取り付けられたプラズマ首輪を外してやる。

「もう要らないだろ?」

 外した首輪を路端の石に思い切り叩き付け、それから草原の彼方に放り投げる。

「コントローラーはわたしにやらせて!」

 ケイトが楽しそうに言う。

 俺はポケットからコントローラーを取りだし、彼女に渡してやる。彼女はそれを地面に置くと、手頃な石を拾い、力強く振り下ろした。

 二人で、バラバラになった破片を一つ一つ拾い上げては草地に投げる。

「おしまい!」

 ケイトは、清々したという表情で歩き出す。

 草原を渡る風が気持ちいい。いつまでも辿り着けないアスファルトの先の逃げ水を眺めながら、俺たちは歩いていく。街道に車の気配はなく、まるでこの世に生きているのは二人だけみたいな気分になる。少し歩いただけで汗が噴き出してきた。ケイトはスーツの上着を手に持ち、半袖ブラウスの前をはだけている。

 一時間程歩いた所で、ドリンクの自動販売機を見付けた。

「レイ、小銭持ってる?」

 ケイトは拉致された時にハンドバッグを無くして無一文だ。

「カードなら有るんだけど……」

 刑務所を出る時に私物を返して貰ったが、その中にクレジットカードもあった。俺の口座には、かなりの残高があるはずだ。が、小銭は乏しい。俺はズボンのポケットをひっくり返して、ようやく何枚かのコインを見つけ出した。

「やっとジュース一本分ね」

 ケイトがコインを受け取り、冷えた飲み物を買う。

 一口飲んで、カンを俺に手渡す。

「美味しいよ」

「なんで野菜ジュースなんだよ! こんな青臭くて不味いもの、ヘヴンズメアでハイになってるヤツくらいしか飲まないぞ!」

 喉が渇いたとはいえ、口を付けるのをちょっと躊躇する。

「残念でした。わたし、麻薬射たれる前からこれ好きでした」

 俺は諦めて口を付ける。冷たく苦い液体が喉を下っていく。

「行こうか」

 カンを彼女に返す。カード決済OKの自動販売機だったら良かったのに。


 陽が西に傾きかけた頃、ようやく前方に研究施設の門が見えてきた。俺はちょっと複雑な心境だ。懐かしいとか、戻って来たとかいう感じではない。あえて言うなら、仕事場に出勤して来たような感じだ。見ると、ケイトもあまり嬉しそうではない。

「どうした?」

 声を掛けると、ケイトが腕をからめてきた。

「どんな顔して会えばいいんだろう? わたしは以前のわたしじゃないもの」

「以前より少し女っぽくなったかな。――上着を着て」

 半袖のブラウスでは腕の注射の痕が見えてしまう。

 以前のケイトではなかったが、守衛は咎め立てせずに俺たちを通してくれた。

「アバディン局長!」

 研究棟に入ると、ちょうど通りかかった研究員らしき男が走り寄ってきた。

「各チーフを至急わたしのオフィスに集めて頂戴」

 ケイトが男に指示を出す。笑みは消え、以前のミス・アバディンの表情だ。

 ケイトのオフィスは随分片付いていた。デスクに書類の山はなく、代わりに花が生けてある。

 椅子に座り、ケイトが大きく溜息をつく。

「大丈夫、全てがうまく行ってるよ」

「確かにね。……レイ、あの島の位置、判る?」

 ケイトがブラウスのボタンを留め直しながら訊く。

「いや、判らない。判ったとしても俺には言えない」

 やはり、シンジケートを裏切る気にはなれない。

 麻薬取締局の主だったメンバーがオフィスに集まりだした。みな、ケイトの顔を見ると一様に驚いた様子だ。

 最後に、ロペス捜査官が入って来た。

「共和国警察特殊工作班のロペス捜査官です。局長誘拐事件の担当として事件に当たっておりました」

 ロペス捜査官が額の汗を拭きながら挨拶をする。きっと走って来たのだろう。

「ご苦労様です。――それで、こちらの状況は? 誰か説明して」

 ケイトが見回す。

「では、私が」

 進み出たのは副局長だ。

「アバディン局長が人質に取られ、ドクター・レイが逃亡……ああ、そのう、逃亡したと思われてから、犯人との連絡も途切れてしまい、我々はてっきり局長はもうダメかと……」

