夏の晴れた日に降るは炭酸水

たれねこ

第一幕 夏の晴れた日に降るは炭酸水

第1話 炭酸水の降った日

「うわぁぁああ! ちょっとまじかよ!」

 その声と共に夏のよく晴れた空から炭酸水が降ってきた。そして、降ってきた雨ではないそれは日傘に降りかかり、まるで電線から水滴がまとまって落ちてきた――そんな音を日傘を差す少女に響かせた。



 石畳が敷き詰められた広くない道に、今も人が暮らす古民家が立ち並ぶ――そんな古い街並みの中を白いレースの日傘を差した小さな人影が進んでいた。

 母親の持つ綺麗な刺繍ししゅうほどこされた日傘に幼いながらも憧れを抱き、勝手に持ち出した女の子は、燦々さんさんと降り注ぐ夏の日差しをさえぎるその影で眩しい笑顔を浮かべていた。

 そんなときに降ってきたのが、男の子の慌てる声と炭酸水だった。

 女の子は日傘に付いた染みを見つめながら、涙を目に溜める。涙をこぼさないように見上げると、二階には自分と同い年くらいの男の子が炭酸飲料を片手に下を見下ろしていた。

「ご、ごめん。ちょっとそこで待ってて!」

 その男の子はそう言うと、窓から顔を引っ込める。少しして近くの引き戸が音を立てながら開き、先ほどの男の子が顔をのぞかせる。

「大丈夫? 濡れてない?」

 男の子は心配そうに声を掛ける。女の子は小さく首を縦に振る。男の子はそれを見て、ほっとする。

「よかった。きっと傘差してたから助かったんだね。でも、なんで晴れてるのに傘差してるの?」

 女の子はびくっと小さく体を強張こわばらせ、

「これ……日傘。……晴れた日に差す傘」

と、小声で説明する。男の子は傘のほうに目をやり、普段使う雨傘とは違い水をはじいていないことに気づく。

「えっと……これ濡れたらいけない傘ってこと?」

 女の子は小さくうなづく。そして、頷くと同時に目に溜めた涙が零れ落ちる。

「ほんとごめん。僕が悪かったから……」

 男の子は目の前で泣き出した女の子に焦り、頭を下げる。

「ううん。悪いのは私なの。私が勝手にお母さんの日傘持ち出しちゃったから……だから、いけないのは私なの……」

 女の子から流れる涙の粒は大きさを増し、ついにはほほを流れ始める。男の子はそれを見て、大変なことをしてしまったと責任を感じる。

「とりあえず、そのヒガサだっけ? それは僕がなんとかするよ! だから、泣かないで?」

「ほ、本当?」

「うん。約束する。とりあえずさ、こんなところにずっと立ってたら暑いし、ウチの中に入りなよ」

 女の子は小さく頷く。男の子は日傘を受け取り、女の子を家の中に招き入れる。玄関に日傘を置き、客間に女の子を案内し、座るように促す。

 女の子は知らない人の家に不安を感じていたが、足を踏み入れた途端にその不安を忘れる。木の柱や天井、年季の入った座卓ざたく襖障子ふすましょうじ欄間らんまとあまり馴染みのないそれらに目と心を奪われ、いつの間にか女の子の涙は止まっていた。

 男の子は泣き止んだことに安心し、台所から持ってきた冷えた麦茶の入ったコップを座卓の上に置く。

「古い家でしょ? とにかく、麦茶飲みながらゆっくりしてて」

 そう言い残し、男の子は客間を後にした。そして、玄関横にある電話に向かい、よくかけて暗記までしている電話番号をプッシュする。

『もしもし』

 男の子はその声だけで、目当ての人物だと察し、語尾に被せるように話し始める。

「あ、梨奈りなちゃん? 今、大丈夫?」

『なーんだ。涼太りょうたか。で、そんなに急いでどうしたのよ?』

「実はさ、梨奈ちゃんにしか頼めないことがあるんだけど、今からウチ来れない?」

『しょうがないなあ。ちょっと待ってて』

 ガチャリと電話の切れる音が聞こえ、涼太は電話の受話器を戻し、そのまま玄関に座った。そして、一分も経たないうちに外から石畳を走る足音が聞こえ出し、玄関の前で止まると、勢いよく引き戸を開けて一人の女の子が入ってくる。

