ボクの嫌いな死体

朱都遥未K

ボクの嫌いな死体

 今日の日記。朝二回目の目覚ましで起床し、身支度をして、家を出て、コンビニで朝食と昼食を調達して、会社に行って仕事をして、少しばかり残業して帰宅して、風呂に入って、簡単な夕飯を作ってビールを飲みながらテレビを見て、いつも通りに就寝した。

 明日の日記。以下同文。

 明後日の日記、以下同文。

 以下同文。

 以下同文。

 たまに出張と休日のバリエーションを混ぜながら、そんな感じの日常をおくる。

 妄想である。そもそも、僕に日記をつける習慣なんてない。中学三年間、正月に三日だけつけた記憶しかない。まあ、内容についてはこれで正しいのだが。どこまでも、ぐうの音も出ないほど正確で、あまりに整頓されているわけだが。

 そんな毎日を送っていると、どこか自分が生きていると言う意識が希薄になってくるのは、もしかすると僕のように人間関係というものが苦手な人間からしたら共通の感覚なのかもしれない。なんて、こんなことを言ったら同族相哀れむみたいで情けないけれど。

 訂正、そうあって欲しい。僕一人であって欲しくない。

 そうであるならば、自分から何か行動を起こすべきだろうと人に言われてしまうが、まあ妥当な提案であると思う。実効性が僕の決断力と行動力にかかっているという点さえ除けば、おおむね妥当な意見だ。例えば、有給を取って旅行に行くとか、同僚と飲みに行くとか、恋人を作るとか、そんな普通の人間らしい提言だ。

 まあ要するに、そんなことを実行できたなら今の僕は居ないという半ば八つ当たりのような思考であるわけなのである。だから結果として、以下同文な日記が僕の脳内で延々と展開していってしまうわけであるが。

 畢竟、僕は自分が生きているという意識が希薄になっていくことと引き換えに精神の安定を受けているわけだ。ルーチンを崩せないし、生活リズムを乱せない。これは僕の臆病な性格に由来するのだろうと、中途半端というか分かり切ったプロファイリングをしてみる。何も見えてこなかった。

 僕は日課のように、就寝前に机の引きだしから一枚の手紙を取り出す。この中には、覚えるまでもないほど簡単な、一言しか書いていない。覚えているから、読む意味はない。

 実を言うとその手紙は僕あてのものではない。というか、特定の誰かにあてたものですらないのだろう。宛名はない。そして多分、目的もない。

 強いて言うならそれは遺書である。にもかかわらず目的がないとはどういうことだと言いたくなるが、実際そうなのだから仕方がない。事実は、事実である。真実は真実である。僕の認識で、それは変えられない。

 この手紙は僕にとって戒めであり、警告である。忘れそうになる僕にとっての、注意喚起である。そんな遺書を、僕は中も見ずに再び机の引き出しに同じようにしまった。これで、僕は今日も生きていたんだと、思い出せる。忘れかけていたけれど、思い出せる。

 あの、僕の大っ嫌いな死体とともに、思い出せるのだ。



 話は変わるが、僕は、人の死というものに三度ほど関わったことがある。今年で社会人三年目になる自分にとってそれが多いのか少ないのかは分からないが、まあ平均すればみんなこんなものなのではないだろうか。ここで人の死とは、別に死ぬ瞬間だとかそういった場面に限定するわけではなく、死体だとかそう言ったものも含めてに”死”である。

 明確な”死”。

 肉体的な”死”。

 初めて僕が死というものに関わったのは、小学生のころ。五年生か六年生だったと思う。時期的には確か冬の終わり、三月だったかな? 過ごしやすい季節だったのを覚えている。その頃に、ずっと入院していた曾祖父が亡くなったのだ。夜中に電話が来て、僕はなんとなく目が覚めた。その電話を受けた両親が慌てて家を出て行った。目が覚めたのは僕だけではなく妹もだったようで、両親が出て行った後に置きだして二人でカップ麺を食べたのだ。