 副局長は話し辛そうだ。視線が机の花に止まる。

「それで?」

 ケイトが促す。

「それで、そちらの件はロペス捜査官にお任せして、我々麻薬取締局は通常業務を続けていました。ですが、特に進展はありません」

「そうですか――」ケイトがちらりと俺の方を見る。「わたしの葬儀はつつがなく執り行われたのかしら?」

 副局長は下を向いている。ケイトが続ける。

「ドクター・レイの指名手配は?」

 ケイトは真面目な顔をしているが、明らかに楽しんでいる。ヘヴンズメアの効力だろうか?

 今度はロペス捜査官が進み出て、真面目に返答する。

「ドクター・レイの手配は直ちに解除いたします。局長がドクター・レイを連行して下さって、助かりました。……ですが」

「何か?」

 ケイトが冷たく訊ねる。

「首輪が見当たらないのですが」

 つまらぬ事に気が付く男だ。

「首輪はありませんし、ドクター・レイはわたしが連行して来た訳でもありません。ドクター・レイに首輪がないと不安ですか?」

 ケイトが強い口調で言う。反論は許さないと言わんばかりだ。

「そりゃまあ、凶悪犯だからな」

 俺はぼそりと呟く。

「いえ、そういう訳では」

 ロペス捜査官がたじろいでいる。

「ドクター・レイについてはわたしが全責任を負っています」ケイトは強気だ。「ドクター・レイ」

 ケイトが俺に目配せをした。今度はこちらが説明をする番だ。

「この二週間、俺はシンジケートに協力してヘヴンズメアの生産システムを構築していた」

 一同がざわめいている。俺は話を続ける。

「すでにシンジケートではエターニティの生産を打ち切り、出荷をヘヴンズメアに切り替えている。ヘヴンズメアがエターニティの代替として使える事は、シンジケートで確認済みだ」

 それがどういう事なのか、みんなざわざわと囁き合っている。

 ケイトが口を開く。

「少なくとも、今後副作用の心配は無くなるという事です」

 また一同がざわめく。ケイトが彼らを制する。

「聞いて頂戴。サラス国がどういう経緯を辿ったかはみんな良く知っているわね? わたしたちはそうならないよう、手を打つ必要があります。その一つとして、当面、麻薬取締局でヘヴンズメアを製造します」

 またみんなが騒ぎ出した。医者らしき男が前に出る。

「良い考えです! ヘヴンズメアならば副作用は出ません。依存症患者に投与するのに何の心配も要りません」

「しかし」別の誰かが反論する。「我々が麻薬を広めるのか?」

「広まらないようにするのは警察の仕事だろう!」

 議論沸騰の中、ロペス捜査官が近付いてきた。

「ドクター・レイ、シンジケートの拠点は判ったのか?」

「いや、判らない。目隠しをされて連れて行かれたからな」

 例え判っていても答えはしないが。

「アバディン局長、あなたは?」

「そうね。……海の近くだったわ。わたしはずっと閉じこめられていたから、それ以上は判らないわ」

 ケイトは真顔で嘘をついた。彼女だってあそこが島だった事は知っているし、首都ローラからヘリで一時間以内の距離だと云う事も判っている。ボスがバイパーだという事も、ローラ市内の今は使われていない倉庫街の一角が拠点になっている事も知っているはずだ。だが、彼女は言わない。俺のシンジケートに対する義理立てに協力しているのだ。ロペス捜査官が引き下がる。

 一段落した所で、実務に取りかかる。ケイトがテキパキと指示を出す。俺は暫くは俺のチームの指揮とヘヴンズメア生産チームの指導の両方を受け持つ事になった。

 みんながオフィスを退出し、ケイトと俺だけになった。

「中毒の事はしばらくは二人だけの秘密にしておこう」

 俺は言いながら彼女のデスクの、鍵の掛かる引き出しを開けた。中は綺麗に片付けられている。彼女は死んだものとして、デスクの整理も済んでいるようだ。そこにヘヴンズメアのアンプルと注射器を仕舞う。