「そ、それで……わ、私にしか頼めないことってなによ?」

 その女の子は整わない呼吸のまま、肩で息をしながら話しかける。

「えっとね、梨奈ちゃん。このヒガサって、傘が汚れちゃったんだけど、綺麗にする方法知ってる?」

 涼太は日傘を手に取り、梨奈に見せながら話を切り出す。

「ヒ、ヒガサ? 汚れるってどんな風に汚れたのよ?」

 梨奈は日傘を玄関で広げ、濡れて染みのようになっているのを確認する。

「これって傘なんでしょ? 濡れてるだけみたいだけど何か問題なの?」

「それ濡れたら駄目なやつだって。なんだっけ……そうそう、晴れた日に差す傘だから」

「ふーん。で、なんでそんな濡れたら駄目な傘を涼太が持ってて、どうして濡れてるの?」

 梨奈はジトっとした目で涼太を見つめる。涼太はうまく誤魔化せる気がしないので素直に白状することにした。



 涼太は二階の自分の部屋で夏休みの宿題をそれはもう真面目にやっていた。夏休みに入ってから宿題に一切手をつけずに遊んでいたのが親にばれて、今日は宿題をする日と勝手に決められたからだ。昼飯を挟んで朝からずっと勉強し、昼過ぎに親が買い物に出かけたことをいいことに休憩しようと思い立った。

 冷蔵庫に好物の炭酸飲料があるのを思い出し、一階に下りて台所の冷蔵庫から目的のものを手に入れるまではよかった。

 しかし、急に親が帰ってきてさぼっているのを見つかって小言を言われることを恐れた涼太は階段を急いで駆け上がり、途中で足が階段にひっかかりこけてしまったのだ。幸い階段から落ちるということはなかったし、怪我もしなかったが、こけた勢いで持っていた炭酸飲料は盛大に投げ飛ばしてしまった。それを慌てて拾い、自分の部屋に戻り、窓枠のふちに座って、風を感じながら涼太は炭酸飲料のプルタブに指を掛けた。

 そして、プシュッと音を立てた後、炭酸が勢いよく噴き出したのだ。

「うわぁぁああ! ちょっとまじかよ!」

 涼太は叫びながら咄嗟とっさに窓の外に炭酸飲料を持った手を出し、部屋の中に炭酸が飛び散るという惨事さんじは避けることができた。しかし、代わりに、家の下を歩いていた傘を差した見知らぬ女の子に炭酸水の雨を降らせるという二次被害を招いてしまったのだ。



 梨奈はあきれた顔で涼太の話を聞き終えると、

「で、その女の子を家に上げて、どうしていいか分からず、私を呼んだのね」

と、ため息まじりに状況の確認を終える。涼太は申し訳なさそうに「うん」と返事をする。

「わかった。私が傘を綺麗にする方法見つけてあげるから。私に任せなさい」

 梨奈は胸を張って叩いてみせる。

「ありがとう、梨奈ちゃん」

「で、涼太。どうして、わざわざ見ず知らずの子を助けてあげようと思ったの?」

「それは――」

 涼太は思わず口をつむぐ。間違っても、「それは、こっちを見上げたその女の子が可愛かったから」だなんて言えるはずもない。

「それは?」

 梨奈の続きの催促さいそくに涼太は目をそらす。それを見て、梨奈は何かあると気づく。

「なによ? 言ってみなさいよ」

 涼太は座ったままジリジリと廊下をすべるように後退する。その後退を梨奈がただ黙って見過ごしてくれるわけもなく、靴を脱いで玄関に上がり、涼太と同じ速さで廊下を追いかけながらプレッシャーをかけていく。

