ある男のうつ病転落人生

@toraboruta

プロローグ

 小説が書いてみたいと思って、何を書けばいいかと悩んだ挙句、自分のこれまでの人生について書いてみることにした。

 まとまりのない文章だが、上記のような背景なのでご容赦願いたい。


 鬱病になってからが本編なのでそれまでは長ーいプロローグ。


#両親の話

 両親は共に関西の大自然あふれる田舎の生まれで、同級生だったらしい。

 父も母も中学を卒業後に東京近郊に上京してきていたのだが、父が世話になっていた(父から見た)叔父か、その妻の叔母が、母も上京してきていることを知っていたらしく一度会ってみればということで出会ったそうな。

 父は中学まで田舎でサッカー漬けの生活をしていて、何がきっかけか知らないが東京の高校に入ることにした。その高校は近くの高校と喧嘩が起きるようなところだったらしいのでおそらく偏差値的には低いところだったのだと思うが、父はその中では優秀で学年トップの成績で卒業し、その高校にしては異例の、入ると卒業が大変だと知られる理系の某大学の夜学部に入学した。

 しかし、せっかく入学したは良いが、勉強についていけなかったのか、当時はまっていた空手のせいなのか、退学してしまい、叔父が経営している新聞配達屋で働いていた、とのことである。その後、とある人との出会いがきっかけで起業することになり、何歳の時だか知らないが、造形業という事業を営む小さな会社を立ち上げた。造形業とはディズニーランドに岩とか作るような仕事である(この説明も人生の中で数え切れないほどしたなあ)。造形業意外にもアパレルなども考えたという話は少し聞いたことがあるが、詳しくは知らない。まあ、身をおいた環境のせいでこんな感じのキャリアではあるが、地頭は良い父である。東京のサラリーマン家庭にでも生まれていれば、早慶ぐらいには行けていたんじゃないかな?と個人的には思う。人格的にはバランスのとれている感じの好青年的な感じである。生まれる時代があと30年遅かったら、IT起業とかしてたんだろうなと時々思う。

 母については実はよく知らない。小さな頃に実の母(だったはず)の兄弟の夫婦に養子に出されて中学ぐらいまで暮らしていたが、病気か何かで義理の両親がともに亡くなってしまい、実の両親の家庭に戻って生活していたと聞いている(ちなみに、父の実の母も父が中学生ぐらいの頃に他界している)。それからは、まあきっと普通の学生として中学までを過ごして、何を思ったのか上京することにしたらしい。父はアクティブというかアグレッシブな性格なので上京すると聞いても納得だが、母が上京することにしたというのはなんとなくよく分からない。その時代、地域特有の何かがあったのかもしれない。ちなみに、父・母の兄弟は皆都会に出ているが大阪や奈良など関西である。ちなみに、っての多いな。まあ、気にしないで欲しい。母は上京後は

 何かのつながりがあったのか知らないが、お金持ちの家で家政婦をしながら、高校の夜間部に通っていたらしい。そして、卒業後も家政婦を続けていたのだと思う(ここらへんは定かではない)。地頭の良い父に比べて母はまあいまいちって感じだが、人情味に溢れる優しい人間ではあると思う。

 2人は出会ったあとは、しばらくは何もなかったが、また久しぶりに会って付き合いだしたとかなんとか。そして結婚し、共に自営業の会社の経営をしていく。しかし、世の中甘くないもので最初はやはり仕事もなく、とても困窮した生活を送っていたらしい。預金もなく財布の中には数十円なんて時期もあったとか。その時はまだ幼児の自分たち(双子)に、知り合いのケーキ屋にもらったケーキの耳とかを食べさせていたなんていう逸話も聞く。タフである。


#幼児期

 ようやく自分の話。

 埼玉県某所(東京とのすそのあたり)にて出生。両親はともに27歳の時の子だったと聞く。双子として生まれ、どちらもか、一方か、忘れたが、少し小さく生まれてきたためになんとか器?とかいうのにしばらく入っていたらしい。

 その後はすくすく元気に育つ。親の事業もそれなりに順調に行くようになって、お金に余裕ができたのか、子供向け百科事典が家にあって、それを良く読んでいたのを覚えている。あとは、教育テレビを良く見ていたという話は聞いている。そこらへんを除けばおおむね普通の子供だったはず。特に語ることはありませぬ。