「ありがとう」

 ケイトが引き出しに鍵を掛けた。


 自分のラボに戻ると、王林と紅玉が出迎えてくれた。また紅玉は泣いている。王林は首輪を外された俺が怖いのか、ちょっと離れて立っている。

「これから忙しくなるぞ」

 二人には新しい麻薬の合成をして貰う事になる。実験のためのラットが必要だ。感傷に浸っている時間はない。俺は二人に指示を出す。

 それが終わると、俺は二階に上がり、ヘヴンズメア製造チームのラボへ行く。こちらのラボもリーダーと二人の助手で切り盛りしているようだ。彼らにはまず、必要な材料と器具を集めて貰う事にする。明日の昼までには準備が整うだろう。


 夜になって、俺はケイトのオフィスに出向いた。彼女はまるでこの二週間の事など無かったかのように冷たい表情で書類に目を通している。

「少し早いけど、食事にしないか?」

 ドアの所から声を掛けると、ケイトは満面の笑みで席を立った。

「ちょうどお腹が空いてきたところよ」

 俺たちは連れだって食堂に行く。二人だけの時には彼女も笑顔だ。

「調子はどう?」

 窓際の席に座り、パスタを突きながら訊ねる。

「絶好調ね。そっちは?」

 彼女はアツアツのリゾットをスプーンですくっている。

「俺の半径五メートル以内に近付けるのは君とロペス捜査官と紅玉だけだよ。王林ですら、怯えている。首輪の威力は絶大だったな」

「懲役百二十年の世紀の大犯罪者ですもの」

 今も、食堂に居合わせた連中はそそくさと食事を済ませて逃げるように出て行く。お陰でこちらはゆっくり食事が出来る。

「それで、対策はあるのかしら?」

 ケイトが皿から視線を上げる。勿論、麻薬の話だ。

「まぁね。うまく行けば、依存症は治せるよ」

 ただ、別の問題が発生する可能性はある。が、後の事は後で考えよう。

 食事を終え、俺たちは彼女のオフィスに戻った。禁断症状が出る前にヘヴンズメアを射っておく。

「エターニティの時より、随分楽になったみたい」

「何しろ、『健康的な麻薬』だからな」

「そうだったわね」

 彼女はソファでくつろいでいる。

「家に帰るなら、送っていくよ」

 もうさらわれる事もないとは思うが、念のため、付いて行った方がいいだろう。

「そうね。しばらく帰ってないから、ちょっと心配だわ」

 彼女は、いつもオートドライブの無人送迎車で市街の自宅とこことを往復している。この前は、車を降りてマンションに入る所をバイパーの手下に襲われた。

 ケイトはご機嫌な様子で帰り支度を始める。と云っても、ハンドバッグがある訳ではなし、ちょっと髪を直せばおしまいだ。

 俺たちは連れだって研究棟を後にする。オフィスを一歩出ると、ケイトは無表情を繕い、隙を見せない。ヘヴンズメアでハイなはずなのに、見事なものだ。

 敷地内のモータープールで車を借り、二人で後席に乗り込む。ナビゲーションコンソールに行き先を指示すれば、後は車任せだ。

「敷地から出ちゃいけなかったんだよな」

 奴隷としての制限を思い出す。

「あら、そうなの?」

 とぼけた女だ。

「そう決めただろ?」

「忘れちゃった」

 偏光ガラスで外から見えないのを良い事に、ケイトは俺にしなだれかかって笑っている。典型的なヘヴンズメア常習者だ。

 車はゲートを通過し、街道に出る。俺たちは他愛もない話で、盛り上がる。二十分程で市街に入った。車は小高い丘の上の住宅街へと向かっているようだ。

 車が停まったのは、古い住宅街の一角に建つ、石造りのマンションの前だった。

「着いたわよ」

「寄っていってもいいのか?」

「だめ。うそ。来て」

 まるで酔っぱらい状態だ。俺はケイトに腕を取られて建物に入る。

「はい、これ持って」

 エントランス脇の郵便受けは満杯だ。俺は二週間分の郵便物を持たされる。エレベーターで上に上がり、玄関のドアを開ける。キーレスの指紋感知式ドアだ。