 そして、ついに日傘の子のいる客間の前まで押しこまれ、座ったまま後ずさりする男の子とそれを不機嫌そうに追う女の子という奇妙な図をさらすことになった。

 日傘の子は呆然とその光景を眺めていた。梨奈は見慣れない女の子に気づき、涼太はもういいとばかりに女の子の方に向き直る。

「あなたがあの傘の持ち主?」

「え、ええ……」

「あなた、このへんじゃ見かけないよね? どこの子?」

「う、うん。昨日の夜にこっちに来たから……」

 梨奈は突然追求を始める。日傘の子は梨奈の真っ直ぐな視線に顔を上げることができず、うつむいたまま小声で答える。

「ふーん。てことは、旅行かなんか?」

「ううん……お父さんの仕事で引越してきたの……」

「そうなんだ。あなた何年生? 私、梨奈。で、あいつが涼太。二人とも四年生なんだ」

 梨奈は自分とついでに涼太の分の自己紹介をする。日傘の子は顔を上げて、二人の顔を見る。梨奈と目が合い笑いかけてくれることに安心する。

「わ、私は陽子ようこ。学年は……同じ四年生」

「陽子ちゃんかあ! よろしくね」

 梨奈は笑顔を崩さず声を掛ける。陽子はそれに笑顔で頷き返す。

「それで、ヒガサのことよね? ちょっと待ってて」

 梨奈は最初の涼太と同じように客間を出ると真っ直ぐに玄関横の電話のところに行き、同じ電話番号をプッシュする。

『はい、もしもし』

 柔らかな女性の声が聞こえてくる。梨奈はそれを聞き、目当ての人物だと確信し、まくくし立てるように話しだす。

「あっ、お母さん? 私」

『ああ、梨奈。どうしたの? さっき電話に出たと思ったら急に飛び出していったけど』

「それは、まあ……うん。あのね、今ね、涼太の家にいるんだけど、お母さんはヒガサを綺麗にする方法って、知ってる?」

『日傘? ええ、知ってるには知ってるわよ。でも、汚れ方にもよるわね。綺麗にできるか見てあげるから、できるなら日傘を持って帰ってきなさい』

「はーい」

 梨奈は返事をすると受話器を置く。

「涼太! 陽子ちゃん! ヒガサ綺麗にできるって! だから、ウチに来てー」

 梨奈は声を張り、二人に呼びかける。陽子は客間から顔を出し、

「ほ、本当に綺麗になる?」

と、心配そうに顔を覗かせる。梨奈は「大丈夫!」と、胸を叩いてみせる。

「それじゃあ、陽子ちゃんも行こうよ」

 涼太が陽子に声を掛け、並んで玄関まで歩いていく。梨奈は先に日傘を持って、玄関の外に出ており、仲良く並んで出てくる二人に不機嫌な視線を向ける。それを気づかせないように、すっとこれから向かう先に顔を向ける。