 僕はその時、なんとなく曾祖父が死んだのではないかと予感がしていたが、妹がそれに気づいていたのか分からないので、意味もなく、真夜中なのに軽く振舞っていたように思う。当時の僕にはそれが優しいと思っていたし、兄としての役割だと思っていたから。でもまあ、考えてみれば二歳下、三年生か四年生だった妹には、そんな心配は無用だったことだろう。僕はどうにも、妹を幼く見てしまう傾向にある。今も全く変わっていない。まあ、それは良しとしよう。

 ともあれ、翌朝僕は、両親から曾祖父が死んだことを聞いた。

 ショックは、受けなかった。というよりは、よく分からなかったのだ。死んだ? それは一体どんな現象ですかって。だから、黒っぽいなんか堅苦しい服に着替えさせられて、祖父母の家まで行って、北枕で布団に寝かせられた曾祖父の姿を見ても、何も思わなかった。

 いや、違う。訂正しよう。僕は思った。なんだこれは? って。これ、には曾祖父の死体だとか、集まりすぎて誰が誰だか分からない親戚だとか、死そのものだとか、いろんなものに対してだ。

 混乱していたし、困惑していた。入院しているときから、もうすぐ曾祖父は”死ぬ”んだって思っていたけれど、それは物語の中の単語のように僕の中にずっと空疎に響いていた。知っているのに、知らない。分かっていたのに、分かっていなかった。”死”は、当時の僕には情報量が多すぎたのだ。僕に保存できる情報量から、超過しすぎていた。だから、曾祖父に、曾祖父の死体に触って冷たかったこととか、見たことない親戚がいっぱいいたとか、出てきた料理がなんか豪勢だったとか、お葬式は退屈だったとか。ものすごく表面的なことばかりが思い起こされる。

 とはいえ、未だにその頃の情景が思い出せるのだから、単に認識できなかっただけで、強く僕の心に残るものだったのだと思う。思うだけだ当時の僕は、自分で思っているよりも子供で、一日がとても長くて、来年のことはもとより来月、来週のことすら想像するのができないくらい”今日”を生きていたんだ。まあ、自分にそこまで聡くあって欲しいなんてことは思わないけれど。

 こんなころから死の考察をするなんて、ませていると言うか、なかなかの異常性を帯びていると言わざるを得ないだろう。

 この死体と言うものを思い浮かべてみると、僕はどことなく満足げな様子だったのではないかと思う。曾祖父は100歳を超えていたから。だからこそ、その”死”というものを、受け入れていたのではなかろうか。勿論、その死体が笑顔だったとか、そんな露骨なことはなかったが、当時の僕がどう思ったかはまあ、先に言った通りだとして、今の僕としては、その死体は、どこまでも好ましいものだと思った。羨ましいくらいに、妬ましいくらいに好ましい。

 これは、今の僕の感想である。



 二度目は、高校二年生の時。理由は忘れたが、なぜか僕が都心に出かけたときのことだ。オープンキャンパスとか、そんなことだったような気がする。夏の暑い日、道はニュース映像で見るような人でごった返した様子だった。

 当時の僕は進路に悩んでいて、とはいっても僕はそこそこの進学校に通っていたので就職というよりは大学進学が確定的だったけれど、ともあれ、普通ではないことに憧れる年頃だった僕にとって、周りの人間と同じように受験勉強を、夏休みの天王山を超えて、模試の結果に一喜一憂して、推薦がなんだセンター試験がなんだって悩んでいる姿が、どこか滑稽で、あまりにプロトタイプに過ぎるように感じてしまっていた。今思えばどこまでも頭の悪い子供の思考で、贅沢なものだと思う。

 素直に笑ってしまう。なにか自分には大いなる使命があるのではないかって、重要な役割があるんじゃないかって、そんなことを考えてしまう自分が。滑稽で、むしろプロトタイプだ。