 ケイトの部屋は綺麗に片付いていて、居心地が良さそうだ。窓際の観葉植物はしおれ加減だが、他に異常は無さそうだ。

「あー、我が家だぁ」

 ケイトがソファにひっくり返る。俺はダイニングテーブルに郵便物をぶちまけた。

「ビールは冷蔵庫の中よ」

 ソファからケイトが教えてくれる。

「君はワイン党じゃなかったっけ?」

「誰がそんな事を?」

「うそつき」

 ケイトが可笑しそうに笑う。俺は棚からグラスを二つ取り、ビールと一緒にリビングのテーブルに運ぶ。ご機嫌なケイトは身体を起こし、さっさとビールを飲み始めた。俺も向かいの椅子に座る。

「ねえ、レイ」ケイトがセクシーな声で話し掛けてくる。「全部片付いたら、あなたをわたしの奴隷にしてあげる」

 今はどちらがどちらの奴隷なのか、判然としない状態だ。だが、勿論彼女はそんな事を言っているのではない。

「いいのか?」

「いいよぅ。……誰にも文句なんて言わせないわ」

 彼女がグラスを置き、俺に抱きついてきた。

「もう酔っぱらったのか?」

 俺は彼女を優しく抱き留める。ケイトがヘヘッと笑う。

「酔った振りをしているだけ。だって、シラフじゃ言えないもん」

 どうやら本気のようだ。

「ああ。喜んで奴隷にして貰うよ」

「……よかった」


 翌朝、俺はしばらく自分がどこで目覚めたのかを把握出来ずにいた。右腕がしびれていたが、それはケイトの頭が乗っているせいだった。窓から朝日が差している。俺はケイトにキスをする。

「ケイト」

 もう起きなくては。

 ケイトが目を覚ました。

「おはよう、ケイト」

 彼女はまだちょっと寝ぼけ気味だが、透き通った声で挨拶する。

「おはよう、レイ」

 ケイトが起き出し、裸のままシャワールームへ行く。俺は右腕のしびれが治まるまで、そのままベッドでくつろぐ。

 ケイトがシャワーを浴び終わり、髪を拭きながらやって来た。

「レイ、あなたもちゃんとシャワーを浴びなさい」

 こんなに美しい女を俺は今まで見た事がなかったと思う。朝日に照らされた裸の姿態は絵画で見た女神のようだ。

 いつまでも見ていたかったが、俺はベッドを追い出され、シャワールームへと追い立てられる。

「朝食は向こうでとるでしょう?」

 これは質問ではなく、指示だ。つまり、食事は用意しないという意味だ。

 俺がシャワーを浴びている間に、ケイトはすっかり身支度を調えていた。今日も丈の短いタイトスカートだ。俺の好みだと知っているのだろうか。

 研究施設まではまた無人送迎車の世話になる。道中、ケイトは鼻歌を歌ってご機嫌だ。そんな彼女を見ているのは楽しい。

 やがて車は研究施設の敷地に入り、ゆっくりと研究棟の玄関先に停車する。ケイトは周囲の目を気にする風もなく、車を降りた。俺も慌てて後に続く。

 二階の食堂に人影はなかった。俺たちは窓際に席を取る。

「それで、どんな薬を考えているの?」

 ケイトが切り出した。

 俺は昔話を始める。

「シティでヘヴンズメアの開発をしていた時に、色々な触媒を試してみたんだ。最もいい夢が見られて、健康を害さず、絶対に止められないクスリを目指してね」

「あなたはそれを作り上げてしまったのね」

 彼女がちょっと悲しそうな目をする。

「ああ。だけど、ヘヴンズメアは簡単に出来上がった訳じゃない。数百種類もの物質を試して、ようやく最適な触媒成分を割り出したんだ。その過程では随分と出来損ないのクスリも作ったよ。いい夢が見られて、健康も害さないけど依存性の殆ど生じない物とかね。勿論、そんなのはボツにした」

 ケイトは食事の手を止めて聞いている。俺は話を続ける。

「もし、あの時ボツにしたクスリをもう一度作り出せたら、あるいは禁断症状を抑えられるかも知れない」

 その可能性は高いと踏んでいる。ヘヴンズメアがエターニティの代わりになったように、その全く無害なクスリがヘヴンズメアの代わりになれば、依存症は短期間で治せるだろう。

