旅人酒場

悠戯

旅人酒場

 関東北部のとある地方都市。

 寂れた商店街の外れに一軒の酒場がありました。


「やあ、主人。店を開けるのは久しぶりだね」

「これはこれは、ご無沙汰しております」


 店構えは目立たず、看板も出ていない。

 ついでに言えば、いつ営業しているかも分からないようなヘンテコなお店です。来る客も古くから常連が少数と、たまに噂を聞いた物好きがやってくるばかり。

 本日の客入りも顔馴染みの老紳士がやってくるまでは、閑古鳥が巣を作っているかのようでした。


 とはいえ、そもそも店の主人が儲け度外視の趣味でやっているだけの店なので、それでも問題はないのです。むしろ、意図的に客が増えないようにしているフシすらあります。

 

 店の屋号は主人の苗字をそのまま使っていますが、誰もその名で呼ぶ者はいません。もう十年以上も前に客の誰かが呼び始めた『旅人酒場』という名がすっかり定着していました。


「それで、今回はどこに行っていたんだい?」

「ええ、蒙古から西回りに大陸を進みまして、欧州の端っこまで行ってきました」

「ほう。というと仏蘭西や英国あたりだね。私も若い時分には出張であの辺にはよく行ったものさ」


 『旅人酒場』とはいっても、別に旅人が集まる店というわけではありません。

 旅行好きの店の主人は年の半分以上も世界のあちこちを巡っており、それを半ば皮肉ったような名前なのです。


「今は随分と良くなってきたらしいが、昔の英国は飯が不味くてね。三食マクドナルドのハンバーガーでしのいだりしたものさ」

「ははは、それは大変でしたね。では、最初はこんなのは如何でしょう?」


 と、主人がカウンターから取り出したのは英国製のブラウンエールの小瓶です。常温で保管していたらしく、瓶は汗をかいていません。

 主人は慣れた手付きで栓を抜いてグラスに注ぎ、老紳士の前に差し出しました。


「うん、これはいい。冷たいビールも美味いが、エールは少し温いくらいが好みだな。そのほうが香りが楽しめる」


 老紳士はナッツに似た甘い風味のエールを、ちびちびと舐めるように味わっています。夏場に飲むような冷えたビールは勢いよくゴクゴク飲むのが美味いものですが、こういう甘い酒は少しずつやるのが良いのです。


「それで主人、今日は何を食わせてくれるんだい? いや、待った待った、やはり自分で当ててみよう。確か蒙古と言っていたから……」


 食前酒を飲んで気分が良くなった老紳士は、本日の酒の肴を推理し始めました。

 この店の主人はいつも旅先で変わった食材を買い付けては、それを客に提供しているのです。旅行先の地名を聞けば、ある程度は食材の種類も推し量れるでしょう。


「……そうか、わかった! きっと、モンゴリアンデスワームとかいうヤツだろう! アレ、前から一度食べてみたかったんだよ」

「ははは、残念でしたな、ハズレです。アレも塩焼きにすると美味いのですが、何分傷みやすいので持って帰れなかったのですよ」


 別に老紳士が早くも酔っ払ったワケでも、主人がふざけているワケでもありません。『旅人酒場』はこういうお店なのです。


 南米のチュパカブラだの東北のどこぞで捕まえたツチノコだの、食材の種類はその時々で違いますが、UMAとか妖怪とか怪異とか、そんな風に呼ばれる生物や生き物かどうかも怪しい物を調理して提供しているのです。

 時にはニホンオオカミやリョコウバト、マンモスや恐竜のような絶滅種が出てくることもあります。どこでどうやって入手しているのか店主以外は誰一人として知りませんが、この店はそういう場所なのです。


 普通であれば国外から持ち込もうとした時点で止められ大騒ぎになりそうなものですが、この店の主人や客の何人かが特別な密輸ルートを何箇所も持っていて、今までに問題になったことはありません。 


「どうぞ。活きがいいケルピーがいたので、肉の表面を軽く炙ってタタキにしてみました。薬味は生姜や山葵よりもニンニクが合うようです」

「おお、これは美味そうだ」


 ケルピーとはスコットランド地方の伝承に謳われる、水に棲む馬の怪異です。一説には馬と思わせて油断した人間を水に引きずり込んで殺し、肉を喰うともされています。

 まあ、ここの主人の目利きは確かなので、この店で人喰いが出てくることはないですし、客のほうもそれは分かっているので、わざわざ確認したりはしません。


「コイツは近くの牧場で飼っていた羊や豚を食ってたやつだから美味いですよ」

「美味い! ああ、これは白い飯が欲しくなる味だな」

「と、仰ると思いまして。大盛りにしてあります」

「ははは、女房以上にお見通しだな! 最近うちの家族が痩せろ痩せろとうるさくてね、ダイエット食だかなんだか知らんが家では玄米しか食わせてくれんのだ。うむ、やはり米は白いのに限る!」


 老紳士はニンニク醤油をたっぷり付けたケルピーのタタキを、白米と一緒にわしわしと掻きこんでいきました。表面を香ばしく炙った肉が食欲をそそり、食べれば食べるほどに腹が空いてくるかのようです。