 まあ、そんな僕の恥はおいて置くとして、その時にやって来た交差点が、その場所だった。前述したようにそこは人でごった返していて、交差点の歩行者信号には人が四重五重に並んでいた。人の熱気でうっとうしかったのをよく覚えている。そんな中のことだった。

 僕から見て右二つ隣の青年。ちらりとしか見えなかったが、多分二十歳前後だったと思うが、その青年が、ふらりと交差点の中に歩いて行った。それがあまりに自然な動作だったが故に、僕はその行為に何の疑問も覚えなかった。しかし、確かに信号は、赤だった。

 グシャ、と、映画の中ですら聞くことはないであろう生々しい音とともに、青年は交差点の真ん中で四散した。いや、実際には右手が飛んだだけで人間としての形は保っていたのだが、僕は当時、そう感じた。呆気ないくらいに、青年は大型トラックに轢かれて、チリ紙のように簡単に、鴻毛のように軽く飛んでいき、僕の目の前から消えていった。僕はその、消えた青年から目を離すことができなかった。

 それは驚愕ではない、単純に、呆気に取られて目を離すタイミングを逃してしまっただけである。そうだ、僕は呆気にとられたのだ。人間の命が消える、その呆気なさに。味気なく、劇的でもなく、前触れなく、消えたことに。

 周囲から悲鳴は僕にはどこか興味からくる歓声のように聞こえて、僕は我に返る。周囲から最近はやりの携帯電話を取り出して、写真を撮り始める人がチラホラと見えてくる。悪趣味だ、とは思わなかった。僕はまだ導入されて間もないカメラ付き携帯電話というメディアを所持してはいなかったけれど、僕の目に、しっかりと、それは焼き付けたのだから。

 まあ、それが僕の、二度目の”死”との遭遇の概要である。どうして青年が突然交差点に飛び込んでいったかというのは、単純に僕の推測ではあるが、僕の丁度右隣に立っていた人、これは確かサラリーマン風の男性だった、が、信号が青に変わったと勘違いして、一歩踏み出してしまったことが原因なのだろう。それ自体、僕は目撃をしているから、多分この推測でほぼ間違いない。青年は、耳にイヤホンをつけて、携帯ゲーム機に熱中していたようだし、そのサラリーマンの動きに釣られて、動き出してしまった。そう言うことなのだろう。無論、そのサラリーマンはすぐにまだ赤信号であることに気付いて足を止めたのだが、青年は違った。

 不幸な事故である。もしサラリーマンが殺し屋で、狙って一歩だけ足を出したとするならば何とも劇的だが、きっとそんなことはないだろうし、そんなことがあったとしても、これ自体は今の話には全くと言っていいほど関連がない。

 全くの枠外で、別の話だ。別世界と言ってもいいほど、埒外だ。

 僕はこの日、人間の命の軽さを思い知った、なんていうとどうも軽い感想のようにとられてしまいそうだが、実際にはそんなことはない。少なくとも僕にとっては、ずいぶん重要なターニングポイントだったように思う。

 僕は、その日から自分が特別であると言う根拠のない思想を捨てた。妄想を捨てた。

 あんな簡単に消える人間に、特別もくそもあったものではないと、そんな風に身もふたもない思想に僕はその日たどり着いた。

 畢竟、人はトラックに轢かれれば死ぬし、工事現場で鉄骨の下敷きになれば死ぬし、心臓を貫かれれば死ぬし、首を吊れば死ぬし、血を流しすぎれば死ぬのだ。刺殺、絞殺、銃殺、斬殺、撲殺、圧殺etc。他殺の方法には事欠かないし、首つり、焼身、服毒、練炭、飛び込み、飛び降りetc。自殺のバリエーションも豊富だ。

 死は、常に僕の隣にあるんだと、そう強く感じてしまった。

 人は誰もが、自分が次の瞬間死ぬ可能性があるのに、自分だけは例外だと思ってしまう。どこかの作家が書きそうな文言だ。少なくとも、僕は今この瞬間に死んでもおかしくはないと認識している。まあ、認識に実感がこもっているかは別にしても、分かっては居る。それ自体、この経験によるものであることは、僕にしては本当に珍しく、断言できる。曖昧模糊な僕のパーソナリティとして、断定できる。