「そのお薬が出来たら、わたし、あなたの奴隷になってあげる」

 ケイトが真剣な目をして言った。

「絶対にキミを奴隷にしてみせるよ」


 地下のラボでは、俺の記憶を頼りに触媒物質の割り出しが始まった。王林と紅玉も大忙しだ。おおよその物質は判っている。それらを調合し、マジックマッシュルームから抽出した物質と合わせ、麻薬を作る。合わせる割合を変えた物を一度に十種類程作り、予めヘヴンズメア中毒にしたラットに与えて、様子を見る。次の禁断症状が軽くなっていたり、症状が現れるまでの間隔が長くなっていればよし、そうでなければ別の組み合わせをトライする。

 可能性のある触媒探しであっという間に一週間が過ぎて行った。その間、二階のラボでは純粋なヘヴンズメアの精製に向けて、準備が進んでいる。こちらは数日以内に大量生産体制が整いそうだ。

 この一週間、夜になると俺はケイトのオフィスで彼女にヘヴンズメアを射ち、それから二人で彼女のマンションに帰っていた。彼女がヘヴンズメア中毒から抜け出し、ハイな状態でなくなった時、果たしてこの幸せが続くものかどうか、俺は心配だった。俺だってバカじゃない。平常心の彼女が重犯罪者の奴隷を相手にするはずがない。実際、バイパーにエターニティを射たれる前の彼女は俺を嫌っていた。

 それでも俺は仕事の手を抜かなかった。ヘヴンズメアと同等の効力を持ち、依存症状の出ないクスリが、きっと作れるはずだと、信じていた。


 その日、俺は珍しく一人で昼食を取っていた。いつもの窓際の席で、外は雨だった。木々の緑が雨に洗われて輝いている。俺は雨が好きだ。突然、食堂に紅玉が駆け込んできた。

「レイ!」

 慌てる彼女を落ち着かせる。

 彼女は深呼吸をして、話を始めた。

「禁断症状が出ないんです!」

 実験用のラットの話だ。ヘヴンズメア中毒のラットに、もう症状が現れてもいい頃なのに、元気に走り回っているという。紅玉は俺の腕を取り、急き立てる。

「どの位予定時間を過ぎているんだ?」

「もう一時間以上です」

 これはかなり期待できる。俺は食べかけのパスタに別れを告げ、紅玉に引っ張られるように地下のラボに戻った。

「これです、レイ」

 王林が待っていた。目の前の籠では、ラットがまだ元気にしている。王林から、調合した薬品のスペック表を受け取る。

「オーケー。コイツに絞ろう。触媒剤の添加割合を上下に二パーセントずつずらして再チェックだ」

 王林と紅玉がテキパキと動き始める。うまく行けば、数日以内に目処が立ちそうだ。

 その晩から、俺は研究棟に泊まり込み、ラットの様子を随時チェックしながらの生活となった。最初のラットは、禁断症状が出るまでの間隔が二倍に延び、症状も若干軽いようだった。触媒の割合を変えて与えたラットたちも似たような兆候だ。

