第32話「ティア・ドロップ」

 心臓の音が聴こえる。

 自分の鼓動と、シイナの鼓動だ。

 優輝ユウキは、互いの高鳴る鼓動が響き合うのを感じた。

 今、ベッドに身を沈めた優輝が見上げれば、覆い被さるようにしてシイナが見詰めてくる。

 壁ドンならぬベッドドン、略してだ。

 だが、不思議と危機感や嫌悪感を感じない。

 早過ぎるとも思えないし、待ってましたという感慨もなかった。

 ただ、そっと手を伸べシイナのほおに触れる。


「シイナ……いいよ。いい、けど」

「いい、けど?」

「……なにか、あった? なんか、焦ってるような気がしたから」


 いつものシイナなのに、今日はちょっとだけ積極的だ。

 なにが彼の背を押しているのか? それはわからない。だが、妙に切実なシイナの真剣さが気になったのだ。

 いつでも楽しそうに笑って、誰よりもかわいい乙女心の持ち主……シイナ。

 女の子にしか見えない彼氏は、男の子みたいな優輝の大切な恋人なのだ。

 シイナはバツが悪そうに目を伏せる。

 長い睫毛まつげが濡れているのが、優輝にも間近に見えた。


「……ゴメン、優輝。でも、なんていうか」

「あっ、ううん、謝らないで! ほら、男の子って……ムラムラ? するんだよね? 私もちょっと、無防備過ぎたかも。あと……嫌じゃ、ないから」

「うん……ありがと、優輝っ! えっと、ちゃんと話すね」


 身を起こしたシイナが、手を伸べてくる。

 だから、手に手を重ねて優輝も起き上がった。

 ベッドの上に座り込んで、二人で文字通りひざを突き合わせる。なんだかこそばゆい気がしたし、優輝の中にもまだ先程の甘やかな熱がくすぶっている。

 一線を超えそうになったことも、超えてもいいと思えたことも、きっと生涯忘れないだろう。

 だが、シイナはエヘヘと力なく笑った。


「あのね、優輝」

「うん」

「実は……パパと、優輝のお母さん……どう?」

「どう、って……仲、いいよ? 母さんもようやく、自分の楽しみを優先してくれて……あれ? え……ちょっと、待って」


 何故なぜ、その可能性を忘れていたのだろうか?

 そう、優輝を育てるためにと、母のアキラは働き通しだった。警察官僚キャリア組、出世より現場を取ろうとして今や、どういう訳か警視庁の広告塔だ。

 それでも彼女は、日本の治安と娘のために頑張った。

 そして最近は、シイナの父親であるヨハンと――!?


「あっ! つ、付き合ってたんだった! あの二人っ!」

「……優輝、にぶちーん! 今、思い出した?」

「今、思い出した……え、ちょっと待って、それじゃあ」

「そだよ? だから……もしかしたら、もしかすると」


 ちょっとだけ表情をかげらせ、それをいつもの笑顔でシイナが隠した。

 彼は精一杯笑って「ゆくゆくは、兄妹きょうだいかもねっ!」と抱き着いてきた。

 平らな胸の上に甘えるシイナを、優輝もそっと抱き寄せる。

 知らなかった、全く気付かなかった。

 そういう意思が微塵みじんもないのが、御神苗優輝オミナエユウキという少女なのだった。


「そっか……じゃあ、もしかしたら?」

「そう、もしかしたら!」

「シイナ、私の……私の、弟になるんだ」

「そう、弟に……って、ちょっと待って。ねえ、優輝」

「うん?」


 間近で見上げてくるシイナが、くちびるとがらせる。

 なんだか可愛くて、そっと優輝は両手で柔らかなほおを挟んだ。

 むにゅんとしてて、すべやかな肌が少し熱い。


「あのねー、優輝。優輝、十月生まれ、だよね?」

「うん。来月、17歳になる。……え? ま、まさか」

「まさかって言ったー! まさかって! ……ボク、二月生まれ! もう17歳!」

「えっ、じゃあ」

「ドイツは、七月から新学期が始まるから、日本とは少しずれてるの。ボクはこっちに越してくる前に、半年くらい日本のお勉強と、あと充電してたから!」

「充電」

「そう、充電!」

「じゃあ」

「うんっ! 、優輝っ!」


 思わず優輝は、プッ! と笑ってしまった。

 悪いなとは思ったけど、この小さな小さなシイナがお兄ちゃんというのは、ちょっとかわい過ぎはしないだろうか。同時に、こんなひょろ長い妹というのも、なんだか絵にならない。

 妹って、もっとずっと、うんとかわいいものだと思うから。

 だが、シイナはプゥ! と頬をふくらませる。


「ゴメンゴメン、でもなんか……シイナがお兄ちゃんって気、しないから」

「えー、これでも頼れるお兄ちゃんになるよ! 優輝が困ってたら、いつでも駆けつけるもん。おしゃれもお化粧も教えてあげられるし、えと、他には……今季のイチオシアニメも結構詳しいよ!」