 だからこそ、断定できるからこそ、僕が知りたいのは僕のことではなかった。僕は、青年のことが知りたかった。曾祖父とは違い、全くの想定外、予定外、予想外の死に見舞われた青年が、今際の際に何を思ったのか、僕は知りたかった。

 驚愕か、恐怖か、はたまた悲哀か、受容か。

 死は隣にあるのに、それだけは知ることができない。僕は死んだことがないから、知ることができない。死ぬまで、知ることができない。いや、もし僕が曾祖父のようにゆっくりと死に向けて歩いて行ったのだとしたら、死んだとしても知ることができない。

 そもそも、死後に何を知ろうとそれは栓無きことだ。最高に無意味で、無価値だ。そういう意味では、おそらくこれは、知る必要のない情報なのだろうと思う。死は終わりなのだから、死の間際とか、そのあととか、考えるだけ無駄なのだ。それはたぶん、そう世界で決まっている。死者は蘇生できないから。神とか、そんな感じのものによって、決められているのだろう。

 それでも僕は思考を辞めることができない。

 僕は、死に寄り添いたかった。



 三度目は、ほんの半年ほど前。社会人生活三年目が始まった直後のことだ。死んだのは、僕より一年先輩の女性社員だ(しかし、僕は大学受験で一浪していたので年齢は一緒だった)。その日はまさしく小春日和と言うにふさわしい陽気で、僕は柄にもなく日に当たって昼食でも取ろうと屋上に上がったときだった。

 女性社員は、屋上で立っていた。丁度屋上の扉を開けてまっすぐ前。必ず目に入る位置に彼女は居た。

 まあ、それだけなら大して珍しくもないことだろう。むしろ普通だ。屋上では座っていなければならないなんて法はどこにもない。ただただ異常だったのは、彼女が落下防止用の三メートル以上あるフェンスの外側にいたことだった。僕はそのときに何が起きているのか察することができなかった。むしろ、スカートであのフェンスを上ったのか? なんてこの場においてなんに意味もない思考を行ってしまう程度には混乱をきたしていた。

 いや待て、フェンスの外側に行くって、何の目的があって?

 そんな問い、分かり切った問を自らに発するまでに、時間がかかりすぎていた。その問いの答えを出したとき、僕は彼女の足元、正確には、彼女から一番近いフェンスの内側に、彼女の履いていたと思われる靴と白い封筒が置いてあったのだ。

 待て! と僕は声をかけ、慌ててそこに向かって走り出した。それに反応したのか、彼女が振り返る。見覚えのある顔、しかし、名前は分からない。その程度の関係性の女性。彼女は、僕を見て一瞬、にやりと笑った

 ように見えた。いや、これは僕の妄想かもしれない。慌てていて、彼女の表情などあの時の心理状態で認識できたとは思えない。

 ともあれ彼女は再び僕に背を向けて、消えた。

 この会社が入っているビルは八階建て。およそ一〇メートル。僕の記憶では、その下あたりにクッションになるようなものは存在していない。人間が落ちて助かる可能性があるのって、どれくらいの高さだっけ? 考えたけど、元々そんな知識は僕にはなかったのか、どの引き出しにもその答えは入っていなかった。入っていたとしても、意味はなかっただろう。彼女は、死んだのだから。あえて言うなら、人間は一〇メートルから落ちたら死ぬことが分かった。そんな知識を得てしまった。

 ビルの下から悲鳴が聞こえる。確認する気にはなれなかった。

 僕はその場で意味もなく膝をついた。ショック? いや、他人にも近い関係性しかない相手だ、死という結果自体にはそこまでの衝撃はない。死んだところで、僕への影響は大きくはない。

 それは多分驚き。初めて鏡を見たような驚愕。自分の醜悪な姿を初めて認識したような衝撃が僕を襲った。

 何が起きた? 