 なお、兄弟は双子の兄の1人だけの2人っ子世帯であった(自分の下に兄弟が産まれたりもしていない)。


#幼稚園生

 父の知り合いに借りた平屋に住んでいた。いつ引っ越したのかは覚えてない。

 最初のころは父の工場でキャッキャいいながら遊んでたが、工場も遠いので家の近所で友達と遊び始める。スポーツは別段やってなかったけど足はそこそこ速かったような気がする、そんな普通のガキ。


#引っ越し

 工場の土地の所有者が変わることで、いろいろとあって、引っ越し先で工場を作ってやっていこうという話になる。

 人生初の引越し。引っ越す先は同じ埼玉だが車で2時間はかかる県央部のとある町。大人にとってはただの引越しだが、子供にとっては学校を移るという一大イベント。親しかった友達たちともお別れ。もうあまりよく覚えていないがきっと悲しかったのだろう。


#小学校2年生

 引っ越した先で当初はちょっとしたいじめにも会ったが、すぐに打ち解けて新しい友達たちと遊び始める。が、皆スポーツ少年団とかをやっている中、自分は何もやっていなかったので土日に遊ぶ相手がいなくて寂しかったのを覚えてる。

 好きなスポーツはサッカー。というのも仲のいい友達皆がサッカーをやっていたのだ。

 今考えると結構退屈な時間の多かった小学校生活であった。


#変な父

 ギターをやれといって日々練習を無理やりやらされそうになる(結局さぼってたらなぁなぁで無くなった)。勉強なんかしなくていいから外で遊べと言う。一方で、夏休みには算数ドリルとかをやらされたりPCで日記を毎日つけさせられた。仕事先の飲み会か何かでキャバクラとかに連れて行かれる。いきなり金髪になったり、スキンヘッドになったりする。帰宅するとPCばかりいじってた父。急にスノボーにはまりだし、毎週家族でスキー場に行く時期があった。知り合いの所でやったリッジレーサにはまって、いままで頑なに(教育的観点から)購入を拒んできたゲーム機を自分で買ってきたりした。


#初めてのPCとの出会い。

 話は戻って小学校3年生ぐらいの時、父が何を思ったか数十万も出してFM Townsを買ってきた。父曰くこれからはPCの時代だと思ったらしい。

 父はPCを買ってきた日から小学生の自分と兄弟にスパルタで夜な夜なローマ字とタッチタイピングを教えた(勝負して勝った方に100円とかいうゲームをやった気がする)

 PCを使えるようになった自分は興味津々でバッチファイルプログラミングとかをやりはじめた。ただ、残念ながらC言語やBasicのようなちゃんとした言語には出会わなかった。今思えば、惜しいことだったと思う。

 そんなこんなで将来プログラマになるとこの時には、決めたのであった。


#中学校生活(部活)

 プログラマになるつもりではいたが、小学校後半でさほどPCをいじっていたわけでもなかったので、部活は普通に運動をしようと思っていた。で、友達が皆やっていたサッカーを始める。小学生の時はかなりポチャッとしていた自分であったが、部活開始3ヶ月ぐらいでスリムになった。その後も部活漬けの生活は続き、休みという休みもなく連日ハードな練習が続いた。正直辛かった。

 しかし、さらに辛かったのはレギュラーになれなかった事。スポーツ少年団とかでサッカーをやっていなかった自分がそう簡単に経験者たちに敵うわけもなく、

 3年間が過ぎていった。負けず嫌いの自分には辛い時間であった。この時の経験を通して、自分の承認欲求を求めるような価値観がより一層強化された気がする。少し違う見方をすれば、これからの人生におけるハングリー精神、負けず嫌い精神の基盤がここにあったのかもしれない。


#中学校生活(部活以外)

 勉強は、最初は上の下ぐらい、3年生になって通信教育を始めてからはほぼトップになった(一度だけ本当のトップをとった)。たぶん人生の中で相対的に一番頭がよかった時期。

 休み時間とかはバカな事ばっかりやってた記憶しかないが、特にやる事のない時は図書館で借りた本を読んでいた。ホームズ全巻とか、宝島とか、はだしのゲンとか、なんちゃらの歴史シリーズだとか。今考えるとなんでそんな行動をとっていたのか不思議ではある。