「ふふ、うんうんそうだね。頼りにしてるよ、お兄ちゃん」

「また笑った! もーっ……でもボク、お兄ちゃんになっちゃうかもって思ったら……なんか、嬉しいのに胸がズキズキした。パパに幸せになってほしいのに……悪い子だ、ボク」


 ああそうかと、ようやく優輝も理解した。

 

 今よりずっと近いのに、行き止まりなのだ。

 それでシイナがあせってたように感じたのかと、優輝はようやく理解した。同時に、もしそういう未来が待っているのなら……やはり、若さに任せた二人におぼれなくてよかったかもしれない。


 ――シイナと一つになりたい。


 今日始めて知ったが、知らぬ間にそう思ってたし、決めてた……待ってた。

 でも、互いの親が幸せを掴んだ時、仲のいい兄妹になれなくなるところだった。過ちとは思いたくなくても、不幸な関係は家族を傷付ける。

 なにより、シイナに一生消えない傷をきざんでしまうかもしれない。


「……まあ、それでも……ふふ、今でもちょっと、うん」

「うん? 優輝、なにか言った?」

「あ、ううん! なんでもないよ、シイナ。でも……これから、どうしよっか」

「どうしよう……優輝はどうしたい? ボクはね、やりたい! って、ちょっと言い方が……したい! って、うん、まあ、ちょっと焦った。けど、これでよかったのかも」


 優輝は母親のことが大好きだったし、尊敬している。幸せになってほしい。そして、シイナも父親のことをそう思ってくれてる。

 同じ気持ちを持っているから、きっとこれからも仲良くしていけるかもしれない。

 でも、それは義理の兄と妹として、もしかしたら同じ屋根の下に住むことになるだろう。

 どこかで、ケジメが必要だと思った。

 そして、一度だからと過ちを犯してはいけない……いけなかった、だから互いに踏み留まれたように思える。でも、奇妙な喪失感は優輝を間違わせてしまいそうだった。

 そんなことを思っていると、突然シイナが「でもね」と切り出してくる。


「でもね、優輝……ボク、結構勉強したんだあ」

「え、なにを?」

「今まで、自分が女の子になることに一生懸命で……女の子のことは、全然知らなかったの。だから、優輝と、もっと、こぉ……したくて」

「いっ、いちゃこら!?」

「自信、あったんだけどね……ふふっ」


 ポスン、と優輝にシイナが寄りかかってくる。

 こうしたスキンシップも、今後は兄と妹でなければいけない。そして二人は、自分たちが恋人同士でいられるために、親の破局を願うようにはできていなかった。

 そっと優輝も、シイナの髪をでる。

 とてもいい匂いがする。

 やっぱり、胸がチクチクした。


「んとね、初めてって痛いらしいの。だからね、男の子は優しくしてあげなきゃいけなんだあ。無理はいけないし、痛かったら右手をあげてもらって」

「……は、歯医者さん?」

「あと、女の子は血がドバーッと出る。……男の子もドバーッと出るから、紅白で大変なことになっちゃう」

「ド、ドバーッと……」

「いじょ、ボクが独学でネットと漫画から学んだ、男女のいちゃこらだよ!」


 かなり知識がかたよってる上に、間違いだらけだ。

 でも、そういうシイナだから多分、優輝は好きなのだ。不慣れな日本で頑張ってる、日本も仲間も大好きで、優輝のことを一番大切に想ってくれる……そんな少年は男の娘オトコノコ。でも、男らしさとか女らしさとか、二人にはあまり大事な価値観ではなかった。

 ただ……頭を優しく撫で続けていたら、シイナが声を詰まらせる。


「……ちょっとだけ、ね。ちょっとだけ……優輝、もうちょっとだけ、こうしてていい?」

「シイナ……勿論もちろん。もっとこっちおいでよ」

「うん……」

「もうっ、泣かないで、シイナ。……気付いてあげられなくてゴメンね。ちょっとだけ、思い詰めちゃったよね」


 なぐさめるつもりが、自然と優輝の視界がにじんでゆく。

 泣いていると気付いた時にはもう、大粒の涙が頬を伝っていた。

 そして、同じ顔で泣きじゃくるシイナが目の前にいた。

 こんなにも愛おしいのに、お互い踏み込めない。触れ合い過ぎてはいけないのに、これから家族になるかもしれないのだ。

 シイナは、まるでおとぎ話のお姫様みたいにホロホロと涙を流していた。


「ね、優輝……ボク、いいお兄ちゃんになるから。絶対にもう、優輝のこと泣かせないから」

「シイナ……うん。私だって、シイナが泣いてたら、必ずその涙を止めてみせるよ。だから泣かないで」

「優輝だって、泣いてるもん。……今日だけ、今日だけ……兄妹じゃしないこと、する」


 そう言ってシイナは、優輝の頬に舐めた。涙のしずくをそっと拭う。そのぬくもりに応えるように、優輝も自然とシイナの涙を舐め取った。

 これからのために、してはいけないことが多過ぎたから……愛情表現一つとっても手探りで、なんだか迷子の子猫同士になってしまったみたいだった。

 そうして二人は、改めて大切な家族同士になる準備を始めるのだった。

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