 分かり切った自問自答。応じるまでもなく、その答えは目の前にあった。結果は、目の前にあった。

 僕はふと、彼女の靴とともにおいてあった封筒に目をやる。遺書、という奴だろうか? 僕はそれを手に取った。壊れ易い泥の人形を持つように恭しく、手の震えを抑えるようにしてそれを手に取る。裏を見て、再び表を見る。それは真っ白な封筒だった。何も書いていない、まっさらな封筒だった。宛名はおろか、遺書を示すいかにもな”遺書”という文字もそこには記述されていなかった。封はされておらず、単純に折り曲げただけだ。これでは逆さにしたら中身が落ちてしまう。

 その中身を、僕はゆっくりと開けた。中から出てきたのは一枚の便せん。その中央に、細長い、丁寧な文字でこう書かれていた。

 ”生きている理由がない”

 簡潔な一文には、その全てが現れているように僕には感じた。それとともに、どこまでも生と死は一直線上にあることを、強く自覚したのである。

 生きている理由がない、ゆえに死ぬ。なんて分かりやすい理論だろうか。僕はその単純さに、怖気が走るほどの美しさを感じた。生と死は、表裏一体なのではない。一直線上なのだ。生の到達点は死で、生の逃げ場は、死。死は終わりで、死で終わる。ただ生きることは、生きる理由にはならない。理由がないならなぜ生きている? なぜ生き続けている? なぜ生きることに固執する? 

 社会規範一般に置いて死はおぞましい行為であるかのように見られるが、それは違う。死は、いつだって僕たちのとなりに、寄り添うように、優しく、そこにただあるのだ。

 それは選択だ。選択肢の一つに過ぎない。しかしなぜか人は、選ぶことができない。

 僕にも、出来ない。

 僕はその手紙を、ポケットにねじ込んだ。その直後、屋上には警備員やら警察やらがやってきて、僕は何度か事情を聴かれたものの、当然のごとくすぐに解放された。彼女は自殺で、僕はその目撃者。これは間違いのない事実である。

 それから半年。今。以下同文の日々。

 僕は今も、生きる理由を探している。彼女の遺書は、僕を戒める鎖のようであった。あれから屋上は学校のように進入禁止になってしまったから、彼女の最期の場所を見ることはかなわなくなってしまったが、ここにその呪いがある。僕は結局その死体を見ることはなかったが、それはいつだって、見ることができる。

 それは鏡映しだ。

 それはどうしようもなく同一だ。

 そして、どうしようもなく醜悪だ。

 生きる目的がないなら死ねと、その死体はいつだって僕を責め立てる。そして僕は、それが間違っていると言うことが、出来ない。むしろ好感すら覚える理論だ。

 でも、それでは何とも救いがないのではないかと、あの日の僕は、思ってしまった。できるならば、曾祖父のように、もしくは、あの青年のように。生きるために生きて、死に迎えに来てもらう彼らが、どうしようもなく羨ましくなってしまった。

 まあ、僕は基本的に固有の思想を持たない人間であるから、明日には気が変わってしまう可能性は内ではないが、今の僕は、そう思っている。それが大切だ、と思う。

 そうそう、あの遺書の文言、ちょっとだけ違ったな。

 僕はしまったばかりの封筒を取り出し、珍しくなかの便せんを取り出した。そこには、中央に殴り書きのような筆跡でこう書かれていた。

 ”生きている、目的がない”

 彼女は僕だ。または、あの死体は、僕だ。あの大嫌いな死体はどうしたって僕なのだ。

 今日も以下同文な日々を暮らす満足せず、さりとて絶望せず。希望も持たず、死ぬこともなく。死んだように生きている。

 いつかこの、僕の救いのない言葉が否定されるその時を待ちながら。

 今日も、以下同文な今日を終わりにしよう。


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