 なお、浮いた話は残念ながら無かった。


#中学校生活(学校以外)

 帰って、飯食って、寝る。

 当時はまっていた遊びはトレーディングカードゲーム。なんかインテリっぽい遊びで好きだったなぁ。大人にまじって大会とかにも参加したし、雑誌もすりきれるぐらい読んだ。そういえば海外のサイトをわざわざ見つけてきて世界大会で優勝したデッキとかを作ったりもしていた(まだインターネットが一般家庭に広まる前の話)。


#経済状況の変化

 高校入試の少し前に父は元受の会社を辞めていた(自営業だけどそちらに雇われてるような勤務形態になっていた)。そんなわけでウチの経済状況は大変厳しい状況におかれました。


#進路選択

 そこそこ勉強すれば学区のどこの高校にでも行ける気はしていたが、トップ校は男子校だから無理、その次は最寄り駅から遠いのでだるい。ということで、とある特徴的な高校を選択。プログラミングも勉強できるらしいので。


#父が出ていった

 母との不仲が原因なのか出ていってしまった。連絡はつくので死んでることはないと思うのだけど、もう会わないまま10年以上が経った。

 というわけで、高校入学時点で実質母子家庭のようになってしまいました、と。そんなわけで母が昼はパート、夜は配達業の夜間バイトなどをして生活費を稼ぐような生活になり、経済状況は更に悪化。

 携帯電話は持っていたけど、親が何ヶ月もその支払を滞納してたとかってのもザラだった。


#高校時代(部活)

 まずはプログラミング部を探したのだが、プログラミングとかしないただのオタクサークルしかなくて、入ってもあまり得をしなそうだったので断念。

 次にやろうと思ったのがテニス。兄が中学で軟式テニスをやっていて、たまにいっしょに打っていたのでコツは分かる。サッカーはもういいやと思っていたのでテニスを選択。で、やり始めたらめちゃめちゃ面白い。というわけで、高校生活前半のほとんどのエネルギーを注いでテニスをする。


#高校時代(バイト)

 コンビニ->ファミレス->年末年始の郵便配達->交通誘導員

 家の経済状況が厳しく、小遣いは期待できなかったので、自分で稼ぐしかなかった。受験の時以外はやってたなあ。


#高校時代(恋愛)

 一年生の時に彼女ができて、彼女いない暦を16年で断ち切る事には成功。しかし、キスもしないまま一週間で別れた。まあ、恋に恋してたってやつですな。


#高校生活(自宅)

 部活から帰宅、夕飯。寝る。の繰り返し


#進路選択

 所属高校の進路ははほとんど専門学校とかに進学して、他の少数が大学に行くという感じであった。そんな中、毎年数名はAO入試で某国立大学へ行っていたので、自分もその道を選択することにした。

 駄目だったら推薦と一般入試をダメ元で受けて、それでもダメなら新聞奨学生でもしつつ予備校に通うことにしよう、と心を決めた2年生の冬であった。


#大学合格

 特技のプログラミングで研究っぽいことしてレポートにまとめて、AO入試を受けたら合格。

 学部は情報系の学部。所属高校のレベルからするとかなり上の大学なので、やったぜ感。国立大学なので学費も安いし家計も助かる。


#高校生科学コンテスト

 入試の時に出したレポートを出して発表したらなんと入賞。高校生の科学オリンピックと呼ばれるような世界大会の日本代表になった。


#嫁とのなれそめ

 同級生に、ヒョコヒョコと歩く、小柄の女の子がいた。自分はその子が少し気になってはいたが、ずっと別のクラスで一度も喋ったことすらなかった。

 そんなわけで、自分と彼女の間に何の関係も生まれないまま3年間の高校生活が終わっていくかのだろうと思っていた。

 しかし、卒業式の少し前、男友達と談笑していると、なんと一度も話もしたことのないその子がバレンタインチョコをくれた。そう忘れていたがその日はバレンタインデー。家に帰った自分は家族にニヤニヤしながら自慢をして大事にそのチョコを食べた。人生初の本命チョコ。その時考えた。ってか、両思いなんじゃね?と。その打算を胸に、数日後の卒業生を送る会で行われた未成年の主張的なあれで、告白してめでたく付き合えることになった。

 そして、その約10年後、その女性と結婚することになるのである。


#大学生活(学業)