「ふう、堪能した。次は何かな? どっしり腹に溜まる物がいいな」

「そうですね、アスピドケロンなんて如何ですか?」

「ん、それは知らない名だな。どんな生き物だね?」

「北欧あたりの海にいる……要は大きい亀ですかね。鯨くらいあるんですよ」


 アスピドケロンとは巨大な亀の怪物です。

 船乗りが島と間違えて上陸し、甲羅の上で焚き火を始めたら目覚めたアスピドケロンに振り落とされて溺死した、なんて伝承もあったりします。


「地元の漁師に首のところの肉を分けてもらいまして。私も試してみましたが、なかなかイケますよ」

「ほうほう、それは楽しみだ」


 主人は冷蔵庫から取り出した巨大亀の調理を始め、老紳士はカウンター越しにその光景を眺めながらエールの残りを味わっています。


 肉にはあらかじめ下味を漬けてあったようです。

 金属製のボウルにはラップで封がしてあり、黒っぽい漬けダレにアスピドケロンの肉が浸かっていました。

 肉表面の余分なタレをキッチンペーパーで軽く取ってから片栗粉をまぶし、更にその上から薄力粉を纏わせてやります。


「ほう、唐揚げかな?」

「ええ、正確にはザンギですね。この漬けダレにニンニクを多めに入れてまして」

「北海道風の唐揚げだね。うんうん、実に良い」


 主人は大きめの中華鍋に胡麻油をなみなみと入れて熱し、充分に熱くなったところで粉を纏ったアスピドケロン肉を揚げ始めました。狭い店内に食欲をそそる香りがたちまち充満し、老紳士は小さく腹の虫を鳴かせていました。


「ここで一度引き上げて、と……油をもう一度熱してから二度揚げします」

「待ったほうが美味いと分かってはいるのだが、毎度ここで食いたくなってしまうんだ。なんだか、お預けを食わされた犬の気分だよ」


 唐揚げや天ぷら、トンカツなどの揚げ物はサックリとした衣が命。

 歯触りのよい衣に仕上げるには高温の油で揚げる必要があるのですが、揚げ油の温度というのは、あらかじめ充分に熱したつもりでも最初に食材を入れた段階で下がってしまいます。

 そこで、低温の油である程度加熱した状態で一度食材を引き上げ、油を再加熱してから高温の油で短時間揚げるのが二度揚げの技法。この技術を用いることにより、食材の中身はジューシィに、表面の衣はサクサクの揚げ物ができるのです。


「ふうむ、ザンギに合わせるならエールよりも冷たい酒か」

「そうですね。では、ザンギと北海道つながりでサッポロビールは如何です?」 

「熱いザンギとキンキンに冷えたサッポロか……うん、いいねえ。実にいい。ああ、手酌でやるから瓶と新しいグラスだけくれればいいよ」


 ちょうど先程のブラウンエールもなくなったので、老紳士は今度はキンキンに冷やしたサッポロビールを頼みました。

 そして、ちょうどビールをグラスに注いだタイミングで、


「お待たせしました。アスピドケロン肉のザンギです」

「おお、これは美味そうだ!」

「まだ熱いのでお気を付けください」


 揚げたてのザンギは見るからに熱々で、迂闊に口に入れたら火傷してしまうかもしれません。ですが困ったことに、冷めるのを待っていては一番美味しいタイミングを逃してしまいます。


「ほっ、ほっ、ほっ!」


 熱を逃がすように息を吐き、ガブリと噛み締めると溢れんばかりの肉汁が出てきました。旨味のジュースが舌を蹂躙し、口内は洪水状態です。


「むむ!? い、いかん、これは早くビールを飲まなければ…………っはあ!」


 熱々のザンギをキンキンのビールで流し込む快感は他に例えようもありません。

 思わずグラスの中身を一息で干してしまった老紳士は、二杯目を注ぎながらアスピドケロンの味を頭の中で反芻しました。


「旨味も濃いが、結構クセが強いんだね。食感は鶏に近いけど牛の内臓肉みたいな風味がある」

「おや、お気に召しませんでしたか?」

「いやいや、美味かったよ。……ああ、だから唐揚げじゃなくてザンギなのか。ニンニクで肉の臭みを相殺したんだね」

「ええ、ただ揚げるだけだと、どうしても臭みが出てしまうもので。胡麻油も特に香りの強い物を使っています」


 臭みの強い食材には、別の匂いの強い食材をぶつけて相殺させるのが定番の対処法です。今回はニンニクの漬けダレと香りの強い胡麻油でアスピドケロンに対抗したのでしょう。


「うむ、これはいい。ビールが進む」


 老紳士は一つまた一つとザンギをビールで流し込み、たちまち皿の上はカラッポになってしまいました。


「ふう、今日も実に美味かった。お勘定を頼むよ」

「はい、ありがとうございました。またのご利用をお待ちしております」

「そうそう、次はどこに行くのかね?」

「ええ、今度はオーストラリア経由で南極まで足を伸ばしてみようかと」 



 ◆◆◆



「む、今日は閉まっているな。仕方ない、出直すか」


 翌週、老紳士が再び『旅人酒場』を訪れるも、店は閉まっていました。

 きっと、また仕入れを兼ねた旅行に出かけているのでしょう。


「次はオーストラリアだとか言っていたな。あの主人のことだからニュージーランド辺りも行くかもしれん。生きてる内に、一度ジャイアントモアを食してみたいのだが……」


 そんな非現実的な呟きを残して、常連の老紳士は『旅人酒場』のある商店街を後にしました。


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