 三日後の朝、俺は決断した。

「最初のヤツで行こう」

 ラットの禁断症状は日を追う毎に軽くなり、症状が出るまでの間隔も延びている。いよいよ人体実験の時だ。

 俺はケイトのオフィスを訪ねる。

「よっ、ケイト」

 彼女が書類から顔を上げる。

「あらら。上機嫌ね、レイ」

「ああ。そろそろ人で実験しても良い頃なんだけど」

 ケイトが席を立つ。

「出来たのね!」

 抱きついてきた彼女を受け止める。

「まだだ。誰かで安全を確認してからだ」

「あたしで試してよ」

「ダメだ。別の副作用の可能性もある。ラットで大丈夫でも、人は違うからな」

 俺は病棟に入っている患者を実験に使うつもりでいた。ヤクに手を出すような連中だ。放っておけば廃人になる訳だし、別に副作用が出たところで気にする事もない。

 押し問答になったが、最後には彼女が折れた。

「わかったわ。じゃあ、病棟の患者から適当な人を選んでおきましょう」

 俺は準備のためにラボへ戻った。

 だが、ケイトの決意は固かった。彼女は部下たちを集め、自分が麻薬中毒だと云う事を公表した。俺はその場に呼ばれなかったが、王林と紅玉は呼ばれていた。

「本当なんですか?」

 ラボに戻った紅玉が俺を問いつめる。

「シンジケートに拉致された時にね」

「奴隷にされたって……」

 そんな事まで喋ったのか。

「そうだ。向こうにいる間、彼女は俺の奴隷のフリをしていたんだ」

「フリだけですか? 戻ってから、局長がレイに優しいのは奴隷だからじゃないんですか?」

「勿論彼女は奴隷じゃない。それに、首輪が無くても俺が彼女の奴隷なのは変わりない。……彼女の物腰が変わっているとしたら、それは麻薬のせいだろう」

 紅玉も納得したようだった。

「……麻薬のせいなんですね。それで、新しい薬は大丈夫でしょうか?」

 それは何とも言えない。そんな事は紅玉だって知っているはずだ。何しろ、実際に薬を作っているのは紅玉なのだから。彼女は俺に大丈夫と言って欲しいだけだろう。

 思い詰めた表情で紅玉が口を開く。

「わたしたちには兄がいました。北斗にいさんは仕事の都合でサラス国に住んでいたんです。優しい兄でした」

 彼女たちの兄が麻薬で死んだという事は、以前ケイトから聞いている。

 紅玉が続ける。

「兄は、ヘヴンズメアに手を出したんです。……理由は、判りません。ともかく、兄は麻薬に溺れ、最後は自殺してしまいました。それが、他人に迷惑を掛けない唯一の方法だって、遺書にありました」

 なるほど、ヘヴンズメアか。この姉妹が俺を恨むのも道理だ。

 紅玉が俺を睨むように見る。

「局長を助けて下さい。せめてもの罪滅ぼしだと思って」

 罪滅ぼしとはお笑いだ。ヘヴンズメアは身体を蝕まない。金さえあれば、健康的に天国を味わえる。金もないのに手を出したとすれば、それはソイツの責任だ。それに、俺は懲役百二十年の判決を受けた。罪は償った。

 俺は新薬にヘヴンズドリームと勝手に名前を付けていた。これは麻薬じゃない。だが、麻薬と同じように天国を見せてくれる。果たして、ヘヴンズドリームは合法的な『滋養強壮剤』として市場に出せるだろうか? 医学的には常習性はないが、ヘヴンズドリームの快楽に、人は背を向ける事が出来るだろうか? 結局、誰もがヘヴンズドリームを求め、ヘヴンズメアの時と同じような社会現象を引き起こすのではないだろうか。罪悪感がない分、こちらの方が質が悪いかも知れない。