 やる気のある学生だったので、授業では大体一番前あたりに座っていた。

 テスト対策もちゃんとやっていたので、ほとんどの授業でAの成績をとることに成功。

 他の学生と比べて頭の出来が良かったとは思わないけれど、成績だけ見れば優等生だった。まあ、自分の好きな情報系の勉強だったので、それほど苦にならなかったというのはある。好きこそものの上手なれ、というやつかな。


#大学生活(恋愛)

 彼女(今の嫁)とは月一ぐらいの頻度であってた。地元に残った彼女に対して、自分の所属する大学は他県にあったので中距離恋愛ぐらいの感じであった。

 大学のある場所はあまり遊ぶ場所もないので、自分のところに来てもらう時は自室でセックスして、少しでかけるってのが大体のパターン。東京とかで会う時は、まあ普通にデート?してたと思う。


#大学生活(アルバイト)

 塾講師(中学英語)-> ベンチャーでプログラマー -> 研究所でプログラマ-(短期) -> スタートアップに創業メンバとして参加(プログラマ)->所属研究室のRA(リサーチアシスタント)

 というような感じであった。

 (一応)商業レベルでプログラミングする経験を学生時代に持てたというのは良い経験だったと思う。

 ちなみに、生活費と授業料含めて主には月5万円、大学院時代は8万3千円の奨学金でやりくりしていた。あとは、仕送りを月2万円もらっていて、月3~5万円程度のアルバイトで補完するような金銭状況であった。


#大学生活(実家)

 母がガンになって手術をしたりといったことがあった。この時、自分はアルバイトの代わりがいないからといって、もしかしたら今生の別れになるかもしれない(確率は低いが)手術に、立会いすらしなかったのは本当に親不孝だと今となっては思う。ただ、言い訳をするなら、ガンになった母を見たくなかったし、その事実を受け入れたくなかったというのもあったりはした。

 自分が大学3年の頃に、(双子の)兄は公務員の専門学校を卒業して、市役所職員として働きはじめていた。高校卒業後もずっと実家におり母と2人で暮らしている(現在に至る)。なお、母のガンの前くらいに、持ち家がローンの不払いで差し押さえされて、アパート暮らしになったりといったことがあった。


#大学生活(その他プライベート)

 個人で作ったWebサービスが話題になって、勉強会で発表したり、学会誌に寄稿したりした。

 あとは、高校生の時に入賞した科学コンクールのOBで、科学教育のイベントの手伝いをしたりもした。


#大学生活(サークル)

 テニスサークルに所属。ただ、大学の研究室に入学当初から入り浸ってプログラミングとかをしていたため、そちら優先でなかなか顔を出せず半分幽霊部員のような感じになっていた。


#大学生活(研究活動)

 国際学会に採録されたり、海外論文誌通したり、学会で賞とったりと、他の学生と比べたらかなり頑張ったほうだと思う。ぶっちゃけ、研究活動だけ見れば、かなり優秀な学生だったと言っていいと思う。あと、これらの研究業績のおかげで、卒業時は大学から表彰を受けるということもあった。


#進路選択

 大学院の修士まで大学にいて、さてその後はどうするかと考えなければならなくなった。

 許されるなら博士課程まで大学に残って博士号をとりたいが、就職する企業によっては社会人博士として博士号をとる手もある。というわけで、納得できる企業に受かるようなら、修士で就職しようということにした23歳の冬であった。


#就職活動

 辛かった。実家からの働けというプレッシャーも出てきたことから、当初の思いと裏腹に途中から、どこでもいいから入れて欲しいというような精神状態になっていた。睡眠は浅くなるし、食欲は減るし、頭はボーッとするしで、既にこの時に一度鬱状態が起きていたのだと今になると思う。でもまあ、結局辛い辛い就職活動も3月いっぱいで終わって、4月の採用解禁のタイミングで2社の内定を得ることができて、精神的には大分落ち着いた。

 得られた内定は、一方はメガバンク系証券会社のIT部門。他方はWeb系のベンチャー(従業員100名ほど上場済み)。どちらを選ぶか悩み抜いた末にどちらもダメという判断をして、指導教員の紹介と大学推薦を併用して大手電機メーカーを受けて無事内定。紹介の力で部署も元々専門としていた希望の部署に決まった。

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