ただ美味い飯を食べるだけの話

杜乃日熊

ただ美味い飯を食べるだけの話

「はい、おまちどおさん」


 食堂の店主が私の目前に置いたのは一杯のカツ丼だった。狐色の上から黄色のベールが被せられて、光沢を放っている。その周囲を飴色が舞っている。まるで中央の狐色を祝福するかのように。一番外側の白色が太陽にも勝る輝きに満ちている。

 口内に湿りが生じる。視覚はおろか嗅覚さえも目前の丼にひれ伏すばかりだ。衣の中から溢れんばかりの肉の匂いが、腹の虫を否応なく刺激する。これは味に期待が持てそうだ。


「いただきます」


 合掌をしてから右手で箸を持ち上げる。左手は丼の脇に添え、密かに狙いを定める。初めは本丸から攻めよう。戦場いくさばにおいては愚策でも、この場においては上策である。

 箸で黄色のベールを切り裂き、その下に潜む狐色のカツを一刀両断。内から白い肌が垣間見える。ベールの切れ端を纏うカツに、宣告を下すようにして口に入れる。

 奥歯で噛み切ると豚肉の旨味が口内へ染み渡る。サク、サクと軽快なリズムで叩き、ジュワ〜と演奏後の余韻に浸る。喉を通り過ぎても、肉の後味は留まり続けた。

 次に外堀である白色を口に放る。肉の旨味と融合するデンプンの甘味。その化学反応がさらに食欲を掻き立てる。

 カツ、米、カツ、米。主役メインが舞台で歌い、踊る。その周りでは卵や玉ねぎといった脇役サブが主役の演技を引き立たせている。彼らを口に入れると、二大主役とは異なって全体の味を引き締めてくれた。その力で舞台のバランスが程良く整っていく。

 あまりの素晴らしさに、私は箸を休めることができなくなっていた。

 気がつけば、舞台はフィナーレを迎えていた。ようやく箸を下ろせる。特に何かをしようとは思わず、空っぽになった丼をただただ見つめる。

 これほどまでに美味い物を食べたことは今までで一度も無い。これはダントツで一番のカツ丼だ。まさか、たまたま寄った大衆食堂でここまで心高ぶる出会いを果たせるとは予想だにしていなかった。このまま寿命を迎えたとしても、なんの未練もなくあの世へ逝けることだろう。


「ごちそうさまでした」 


 合掌し、目を閉じる。自然と口元がほころんでいくのが分かった。とてもいい心地だ。食事という何気ない行為はこんなにも愉悦に満ちていて、こんなにも神聖なものだったのか。

 今、体中に行き届いているのは豚や鶏の卵、稲などという他の生命の力だ。私を活かすためにその身を捧げてくれた尊い生命いのちだ。ありがとう。本当にありがとう。

 全身の力は少しずつ抜けていき、一切の雑念が消えていく。私の心中を占めるのは、「美味かった」というなんの捻りもない、純粋な感想だけだった。


        ◇


「やれやれ……また逝っちまいやがったか」


 店主は呆れたように呟いた。それから、速やかに店の固定電話へ近づく。受話器を取って「一、一、九」のボタンを押す。その一連の動作は実に手馴れたものだった。


「すみません。○○という店の者なのですが。今日来られたお客様が突然意識を無くしてしまったんです────」


 店主は淡々と先ほど起こった出来事を説明し出す。その目には灰色の光が差していた。電話の最中に、彼は何気なく件の客の方を見遣った。

 カウンター席に座っているスーツ姿の男。空になった丼に祈りを捧げているかのように、合掌をし続けている。彼は柔らかな笑顔のまま、静かに永い眠りについていた。

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ただ美味い飯を食べるだけの話 杜乃日熊 @mori_kuma

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