「そうだな。ミス・アバディンは責任を持って治すよ」

 俺は紅玉に返事をした。ケイトなら大丈夫、ヘヴンズドリームの快楽に溺れてしまう事はあるまい。

 夜になって、麻薬取締局の各チーフが病棟に集められた。病室のベッドにはケイトが寝かされている。

「じゃ、始めて頂戴」

 俺は事前に担当医とヘヴンズドリームの投与計画について話し合っていた。まずは極少量から開始する。それで副作用が出ないようなら、適量を探りながら増やしていけばいい。

 看護婦が注射器を取り上げる。ケイトはリラックスした様子だ。

 何事もなく、注射が終わる。

「大丈夫よ。ドクター・レイの仕事よ。懲役百二十年の重犯罪者よ。仕事に抜かりがあるはず無いじゃないの」

 ケイトが周りを和ませるように言った。が、集まった連中の顔はますます引きつる。

「レイ、これで禁断症状はどれ位抑えられるの?」

 ケイトが明るい口調で訊ねる。

「二時間以上保てば成功だ」

 希望としては三時間は保って欲しいが、まあ贅沢は言うまい。

 担当医と看護婦、それに俺のラボのメンバーを残して、他のスタッフは病室を退出した。俺たちは彼女の様子を見ながら、今夜は徹夜だろう。

 看護婦が王林と一緒に計測機器をチェックしている。

「ねえ、レイ」

 他人が居るにもかかわらず、ケイトが甘えた声を出す。

「ダメだ」

 俺は冷たく返す。

「まだ何にも言ってないでしょう?」

「ダメだ。大人しく寝ていろ。でないと、数値が取れないだろ」

 ケイトはつまらなそうだ。もう飽きてしまったらしい。

「ふぅん」

 紅玉がニヤついている。

「どうかしたか?」

「局長とドクター・レイって、『ねえ』だけで通じちゃうんだ」

「ミス・アバディンは案外単純だからな」

 俺はうそぶく。ずっと一緒にいれば、心も通うようになる。

 ケイトはこちらをちょっと睨んで、それからは大人しくなった。

「気分はどうだ?」

 ケイトに訊ねる。

「普通」

 それは良い兆候だ。ハイでもなく、禁断症状も出ていない。

 二時間が経ち、やがて三時間が経った。時々他のスタッフが覗きに来る。

 四時間を過ぎた辺りで、僅かに禁断症状の兆候が見え始めた。

「随分軽いようです」

 医師が言った。

 これならばヘヴンズドリームの量をさほど増やさずに行けそうだ。

 翌日、ケイトは相変わらず退屈そうだったが、ヘヴンズドリームの投与間隔は毎回長くなり、確実に依存症から脱却し始めていた。


 ケイトには紅玉を付き添わせ、俺はラボに戻った。この分なら、ケイトも午後には通常業務に戻れるだろう。

 俺はヘヴンズドリームの大量生産のための準備に取りかかる。二階のラボでの製造をヘヴンズメアからヘヴンズドリームに切り替える予定だ。

 ドアの開く気配に振り向くと、王林が立っていた。

「どうかしたのか?」

 王林はうつむき加減で様子がおかしい。

 彼女が真っ直ぐ俺に歩み寄る。普段は俺を避けている王林にしては珍しい事だ。

 王林が俺に身体を預けてきた。俺は背後の戸棚に寄り掛かるようにして、彼女を受け止める。

 俺は腹に熱い物を感じた。

「北斗にいさんは優しい人だった……」

「王林?」

 彼女は俺の胸に顔を埋めてむせび泣いている。

「兄さんが死んで、あなたが生きている事が許せない」

 王林が僅かに身体を離す。俺の腹にはナイフが突き立っていた。

「そうか」

 俺に言い訳をする気はない。勿論、なじる気もない。

 王林が俺の足元にへたり込む。腹を押さえた俺の手の指を血が伝い落ちていく。不思議と、痛みは殆ど感じない。何かしなければと思うが、体が重い。少し疲れた。戸棚に寄り掛かったまま、俺は床に座る。

 床に血溜まりが広がっていく。辺りが暗くなっていく。俺と向かい合って血溜まりの中にぺたりと座り、王林はまだ泣いている。心配する事はないのに。奴隷を殺したってたいした罪にはなりはしない。せいぜい、器物損壊罪だ。それも、持ち主のケイトが訴えれば、の話だ。

 誰かが入って来る気配がした。

「お姉ちゃん!」

 ああ、紅玉だ。

「レイ! レイ!」

 俺を呼ぶ声がする。よく見えないが、大好きなセクシーボイス、ケイトの声だ。

 座っているのも辛くなってきた。倒れかかった俺の上半身は、柔らかで暖かい物に支えられた。良い匂いがする。どうやらケイトの胸に抱かれているようだ。ああ、俺のお気に入りのスーツに血が付いてしまう。

「誰か! 早く医者を!」

 ケイトが叫んでいる。

 暗くて何も見えない。いや、ここは長い階段のようだ。すぐ目の前に、タイトスカートのお尻がある。ケイトだ。俺はお尻に先導されて歩き出す。長い階段を形の良いお尻を見上げながら登っていく。やがて、前方に明るい出口が見えてきた。ケイトがシルエットになって浮かび上がる。俺は光の中に出た。ここは天国だろうか? 薄れ行く意識の中で、ケイトが優しく微笑んでいた。

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エターニティ 風来 万 @ki45toryu

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