 梨奈の家は涼太の家から目と鼻の先で百メートルも歩かない距離にある。

 梨奈が自分の家の玄関の戸を開け、

「おかーさん! 持って来たよー」

と、声を家に響かせる。すると、家の中から、

「おかえりー! 準備はできてるわ。お風呂場に日傘持ってきてー」

と、声が返ってくる。梨奈は声のするほうに真っ直ぐに向かい、涼太と陽子もそれに続く。梨奈は風呂場にいる母親に日傘を渡す。梨奈の母親は受け取ると、慎重に日傘を開く。

「どれどれ? この濡れた染みになってるやつかな?」

「うん。そうみたい」

「おばさん、こんにちわ。綺麗になりそうですか?」

 風呂場に顔を覗かせながら、心配そうに涼太が尋ねる。

「ああ、涼太くん。こんにちわ」

 梨奈の母親はいつも通り穏やかな笑顔を向けて涼太に対応する。

「もっとひどい汚れかと思ってたけど、これなら大丈夫よ。それよりこの染み、ちょっと甘い匂いするけどなにをかけたの?」

 涼太はもう一度事情を説明するのがなんだか恥ずかしく、目をそらす。そんな涼太を横目に梨奈が笑いながら答える。

「なんかしらないけど、炭酸かけちゃったんだって」

「そうなんだ。炭酸の雨に降られちゃったのか。それは大変ね」

 梨奈と梨奈の母親は顔を見合わせながら小さく笑いあう。そして、風呂場の戸口の影に隠れるように中を覗くもう一人の姿に気づく。

「それで、そちらの可愛い女の子は新しいお友達?」

「うん。陽子ちゃんって言うの。そのヒガサの子なんだよ」

 梨奈は嬉々として陽子を紹介する。

「はじめまして、陽子ちゃん。おばさんはねー、梨奈のお母さんなの。おばさんとも友達になってくれると嬉しいなー」

 梨奈の母親は柔らかい口調と笑顔で陽子に話しかける。陽子はそれに安心して、戸口から出てくる。

「はい。よ、よろしくです」

 陽子は腰辺りの服の布地を握りながら、意を決したように話し出す。

「あ、あの。その日傘……お母さんの大事な日傘なんです。ちゃんと綺麗になりますか?」

「ええ、大丈夫よ。おばさんに任せて」

 梨奈の母親は腕まくりしてみせる。その言葉に陽子は安心したのか涙をすっと流しながら笑顔を向ける。

「じゃあ、梨奈も綺麗にするの手伝って。陽子ちゃんもよかったら手伝ってくれるかな?」

「はいっ!」

 陽子は力強い返事とともに頷いた。


 梨奈の母親は柔らかいブラシで表面のほこりなどを落とし、洗面器に用意していた中性洗剤を薄めた水をスポンジに含ませ、裏から型を崩さないように手で押さえながら軽く叩くように洗っていく。そして、シャワーを使い洗剤をしっかりとすすぎ、乾いたタオルで柄や骨の部分の水分を丁寧に拭き取っていく。そして、縁側えんがわの風通しのいい日陰に傘を開いたまま置く。

「これで完全に乾いたら、終わりよ」

 梨奈の母親は額の汗をぬぐうような仕草を見せる。陽子と梨奈は「わあぁ……」と感嘆の声を上げる。

「おばさん、ありがとう!」

「いえいえ、どういたしまして」

 陽子は縁側で時折吹き抜ける風に揺れる日傘を笑顔で見つめる。その陽子の姿をやることがなくぼーっとお茶を飲みながら待っていた涼太が見つめ、その涼太の横顔に台所からお茶を持ってきた梨奈が苦々しい視線を送る。

 その不思議な三角関係に梨奈の母親は、「あらら」と思わず小さく声を上げる。

 そして、次の用意を始め、道具を準備し終わったところで三人に声を掛けた。

「それじゃあ、みんな! 乾くまでまだまだ時間かかるから、シャボン玉でもして遊ばない?」

 その声に一様に梨奈の母親の方に顔を向ける。

「シャボン玉? やるやる!!」

 一番食いついたのは涼太だった。

「でも、おばさん。シャボン玉液なんてどこにあるの?」

「これよ」

 梨奈の母親は先ほどの中性洗剤を薄めた水の入った洗面器を三人の前に置く。涼太をはじめ、梨奈も陽子も洗面器の中を覗き込みながら顔に疑問符を浮かべる。

「これに、少し洗剤を足して、お父さんのワイシャツなんかに使う洗濯のりを加えまーす」

 梨奈の母親はテレビの料理番組のように笑顔で説明しながら手を動かす。

「さらに、ガムシロップを入れて、よーくかき混ぜます」

 三人は目を輝かせながら、期待値を高めていく。

「そして最後に、この先に切込みを入れて開いたストローを取り出して……」

 梨奈の母親は洗面器に作った即席のシャボン玉液をストローの先につけ、縁側から外に向けて、ふーっとシャボン玉を作って飛ばしてみせる。

「じゃあ、これやりたい人ー?」

 梨奈の母親はストローを人数分取り出しながら、三人に尋ねる。三人は我先にと手を上げ、ストローを受け取ると、シャボン玉を作り始める。

「それじゃあ、こんな狭い庭でやっても面白くないから家の前の道路に行きましょう」

 梨奈の母親の呼びかけに素直に「はーい」と返事をして、玄関に向かって駆け出していった。梨奈の母親はシャボン玉液の入った洗面器を持ち、子供たちのあとを追いかけた。

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